蝶への執着
その姿が目に入った瞬間、感じたのは悪寒でした。
心のどこかにあったはずの罪悪感も、感じていたはずの恩義も何もかもを吹き飛ばすような悪寒に身を震わせてしまいました。
「やあ、ミレジア」
「クレイド、様」
「元気そうで何よりだ。シシリアは厳しいだろう? 苦労はしていないか?」
「いいえ、決してそのような事はございません」
「そうか。辛かったらいつでも儂の所に戻ってきていいのだぞ」
「っ、そのご心配には及びません」
どうしてこんなところで出会ってしまったのか。
ここは屋敷の一階の奥まったところにある厨房に近い場所で、決してお客様がいらっしゃるような場所ではないはずなのに。
「どうしてこのような場所に……」
「ああ、慣れない屋敷に少し迷ってしまったんだ」
「そうでしたか」
それが本当だとしても、明らかに客人を招くようなエリアではないことは見てわかるのに、わざわざ来るなんておかしい。
カタカタと震える体をどうにかおさえるようにして後退りそうになる足を叱咤してその場に立ち止まる。
ごくりとつばを飲み込み、クレイド様の暗い光を湛えた瞳に縫い留められてしまう。
そう、この目。
ずっとこの私をとらえて離さないと訴えて来ていた、目。
私はずっとこの目に怯えていた。
昔一度クレイド様に戯れで「旦那様と呼んでみてくれ」と言われたことがあったけれど、私は決して旦那様とは呼ばなかった。
私の旦那様はなき主人だけだから。
あの時もこんな暗い光をした目で見つめられたと思い出して背筋にまた悪寒が走る。
「そうだ、探し物をしているんだよ」
「探し物ですか?」
「ああ、愛しい蝶でな。大切に籠に入れていたのだが、いつの間にか籠の隙間から抜け出してしまっていて、今は別の籠の中に隠されているようなんだ」
「そう、ですか……」
「その籠の保有者が儂にとっては可愛い娘なものだから、見逃しているのだが、いずれ返してもらうつもりだ」
その言葉に思わず喉が「ヒュッ」と鳴ってしまった。
この方の元に戻ったらもう二度と戻れない、絶対にこの方の元に戻ってはいけない。
「旦那様、このような所で何を?」
「ああ、マリティアか。少々迷ってしまったんだ」
「そうでしたか。そろそろ屋敷に帰る時間ですわよ」
「そうか。わかった」
マリティア様の登場にほっと息を吐き出していると、一気にクレイド様に距離を縮められて抱きしめられると唇にキスをされてベロリと唇を舐められた。
ゾッとして押し倒すように腕を張り出して離れると、自分の息が荒く、心臓が早鐘を打っているのがわかった。
「……旦那様、シシリアのメイドがどうかなさいましたか?」
「メイド? ああ、そうかいやはや、すまないな。儂の知っている蝶にあまりにも似ているものだからつい手が出てしまった」
「い、え……」
震える声で精いっぱいそれだけを返すと、じりじりと後退る。
「旦那様、よその家のメイドに手を出して我が家の恥になるような真似はおやめになってくださいませね」
「ああ、もちろんだ」
クレイド様はそう言ってもう一度だけ暗い光を湛えた目で私を見てから、踵を返してマリティア様と並んで離れて行きました。
今更ながらに、私はあの時伸ばされた手を取るべきではなかったのだと後悔してしまう。
他にあてが無かったとはいえ、もっとちゃんと彼の目を見ておくべきだった。
シシリア様に聞いたクレイド様が私を手に入れるために行った手段に怖気がした。
私を手に入れた後に、用済みになったルノワーナ男爵家をどうしたかを聞いた時は吐き気すら覚えた。
私のどこにそんなに執着するのかはわからないけれども、こんな執着をされて嬉しいとは私は思えない。
私の事を蝶だというあの人が、私は恐ろしくてたまらない。




