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どうやら、ガロックとヴァロックは本気で戦うつもりのようだ。アリエル自身、戦うことそのものに抵抗はなかったが、理由だけは知っておきたかった。
怨霊が纏っていた瘴気の残滓が微かに漂い、骨粉が空気中を舞う中で、まだ状況を掴みきれずにいた。
となりに立つヴェリスに訊ねると、彼女は肩をすくめる。
『あなたがどのような存在なのかを見極めようとしています。彼らが守護してきた世界に入り込んだ〝異物〟が、どれほどの力と意志を持つのかを』
骸骨の化け物が宿していた怨念の影響かと思っていたが、どうやらもっと単純で、もっと根源的な理由だった。混沌の脅威から世界を守ってきた戦士として、未知の存在を放っておけないのだろう。
〈ルインゴル〉の脅威になるのであれば、排除しておきたいと考えるのは当然のように思えた。あるいは、ただ腕試しがしたいだけなのかもしれない。
彼らがどの程度の戦いを想定しているのかは分からない。ただ、先ほどまでの怨霊との戦いを見るに、手加減してやり過ごせる相手ではないことだけは確かだった。床に刻まれた破砕の痕、柱に残る亀裂、そして未だに残響する低周波の振動が、彼らの実力を物語っている。
アリエルは〈収納空間〉から短槍を取り出し、〈ダレンゴズの面頬〉を装着すると、身体能力を底上げしながらふたりに視線を向けた。ガロックとヴァロックは隙のない構えで立ち、迷宮の薄闇の中で影が揺れている。両刃の斧には骨粉がこびりつき、大楯には衝突の痕が刻まれたままだった。
幸いなことに、〈オービタリアン〉でもあるヴェリスは、〝観測者〟としての立場を崩すつもりはないようだ。
『残念ながら、あなたと一緒に戦うことはできませんが、わずかばかりの支援を』
彼女は片手を持ち上げ、空を切るように指先を動かす。
その軌跡に淡い光が残り、幾重にも重なる線と弧が絡み合って複雑な紋様を描き出す。光が収束していくと、アリエルの身体を包む〈祖霊の抱擁〉の薄膜がわずかに強度を増した。環境の影響や迷宮の瘴気だけでなく、外側にもう一枚、衝撃を分散させるための層が重なっているのが分かった。
アリエルはヴェリスに感謝を示すと、〈ルインゴル〉の戦士たちに向かって歩き出した。彼らと戦うことは想定していなかったが、守人の習慣として、常に戦う準備だけはしてきた。問題はない。
深く息を吸い、気持ちを切り替える。斜め掛けの肩帯に差した棒手裏剣の数を確かめ、腰に吊るした護符の束と、革の筒に収められた水薬の瓶に触れて位置を再確認する。それから短槍を握り直した。柄は手に馴染み、吸い付くような質感がある。
対するガロックは重心を低く落とし、踏み込みの瞬間に最大の推力を得る姿勢を取っていた。ヴァロックは半歩後方に位置し、大楯を構えている。二体一組で圧力をかけ、攻撃と防御に隙のない構成だ。先ほどの戦闘で見せた連携が、そのままアリエルに向けられるのは明らかだった。
迷宮の空気が再び張り詰めていく。〈灯火〉に照らされた柱の影が長く伸び、わずかな動きにも反応するように揺らぐ。遠くで滴る水音が、やけに大きく響く。
腰を落とし、ガロックに向かって駆け出そうとした時だった。鋭い耳鳴りがしたかと思うと、先ほどまで立っていた場所に衝撃波が叩きつけられ、床が破裂するように砕け散る。
ヴァロックの喉嚢が膨らむのが視界の端に映ったが、アリエルは構わず駆け抜け、二本の棒手裏剣を打つ。しかし軌道がわずかに逸らされ、鈍い音を立てて柱に突き刺さった。空気そのものが歪められ、投射物の威力が奪われていた。特殊な鳴き声で振動を発生させ、瞬間的に異なる空気の層を生み出しているのだろう。
その隙に、ガロックが跳躍して距離を詰めてくる。長い四肢から繰り出される斧の重い一撃が頬をかすめ、空気が裂ける。アリエルは身体をひねり、回転の勢いを乗せて短槍を振り抜いた。
白銀の穂先は首を刎ね飛ばす軌道を滑るように進んだが、横合いから衝撃波が叩きつけられ、アリエルの身体は空中へ弾かれた。ヴァロックの妨害だ。空中で体勢を整えながら着地し、すかさず前に踏み出そうとした時、音をかき消すような耳鳴りに世界が揺れる。
視界が歪み、殴られたような衝撃のあと、石畳の溝が目の前にあるのが見えた。どうやら倒れ込んでしまったらしい。三半規管を機能させなくなるような音を使った攻撃が行われたのだろう――方向感覚が奪われ、右も左も分からず、世界が前後に揺れる。
躊躇うことなく瞼を閉じると、感覚に頼るのではなく、これまでの訓練で何度も繰り返してきた動作を実行するようにして身体を起こし、後方に飛び退く。直後、ガロックの斧が地面を抉るのが見えた。石畳が破壊され、無数の破片が跳ね上がる。もう半拍遅れていれば、頭部が粉砕されていたはずだ。
アリエルは腰の帯革から水薬の瓶を取り出し、素早く口に含む。冷たい液体が喉を通り、内耳の鋭い痛みが収束していく。世界の揺れは収まり、身体の感覚も戻ってくる。
そこに呪力を伴った衝撃波が迫るのが見えた。アリエルは斜め上へ跳び、衝撃の通過を確認すると同時に、体内の呪素を練り上げ、一気に解放する。不可視の衝撃波は、追撃しようとして飛び掛かってきたガロックの肩口に叩き込まれる。
鈍い手応えとともに巨体がわずかに後退するが、致命傷には至らない。筋肉と骨格の密度が異常に高く、打撃の力が分散されている。
着地と同時に、視界の端で喉嚢を膨らませていたヴァロックに向かって〈石礫〉を撃ち込む。先ほどの戦闘で散乱していた瓦礫を利用した攻撃だった。呪力の影響を受けた瓦礫が弾け、細かな破片となって飛んでいく。しかしヴァロックは楯を斜めに構え、衝撃を逃がすようにして攻撃を防ぐ。
その隙に、アリエルは恐るべき速度で間合いを詰め、低く滑り込むようにして懐に入り込もうとする。しかしヴァロックはそれを読んでいた。楯をただの防御ではなく攻撃の道具として使い、体重を乗せるように横から叩きつけてくる。
衝突の直前、アリエルは短槍を両手で握り、柄で攻撃を受けるようにして直撃を避ける。しかしそれでも衝撃は殺しきれない。腕に鈍い痺れが走り、骨が軋む。
そこにガロックが再び迫る。踏み込みは直線ではなく、わずかに弧を描いている。回避する先を限定するような攻撃――あらかじめ逃げ場を削ぐ動きだった。
斧の閃光が闇を裂き、ヴァロックの低い振動音が空気を歪ませる。ふたりの連携に隙はなく、迷いも恐れもなかった。実戦で培われてきた動きそのものだった。
アリエルは後退を諦め、逆に一歩踏み込んだ。逃げれば追い詰められるだけだと判断した。迫る斧の軌道に合わせて身体を沈め、紙一重でかわしながら懐へ滑り込む。短槍を引き絞り、攻撃の際に生じた隙をついて脇腹を狙い、穂先を突き込む。
だがその瞬間、再び衝撃波が走った。わずかな遅れが生まれ、穂先は狙いから外れる。硬い革の胸当てを浅く裂いただけで、致命傷は与えられなかった。
さすがのアリエルでも、簡単には勝利を手にできないようだ。このまま持久戦に持ち込めば、ふたりで戦う〈ルインゴル〉の戦士が有利になるかもしれない。
アリエルは後方に飛び退いて距離を取ると、荒い呼吸を整えながら攻撃の隙を窺う。そのときだった。ガロックとヴァロックが、喉嚢の膨張と伸縮を繰り返すのが見えた。空気の密度が変わり、迷宮の闇がわずかに震える。
耳では捉えきれない低音域と、骨に直接触れる高音域が干渉し、空間そのものに歪みを生じさせる。アリエルは奇妙な感覚に襲われる。うなじが痺れるような、あるいは死の直感とでもいうものだろうか。
彼は腰の帯革から〈翠渦の護筒〉を抜き取り、呪素を流し込みながら地面に突き立てる。その直後、緑青の角筒が淡い光に包まれ、巻物がほどけるように外殻を展開し始める。護筒の渦紋が明滅し、周囲の石材が軋みながら引き寄せられ、渦を描くように組み上がり、一枚の壁を形成した。
つぎの瞬間、凄まじい衝撃波が壁に叩きつけられた。単発ではなく、複数の衝撃が連続して衝突し、壁の外層を次々と砕いていく。構造体は耐えきれず、層ごとに剥離しながら崩壊した。一気に解き放たれた力が濁流のように押し寄せ、破壊された壁の破片とともにアリエルを吹き飛ばした。
地面を転がり、何度も身体を叩きつけられながら、柱にぶつかってようやく勢いが止まる。肺から空気が抜け、視界が白く弾ける。衝撃の余波だけでも、これだけの威力のある攻撃だ。まともに受けていれば、身体がズタズタに破壊されていたはずだ。
その激しい攻防を四つの眼で観察していたヴェリスは、粉塵の中から何事もなかったかのように立ち上がるアリエルを見て、驚きと感心が綯い交ぜになったような奇妙な表情を浮かべる。
アリエルは体術だけでなく、呪素の操作にも長けている。たとえば彼が得意とする氷の呪術は、大気中の水蒸気を集め、液化し、さらに温度を奪って氷を形成する――複数の工程を瞬時に行う高度な術だ。それを戦闘の最中に、呼吸を乱さず扱える者など、そうはいない。
さらに、人間離れした身体能力と体力。そして何より恐ろしいのは、それらがアリエルの能力の〝ほんの一端〟にすぎないという事実だった。〈ルインゴル〉という戦闘種族が、アリエルの纏う気配に怯え、脅威に感じるのも無理はない。
ガロックとヴァロックは健闘していたが、彼らの攻撃は徐々に荒くなり、呼吸のリズムも乱れ始めている。対してアリエルは、傷を負いながらも動きの精度を落としていない。むしろ、戦闘そのものを楽しんでいるきらいがある。あの禍々しい面頬の奥で笑顔を浮かべていても不思議ではなかった。
やはり熟練の声の使い手をもってしても、異界の戦士に勝つことは難しいのだろう。ヴェリスは、そう結論づけた。
アリエルは粉塵の中から低く駆け出すと、楯を構えたヴァロックに接近する。しかし正面での衝突を避け、呪術で陽動し、楯の死角から攻撃するのが狙いだった。鏃のように鋭い〈石礫〉が撃ち込まれると、ヴァロックは楯の角度を変えて受け流す、その動きに合わせてガロックが飛び込んでくる。
が、振り上げた斧を振り下ろす動作が一拍遅れる。〈呪術師の手〉によって斧の動きが阻害され、わずかな隙が生まれた。その連携の継ぎ目に生じた空白――そこに白銀の穂先が潜り込み、ガロックの脇腹を浅く裂いた。
一進一退の攻防の最中、〈ルインゴル〉の動きが乱れ始める。アリエルは躊躇うことなく間合いを詰めるが、攻撃を察してすぐに半歩引いた。ガロックは斧を振り抜いたが、攻撃は外れ、石畳を粉砕するに終わる。粉塵が舞い、戦場の輪郭がぼやけた。
やがて、ガロックとヴァロックの動きに明確な間が生まれる。ふたりは互いに一瞬だけ視線を交わし、同時に力を抜いた。斧が下がり、楯がわずかに開く。そこに、もはや戦意は感じられなかった。
ふたりは武器を収め、膝を折り、恭しくこうべを垂れた。その動作は儀礼として洗練されていて、敬意を示すと同時に、アリエルを戦士として受け入れた証でもあった。




