少女の話 13
朝になっても、ミヤビの中のわだかまりは消えなかった。
おかげで昨夜は一睡もできていない。
気がつくと夜が明け、陽光が室内に差し込んでいた。その一筋の黄色の線を、ミヤビは寝床から静かに見つめていた。
「起きてる?」廊下からアンリの声がする。
部屋の扉が、こんこんこんと叩かれる。
「起きています」と、ミヤビは答える。
「今日の行動について、少し話をしましょう。準備ができたら広間に来てね。ドロシーを連れてくるわ」
足音が扉の前から離れていく。それを確認すると、ミヤビは目を閉じた。
ゆっくりと息を吸う。体内に取り込んだ空気は温かく感じる。
息を吐き出す時もまた、時間をかけて実行した。そんな深い呼吸を、三度行った。
呼吸に乱れはない。意識もはっきりとしている。自分の体は間違いなく覚醒状態にある。それをしっかりと確認した。
少し間をおいて立ち上がり、部屋の扉に向かった。
すると一瞬、ぐにゃりと世界が歪んで見えた。
はっとして周りを見る。だが、おかしなところはない。
ほんの一瞬だが、部屋の中にあるものらの配置が、すべてシャッフルされたような奇怪な空間に招かれたかに思えた。
天井が足元にあって、壁が頭上ある。家具はあちこちに散りばめられていて規則性はない。
寝不足のために、視界が歪んでしまったのではないだろうか。
しかし、だとすれば、意識は起きているはずなのに、頭の中が混乱しているというかなり危険な状態であることがわかる。
体にこれといった変調はないようだが、よく注意して捉えてみると、いやに視界がクリアになっていたり、廊下の床が軋む細かい音にまで、注目してしまうくらい聴覚が敏感になっていたりと、普段とは異なる能力が備わっている様子だった。
ミヤビは顔を振って、頭の中に溜まっていたもやを振り払う。自分の中に異常が発生した時、思考を妨害しようと生み出されるもやだ。防衛本能からくる産物なのだろうが、今は必要のないものだ。
それらをきれいさっぱりと払いのけてしまうと、両の頬を手のひらで覆った。
軽くとんとんと叩いてから、大丈夫だと意気込む。そして、心の中で十を数えてから、部屋の扉を開けて、廊下に出た。
ミヤビの借りた部屋の向かいには、広間がある。昨夜、アンリが居た部屋だ。
広間には大きな長机があり、椅子も四脚ばかり用意されているので、みんなで顔を揃えて話し合うのにちょうどいい具合の場所だった。
先に朝食にしましょうと、アンリは食糧庫から長期保存のきく食品を持ってきた。セーフハウスを用意するにあたり、この類の蓄えは十分に確保しているようだ。
ミヤビは、立方体の妙なパッケージの容れ物を受け取った。中に食べ物が入っているらしい。
開封方法を教わり、恐る恐ると開けてみると、中には焦茶色で、表面に螺旋の模様をみせた謎の丸い物体が納められていた。
アンリ曰く、そういう食べ物であるのだそうだ。
口にしてみたが、実はこれが見かけからは想像できないほど美味いものだ、というわけでもなかった。未知なる食べ物というだけで期待をしていたので、がっかりした。ミヤビは黙々と、食事を続けた。
人間二人と猫一匹の計三名は、一切の会話なく、静かに朝食を終えた。
そして、いつもの要領で話し合いを始める。主にアンリが進行し、ミヤビが相槌をいれ、ドロシーが欠伸をする。いつもの会話の形態だ。
「この南エリアで、私たちにできることは限られているわ」と、アンリは切り出した。「けれど、物事が複雑化してきたおかげで、目的はよりシンプルにもなったという意味では、いい傾向かもしれない。やむを得ずと言ったところだけど、今の私たちにできることが、はっきりとしたわね」
「それは何でしょう」ミヤビは訊ねる。
「眼帯男を見つけることよ」アンリは腕を組んだ。
「彼は、南エリアにいるのでしょうか」ミヤビは隣にいるドロシーの方を見る。「いえ、そもそも、彼がどこにいるのかがまったくわからないから、ドロシーに協力してもらうといった流れでした。けれど、ドロシーが情報屋としての力を発揮するためには、マガツ区に住んでいる猫たちの協力が必要です。そして、その猫たちは、過激派が捕らえているようですから」
「ええ、そうね。過激派に捕まっている猫たちを解放しないと、先には進めないわ」アンリは一呼吸おいてから、続ける。「けれど、それはユウに任せることにしましょう。私の予想だと、アモンたちが猫を監禁している場所は、南エリアにはないわ。だから、私たちはこちらにいる限り、猫探しは難しいのよ。そこで、狙いを直接的にして問題の解決に一気に迫りましょう」
「具体的にはどういったことをするのでしょう」
「ギルドを探すわよ」
ミヤビは記憶の森を辿る。いつか聞いたことのある言葉のようだ。確か、眼帯男と関係のある事柄だった。
「ギルド、とは何でしょう」と、ミヤビは訊ねる。
「眼帯男が所属している団体のことよ」アンリは答える。「勇者の存在は知っているでしょう」
「はい。魔法使いを倒すために、大天使から授けられた力を持った人々のことですよね」
「そんな勇者たちを育成しているのが、『ギルド』という団体よ。勇者を育て、部隊を率いて、魔法使いを討伐する。現状、この大陸の最前線で戦っている人たちなのよ」
「そんな凄い団体が、この街にいるんでしょうか」
「いる、みたいよ」アンリは言って、何かを決断したかのように、一度、口の端をきゅっと結んだ。
それから、すぐに口を開く。「北エリアでフロウ集会の聞き込みをする傍らにね、訊いてみたの。そうしたら、ギルドは現在、この街に帰還しているという噂があったの。あくまで噂だけどね。そして、彼らは今、この南エリアで次の進軍に備えているらしいわ」
「では、彼らの居場所を突き止めることができれば」
「眼帯男について、何かわかるかもしれないわ。そして、あなたが攫われた理由についてもね」
「ねえ、その話をさ」と、静観していたドロシーがふいに口を開き、割って入ってきた。「昨日、ユウと別れる前にしなかったのは、この作戦が、キミの独断だからってこと?」
アンリの視線がゆっくりとドロシーに移る。その瞳には、警戒しているでもないが、どこか訝しむ色があった。
「よく気がつくのね。そういうことに」アンリは言う。
「気がつかないのが都合がよかったの?」と、ドロシーは試すような言い方をする。
アンリは、はあと息を吐く。
「別に隠しているわけじゃないわ。このことは、ユウにも共有してあるわよ」
「だけど彼女がいたなら、慎重に動くように言うだろうね」
「そうかもしれないわね。ミヤビを攫うような男が所属している組織ですもの。もし、その誘拐自体がギルドの命令だったとしたらと考えると、接触は避けるべきよ。さらに、アモンたち過激派のこともある。アモンは、大天使イザナエルに興味があるようだったわよね。イザナエルは勇者の力を人々に与える存在よ。勇者を引き連れ、魔法使い討伐に向かうギルドという団体と何らかの繋がりがあるとみていいわ。つまり、私たちがギルドを追う過程で、イザナエルの動向を探っているであろう、アモンたち過激派と遭遇するかもしれない。そうなると、はるばる南エリアまで逃げたっていうのに、かえって危険な状況に置かれるわ」
「それをユウは許容しない。だからこそ、彼女がいない今、行動するってことだよね」
アンリはきっとした鋭い目つきで、ドロシーを見る。
「何であれ、やはり今、私たちにできることは限られているわ。だから、少しでも前に進む手を選択しているだけよ。もちろん、先に猫たちの居場所がわかれば、あなたの力を貸してもらうことになるわけだけど」
「その時は協力するよ。約束したからね。あと、諸々、面白そうだし」
「そう。それはよかったわ。それじゃあ、今日の行動だけどね」
言って、アンリは卓上に地図を広げた。
このマガツ区の全域が記されている広大な地図だ。
「これ、セーフハウスに置いてあったのよ。当然、この街が魔法使いたちにやられる前の状態だけどね。それでも、大まかな構造なんかは同じはずよ」
卓上の地図を覗き込む。
ふと、ミヤビは、頭の奥にじんわりと染みるような痛みを感じた。
白紙に垂らした水滴が、じわじわと領地を広げていくように、その痛みは徐々に規模を大きくし、ミヤビの頭の中を蝕んでいく。
やがて侵食はある段階で止まり、それ以上は大きくならない。けれど、伴う痛みは残していた。
ミヤビとドロシーが何やら会話をしているらしいが、頭に入ってこなかった。
この頭痛は外界からの刺激をシャットアウトしてしまうようだ。そうして、内側でどんどん膨れ上がり、宿主を苦しめる仕組みというわけだ。
痛みは続く。ミヤビは顔をしかめる。
ちょうどその様子を、アンリが目撃した。
「どうしたの」と、アンリは言う。
「少し、頭痛が」ミヤビは答える。「実は、昨日、一睡もできなかったんです。何故だかはわかりませんが、うまく寝付けなくて。なんだか日常が、いつものと違うようで、それで不安になってしまって」
ミヤビは思い当たることを口にしてみるが、はっきりとしない。実際、それが原因なのかはわからない。
「今、無理をするのはよくないわね」アンリは言う。「それなら、今日は待機することにしましょうか」
「私は一人で大丈夫ですから。お二人でだけでも調査に行ってきてください」
アンリは一瞬、目を細める。
「そういうわけにはいかないわ。あなたが心配だもの」
「たまには休む日があったっていいんじゃないかな。今までずっと街に出て、調査してはを繰り返していたんだし。身体だけじゃなく心にだって、疲労が溜まっているはずだよ」ドロシーが言う。
「ひとまず、あなたが回復するまでは、大人しくすることにしましょう」と、アンリは言った。
「賛成」ドロシーがくわっと口を開く。そのまま欠伸をし、首をぶるっと震わせた。
「ありがとうございます」ミヤビは、言う。
ミヤビは礼を口にしつつ、自分の行いのせいで、これからの進行を妨げてしまったことに、不甲斐なさを感じていた。
太陽が高く昇り、昼時となった。けれど、ミヤビは眠れないでいた。
頭が重たく、身体には怠けがあるのに、眠気はやってこない。
自分が眠れなくなってしまった理由は、わからなかった。
ミヤビは、部屋の壁をじっと見つめ、ただ時が経つのを待った。この課題は、きっと時間が解決してくれるのだろうと考えた。
今までに経験したことのない悩みであるから、どのようにアプローチするのが正しいのか、見当もつかない。
だから、何か思いつくまで、保留にしていようと思った。試しに、何もしないことを選択した。
そうして、何の娯楽もない部屋の中で、夜が来るのを静かに待った。
その夜、部屋の扉が密やかに叩かれた。
返事をすると、アンリの声がした。
ねえ、入っていいかしら。
ミヤビは快く、アンリを迎え入れた。
「どうしたんですか」ミヤビは訊ねる。
「大した用じゃないわ。体調がすぐれないみたいだったから様子を見にきただけ」
「そうだったんですか。ありがとうございます」ミヤビは言う。
アンリはすっと室内を見回したあと、扉を閉める。
「それで、具合はどうなの」アンリは訊ねる。
「相変わらず不眠気味です。何が原因かもわからないので、今夜も眠れるかどうか」
「そう」
「申し訳ないです。ご迷惑を」
「別にいいわよ。気にすることじゃないし」
アンリはばつが悪いとばかりに、視線を部屋の隅へとやった。
それから、何かを思い直したかのように、ふうと息を吐き、ミヤビに向き直った。
「ねえ。あなたにとっては不安になる事柄かもしれないけど、正直に言うとね、私はこういった状況で、誰かを励ますのは得意じゃないのよ」と、アンリは言った。
「そうなんですか。はい。それらしいってことは、ユウさんから聞きました」
ミヤビは笑った。自然と笑みが溢れていた。
アンリの純粋さというか透明で素直な態度に好印象を抱いた。
「あらそう」
アンリは、また気恥ずかしそうにする。それから、「前に、あなた言っていたわよね。住んでいた村には同年代の子は一人もいなかったって」と、調子を取り戻すようにして、言った。
「はい、そうです。村では兄と私以外は、みんな大人の人ばかりでした」と、ミヤビは答える。
故郷の村のみんなのことを頭に浮かべる。
マガツ区に来てから、もう何日もの時間が経過していた。
心配をかけていることだろう。みんなのためにも、一刻も早く、帰らなくてはならない。
「私もね、似たような境遇なのよ」
ふと、アンリは言う。
彼女の個人的な話が聞けるとは思ってもみなかったので、ミヤビは興味を示した。
アンリは今、王都の騎士としてではなく、一人の少女として、ミヤビの前にいる。
それは、目的のために協力し合う仲間として、また一人の友人として、自分を認めてもらえたような気がして、ミヤビは内心、嬉しかった。
そして、赤面しているほどではないが、アンリのその表情からは、どこか小っ恥ずかしいという感情を抱えていることが窺えた。
後から聞いた話だが、やはり彼女は、自分の気持ちを他人に明かすことが得意ではないようだ。
「幼い頃からね、ずっと勉強ばかりしてたのよ。同年代の子たちが、外で球技をして駆け回っている間に、私は部屋で本を開いていた。おかげで学校での成績はよかったけれど、友人と呼べる友人はいなかったわ。士官学校に入ってからも、そう。他人と関わっているよりも、独りでいる時間のほうが、ずっと気楽に過ごすことができていた。きっと私は、そういった性分なのよ。だから、今のあなたになんて声をかけるのが正解なのか、私にはわからない」
「そこまで思い悩んでもらわなくても大丈夫です。ええ、これは私の問題なので、自分の力で解決してみせます」
「私やドロシーがいるんだから、頼ってもらってもいいのよ」
「心配をかけてしまっていることが、申し訳ないんです」
「問題ないわよ。人間関係なんて、どれもそんなもの。だから、遠慮はしないで」
ミヤビは、アンリから示される微かな温かみを感じ取った。それは彼女が、騎士としての責任を抱える中で、押し殺した感情の隙を縫うようにして提示してくる、友情なのだと気がついた。
アンリにとっての自分は、ただの保護対象なのではなく、友好的な関係を築くに値する一人の人間だということだ。
その推測は、ミヤビの胸の内に停留する冷気を、きれいさっぱりと吹き飛ばした。
すると、身体を蝕んでいた違和感も、するすると空気が流れ出るような自然なかたちで、なくなっていった。
あれ。どういうわけか、気持ちが楽になったように感じる。今なら、眠りにつくことができるかもしれない。
「私たちは、いい友人関係を築くことができるような気がします」ミヤビは言っている。言葉には、感謝の意を込めている。
「友人ね」アンリはその言葉を丁重に扱うかのように口にする。「以前にも言ったようにね、私があなたと行動を共にしているのは、あなたを監視する目的もあるのよ。あなたは魔法使いに何か関係するものがあると思っているから」
「そう、でしたね」
「けれど、ここ数日で、それは間違いなのではと思うようにもなってきたわ。あらゆる偶然が重なって、そう見えてしまっているだけで、真実は、もっと異なるところにあるかのような気がしてきたの。あなたは普通の女の子で、運悪く、事件に巻き込まれただけ。ただそれだけに過ぎないのだとしたら」アンリは顔を伏せる。「そうしたら、あなたが何者なのかわからなくなってしまうのだけど」と、溜息を吐き出すようにして言った。
ミヤビは返答に困った。アンリが独り言のように溢す言葉の意味合いが、理解できなかった。
彼女は、ミヤビが見えている以上に、物事を広い視野で捉えているようだった。
やはり、騎士の二人には、ミヤビに伝えていない秘密があるようだ。それはミヤビに関わる事柄で、ミヤビが知るべき事柄だ。
だが、彼女らがここで、ミヤビにそれを伝えることはない。
物語が進み、事態が進展した時、秘密は暴かれるのだろうが、今がその時ではないのだ。
「いいえ、それは違うわね。何者かわからなくなったのは、自分自身のことに関してなのかも」と、アンリは顔を上げた。「私は王都の騎士であると同時に、一人の人間だわ。それを見失ったら駄目なのよ」
アンリは自分に言い聞かせているようだった。
そしてミヤビは、自分の体に変化があったことを感じ取った。
何か説明のつかない力によって機能の一部が妨害されていたけれど、回復したようだった。
きっとアンリが部屋を訪れてくれたおかげだ。ミヤビはそう考えた。
ほんのわずかな時間だが、彼女と言葉を交わしたことで、心境に良い変化があった。
友人という存在の頼もしさを、身をもって知ることができた。
ミヤビの心は、清々しい開放感で満たされていた。
「ありがとうございます。少し話をしたおかげで、気持ちが楽になった気がします。今夜は眠ることができそうです」
「そうなの。それは、よかったわ」アンリは言う。「話といっても、ほんの少しだけだけれどね」
「それでも、気分がよくなったのは事実です。どれだけ言葉を交わしたとか、そういったことは関係ないんだと思います。こうして、一緒にいるだけで満たされたり、変化を受け入れたりすることができる。それが友人という関係なんだと思います」
「ふうん、そう。何にせよ、あなたの体調が戻ったのならよかったわ」アンリは、微笑んで言った。




