第1章:第1話:転生したら公爵令嬢だったが、現実は甘くなかった
「……うん。控えめに言って、大勝利だな」
朝の柔らかな日差しが差し込む、無駄にだだっ広い豪奢な寝室。
壁一面に設えられた巨大な姿見の前に立ち、私は己の姿をマジマジと見つめて、深く、深く頷いた。
鏡の中に映っているのは、絵画から抜け出してきたかのような一人の幼い少女だ。
色素の薄い、しかし絹糸のように艶やかな純白の髪。日の光に透けそうなほど真っ白で滑らかな肌。深い湖を思わせる、吸い込まれそうなほどに澄んだ青い瞳。
齢わずか6歳にして、すでに「絶世の美少女」という肩書をほしいままにしているその少女こそが――私、ルセリア・フォン・ヴァロワであった。
「前世の俺が、まさかこんな天使みたいな美少女に転生するとはなぁ……人生、何が起きるか分からんもんだ」
誰にも聞こえないほどの小声で呟きながら、私はふかふかの最高級絨毯の上にゴロンと寝転がった。
私の前世は、現代日本で働くしがないサラリーマンだった。それも、絵に描いたようなブラック企業で毎日終電まで働き、休日はサービス出勤、上司からの理不尽な要求と終わらないタスクに追われ続ける、いわゆる「社畜」というやつだ。
来る日も来る日もパソコンの画面と睨み合い、エナジードリンクで無理やり胃袋と脳みそを叩き起こす日々。そしてある夜、山積みの稟議書にハンコを押している最中に、プツンと糸が切れたように意識がブラックアウトした。
典型的な、過労死である。
「あの時はマジで死ぬかと思った……いや、死んだんだけどさ」
だが、神様というのは案外粋な計らいをしてくれるらしい。
次に目が覚めた時、私はこの『ガルデニア帝国』というファンタジーな異世界で、帝国随一の権力と莫大な財力を誇る『ヴァロワ公爵家』の長女、ルセリアとして生まれ変わっていたのだ。
ガルデニア帝国は、この世界において最強の軍事力と経済力を誇る大国。他国からの侵略などという物騒なイベントとは無縁の、超安定優良国家である。
そして私の実家であるヴァロワ公爵家は、その帝国の中でも皇室を凌ぐのではないかと噂されるほどの大金持ちだ。
「ルセリア! 私の可愛い天使! 今日も宇宙で一番輝いているね!」
「まぁ、あなたったら。ルーセが困っているじゃありませんか。……さぁルーセ、お母様が特注したドレスよ。絶対にお似合いだわ」
思い返すのは、昨夜開かれた私の『6歳の誕生日パーティー』での両親の姿だ。
父であるラインハルトは、外では冷徹な公爵として恐れられているくせに、私の前ではただの親バカに成り下がる。母のエレオノーラもまた、私のことを「女神の生まれ変わり」か何かだと本気で信じている節があった。
金はある。権力もある。親は私を溺愛している。
そして私は、労働という概念から最も遠い「公爵令嬢」という無敵のポジションを手に入れた。
「決まったな。今世での私の目標は『完全なるスローライフ』だ」
私は絨毯の上で力強くガッツポーズをした。
前世で働きすぎた分、今世では絶対に働かない。親の莫大なスネをかじり尽くし、一生涯、安全な屋敷の奥で美味しいお菓子を食べながらダラダラと生きてやる。剣も魔法も努力もいらない。ただ呼吸をしているだけで許される、究極のニート生活。
それこそが、過労死した私の魂が辿り着いた悲願であった。
「あぁ……この絨毯も毛足が長くて最高。もう今日は一日、ここでゴロゴロして――」
コンコンコン。
不意に、寝室の重厚なマホガニー製の扉が、一切の感情を感じさせない規則正しいリズムでノックされた。
ビクッと肩を揺らす私の耳に、よく通る凛とした声が届く。
「ルセリアお嬢様。お時間でございます。お入りしてもよろしいでしょうか」
「……あ、はい。どうぞ」
慌てて絨毯から立ち上がり、令嬢らしい(と自分では思っている)姿勢でおすまし顔を作ると、ガチャリと扉が開いた。
入ってきたのは、ヴァロワ公爵家を長年取り仕切るベテランのメイド長、マーサだった。
白髪交じりの髪をピシッと後ろでまとめ、鼻眼鏡の奥の瞳は鷹のように鋭い。彼女の歩く姿には一切の無駄がなく、メイド服の布擦れの音すら最小限に抑えられている。前世の私の上司(鬼の営業部長)を彷彿とさせる、強烈なプレッシャーを放つ女性だ。
「おはようございます、マーサ。今日もいいお天気ね」
「ええ、おはようございます、お嬢様。昨日は素晴らしい生誕祭でございましたね」
マーサは完璧な角度でお辞儀をした後、スッと顔を上げた。そのメガネの奥の瞳が、僅かに光ったような気がした。
「さて、お嬢様。6歳のお誕生日を迎えられたということで……本日より、ヴァロワ公爵家の次期当主としての『本格的な教育』を開始いたします」
「……え? きょういく?」
間抜けな声を出した私に対し、マーサは手元に持っていた分厚い羊皮紙のバインダーをパチンと開いた。
「はい。これがお嬢様の、本日のスケジュールでございます」
そう言って手渡された紙を見た瞬間、私の頭の中で警報が鳴り響いた。
【ルセリアお嬢様 本日の予定表】
06:00 起床・身支度
06:30 歩行・姿勢矯正訓練(頭上に本を乗せての歩行)
07:30 朝食(テーブルマナーの実地訓練を含む)
08:30 帝国の歴史・法学(第一部)
10:30 語学(古代語および隣国語)
12:00 昼食・休憩
13:00 社交ダンス・礼儀作法
15:00 ピアノ・芸術鑑賞
17:00 魔力制御の基礎理論
19:00 夕食(両親への本日の学習報告)
20:00 本日の復習・翌日の予習
21:00 就寝
「…………は?」
私は思わず、前世の擦れたおっさんのような声を出してしまった。
なんだこれは。朝6時から夜の9時まで、文字通り「分刻み」でタスクが詰め込まれているではないか。休憩時間など昼食時の一瞬しかなく、あとの時間はすべて何らかのスキルアップと教育に割り当てられている。
「マーサ……あの、これは何かの冗談かしら? 私はまだ6歳になったばかりの、か弱い子供なのだけれど……?」
引きつった笑顔で上目遣いを作り、私は必死に「子供らしさ」をアピールした。前世の記憶があるとはいえ、身体はまだ幼女なのだ。こんなスケジュールをこなしたら、比喩ではなく命に関わる。
しかし、マーサの鉄面皮はピクリとも動かなかった。
「公爵家とは、帝国の柱でございます。その柱を継ぐ者に、幼いからという甘えは許されません。奥様も旦那様も、お嬢様には多大な期待をお寄せです。『私たちのルーセなら、きっと国一番の淑女になる』と」
「(あの親バカども、余計なハードルを上げやがって……!)」
「さぁ、お嬢様。まずは姿勢矯正の訓練からでございます。背筋を伸ばし、顎を引いて。そのだらしない立ち方は、ヴァロワの恥と心得てくださいませ」
マーサの容赦ない指導が始まった。
頭の上に分厚い辞書のような本を乗せられ、部屋の中を歩かされる。少しでもバランスを崩せば、マーサの冷たい指摘が飛んでくる。
「背中が丸まっております」
「歩幅が広すぎます。令嬢としての品格を意識なさいませ」
「視線は常に前へ。下を向くのは敗者のすることです」
地獄だった。
その後も、難解な歴史の年号を暗記させられ、聞いたこともない言語の発音を叩き込まれ、足の指にマメができるほどダンスのステップを踏まされた。
「ちょっと、マーサ……お水、お水を飲ませて……」
「授業中は私語を慎み、我慢することを覚えるのも訓練のうちです。あと15分で休憩でございますから、それまで耐えなさいませ」
(ブラックだ……!!)
私の心の中で、前世の社畜魂が血涙を流しながら絶叫していた。
なんだこの圧倒的ブラック環境は! 労働基準法はどうなっている!? 労基署はこの世界に存在しないのか!?
いや、そもそもこれは「労働」ではなく「教育」だから、法的に規制することもできない。親の金で優雅に暮らすニート生活を夢見ていたのに、これでは前世の過酷な新人研修……いや、それ以上の地獄ではないか。
夜の9時。
すべてのスケジュールを終え、泥のようにベッドに倒れ込んだ私は、天井の豪華なシャンデリアを虚ろな目で見つめていた。
「……無理だ」
かすれた声が漏れる。
まだたった1日。たった1日この生活を送っただけで、私の精神と肉体は限界を迎えていた。これを明日も、明後年も、10年以上も続ける? 冗談じゃない。そんなことをしたら、私は今世でも間違いなく「過労死」という最期を迎えることになる。
「どうにかして、このタスク(スケジュール)から逃れる方法を考えないと……」
私は痛む足首をさすりながら、前世の記憶をフル回転させた。
前世で、一人では絶対に終わらない量の仕事を振られた時、私はどうやって生き延びてきたか。
――答えは簡単だ。他人に仕事を丸投げ(アウトソーシング)したのである。
「そうだ……私が自分でやる必要なんてない。私の代わりに勉強をして、私の代わりにマナーを完璧にこなして、大人たちを誤魔化してくれる『都合のいい部下』がいればいいんだ」
しかし、現在この屋敷にいるメイドや家庭教師たちは、すべて両親とマーサの息がかかっている。彼らに「私の代わりに宿題をやってくれ」と頼んだところで、即座に両親に報告され、監視が厳しくなるだけだろう。
私に必要なのは、ただのメイドではない。
ヴァロワ公爵家でもなく、両親でもなく、この『私』個人だけに絶対の忠誠を誓い、私がサボるためならどんな汚れ仕事(身代わり)でも嬉々として引き受けてくれる、究極の「イエスマン」。
言い方は悪いが、私のためだけに働く「社畜」が必要なのだ。
「どこかにいないかな……。帰る家もなくて、その日食べるパンすらなくて、私が手を差し伸べれば絶対に私を裏切らない、最高の原石(人材)が……」
呟いた瞬間、私の脳裏にピタリと当てはまる場所が浮かんだ。
帝都の片隅に存在する、陽の当たらない場所。貴族が決して足を踏み入れることのない、貧困と絶望の吹き溜まり。
「……そうだ、スラム街に行こう」
私は暗い部屋の中で、ニヤリと唇の端を歪めた。
あの親バカな両親なら、私が「可哀想な子供を救いたい」とでも上目遣いで言えば、きっと二つ返事でスラムへの外出を許可するはずだ。
「待っていろ、未来の私の手足たち。お前たちを地獄から拾い上げ、私が一生ダラダラ生きるための完璧な歯車に育て上げてやる……!」
怠惰な美少女(中身は過労死したおっさん)の、野望に満ちた成り上がりスローライフの第一歩は、こうして静かに、しかし最悪の動機から幕を開けたのであった。




