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第16章:行方不明の人物

きずなさんの家を辞したあとも、私の一日はまだ終わっていなかった。

雨が上がり、私は家路についた。けれど、辿り着いた扉の向こうに待っていたのは、いつもの冷え切った静寂だけだった。

夜になると両親が帰宅し、形だけの夕食を共にする。それが「家族」として行われる唯一の儀式。それが終われば、そこにはもう家族の欠片かけらさえ残らない。

「……ただいま」

小さく呟く。

迎えてくれる声はない。絆さんの家とは違う。あそこには、叔母さんという確かな「温もり」があったのに。

(……この人たちは、一体どれだけ忙しいっていうの?)

そんなことばかり考えてしまう。寂しくないなんて言えば、それは嘘になる。心の奥底では、私だって家族の温かさを求めていた。

けれど、そんなものを手に入れられるはずもなかった。父の口癖は「忙しい」。母が口にするのは、魂の籠もっていない「ごめんなさい」だけ。

唯一、彼らが私に興味を示すのは、私が「良い結果」を出した時……彼らの高い期待に応えてみせた時だけ。でも、そんな薄っぺらな称賛なんて、もう聞き飽きていた。

ずっと前から気づいていたんだ。彼らは自分の娘なんて見ていない。ただ、自分たちが作り上げた「完璧な偶像アイドル」に執着し、さらなる高みを要求し続けているだけだって。

私の言葉は、彼らには届かない。私は「黙らされている」のと同義だった。本当の「レナ・シオリ」には、喋る権利なんて与えられていない。

――『黙って、完璧でいなさい』

そんな呪いの言葉が、頭の中で何度もリフレクトする。抗うことなんてできなかった。だから私は、みんなが望む「完璧な自分」を必死に演じ続けてきた。

悔しいけれど、今の私はまだその仮面に縛られている。自由を奪われ、息苦しい檻の中に閉じ込められている。

人生の目的を見つけるまでは、彼らの期待を裏切る勇気さえ持てなかった。

(……人生の目的、か)

今の私には、そんな大きなものはない。

あの変な男の子に恋をすることだって、人生という長いスパンで見れば、ただの短期的な目標に過ぎないのかもしれない。……彼と結婚するなんて、今の私にはまだ想像もつかない遠い未来の話だ。

不安になる。

もし、あいつを振り向かせることができなかったら?

何度も、何度も自問自答しては、その恐怖に震える。

たくさんの男の子たちが私の外見に、この母譲りの「顔」に執着してくるけれど……それでも私は、自分に自信が持てない。

あの変な男の子だけは、私の顔になんて興味を示さない。これまでのやり取りの中で、あいつが私に特別な関心を抱いているようには見えなかった。

「綺麗だ」と言ってくれたことはある。でも、それはただ私を慰めるための、あいつなりの配慮だったんだ。心の底では、あいつは私のことをただの「邪魔者」だと思っているに違いない。

もし本当にそうなら、私にはもう生きている理由なんてない。

あいつが私を助けたのも、私を想ってのことじゃなく、ただの道徳的なジレンマのせいなんだから。

(……今夜、屋上の鍵は開いているかしら?)

なぜか、今すぐあそこへ行きたい衝動に駆られる。もう、決めてしまった方が楽になれるんじゃないか。

視界が、ゆっくりと霞んでいく。リビングの真ん中で立ち尽くしたまま、私は自分の手が、制御不能なほどに震えているのを見つめていた。

ダメ。揺らいじゃダメ。

――パチンッ!!

私は自分の頬を思い切り叩いた。意識を強制的に引き戻すために。

「……あら? 詩織しおり、どうしたの?」

頬を叩いた直後、背後から声がした。

弾かれたように振り返ると、そこには母が立っていた。困惑した表情で私を見つめている。

最悪。この人の、この「心配してるふり」が私は大嫌いだ。

私はその場に立ち尽くした。体が小刻みに震え、額から汗が流れ落ちる。

抑えてきた感情が、もう限界だった。

何年も、何年も閉じ込めてきた「何か」。自分でも正体の分からないドロドロとしたものが、喉元までせり上がってくる。

(私が本当に求めているものは、何?)

答えが出ないなら、死んだほうがマシだ。

消えかけていた死の毒素が、再び私の全身を侵食し始める。

「詩織、どうしてお母さんを無視するの?」

また、あの声。私は耳を両手で塞いだ。

「詩織、お母さんを見なさい!」

聞きたくない。

「どうしたの、詩織?」

うるさい。

「そんな姿、ちっとも自慢できないわ。完璧じゃないわよ」

「――うるさああああああああいいい!!!」

耳を塞いだまま、私はありったけの声で叫んだ。

そのまま崩れ落ちるように、こうべを垂れる。

……ああ、せいせいした。やっと、吐き出せた。

近所中に響き渡るような絶叫。

母親に声を荒らげるなんて、許されることじゃない。でも、私は止まらなかった。この人は、娘に一度だって「愛」を注いでくれたことなんてないんだから。

「……詩織!?」

母の掠れた声が聞こえる。

目の前にいる「完璧な娘」が、今、無惨にも崩れ去り、無数の亀裂を露呈させていることに動揺しているんだろう。

ずっと耐えてきた。この人の望む「私」を演じ続けてきた。でも、もう限界よ。

私は震える体を引きずりながら、すべてをぶちまける準備をした。

「……私? 完璧? ……何を言ってるの?」

絞り出すような、低い声。

「詩織、どうしちゃったの? あなたの完璧な姿はどこへ行ったのよ!?」

……呆れる。本当に、救いようがない。

私がこんなにボロボロになって叫んでいるのに、この人はまだ、私の中に「完璧」を探している。

「……うるさいって言ってるのよ。完璧、完璧って……うるさいのよ!!」

喉が焼けるように痛い。それでも私は、最後の一言を叩きつけるように叫んだ。

肩で息をする。頭が割れるように痛い。喉はカラカラに乾ききっている。

思考は混濁し、苛立ち、怒り、絶望、悲しみが混ざり合い、真っ黒な感情の渦となって私を飲み込んでいく。

「……し、詩織、本当のあなたを見せなさい。あなたは誰なの? 私の娘は、こんな子じゃない……!」

視界が真っ暗になりそうな中、誰かが私の肩を掴んだ。

俯いたまま、半開きの目で、私は無理やり視線を上げた。

そこには、一番見たくなかった顔があった。

過剰なほどに塗り固められた、母のメイク顔。

この人は、私がメイクをしていると本気で信じ込んでいる。私は一度だって、そんなものしたことないのに。

この人は、どれだけ自分自身を疑い、虚飾きょしょくの中に生きているんだろう。

正直、今の母の顔は化け物みたいで恐ろしかった。

吊り上がった眉。私の肩を激しく揺さぶりながら、失われた「完璧な娘」を求めてわめき散らしている。

「早く言いなさい! 本物のレナ・シオリはどこにいるの!?」

必死ね。滑稽なほどに。

……お母さん、教えてあげるわ。

これこそが、本物の「レナ・シオリ」よ。

今、あなたの目の前で泣き叫び、怒り狂っているこの醜い少女こそが、あなたの娘なの。

母が絶叫を続ける中、私は静かに、満足感に満ちた笑みを浮かべた。

私の中の何かが、暗い悦びに震えていた。

(――ほら、見て。これこそが、本当の私よ)

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