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第1章:欲望を先延ばしにする

私、どうかしてる。

どうして、あの時飛び降りなかったんだろう。

自殺の計画を先延ばしにして、あいつが置いていった一缶のリンゴジュースを持って家に帰るなんて。

拾うつもりなんてさらさらなかったのに、手が勝手に動いたんだ。帰り道、それが手の中から滑り落ちるのが怖いみたいに、私は缶を強く握りしめていた。

すぐには飲まなかった。

……どうしてかな。

自分でもよく分からない。

あの男の子。あいつのことが、どうしても気になる。

空気も読めないバカみたいなやつ。目の前に、今にも死にそうな人間がいたっていうのに。

あんなに無神経に、リンゴジュースを私の頬に押し当てて。

驚いて体が跳ねた隙に、あいつはさっさと消えてしまった。

あいつのことが頭から離れない。

あんなことをした理由。そして、なぜリンゴジュースだったのか。

考えすぎて頭が痛い。そのまま、夜が来た。

「詩織。今日の学校はどうだった?」

母が、いかにも心配そうに声をかけてくる。

「成績、ちゃんと維持しなさいよ」

父が、義務を押し付けるように付け加えた。

いつもの光景だ。私は父と母と一緒に、家族として夕食を摂る。

外向きには「円満な家庭」に見えるけれど、中身は空っぽだ。

父は仕事に明け暮れ、母はモデルとしての美しさを保つのに必死。

「普通の家族」に見せるために、彼らは夕食の時間だけを捻出している。

「……順調だよ。わかってる」

私は小さく答え、味のしないオムライスを口に運んだ。

本当に、味がしない。

私たちの中には、温もりなんてこれっぽっちもないんだ。

すべてが淡々としていて、味気ない。私の人生そのものみたいに。

自分がどこへ向かっているのか、分からない。

ただ、寂しかった。この人生に、何かしらの意味を見つけたかった。

……ふふっ。人生って、滑稽だよね。でも、笑うことさえできない。

感謝すべきか分からないけれど、私の容姿は母の遺伝だ。そのおかげで、社交的な面で苦労したことはあまりない。

でも、そのせいで、私の人生は高い期待で埋め尽くされてしまった。

残念だね。私にできるのは、ここまで。

道は険しくないけれど、行き止まり。

最後に残された唯一の道は、自分の人生を終わらせることだけ……。

「ごちそうさま。先に失礼するね」

私はすぐに自分の部屋に入り、ドアに鍵をかけた。

せめてここだけは、心を落ち着かせることができる唯一の場所だから。

私の部屋は、至って普通。広くもなく、狭くもなく。

汚くもないけれど、綺麗とも言い切れない。

……え、綺麗?

机の上に、キラリと光るものがあった。

じっと見つめると、それは一缶のリンゴジュースだった。

さっき、私の自殺を思い留まらせた「何か」。

どうしてこれを持って帰ってきたのか、やっぱり理解できない。

でも、好奇心がどんどん膨らんでいく。

私はしばらく立ち尽くした。

安定していたはずの鼓動が、変なリズムを刻み始める。

そしてついに、私はその缶を手に取った。

バカみたい。本当に、バカげてる。

それでも、私は一歩を踏み出すように動いた。

手を伸ばすと、指先が少し震える。

缶はもう、冷たくなかった。

どこからどう見ても、ただのリンゴジュースだ。おかしなところなんて何一つない。

もう、好奇心を抑えられなかった。

私は缶のプルタブに指をかけた。あいつには、借りがあるんだから。

――プシュッ。

耳元で、軽やかで少し高い音が響いた。

甘い香りが、そっと鼻先を掠める。

優しくて、どこか懐かしい香り。

思わず、唾を飲み込んだ。

ためらいながら、私はその液体をゆっくりと口に含んだ。

「……っ」

何、これ。

こんな感覚、いつ以来だろう。

甘い。本当に、甘い。

砂糖や果実の甘さじゃない。もっと……「生きた」甘さ。

麻痺して死んでいたはずの私の神経を、強く叩き起こすような。

このジュースは、味気なくなんてなかった。空っぽじゃなかった。

私が毎日感じている、あの虚無な世界とは正反対だ。

二口目が喉を通る時、私は目を閉じた。

その瞬間、私の中で何かが、パキリと音を立てて割れた。

どうしてかな。涙が溢れてきた。

静かに。ゆっくりと。温かい涙が、止まることなく流れていく。

なんで、こんな風に感じるんだろう?

リンゴジュースなんていう、ただの飲み物が……どうして私を「生きてる」って気分にさせるの?

私は震える手で、頬を伝う涙を拭った。

「……最悪」

苦い声が、こぼれ落ちる。

「全部、あいつのせいだ……」

私は恨めしそうに缶を見つめた。

腹立たしいことに、あいつが近くにいるような気がした。

あの変な笑顔で、あいつはこう言うんだ。

『美味しいよ、それ』

その声が頭の中にこびりついて離れない。

こんなことになるはずじゃなかったのに。あいつ、怖い。

男の人のすることなんて、どうせ下心があるに決まってる。

苛立ち、困惑、悲しみ……そして、どうしようもないほどの好奇心。

感情がぐちゃぐちゃにかき混ぜられていく。

体が少し震え、私は缶を強く握りしめた。

そして、私は決めた。まっすぐ前を見据え、自分自身に誓うように。

あいつのことを知るまでは、死ねない。

あいつを無視することなんて、もうできない。

後悔なく死ねると思ってた。でも……今あいつのことを何も知らないまま死んだら、それこそ一生後悔する。

翌日。私はいつものように学校へ行った。

また、みんなの期待に応える「完璧な私」を演じなきゃいけない。

疲れるけれど、仕方ない。やってやろうじゃない。

「おはよう、レナさん!」

名前も知らない女子生徒が声をかけてくる。

「おはよう。今日も相変わらず綺麗だね、レナさん」

別の誰かが続く。

多すぎる挨拶。彼らは本当の私なんて、これっぽっちも知りたくないくせに。

私はいつものように、愛想よく返した。

「うん、おはよう。みんなも元気そうだね」

完璧な笑顔。柔らかな声。どこにも隙のない、美しい顔。

いつもならこれで終わり。でも今の私は、あいつを探すために校内を観察している。

特徴ははっきりしないけれど、記憶力には自信がある。

あのボサボサの髪さえ見つければ、きっと思い出せるはず。

あいつかもしれない生徒を一人ずつ確認していく。

けれど、残念ながらまだ見つからない。

いいよ。焦る必要なんてない。

あいつはこの学校の制服を着ていた。つまり、ここに通っているんだ。

一日中イメージを保ち続けるのは疲れるけれど、私は「普通」を装い続けた。

数時間が過ぎた。

授業はいつも通り。先生の質問にも完璧に答え、勉強に困っているクラスメイトに少し教えたりもした。

友達、ね。

本当の私を知る人なんて一人もいないのに、そう呼ぶのは少し滑稽だ。

みんな、ただ「知った気」になりたいだけ。踏み込んでくる勇気なんてない。

そんなことは、今はどうでもいい。

休み時間だ。捜索を再開する時間。

あいつを、できれば今日中に見つけ出したい。

まずは食堂へ向かった。

休み時間だし、お腹を空かせて何かを買いに来ているかもしれないから。

でも、食堂にあいつはいなかった。作戦失敗だ。

私は甘かった。休み時間の食堂なら簡単に会えると思ってた。

どうやら、読みが外れたみたい。

次はどこへ行けばいい?

あ……そうだ。

あのリンゴジュース。あいつ、どこで買ったんだろう。

どこだって探してやる。あんな風に私の自殺を邪魔しておいて、簡単に逃げ切れると思わないことね。

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