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第2回:GPSは愛ではなく「違法行為」



 三月の朝の空気は鋭く、駅前の交番の横を通り過ぎるだけで、僕は身が引き締まる思いがした。かつての僕なら、この寒さの中で「彼女たちが家で待っていてくれたら」なんて甘い妄想を抱いたかもしれない。だが今の僕が求めているのは、温かな手料理ではなく、公文書の受理印だ。


「おはよう、佐竹。顔色が死んでるぞ。……いや、むしろ『法的に戦う男』の顔になったか」


 駅前の喫茶店。待ち合わせていた木島が、皮肉めいた笑みを浮かべてコーヒーを啜っていた。彼の前には、ノートパソコンと厚みのある六法全書、そして昨夜僕が送りつけた「証拠」のリストが並んでいる。


「木島……。一睡もできなかったよ。カーテンの隙間から誰かに覗かれているような気がして」


「だろうな。だが安心しろ。お前が昨夜見つけたその『AirTag』。これが今日のメインディッシュだ」


 僕はカバンから、背中を割かれた無惨な姿のクマのキーホルダーを取り出した。中には、無機質な白い円盤が収まっている。


「いいか、佐竹。改めて整理する。2021年のストーカー規制法改正で、何が変わったと思う?」


「……GPSの追跡が厳しくなった、とか?」


「正解だ。以前は、GPSを使って相手の居場所を突き止める行為は、他のつきまとい行為に付随しない限り、法律の網をすり抜けることが多かった。だが今は違う。相手の承諾を得ずに、所持品にGPS機器等を取り付けること、あるいはGPS機器等を用いて位置情報を取得すること自体が、単体で『つきまとい等』の禁止行為に指定されたんだ」


 木島はタブレットを操作し、警察庁のホームページを表示した。


「つまり、このクマのぬいぐるみをプレゼントした時点で、犯人は『GPS設置罪』に近い状態にある。お前がそれを拒絶し、警察が警告を出せば、即座に刑事罰へのカウントダウンが始まる。もはや『愛ゆえの行動』なんていうポエムは、法廷の藻屑もくずだ」


 僕たちは店を出て、最寄りの警察署へと向かった。

 生活安全課の窓口は、意外なほど事務的だった。相談スペースの簡素なパイプ椅子に座り、僕は担当の警察官に、これまでの経緯と「証拠」を提示した。


「……なるほど。この結城花さんという方から貰ったキーホルダーに、これが仕込まれていたと」


 年配の警察官は、ピンセットでAirTagを摘み上げ、じっと見つめた。その眼差しは、恋愛トラブルを扱う親戚のおじさんのそれではなく、押収物を鑑定する捜査官のそれだった。


「佐竹さん、あなたは彼女に対して、明確に『拒絶』の意思を示しましたか?」


「はい。メッセージの履歴を見てください。昨夜も『家に来ないでくれ』『位置情報を探るのはやめてくれ』とはっきり送っています。それに対して彼女は『サトくんの照れ隠しだね』と返信してきていますが」


「意思表示の不一致ですね。客観的には、あなたの拒絶を彼女が合理的な理由なく無視し、執拗に位置情報を取得し続けている。これはストーカー規制法違反の疑いが極めて強い。本日中に彼女へ『警告』を出す準備を進めます」


 警察官のその言葉を聞いた瞬間、僕の肩から重い荷物が滑り落ちたような感覚があった。

 そうだ。僕は被害者なのだ。「モテて困っている贅沢な男」ではなく、私生活を脅かされている一人の市民なのだ。


 警察署を出たところで、僕のスマホが震えた。

 画面に表示された名前を見て、心臓が跳ねる。


星野麻耶ほしの・まや


 元カノだ。一年前、彼女のあまりの束縛の強さに耐えかねて別れたはずだった。だが、転職した僕の前に、彼女は何食わぬ顔で現れた。


「……もしもし、麻耶か?」


「流星くん。今、警察署にいたでしょ?」


 耳を疑った。僕は周囲を見回したが、彼女の姿はない。


「どうしてそれを……」


「だって、心配だもん。最近、あなたの周りに変な女がうろついてるって聞いたから。私が守ってあげなきゃって思って。……警察なんて行かなくていいのに。私たちが、流星くんを一番安全な場所へ連れて行ってあげるから」


「『私たち』? 麻耶、お前、誰と繋がっているんだ?」


「ふふ、秘密。それより、あなたの車。左の後ろのタイヤ、少し空気が減ってるみたい。気をつけてね」


 電話が切れた。

 僕は木島と顔を見合わせ、すぐさま警察署の駐車場に止めていた僕の車へと駆け寄った。

 左の後ろのタイヤ。そのホイールの隙間を覗き込む。


 ――そこには、黒いビニールテープで固定された、別の小型GPS発信機があった。


「……二つ目だ」


 僕は乾いた笑い声を漏らした。

 一人は幼馴染の「愛のプレゼント」、もう一人は元カノの「遠隔警備」。

 彼女たちにとって、僕のプライバシーは共有財産か何かなのだろうか。


「木島、これを見てくれ。もう笑えないぞ」


「いや、佐竹。これはチャンスだ。結城花だけじゃない。星野麻耶も同時に『警告』の対象にできる。複数の加害者が結託している可能性があれば、事態の緊急性はさらに高まる」


 木島はすぐさまスマホを取り出し、どこかへ電話をかけ始めた。

「ああ、先生。私です。ストーカー規制法に基づく禁止命令の早期発令、および住民基本台帳の閲覧制限の申し立てについて、至急打ち合わせを……」


 その時、警察署の入り口から一人の女性が歩いてくるのが見えた。

 星野麻耶だった。

 彼女は、まるでランチの約束にでも来たかのような軽やかな足取りで、僕に向かって手を振った。


「流星くん! やっぱりここにいた。呼んだ気がしたんだ」


 彼女の笑顔は、かつて僕が好きだった頃のままだ。だがその瞳は、獲物を逃さない監視カメラのような無機質な光を放っている。


「麻耶……。お前、今僕の車に何をした?」


「何って、点検だよ? あなたはうっかり屋さんだから。……ねえ、その隣にいる人は誰? 弁護士さん? そんなの必要ないよ。私たち、愛し合ってるんだから」


 彼女は僕の腕に、当然のように自分の腕を絡めてきた。その指先が、僕のジャケット越しに食い込む。


「離せ、星野さん。君の行為は現在、警察の捜査対象になっている」


 木島が割って入る。麻耶は小首を傾げ、心底不思議そうに笑った。


「捜査? 変なの。愛することの、どこが罪になるの? 私は流星くんがどこで何をして、誰と話しているか知りたいだけ。それって、彼女として当たり前の権利じゃない?」


「権利じゃない、犯罪だ。君が車に取り付けたこの発信機。これがその証拠だ」


 木島が指し示したGPSユニットを見て、麻耶の表情から一瞬だけ温度が消えた。

 そして、彼女は僕の耳元で囁いた。


「流星くん。警察が守ってくれるのは、警察署の中にいる間だけだよ?」


 その言葉と共に、僕のスマホに一斉に通知が届いた。

 結城花、リカ、謎の美女、そして星野麻耶。

 複数の送信元から、全く同じメッセージが届く。


『どこにいても、見つけてあげる。』


 スマホの画面が、赤や青の通知ドットで埋め尽くされる。

 それはもはや「ハーレム」という言葉では形容できない、集団による精神的包囲網サイバー・ストーキングだった。


「木島……。警察に、もう一度戻る。今度は『被害届』を出しに」


「ああ。ここからは、感情の出る幕はない。条文と証拠で、彼女たちの『愛』を完膚なきまでに定義し直してやろう」


 僕は麻耶の腕を振り払い、再び警察署の自動ドアへと向かった。

 背後で麻耶が「ひどいな、流星くん」と悲しげな声を上げているのが聞こえたが、僕は一度も振り返らなかった。


 愛とは、相手を尊重することだ。

 相手を追跡し、監視し、支配することではない。

 その最低限のルールすら理解できない彼女たちに、僕はこれから、日本国憲法と刑法という「世界のルール」を叩き込んでやる。


 警察署のロビーに響く僕の足音は、昨日よりもずっと力強かった。

 次の瞬間、僕のスマホが鳴った。

 今度は通知ではない。警察の担当者からの、内線呼び出しだった。


「佐竹さん。先ほど提出されたAirTagの登録者情報ですが……。これ、結城花さんだけではありません。共有設定に、あと三人の名前があります」


 ――共有。

 彼女たちは、僕という「ターゲット」を、効率的に管理するためにチームを組んでいたのだ。


 僕は震える手で、木島を見た。

 木島はニヤリと笑い、自分の眼鏡のブリッジを押し上げた。


「集団ストーカーか。面白くなってきた。佐竹、これは単なる恋愛トラブルじゃない。組織犯罪コンスピラシーだ」


 僕たちの戦いは、ただの「つきまとい」を超えて、より深く、より法的な泥沼へと突入していく。

 だが、恐れはない。

 僕の隣には法があり、僕のポケットには、彼女たちの「有罪」を証明するデバイスが眠っているのだから。


 駐車場を出る麻耶の背中を見つめながら、僕は心の中で告げた。

 君たちの「ハーレム属性」というファンタジーは、今日、この場所で、公文書によって処刑されるんだ。


 窓の外では、春を呼ぶ風が吹き始めていた。

 それは、自由への風か、あるいはさらなる法廷闘争への号砲か。

 僕は迷わず、取調室へと続く扉を押し開けた。

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