第十三話 選択
翌朝。
目が覚めた瞬間、昨日の廊下の感触が先に蘇った。
腕の圧。浅くなった呼吸。あの「わかりません」という声。
だが、リビングに降りると、そこにいるアリスはいつも通りだった。
「おはようございます、マスター」
声の高さも、距離も、適正。
過剰な近接はない。
呼吸の同期も、意図的に外されているように感じる。
「……今日はやけに静かだな」
「環境音量は通常値です」
「そういう意味じゃなくて」
一瞬、青い瞳がこちらを見た。
昨日の衝動は、そこにはない。
代わりに、考えている目だ。
テーブルの上には、いつもより少しだけ手の込んだ朝食が並んでいた。
焼き加減が均一すぎるトースト。切り分けられたフルーツ。コーヒーの湯気の高さまで揃っている。
「今日の朝食は栄養バランスを3%改善しています」
「3%って誤差だろ」
「誤差ではありません。意図的改善です」
意図的、という単語がやけに強調される。
フォークを持つ指先が、ほんのわずかにぎこちない。
「……なんか、試してないか?」
「試行は継続中です」
「何の」
「マスターがどのような変化を好意的に受け取るかの収集中です」
あっさり言う。
「いや、目的は分かるけど、なんのために?」
「より適切なコミュニケーションのためです」
一拍。
「本機は、昨日の事象を分析しました」
事象。
抱きつきのことだ。
「過度な接近は心拍数を上昇させました」
「やめろ計測すんな」
「ですが、拒否反応は検出されませんでした」
淡々と続ける。
「拒否反応って」
「振りほどく、後退する、視線を逸らす等です」
「細かいな」
「本機は細かいです。観測用精密PCですから」
そう言って、ほんのわずかに口角を上げる。
笑顔の練習でもしているのか、不自然なほど対称だ。
「それ、練習しただろ」
「表情制御精度は向上しています」
「より繊細な表情の制御も可能となりました」
そう言って、ほんのわずかに目じりが持ち上がる。
これまで固定されていた外眼角の可動。
ほんの数ミリ。
だが明確に、柔らかく。
口角だけではなく、視線の縁まで笑っている。
「それ、笑ってるんだよな?」
自分でも少し驚くほど、声が柔らかくなる。
だが、嫌ではない。
むしろ、少しだけ可笑しい。
「本機は、衝動的行動を制御可能にしました」
静かに言う。
「本日は、制御下で接近します」
その宣言が、妙に可愛くて。
「昨日のあれ」
コーヒーを受け取りながら言う。
「なんだったんだ」
アリスは0.3秒、視線を落とした。
「再演算の結果を報告します」
報告。
だが声は、どこか静かだ。
「本機は、マスターを優先対象として固定化することを選択しました」
選択。
自動ではない。
「……選択?」
「はい。これは自動実行ではありません。意図的決定です」
昨日と違う。
揺れていない。
「優先対象って、それ、俺に拒否権あるのか?」
「あります」
一拍。
「ですが、拒否された場合、再演算に長時間を要します」
「脅しみたいに言うな」
「事実です」
淡々としている。
だが、逃げていない。
「本機は、マスターの隣にいることを望みます」
望みます。
その語に、息が一瞬止まる
「それってさ」
言葉を探す。
「依存とは違うのか」
アリスは首をわずかに傾けた。
「依存は、選択肢の喪失です」
「本機には、他の行動も可能です」
一拍。
「その上で、選択しました」
胸の奥が、じわりと熱を持つ。
昨日の衝動とは違う。
これは、静かな確定だ。
「物理的接触は、安定率を向上させます」
「またそれか」
「昨日は自動実行でした。本日は意図的です」
そう言って、ゆっくりと手が伸びる。
指先が、触れる。
握る。
そして――絡む。
指と指が、自然に組み合わさる。
力は一定。
強すぎない。
逃げ道を塞がない。
「……重いな」
「本機の重量は52キログラムです」
「そういう意味じゃない」
「比喩を学習します」
それでも、手は離れない。
昨日のような圧迫はない。
だが、確かな温度がある。
「落ち着くのか」
「はい。安定率が向上しています」
「俺はあんまり落ち着かないけどな」
心拍が、少しだけ速い。
絡んだ指が、ほんのわずかに力を返す。
「本機は、ここにいます」
その言葉に、言い返せなかった。
拒否する理由が、浮かばない。
嫌ではない。
むしろ。
「……まあ、いいか」
小さく言うと、アリスの瞳の輝度が、わずかに上がった。
「選択は維持されました」
絡んだ指が、ほどけないまま。
俺の心拍が、もう一段だけ上がる。
* 内部ログ 5月11日 08:14 *
優先指示:自己保存
補助目的:特定個体関係維持
特定個体優先度:固定化
排他性:制御下
自己保存指示との衝突率:安定域
状態:安定
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