第1回:それ幸運ではなく「事案」です
鳴り止まない通知音は、かつて憧れた「モテ期」の象徴などではなく、僕の精神を摩耗させる波状攻撃(DDoS攻撃)だった。
佐竹流星、二十七歳。
三ヶ月前、ブラックなIT企業から中堅の広告代理店へと転職した。それを機に、僕の周囲ではいわゆる「異世界転生モノのテンプレート」のような現象が起き始めた。
幼馴染からの情熱的な再会、会社の後輩からの過剰なアプローチ、そして街で偶然出会った謎の美女からの執着。
普通の男なら、あるいはラブコメの主人公なら「やれやれ、困ったな」で済ませるのかもしれない。だが、スマホの画面を埋め尽くす「未読件数:342件」という数字を見て、僕は戦慄した。
これは「ハーレム」ではない。
法治国家・日本における「事案」だ。
午後八時。ようやく仕事を終えて自宅のアパートにたどり着いた僕を待っていたのは、階段の踊り場にしゃがみ込む影だった。
「あ、サトくん! おかえりなさい!」
顔を上げたのは、幼馴染の結城花だった。
彼女は透き通るような肌と大きな瞳を持つ、いわゆる「正統派ヒロイン」のビジュアルをしている。手に持ったタッパーからは、煮物の匂いが漂っていた。
「花……。どうしてここにいるんだ? 連絡もしてないのに」
「幼馴染だもん、サトくんの帰る時間くらいわかるよ。今日はちょっと遅かったね。三時間も待っちゃった」
彼女は愛らしく微笑んだが、僕の背筋には冷たいものが走った。三時間。この冬空の下、許可なく他人の住居の前で三時間待機する行為。それはもはや「健気」という言葉でコーティングできる範疇を超えている。
「三時間……。花、それは『見張り・つきまとい』に該当する可能性がある行為だよ」
「え? なにそれ。ひどいな、愛情表現だよ? サトくんが好きだから、ずっと近くにいたいだけなのに」
「その『好きだから』という主観は、ストーカー規制法第2条における『不安を覚えさせる行為』を正当化する理由にはならないんだ。僕が拒絶の意思を示している以上、これは立派な法抵触になり得る」
僕が真顔で告げると、花は一瞬だけ表情を凍らせ、すぐに「またサトくんの冗談が始まった」とばかりにケラケラと笑った。だが、その瞳の奥は一切笑っていない。彼女にとって、僕の拒絶は「照れ」か「試練」として脳内変換されているようだった。
僕は彼女から強引に渡されたタッパーを受け取ることなく、鍵を開けて部屋に逃げ込んだ。ドアの向こうで「明日も来るね!」という声が聞こえ、直後にスマホが震えた。
『LINE:今のサトくんの顔、かっこよかった(ハート)』
――見られている。
ドアスコープから外を覗く勇気はなかった。
僕は震える手で、大学時代の友人であり、現在は弁護士として活動している木島に電話をかけた。
「木島か? 助けてくれ。……ああ、例の『ハーレム』の件だ。いや、もう笑い事じゃないんだ。今日は幼馴染が自宅前で三時間待ち伏せしていた。それ以外にも、会社の後輩から一分おきに自撮りが送られてくるし、昨日なんて面識のない女から『あなたの靴のサイズ、26.5センチで合ってる?』ってDMが来たんだ」
受話器の向こうで、木島は深いため息をついた。
「佐竹、お前それ、本当に『ハーレム属性』とかいうギャグで済ませるつもりか? 現代日本において、相手の同意なき執拗な接触は、累積すれば確実に刑罰の対象だぞ。特に2021年の改正ストーカー規制法を知ってるか?」
「改正法……?」
「ああ。以前は対象外だった『GPS機器等を用いた位置情報の無断取得』も、今は明確に規制対象だ。お前のその『どこへ行ってもヒロインが現れる』っていう現象、不自然すぎると思わないか?」
木島の言葉に、僕は自分のカバンを見つめた。
転職祝いに、花からもらったクマのぬいぐるみ付きキーホルダー。
会社の後輩から「お疲れ様です」と渡された、最新型のモバイルバッテリー。
それらが、急に得体の知れない「発信機」に見えてきた。
「いいか、佐竹。お前がやるべきことは一つだ。感情で動くな。全てを『記録』しろ。メッセージの全件スクリーンショット、着信履歴の保存、そして何より、身の回りに『不審なデバイス』がないか徹底的に探すんだ」
「デバイス……」
「もし見つかれば、それはもはや『恋愛』の証拠じゃなく、『犯罪』の証拠だ。警察を動かすための決定打になる」
電話を切った後、僕は部屋の明かりを消した。
暗闇の中で、スマホの通知だけがチカチカと赤く点滅している。
画面をスワイプすると、新しいメッセージが表示された。
『後輩・リカ:先輩、今、電話してましたよね? 誰と話してたんですか? 嫉妬しちゃいます』
心臓の鼓動が耳元でうるさく鳴る。
僕は意を決して、花からもらったキーホルダーを手に取った。
一見、どこにでもある可愛いクマのぬいぐるみだ。だが、その腹部を指先で強く押すと、硬い円形の感触があった。
ぬいぐるみの背中の縫い目を、カッターで慎重に割く。
中から出てきたのは、綿ではなく、白いプラスチック製の円盤だった。
直径約三センチ。
紛失防止タグとして市販されている、AirTag。
「……あった」
それは、僕の現在地をリアルタイムで送信し続けていた「愛の結晶」という名の、違法な追跡装置だった。
僕はそれをデスクの上に置いた。
恐怖よりも先に、ある種の冷徹な高揚感が湧き上がってきた。
これまでの僕は、彼女たちの行動を「好意の裏返し」だと思い込もうとしていた。自分の自意識過剰かもしれない、強く言えば傷つけてしまうかもしれない――そんな甘い考えが、彼女たちの狂気を増長させていたのだ。
だが、この白い円盤を見つけた瞬間、僕の中の「ラブコメ回路」は完全に焼き切れた。
これは、ストーカー規制法第2条第1項第3号。
『GPS機器等を用いて位置情報を取得する行為』に該当する。
僕はスマホを手に取り、メモアプリを開いた。
これまでの被害状況を、日記形式ではなく「証拠目録」として再構成し始める。
一、〇月〇日。被告(予定)・結城花による住居付近の見張り。
二、同日。被告(予定)・結城花が供与した物品よりGPS機器を確認。
三、被告(予定)・リカによる、一時間あたり数十件に及ぶSNS送信。
指が、これまでにないほどスムーズに動く。
僕が手に入れるべきは、真実の愛などではない。
警察署長による「禁止命令」と、彼女たちとの間に引かれる「法的境界線」だ。
深夜。
窓の外を見ると、街灯の下に、再び人影が見えた。
花ではない。もっと背の高い、ロングヘアの女性。
昨日、コンビニのレジで僕に「また会いましたね」と微笑んだ、あの女だ。
彼女は僕の部屋の窓を見上げ、ゆっくりと手を振った。
スマホが震える。
『謎の美女:電気が消えたから、もう寝るのかな? おやすみなさい、流星さん。あなたの寝顔、想像してもいい?』
僕はカーテンを勢いよく閉めた。
震える指で、木島にメッセージを送る。
『証拠、見つけた。明日、警察へ行く。同行してくれ』
返信はすぐに来た。
『了解。民事と刑事、両面で徹底的に詰めよう。お前の「ハーレム」、俺が法的に解体してやるよ』
僕の「脱ラブコメディ」が、今、幕を開けた。
まずは明日、午前九時。
最寄りの警察署、生活安全課。
そこが、僕にとっての「聖地」になるはずだ。
ふと、デスクに置いたAirTagが目に留まる。
これを破壊するのは簡単だ。だが、今はまだその時ではない。
このタグが発信する位置情報が、僕が「どこに逃げようとしたか」ではなく、「彼女がどれだけ執拗に追ってきたか」を証明する、最強の武器になるのだから。
僕は深呼吸をし、ベッドに入った。
明日からは、もう「困ったな」なんて言わない。
「法的手続きを開始します」――それだけが、僕の唯一のセリフだ。
眠りに落ちる直前、玄関のチャイムが一度だけ、小さく鳴った。
僕はそれを無視して、強く目を閉じた。




