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第19章:感情を手放す

結局、私は久保田恵美くぼた えみの家にいた。

彼女に強引に連れてこられたのだ。「寂しいから話し相手になってよ」なんて言って。彼女の両親も、いつも帰りが遅いらしい。

すべてが、あまりに急な出来事だった。彼女の態度は相変わらず強引だけれど、私はそれを拒まなかった。両親とあんな大喧嘩をして家を飛び出したのは、紛れもなく私の選択だ。私は彼女に引かれるまま、この家に身を寄せた。

「……はぁ。お湯、気持ちいいわね」

恵美さんが息を吐きながら言った。

「……そうね」

私は短く返した。

どういうわけか、私たちは一緒に風呂に入っていた。湯船に浸かり、向かい合わせに座る。

一メートルほどの距離があるけれど、私はどうしても彼女の顔を直視できなかった。

「私、情緒が不安定になると、すぐにお風呂に入りたくなるの。だから、あんたも誘ったのよ」

彼女がまた言った。

「……そう」

相変わらず、気の利いた返事もできない。思考は混濁し、先のことなんて何一つ見えない。

この先、私を待ち受けているのは何?

想像するだけで足がすくむ。このままじゃ、あの暗い希死念慮きしねんりょがまた戻ってきてしまう。

「大丈夫よ、レナさん。全部、いつかは過ぎ去るものなんだから」

私は黙って、彼女の言葉を無視した。よくないことだと分かっている。恵美さんは精一杯、私を励まそうとしてくれているのに。

不安だった。彼女はまだ、どこか底知れない恐怖を感じさせる人だったから。

深く、深く溜息をつく。

頭の中がパンパンで、指一本動かす気力さえ起きない。

生きるエネルギーが、かつてないほどに枯渇こかつしていた。

あの、変な男の子。

もし今、あいつに会えたら、私のこの心は少しは軽くなるのかな。

……なんて、バカな質問。

分かるはずがない。現実に今、私の前にいるのはあいつじゃないんだから。

「……やっぱり、レナさんは綺麗ね。覚悟しなさい!」

「……えっ?」

不意に頬に何かが触れた。ひんやりとした感触。

ぼんやりとしていた意識が、急激に現実へと引き戻される。

恵美さんの両手が、お湯の中から伸びてきて、私の両頬を挟み込んでいた。最初は冷たく感じた指先が、徐々に私の熱を吸って温かくなっていく。

「柔らかい……。本当に、どこから見ても隙がないわね。傷つけようとしたことが、今更ながら悔やまれるわ」

恵美さんはニヤニヤしながら、私の顔をぐにぐにと弄り回した。私の頭まで、彼女の動きに合わせて揺れる。

私はただ、されるがままになっていた。抵抗する気力もなかったけれど、おかげで少しずつ意識がはっきりしてくる。

「え、恵美しゃん……は、なして……離して……」

「あはは! 面白い顔!」

「……わ、私、真面目に言ってるの。お願い……離して……」

彼女は私の顔を存分に弄り倒して、満足したようにようやく手を離した。

「ごめんごめん。あんまり綺麗だから、一生に一度くらいは触っておきたいなと思って」

彼女はクスクスと笑った。

「……そう」

彼女は微笑みを浮かべたまま、とんでもないことを言い出した。

「でも、レナさん……。胸はそんなに大きくないけど、顔の美しさで全部カバーできてるわね。完璧よ」

「……そうなの?」

「ちなみに、私の方が大きいでしょ? 男の人は大きいのが好きなのよ。だから、零治れいじくんも浮気なんてしないって、確信できたわ」

「……よかったわね」

ダメだ。会話を続ければ続けるほど、私の返答は短くなっていく。思考がまた泥濘ぬかるみに沈んでいく。

せっかく恵美さんが私を歓迎して、お風呂まで用意してくれたのに。私は彼女の期待を裏切ってばかりだ。

「……ごめんなさい、恵美さん」

私はようやく、謝罪の言葉を口にした。

彼女は、しばらく沈黙した。

気まずい沈黙。けれど、彼女が次に開いた口から出た言葉は、予想外のものだった。

「……レナさん。全部、吐き出しちゃいなさい」

「……えっ?」

彼女は笑っていた。さっきまでとは違う、もっと柔らかくて、真っ直ぐな笑顔。

「私、目立つ人間が大嫌いだった。あなたのことも、顔をズタズタにしてやりたいくらい憎んでた。……でもね、昨日の倉庫であんたに想いをぶちまけた時、気づいたの。そんな憎しみ、何の役にも立たないって」

「全部出し切らなきゃ、本当のことは分からないわよ。だから、レナさん。……我慢しないで。叫びたいなら叫べばいい、何でも私に話しなさい。あんたを苦しめてる、その正体を」

恵美さんの言葉が、私の胸を激しく叩いた。

「我慢」……。その二文字が、脳内でリフレクトする。

気づけば、視界が滲んでいた。

胸の奥が焼けるように熱い。今にも爆発しそうな、どろりとした感情。

彼女の言う通りだ。私はずっと、自分を押し殺してきた。

どうやって感情を出せばいいのかさえ、忘れてしまっていた。泣くことだけじゃ足りない、もっと別の、激しい衝動。

「……他のことなんて考えなくていい。全部、ぶちまけなさい」

恵美さんが、私の肩を優しく叩いた。

鼓動が速くなる。彼女の掌から伝わる温度が、私の最後の理性を溶かしていく。

最初はためらっていた。けれど彼女の真っ直ぐな瞳に、私はついに屈した。

ずっと閉じ込めてきた「毒」が、私の体を震わせ、出口を求めて暴れ出す。

「……私は……私は……っ!」

「ええ、言いなさい!」

大きく息を吸い込む。胸に手を当て、お湯を跳ね上げる。

同時に、涙が零れ落ちた。

今までの涙とは違う。体中が燃えるように熱い。脳が、本能が、叫べと命じている。

「――完璧なんかじゃない! 完璧なんて言われるの、大っ嫌いよ!!」

喉がちぎれんばかりの声で、私は叫んだ。

拳でお湯を叩きつける。飛沫しぶきが、私たちの顔にかかる。

何度も。何度も。

私は狂ったように、湯面を叩き続けた。溢れ出すお湯なんて、どうでもよかった。

「クソ……っ!」

出し切った後、私は力なく項垂うなだれた。感情が激しく揺れ動く。

「……どうして、私が完璧でいなきゃいけないの? 成績も、競技も、全部1位じゃなきゃダメなの? 縛られて、声を奪われて……カゴの中の鳥みたいに、不自由なまま……っ!」

私は、溜め込んできた呪詛じゅそを吐き出し続けた。

「完璧じゃなきゃ、誰も私を見てくれない! 完璧じゃない私が誰なのか、私自身にも分からない! 道を見失っているのに、みんな私を『隙のない偶像』だって崇めるのよ……!」

掠れた声。けれど、私は止まらなかった。もう一度、ありったけの力を込めて叫ぶ。

「――ふざけないでよ! 反吐が出るわ! 私はただの、普通の女の子なのよ! ……あの変な男の子が、そう言ってくれたみたいに!!」

「……はぁ、はぁ……っ」

呼吸が苦しい。叫びすぎて、喉が焼けるように痛い。

先ほどの家での絶叫と合わせ、私の声はもう限界だった。

項垂れたまま、私は肩で息をする。

閉じ込めてきたすべてが、今、完全に決壊した。

ひどく疲れたけれど、不思議と胸のつかえは取れていた。

お湯は少し冷めていたけれど、私の体の熱が、残った感情を鎮めてくれるのを感じる。

「……よく言ったわ、レナさん。ようやく分かった気がする」

静かな声。お湯が溢れる音とともに、何かが近づいてくる気配。

不意に、体が前方へと引かれた。

恵美さんが、私の体を自分の方へと引き寄せたのだ。

柔らかくて、温かい感触。私の顔が、彼女の体に埋まる。

背中に、彼女の優しい手が添えられた。

「……ごめんね、レナさん。私、最低なことを言ったわ。人気者でいることの苦しさを、バカみたいに過小評価してた」

彼女の声が、耳元で優しく響く。

私は言葉を失い、ただじっとしていた。

今……私、恵美さんに抱きしめられてる。

彼女の鼓動が、私の頬に伝わってくる。

甘やかされている。そんな感覚が、私を包み込む。

気づけば、私はその心地よさに身を委ねていた。

あんなに私のことを憎んでいたはずの人が、今、誰よりも私の痛みを理解してくれている。

……人生は、本当に、滑稽で、ままならない。

けれど。

(――ああ、温かい……)

私は彼女の腕の中で、ようやく本当の「休息」を見つけた気がした。

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