第1話「家族転生」
※この作品はWeb作家の白金犬さんに「こんな物語が読みたい」と依頼して作成していただいた作品です。
作者の許可を得て公開しています。
山を切り拓くようにして作られたアスファルトの道を1台の白いファミリーカーが走っていた。家族4人と旅行用の荷物を積載するには適切なミニバンが、縫うように走る道路を通っていた。
「碧月も、もう高校生か。時が経つのは早いものだな」
運転席で車を操作しているのは一家の大黒柱である父・峰晴和輝だ。娘を想うその口調はいつもと変わらず、厳しさや堅苦しさを思わせるものだった。しかし、いつも生活を共にしている家族であれば、その中には素直に表せない嬉しさが込められているのが分かる。
「本当にねぇ。碧月ちゃん、すごく頑張ってたもんね」
助手席に座っているのは母・あかり。仏頂面が多くて堅苦しい父とは違って、いつもニコニコとしている母親は、この時もやはりニコニコ笑っていた。いつも通りののんびりとした口調でそう言うと、後部座席に視線を向ける。
あかりが視線を向けたのは、運転席の真後ろ。そこに座っているのは、峰晴家長女の碧月だ。
「うん。ありがとう、お母さん」
褒められている張本人である碧月は、母親からそう言われると、愛想笑いと分かる笑みを浮かべていた。その表情には、覇気の無さを感じる。
「あっ。ちょっと晃太! あまりお菓子食べ過ぎないの。車の中で食べると、気持ち悪くなるよ!」
「あっ。返せよ、姉ちゃん」
話題を逸らすように、碧月は隣に座っていた弟・晃太が頬張っていたチョコレート菓子を横からかっさらう。
「碧月は本当にしっかりしているな。さすが、俺の娘だ」
父・和輝が口調に乗せる感情は平淡である。しかし普段はあまり褒めること自体無いのに、繰り返し娘を褒めるということは、やはり上機嫌であることは間違いない。
それも無理もないことで、碧月はつい先日、難関校への合格を実現させたのだった。そこは全国屈指の進学校で、国内最高峰の某国立大学への進学率も全国トップ。父親の和輝自身の母校でもあり、彼が今の超一流企業への就職を果たすことが出来た、その礎となった場所だ。
和輝はその高校入学があって、今の幸せを手に出来たと思っている。だから愛する娘が、同様にその幸せへの道を歩み始めたということが、たまらなく嬉しいのだ。
そもそも今回の旅行も和輝が発起人で、碧月の合格祝いのために企画したものだ。
直近の家族旅行は、もう5年以上の前となる。その頃と比べて更に忙しさを増した和輝のことを考えると、今回の旅行が実現できたことは奇跡にも等しい。こうして笑う裏では、相当な苦慮があったであろうことは、あかりと碧月にも分かっていた。
峰晴和輝は、決して優しい父親では無かったが、それくらいに家族を愛しているのは間違いない。
「そうだね。私も高校生になるから、ちゃんとしないといけないしね」
和輝は運転をしているため、後ろの碧月に振り返ることは出来ななかったが、その言葉を聞いて満足そうにうなずいていた。
しかし、父の方に顔を向けてすらいない碧月の表情から、この親娘の関係は、少なくとも良好とは言えないのは誰の目から見ても明らかだった。
「碧月は、高校に入ったらやりたいこととかあるの? 部活動とか。バスケットボール、頑張っていたもんね。」
母・あかりがさりげなく話題を差し込んで、なんとなく気まずい空気を払拭しようとする。のんびり能天気のように見えるこの母親の、この細やかな気配りは、この家族にとっては貴重なものだった。
しかし碧月が答えるよりも先に和輝が
「何言ってるんだ。高校に入って部活動なんかやってる暇なんてあるもんか。全国レベルの選手ならまだしも、趣味レベルなら止めとけ。時間の無駄だ。それよりも勉強だな。とりあえず上位3割くらいをキープしとけば、安心だぞ」
得意げにそう言う和輝は明らかに空気を読めていなかった。
純粋に娘のためを思っての発言というのは間違いないのだろうが、その父親の言葉に碧月はバレないように顔を曇らせる。
「そうだね。良い大学入って、良い企業に就職して、良い人と結婚しないとね」
「ああ、そうだぞ。それがお前の幸せのためだからな」
和輝はわははと笑いながら、軽快に運転を続ける。娘の感情に全く気付きもしない父親の無神経さに、あかりは気遣うように碧月の顔を伺うと、碧月は「大丈夫だよ」と無言の表情で返事をする。
「って……お、お父さん。ちょっと運転荒くない? すごく揺れてるけど?」
山道を行くS字カーブのせいもあるだろうが、それ以上に速度も随分出ているような気がする。揺れる車内で碧月が不安そうに言うと、いつも能天気なあかりすら碧月と同じような顔をしていた。
「ん、そうか?」
「安全運転っ! 安全第一でお願いね」
「うー、気持ちわる……」
ふと、となりで弟の晃太が青い顔をしているのに気づく。お菓子はつい今しがた取り上げたのだが、今度はその手に携帯ゲーム機を持っている。
「あー、アンタは旅行にまでそんなもん持ってきて! 車の中でやったら酔うに決まってるでしょ!」
「だって、レベル上げしとかないと、みっちゃん達に先越されるんだもん! はーなーせーよー!」
「ち、ちょっとちょっと2人とも」
後部座席で取っ組み合いに発展しそうな姉弟に、さすがに仲介に入ろうとするあかり。
道路のカーブは激しくなっていき、車内の揺れは更に激しくなっていく。それに伴うように姉弟のやり取りも激しくなっていき、後ろでぎゃーぎゃーと喚く騒々しさに、上機嫌だった和輝の機嫌も、あっという間に悪くなっていく。
「おい、いい加減に――」
「お父さんっ! 前、前っ!」
子供達の騒々しさに我慢できなくなった和輝が後部座席へ振り向いたのと、それは同時だった。
唐突な落石が、ミニバンが進む前に、次々と降り注いてくる。
「なっ……うわああっ……!」
道を塞ぐような石の群れに、和輝は慌ててブレーキを踏みつつハンドルを切る――が、全ては手遅れだった。
その直後、更に量と勢いを増した落石群に、ミニバンは飲み込まれていった。
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峰晴和輝が家族に寄せていた愛は紛れもなく本物だった。
妻・あかりを、長女・碧月を、長男・晃太を、家族全員を愛していた。
特に転機となったのは、子供達が生まれてからだ。それからの和輝の人生は家族のためのものとなった。家族を守り、愛するために彼は生きることを決めた。
『私、将来おとーさんのお嫁さんになるー♪』
――これが、走馬灯ってやつかな。
薄れゆく意識の中で、和輝は幼き娘が無邪気な笑顔を向けて、そう言ってきたのを思い出す。
どんな家庭にもありがちな、ごくごく平凡でありふれたものだ。
だけど、それはたまらなく嬉しいし、かけがえのないものだ。和輝にとっての宝物。
『――そうだね。お父さんの言う通りだと思う。志望校は、そこにするね』
将来の進路を決める際には、娘と揉めに揉めた。お互いの感情をぶつけ合った。その時には、双方とも今までに発したことのない汚い罵詈雑言もたくさん出た。初めて娘から、言葉の刃を浴びせられて、和輝は内心では娘に嫌われることに、とても恐怖した。
しかし、最後には仲直りが出来た。碧月に自分の想いが届いたようで、それまで泣きながら食ってかかってきたのが嘘のように、笑っていた。
その時は和輝も傷ついたが、しかし終わった後から考えれば、あれは必要なことだったのかもしれない。違う人間同士である以上、家族といえども考えも価値観も異なる部分があるのは当然だ。
しかし家族だからこそ、そこはきちんと向かい合わなければならない。価値観が違うからこそ、娘の自分とは異なる価値観と向き合い、彼女が幸せになる道を作ってやるのが親としての責務だ。だから怖がって娘の本心に触れないでいるのではなく、傷つきながらもお互いの本音をぶつけ合えたあのことは、本当に良かったのだ。
だから、それからも和輝は娘に嫌われることを恐れずに、心を鬼にして碧月に接した。全ては娘のために。
彼女が普段から自分の言いつけを守り、どれくらい努力をしているのかはちゃんと見ていた。でも慢心しないように、あえて褒めることはしなかった。結果が出なければ厳しく叱責した。手を挙げることすらあった。
でもその本心は、夜中まで頑張っているところを褒めたかった。良い点を取れば褒めてやり、悪い点だった場合は励ましてやりたかった。
だけど、心を鬼にすることこそが娘の幸せだと信じていた和輝は、それに徹したのだ。
碧月も、それに歯を食いしばって耐えてくれた。そして努力に努力を重ねて、遂に志望校の合格を勝ち取ったのだ。
その時、碧月は泣いて喜んでいた。泣きながら礼を言ってきた時、和輝もまた泣きそうになり、我慢するのに必死だった。
これこそが、正に父としての愛に娘が応えてくれた瞬間だった。
そのことが嬉し過ぎて、和輝は今回の旅行を企画したのだ。それまでは会社に従順なエリートサラリーマンだった和輝が、初めて上司と大喧嘩の上で勝ち取った貴重な有給休暇を使って、娘の今後の人生の幸せを祝うための旅行。
――それなのに、こんなことになるなんて……
降り注ぐ落石の雨に車が飲まれてから、どのくらいの時間が経過したのかは定かではない。
シートベルトがしっかりと役割を果たしてくれたおかげか、和輝の身体は運転席に座ったままだった。しかし身体の至るところに激痛が走っており、そこから動こうとしても、身体は和輝の意志を全く受け付けてくれなかった。頭から伝ってくるこの生暖かいのはおそらく血だろう。決して少なくはない、その熱い液体の感触を感じて、和輝は震える。
「あ……あぁ……ぁ……」
ふと首だけを捻って左の助手席を見ると、和輝は絶望と恐怖に引きつった顔になる。そこには事故前と変わらぬ、愛する妻あかりの姿が見えた――但し、下半身のみ。上半身は厳つくて大きな石で潰されており、助手席に座る足だけが見えているという、悲惨な状況になっていた。
「あか、り……ぅああ……?」
そのまま視界の下の方に入ってきたのは、“手”だった。
まだ小学生くらいの子であろう手――それが、やはり降り注いできた落石の中から助けを求めるように伸びており、その手が和輝の太ももに当たっていた。
その身体は落石の中に埋もれていて、僅かにも確認出来ないが、誰の手なのかは明確である。
「う、嘘だろ……こ、こうた……」
息が苦しくて、心臓が痛いくらいに脈動する。
自分の痛みなど、些細なことだった。それよりも、愛する家族がこんな無残な最期を遂げたことに、和輝はこれ以上ない絶望に暮れる。
誰か……せめて、娘だけでも無事ではないか。そんな一縷の望みを持って、落石により全損状態となった車内を見渡そうとするが、首を回す以上のことは敵わない。
そんな中、ひび割れながらもまだその機能保っていたバックミラーが目に入った。割れたその鏡面の中で、わずかに動くものがあることに気づく。
自分の後ろ、後部座席で蠢くようにしているそれはーー
「だい……じょうぶ、か? みつき……」
バックミラーの中の娘――碧月は、まだ生きており、意識もあった。バックミラー越しに見る碧月は、額から血が流れ落ちており、手があらぬ方向へ曲がっているのも分かる。生きているといっても、重傷なのか明らかだ。
あの重傷では助からない……一見でそうと見える娘の状態を見て、更なる恐怖と絶望が和輝を襲う。
「い、やだ……お父さん。痛い……痛いよ……」
いつも気丈な性格の碧月が、涙を流しながら訴えてくる。
――そんなに血を流して、そりゃあ痛いだろうな。かわいそうに。
「すまない……俺が、こんな旅行を考えたばっかりに……」
自分のことなど、どうでもいい。
娘の人生はこれからだったはずなのに。幸せを手にするための、その最初の一歩を踏み出したところだったのに。辛い努力を乗り越えた、その先がこれから始まる所だったのに。それが、どうしてこんなことになったのだろう。
「すまない……碧月……」
おそらく、もう2人共助からない。
自分も下半身の感覚は最早失われおり、痛みの感覚も徐々に薄れていくと共に意識が飛びそうだ。
いずれこのまま車ごと落石に押しつぶされるだろう。そんなにすぐに救助が来るとも思えず、そうなる未来はもう避けようがない。
そう思うと、和輝は娘の前にも関わらず、ポロポロと涙を流す。
「あ、う……死んじゃう……死んじゃう……私たち、このまま死んじゃうの? お父さん……」
その娘の泣き顔を見て、生き残るのは絶望的だと諦めてしまった和輝の中で、最後に1つだけ希望が見いだせた。
こんな道半ばで終わる人生だったが、得られた物だってあったのではないか。
こんなにも愛おしい子供が、自分の娘として生まれてきたことだ。これ以上に勝る幸福などないだろう。
『これねー。ぱぱのお顔、ようちえんのせんせーと描いたのー』
『私、将来おとーさんのお嫁さんになるー♪』
『はい、父の日のプレゼント。肩たたき券だよー』
『合格できたのは、お父さんのおかげだと思う。ありがとうね』
しかも、その娘も自分を愛してくれたのだ。
短い人生だったということさえ除けば、控えめに言って最高の人生だったのではないか。
「碧月……愛してるぞ……」
自らの死を目の前にして、和輝は生涯で最初の最後、娘への愛をそのまま言葉にして伝える。
――また生まれ変わっても、お前の親でいたい。また娘として生まれて欲しい。
そんな願いを抱きながら、意識が少しずつ薄れていく。
そんな霞がかかるようにぼやけていき、死に沈んでいく和輝の意識――
それを強制的に現実に引き戻したのは
「わ、私は嫌い……お父さんなんて大嫌いっ!」
想像だにしない、愛娘からの残酷な言葉だった。
□■□■
厳しい父だったけど、自分のことを愛してくれていることは分かっていた。それが伝わっていたからこそ、幼い時は父親のことを無邪気に愛していたのだと思う。
でも、人はいつまでも子供のままではいられない。
いや、今だって中学生――子供に違いないかもしれないけど、いくらなんでも幼稚園や中学生とは違う。自我が生まれ、独自の価値観が芽生えてくるのは当たり前だ。
――私の価値観は、父親とは大きく異なっていた。
例えば、中学1年生の頃、授業の一環でボランティア体験があった時のことだ。
その時は高齢者施設のお年寄りのお世話をするボランティアだったが、そこにいるお年寄り達がとても喜んでくれた。また来て欲しいと言われて、私はそんなに他人からお礼を言われるのが初めての体験で、嬉しくて、本格的にボランティア活動に取り組みたいと思った。
『そんな暇があれば勉強しろ。今のままの成績じゃ、良い高校になんて進めないぞ』
その気持ちを父に告白した時の返答がこれ。取りつく島もないというのは、正にこのことだった。
それまでも優しくはない父だったが、このことから私は父へ不快感情を抱くようになっていた。互いの価値観の相違を感じるようになった最初のきっかけだった。
『3年生になっても部活続けたいの! 必ず勉強と両立してみせるから、お願い!』
『ダメに決まってるだろう。この間の期間テストでせっかく10位以内に入ったのに、油断すればすぐに成績下がるぞ。上がるのは大変なんだけど、落ちるのはあっという間なんだからな』
私の中学のバスケ部は弱小だった。でもみんなと一緒に頑張って、私が2年生の時には地区大会準決勝まで行くことが出来た。3年になれば受験に備えるために引退するというのが慣習だっただけど、後輩達が残ってコーチして欲しいって言ってくれて、先生からも残って欲しいって言ってくれた。
そんな人たちの期待に応えたいという私の想いは、またも父に否定されたのだ。
これらは、いくつもあったそんな父との行き違いの中の内の数例だ。
ここに来るまで、何度も何度もぶつかり合い、衝突していた。そしてその度に、私は父に失望していった。
“この人は『愛』を免罪符にして、私を思い通りにしたいだけ”
私のことなど考えていない。私の幸せなど考えていない。自分の思い通りに操作して、自分が気持ちよくなりたいだけだ。だから失敗すればすぐ叱るし、いい成績を修めてもそれが当然だからと褒めもしないのだ。
『私はお父さんの人形じゃない!』
私が将来の進路を決めなければならない頃、峰晴家最大の親娘喧嘩をした時の言葉だ。
私的には縁を切るくらいの覚悟を持っていった言葉。しかし私の意図は父には全く伝わっていなかったようだ。
お互いの想いに交わる部分が全く見いだせず、とりあえず喧嘩を収束させたかった私が本音を無理やり押し殺して納得した後、どこか満足そうな表情をしていた父を見て、私はそれを確信した。
私は、父に自分の想いを理解してもらうことを諦めた。
それでも、私は父の人形になることだけは絶対に嫌だった。しかし、だからといってどこにでもいる平凡な中学生の小娘風情が、いきなり親の庇護下から抜け出して生きていける程、社会は甘くない。
私は母に相談した。母は本当に優しくて、父にも私にも、どちらか一方に偏った見方はせずに、常に中立的な立場で話をしてくれるからだ。
『碧月は、どういう人間になりたいの?』
『――わかんない。でも、困っている人を助けられるような人になりたいな』
『素敵ね』
同性同士というのもあるのだろうが、母は私の具体性のない夢を、優しい笑顔で受け入れてくれた。
そして、現実の問題にもしっかり向き合ってくれて、母が言ってくれた言葉は
『お父さんも碧月のことを想って言ってくれるのは分かってあげて? そうねぇ、お父さんはああいう性格だし、まずは先に碧月が結果を見せてあげるのはどうかしら? 私はこれだけ出来るんだぞって頑張って見せつけるの。そうしたらお父さんも碧月の言うこと聞かないわけにはいかないし、それでも無視するなら今度はお母さんも味方しあげる』
そんな母親の言葉には一理あると思った。
それ以後、私は父の言うことには逆らうことなく、言われるがままひたすら黙って、父が言うままに勉学に邁進した。叱られることは辛くて、お人形扱いにされることは嫌々で仕方なかったし、1度たりとも褒められた記憶は無かったけど……だけど、ちゃんと父に自分のことを聞いてもらえるように、歯を食いしばってその辛さに耐えて頑張り続けた。
『……うそ』
合格発表の日。
直前判定では50%という、なんとも微妙な結果。試験と面接の手ごたえは最悪。自己採点は、ぎりぎり不合格。
本当にそんな微妙な状況の中、張り出された合格発表の紙に自分の受験番号が書かれていた時は、思わず涙した。
『合格できたのは、お父さんのおかげだと思う。ありがとうね』
父へ向けたその言葉は社交辞令ではなく、本心だった。
辛かったけど、あの厳しさがこの結果に結びついたというのは、紛れもない事実だ。その父の動機は自己本位的なエゴだったのかもしれないが、それでも努力を結果に結び付けてくれた父には、自然と感謝の気持ちが向けられていた。
そうして結果を出せた私は、これから少しずつ自分の意見を主張していけると思った。父が言うような、自分の未来のための、机にかじりつくだけの勉強だけではない。
周りで困っている人たちを助けながら一緒に支え合っていくような、そんな生き方が出来るような人間になるために、必要なことを学ぶ高校生活を送るのだ。
辛くて苦しい父の抑圧から逃れられたような解放感で一杯になった。嫌で嫌でたまらなかった人形扱いが、これから徐々に無くなっていくのだと思うと、胸が晴れやかになった。
私の本当の人生はこれからなのだ。
このために、私は父の抑圧に耐えて、頑張ってきたのだ。
――でも、こんなことになるなんて知っていたら、私は……
「嫌い……嫌い、嫌いっ! 大嫌いっ! 私、たくさんやりたいことあったのに! 全然何も出来なかった! お父さんのせいだよっ!」
「碧月……」
バックミラー越しに見える父の瞳と表情が絶望に引きつっていくのが分かる。
それでも、私は止まらなかった。
「本当、最悪っ! こんな所で死ぬなら……我慢なんてしなきゃよかった! 緑陽院のチヨ婆ちゃんとお買い物に行けば良かった! アキちゃん達と一緒に全国を目指したかった! 晃太と一緒にポケモン集めたかった! ボウリングをもっと上手になりたかった! カラオケでもっといろんな歌が歌えるようになりたかった! 真紀達とお泊り会したかった! お母さんからケーキ作りを教えて欲しかった! 文化祭の実行委員だってやりたかったし、生徒会にも立候補してみたかった! 勉強以外のやりたいこと、たくさんたくさんあったのに! 全部、ぜ~んぶ……お父さんの言う通りに我慢してきたのに! これから、みんなやりたかったのに!」
「お、俺はお前のためを想って……将来、お前が幸せになるために必要だと……」
「嘘だよ! お父さん、覚えてないでしょ! あの大喧嘩した時に、私が言った言葉!」
「……?」
やはり、私にとっては親娘の縁を切る覚悟すら持ったあの言葉は、父にとってはその程度の言葉だったのだ。
分からないというのなら、今この場で改めて言ってやろう。伝わるまで、何度でも。
「私は……お父さんの人形じゃない……!」
「……」
泣きじゃくる私の声を聞いて、父の顔が更に歪む。
今更……今更分かったって、もう手遅れだよ。もう何もかも遅いよ。
「碧月。俺は本当にお前のことを愛して……」
こんな状況でも、そんな建前の薄っぺらい言葉を吐いてくる父。やはりまだ分かっていないようだ。
だけど……もういい。
痛くて痛くてたまらなかった全身の感覚がなくなっていく。無くなった痛覚の代わりに、今度はどうしようも出来ない息苦しさを感じる。肺が、酸素が足りないと激しく訴えるが、懸命に息を吸おうとしても全然呼吸が出来ない。
意識が、思考が、暗い闇の底へ沈んでいく。
ああ、死ぬんだな……と、もう目の前まで死が迫ってきているのがわかる。もうそれから逃れることは出来ないだろう。そうやって本能も生き延びることを諦めると、死の恐怖が薄らいでいき、不思議と安らかな気持ちが広がっていく。
自分の瞳から、光が失われていくのが分かる。
「碧月、碧月……頼む、聞いてくれ。俺は本当にお前のことを愛していたんだ……」
あの父が、泣きながら、やはり薄っぺらな建前の言葉を吐き続ける。その感情は私には全く届かない。
真に迫った渾身の演技で、泣きながら愛を訴えてくる父の姿。ぼやけていく意識の中、おぼろげな視界に映るその姿は、私には滑稽にしか見えなかった。
だから私は、最期に涙を流して、笑いながらーー
「ほんと……サイアク……」
『〇〇年〇月〇日〇時頃 〇〇市内から〇〇方面へ向かう道路を車で移動中、落石事故に巻き込まれて死亡したのは、〇〇県在住の峰晴さん一家だと判明しました。只今、現場では――』
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暗い。ただひたすらに暗い。それだけの世界。
ここは肉体が存在しない意識だけの世界――和輝が知っている言葉で言うと「魂」の世界とでも言えばいいのだろうか。
そこで、和輝はようやく自分が死んだということを自覚した。
――待て、待ってくれ! このまま死ぬのは嫌だ!
自分の魂以外には何もない。音すらも存在しないその世界で、和輝は必死に声なき声で叫んでいた。
――俺はそんなつもりじゃなかった! 娘に……碧月に幸せになって欲しかっただけなんだ! 本当だ!
最後の最後に分かった愛娘の本心。
自分の愛は一方通行だった。伝わっていると勝手に思っていた。だから娘も愛してくれていると自惚れていた。でも、それは全てただの独りよがりだったのだ。
碧月のためなら嫌われたってかまわない。それくらいの覚悟で娘に厳しく接してきた和輝だったが、いざその憎しみに触れてしまうと。
それは、あまりにも辛すぎることだった。
事前の覚悟など呆気なく吹き飛ばされ、愛する娘の忌憚なき感情の言葉は、和輝の心を容赦なくズタズタに切り刻んだのだった。
――頼む。やり直させてくれ。反省する。あと1度だけで良い。今度こそ、俺は碧月を……
独りよがりなどではない。今度こそ碧月本人が幸せに生きていけるような愛を注いでやりたい。自分が間違っていた。
仮に生まれ変わるとしても、別の子では意味が無い。この世界で傷付けてしまった碧月でないと意味が無いのだ。
だから、頼む。生まれ変わりではない。やり直しをさせてくれ。
もう1度、同じ家族と幸せな家庭を築きたい。
家族みんなが幸せになるためには、どうすればいいか。それを必死に考えるから。
――お願いします、神様。もう1度だけチャンスを
「第二の人生を与える」
音が無いはずのその世界で、やけに機械的で無機質な音が聞こえてきた。
それは果たして和輝の懸命な願いに応えたものだったのか。
暗いだけの世界に白い光が広がっていき、魂の世界から和輝の意識は解放されていく。
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「――っは」
意識を覚醒させたとき、まず視界に入ってきたのは眩しい陽の光。次に感じたのは背中の柔らかい草と土の感触だった。
「っく……」
遮るものが何もない直射日光に、思わず顔をしかめて、手で陽光を遮る。そうしてからゆっくりと身体を起こして周囲を見渡す。
「ここは……?」
一面に広がる草原地帯――その中にある少し小高い丘のような所に、仰向けに横たわっていたようだ。
全く見覚えのない場所だ。柔らかなそよ風が草木を揺らす、とても平和で穏やかな風景。しかしどこか非現実感のするその光景は、逆に不安になってくる。
――ここはどこだ? 少なくとも、日本ではないようだが。
「俺は、確か……」
車を運転していて、落石事故に巻き込まれた。そして落石に潰された車の中で、まだ息のあった碧月と――
「――う…おええ……」
あの最期の瞬間に娘から放たれた憎悪の感情を思い出すと、それだけで胸が締め付けられて吐き気を催してくる。それ程に、あの最期の瞬間は、辛くて苦しくて悲しいものだった。
胸と口を抑えながらえづいていると、そこでふと視線を感じる。
「カズキさん……?」
その人物は別に隠れていたわけではない。横たわっていた自分のすぐ側で座って、自分の状態を見守ってくれていただけで、単純に気づかなかっただけだ。
「だ、誰……?」
そこにいたのは知らない人物だ。見たことすらない、同年代の女性だった。
美しい絹のように流れる金髪に、鮮やかな緋色の瞳――明らかに日本人のそれではない。しかし喋っている言葉は、流暢過ぎる日本語で、その口から紡がれたのは自分のなまえに相違ない。
(待て……待てよ……まさか?)
あの絶対に助かりようがない絶望的な状況で意識を失った。そして気づけば、見知らぬ場所で、見知らぬ相手から、親しげに名前を呼ばれているこの状況。
ふと思い当って、自分の腕を動かしてみる。両手を握ったり開いたりしてみる。思い通りに動くその両手は、あの事故に合うまでのものと比べると、汚れも傷もなく、あまりにも綺麗な手。
――この身体は、明らかに自分の知っている自分の身体ではない。
知らないはずの自分の身体。そして目の前には見知らぬ外見の女性が、当然のように自分の名前を呼んでくる。
それらのことから考えられることは――
「まさか……あかり、なのか?」
元々頭の回転は悪い方ではない。それに、フィクションなどの創作物にはあまり触れてこなかったが、「生まれ変わり」或いは「転生」という概念が創作の世界で流行っていたということは、知識としては持っている。
しかし、それらはあくまで創作世界の話――現実に自分の身にそんなことが起こることなど、察することは出来ても、受け入れることは難しかった。
それでもその常識を無理やりに剥ぎ棄ててそう言うと、女性はジワリと両目に涙を溢れさせて、自分にしがみついてきた。
「良かった……良かった……カズキさん。また一緒になれて……!」
「……」
泣いて喜んでくる彼女――アカリの反応を見るに、自分の推論は的外れでは無かったようだ。
しかし、このあまりにも非常識な展開に、どう反応して良いのか分からず、何も返事を返せないでいると
「勿論、子供達も一緒よ」
泣き顔をこちらに向けて、本当に嬉しそうに言うアカリは、少し遠くの方を指さした。
するとそこには――
「お父さんっ! 俺、コウタだよ! 分かる?」
「……」
アカリと同じ銀髪赤眼の、10歳程度の男の子と、15歳程に見える少女がこちらを見ていた。男の子の方は自慢気に笑い、少女の方は気まずそうな表情でそっぽを向いていた。
見た目こそ全く異なるが、その2人は間違いなく――
「晃太……碧月……っ!」
こうして、峰晴一家は異世界に転生した。
これは、峰晴和輝という人間のやり直しの物語。
彼の、異世界で娘に捧げる第2の人生が始まるのだった。