第4話:世界平和と、永遠に終わらない「お昼寝」
「……すぅ……ふにゃぁ……」
帝都ガルデニアの中枢、白亜の王宮。
帝国大宰相・専用執務室(という名の大陸最高級の完全引きこもり寝室)で。
私、ルセリア・フォン・ヴァロワ(16歳)は、南方の魔獣の羽毛で作られた特注の雲海マットレスに深く沈み込み、究極の二度寝の海を漂っていた。
あの日。
隣国である神聖アルカディア教国のトップ、教皇クレメンス八世が直々に王宮へ乗り込んできたあの日から、世界は劇的な、そして狂気的なスピードで変化を遂げていた。
私の「権力なんて一ミリも欲しくない! ただ寝ていたいだけ!」という、心からの怠惰な絶叫。
それが、教皇の目には「現世の欲望から完全に解脱した、真の神の器」として映り、彼は自らの教皇冠を脱ぎ捨てて私への絶対服従を誓ってしまった。
結果として、東の大陸を二分していた巨大国家、ガルデニア帝国と神聖アルカディア教国は、私の「お昼寝の聖域」を護るというただ一つの狂気的な目的の下、完全に統合(事実上の二カ国統一)を果たしてしまったのである。
「おはようございます、ルセリア大宰相閣下(女帝陛下)。本日は、一段と神々しい寝息でございました」
ベッドの傍らで、一切の物音を立てずに控えていた筆頭秘書官のテオが、淹れたての極上ハーブティーを銀のトレイに乗せて差し出した。
その後ろには、マイナが純白のバスタオルを構え、カヤが朝食の『特製・冷製フルーツスープ』をワゴンに乗せて完璧なフォーメーションを組んでいる。
「……おはよう、テオ。なんか最近、このベッドがどんどん大きくなっていく気がするんだけど気のせい?」
私が目をこすりながら起き上がると、テオは恭しく一礼した。
「気のせいではございません。お嬢様の『安らかなる微睡み』をより完璧にサポートするため、ゼノン率いる諜報部隊が世界中から最高級の安眠素材をかき集め、三日ごとにベッドの拡張工事を行っております。現在、このベッドの広さは六畳間ほどございます」
「六畳間のベッドってなにそれ。私の前世のアパートの部屋より広いのよ……」
私が呆れながらハーブティーを啜っていると、テオは手元のバインダーを開き、今日の『政務(という名の事後報告)』を読み上げ始めた。
「昨夜、お嬢様が就寝されてから今朝までの間に、帝国と教国の合同内閣(コンラート殿下と五十人の狂信者、および教国の聖騎士団)が、両国の関税撤廃、法整備の統合、および軍の再編をすべて完了させました。……お嬢様の『無為自然』の思想が両国に浸透したことにより、犯罪率は九割減、経済成長率は過去最高を記録しております」
「……はぁ。あいつら、本当に寝ないで働いてるのね」
「はい。彼らにとって、お嬢様の神聖なる寝室の真下の階で働くことは、最高の名誉であり、一種の麻薬のようなもの。お嬢様の寝返りの音を聞くだけで、疲労が完全に回復するそうです」
(絶対に頭がおかしい。完全にカルト宗教のそれじゃないの)
私は心の中で強烈なツッコミを入れたが、もはや彼らの暴走(異常な労働意欲)を止める手段は、この世界のどこにも存在しない。
「しかし、お嬢様。本日のご報告のメインは、内政ではありません」
テオが、眼鏡の奥でゾクッとするような悪魔的な笑みを浮かべた。
「実はお嬢様がお眠りになっている間に、西方大陸の三国同盟の王たち、および北方の自由都市同盟の代表者たちが、一斉に帝都ガルデニアへ到着いたしました」
「えっ? 他の大陸の王様たちが? なんで?」
「それは当然でしょう」
テオは、まるで世界で最も美しい景色を見るような目で、窓の外を指し示した。
「お嬢様が教国を無血で統合し、ただ『寝ているだけ』で国を空前の繁栄に導いているという噂は、すでに世界中に知れ渡っております。『ガルデニアの女帝は、神の化身である』『彼女の傘下に入れば、永遠の平和と富が約束される』と。……彼らは、お嬢様の『大いなる安らぎ(属国化)』を求めて、自ら国を差し出しにやって来たのです」
「………………………………はぁぁぁっ!?」
私は、飲んでいたハーブティーを危うく吹き出しそうになった。
「そ、そんな馬鹿な!! なんで私が寝てるだけで、世界中の国が勝手に降伏してくるのよ!!」
「彼らは降伏しているのではありません。お嬢様の『無為自然』という究極の哲学に、魂を救済されに来たのです」
テオが指し示す窓の外、大謁見の間に続く巨大な広場。
私が恐る恐る窓際まで行き、下を覗き込むと、そこには。
見渡す限りの広大な広場を埋め尽くす、数十万という民衆の姿。
そしてその最前列には、煌びやかな王冠を被った他国の王たちや代表者たちが、教皇クレメンス八世の指導の下、一糸乱れぬ動きで地面に額をこすりつけ、私(の寝室の窓)に向かって『朝の礼拝(土下座)』を行っていたのである。
「おおおおおっ!! ルセリア様が……ルセリア女帝陛下が、窓辺にお立ちになられたぞぉぉぉっ!!」
コンラート皇子の絶叫が、数十万の群衆の歓声を呼び起こした。
「「「ルセリア大宰相閣下、万歳!! 世界の守護神、万歳!!」」」
「我が国も、どうか貴女様の『お昼寝の聖域』の一部に!!」
「ルセリア様の寝息を……我々にもルセリア様の尊き寝息をぉぉぉっ!!」
ドワァァァァァァァッ!!!
帝都全体を揺るがすほどの、狂信的な大合唱。それはもはや、一つの星そのものが「ルセリア」という神に向かって祈りを捧げているような、壮絶で、そして絶望的な光景であった。
「……嘘でしょ。嘘だと言って、テオ……」
私は、窓枠にしがみついたまま、膝から崩れ落ちた。
「私はただ、働きたくなかっただけなの。前世で過労死したから、今度こそ絶対に働かないで、誰にも注目されずに、静かな部屋で一生ダラダラしていたかっただけなのに……」
私の目から、ついに限界を超えた涙がボロボロとこぼれ落ちた。
「なんで……なんで、私がサボればサボるほど、世界中が勝手に一つになっていくのよ……! これじゃあ、私は一生、このバカでかいベッドの上で『世界の象徴』として崇拝され続けなきゃいけないじゃない!! 私の……私の普通のニート生活を返してよぉぉぉっ!!」
私が両手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣きじゃくった、その時だった。
「……見よ!! 皆の者、見よ!!」
窓の下で、他国の王たちを先導していたコンラートと教皇が、私の流した涙を見て、雷に打たれたように天を仰いだ。
「ルセリア様が……現世の欲望をすべて捨て去ったルセリア様が、涙を流しておられる!!」
教皇が、震える両手を天に掲げる。
「あれは……我々人類の愚かさ、未だに国家間の争いや利権に囚われている我々の浅はかさを嘆いておられるのだ!! ルセリア様は、ご自身の安らぎ(お昼寝)すら犠牲にして、この世界のすべての悲しみを背負おうとしてくださっている!!」
「ルセリア師匠ぉぉぉぉっ!!」
コンラートが、剣を抜き放ち、数十万の群衆に向かって絶叫した。
「師匠の御心を、これ以上悲しませてはならない!! 今この瞬間をもって、すべての国境を撤廃する!! 武器を捨て、争いをやめ、我々人類は一つになり、師匠の『永遠の安眠』を護るための絶対的な平和な世界(聖域)を創り上げるのだ!!」
「お姉様……!! 私、世界統一政府の超巨大予算案を、三秒で組み上げてみせますわ!!」
ヴィクトリアが、黄金の算盤を超高速で弾きまくる。
「「「おおおおおおぉぉぉぉぉっ!!! 世界平和を!! ルセリア様に、究極の安眠をぉぉぉっ!!」」」
数十万人の群衆が、一斉に武器を放り投げ、抱き合い、涙を流しながら「世界統一」と「ルセリア教の成立」を宣言する。
その狂気的で、しかし絶対的な愛に満ちた平和の合唱は、私の部屋の絶対遮音結界すらも微かに貫通し、私の耳に呪いのように響き続けていた。
「ちがうぅぅぅぅっ!! 悲しんでない!! 争いを嘆いてもない!! ただプレッシャーが重すぎて泣いてるだけなのぉぉぉっ!!」
私の悲痛な叫びは、またしても「世界を浄化する女神の産声」として彼らの脳内に変換され、青空へと吸い込まれていった。
「……おめでとうございます、お嬢様」
私の傍らで、テオが、マイナが、ギルが、カヤが、ゼノンが。
最強の側近たちが、一斉に私の前に跪き、この世で最も美しい狂気に満ちた笑顔で私を見上げた。
「お嬢様の『何もしない(サボる)』という最強の魔法が、ついに関税も、国境も、戦争も、この世界からすべて消し去りました。……これよりこの星は、お嬢様の『完全なるお昼寝部屋』です。永遠に、存分にお休みなさいませ」
「もう……嫌だぁぁぁぁぁっ……!!」
かくして。
前世で過労死し、「今度こそ絶対に働かない」と誓って転生した怠惰な公爵令嬢ルセリアの戦いは、ここに一つの(最悪の)決着を見た。
彼女は確かに、文字通り「一生働かない(何もしない)」という究極のニート生活を手に入れた。
しかしその代償として、彼女は「世界を統一し、絶対平和をもたらした生ける神」として、全世界の人間から24時間365日、狂信的な崇拝と監視(過剰な愛)を受け続けるという、最も重いプレッシャーの中で生きていかなければならなくなったのである。
「ルセリア様、万歳! ルセリア様、万歳!」
窓の外からエンドレスで響き続ける、世界中の人々からの狂信的な祈りのコール。
私は、六畳間ほどもある巨大な雲海マットレスのど真ん中で、頭からすっぽりと羽毛布団を被り、ガタガタと震えながら耳を塞いだ。
私のサボりたいという純粋な願いが生み出した、最強にして最凶の狂信者たち。
彼らが私を崇め続ける限り、私の「終わらないチキンレース(勘違い無双)」は、世界平和という最も厄介な形で、永遠に続いていくのである。
(ああ、神様。もし来世があるなら、今度こそ……今度こそ、誰も私のことを知らない、田舎の村の村人Aに転生させてください……!)
羽毛布団の中でくぐもった私の最後の願いも、有能すぎる側近たちの「お嬢様が来世の構想を練っておられるぞ! すぐに輪廻転生の研究機関を設立しろ!」という超解釈によって、さらなる大事件を引き起こすことになるのだが。
それはまた、別の、果てしなく続く地獄のお話である。




