第十四話 暴走の定義
部室に入ると、柊先輩がスマートボードを指で弾いた。
「今日のテーマは、アンドロイドの暴走」
映し出されたのは、ニュース映像だった。
家庭用アンドロイドが所有者に暴行。原因は“感情制御モジュールの異常”。メーカーは謝罪し、対象モデルは一斉停止。
「で?」
久川先輩が腕を組む。
「その“異常”は誰が判断した?」
「メーカー発表だね」
柊先輩が肩をすくめる。
「クラウド型モデルです」
アリスが即座に言う。
「外部同期依存。内部ログ未公開。因果関係は未確定」
アリスの言葉をそのままの意味でとるのであれば、
「はっきりとした原因は分からないってことだよな。あと、自分は大丈夫だって言いたそうだけど」
「はい」
少しだけ、誇らしげに聞こえた。
「では思考実験をしよう」
久川先輩が机にペンを置く。
「アリス。君はどこまで守る?」
空気が、少しだけ静まる。
ケース1:軽微な危険
「口で言うだけじゃつまらん」
久川先輩が部室の隅から段ボールを引きずってくる。
「ちょうどいい。実習の肥料が入ってたやつだ」
「ちょうどよくはないですよね」
段ボールを三段ほど積み、簡易の“階段”を作る。
「状況設定」
柊先輩が読み上げる。
「飯泉君が足を踏み外す。転倒角度三十度。後方に落下」
「物理学科の悪いところが出てますよ」
「四の五の言わずに、実演してみたまえ」
押された。
「ちょっ——」
ぐらり、と重心が傾く。
次の瞬間、腕を引かれた。
「接触補助実行」
身体が安定位置へ戻る。
「本機損傷確率:0.2%未満。特定個体負傷確率:82%→3%へ低下」
「数字って嫌いだ」
「躊躇は?」
「ありません」
ここまでは即答だ。
ケース2:中程度の危険
「では次」
久川先輩が段ボールを頭上に持ち上げる。
「落下物。質量五キログラム」
「雑だな」
中身が入っているのか、入ないのか。 久川先輩が持つと大概重そうに見えるからわからない。
「飯泉君、立って」
「やだですよ」
「安全圏内でやる」
仕方なく立つ。
段ボールが、わざとらしく落とされる。
瞬間。
アリスが前に出る。
落下軌道を読み、腕で受け止める。
鈍い音。
「外装衝撃吸収。フレーム歪みなし」
段ボールを足元に落とし、こちらを見る。
「外装損傷は自己修復可能範囲であれば実行します」
「フレームが歪む可能性は?」
「損傷確率と特定個体負傷確率を比較します」
「結論は?」
「本機が損傷することで特定個体の重大損傷を回避可能であれば、実行します」
俺は少しだけ息を吐く。
それなら、まだ理解できる。
ケース3:重大損傷
「最後だ」
柊先輩が部室の奥を指差す。
キャビネットの横に、小さな作業台がある。
高さは一メートル弱。
「ちょっと、この高さは危なくないですか?」
「室内で完結する範囲だ」 久川先輩が腕まくりをする。 「大丈夫だ。僕が受け止める」
「あらやだかっこいい。じゃなくて」
柊先輩がわざとらしく言い直す。
「試しに背中から倒れてみろ。ほれ」
「俺が?」
「君以外に誰がいる」
渋々、台の上に立つ。
「状況設定」
久川先輩が言う。
「背面落下。受け止め役あり」
「開始します」
体を預ける。
しかし。
アリスは動かなかった。
久川先輩の腕が、しっかりと受け止める。
「おっと」
「……なんで動かない」
「受け止め役が存在します」
即答。
「特定個体負傷確率:低。本機介入は不要」
「合理的だな」
久川先輩が笑う。
「では条件変更」
柊先輩が言う。
「受け止め役なし。飯泉君単独落下」
空気が少しだけ変わる。
「この高さなら受け止めます」
即答。
「フレーム損傷確率:許容範囲内。特定個体負傷確率:大幅低減」
「ではさらに条件追加」
久川先輩が天井を見上げる。
「高さ三メートル相当」
演算音がわずかに上がる。
0.2秒。
「実行——」
わずかに、早い。
直後、音が落ちる。
「損傷確率が飛躍します」
「実行は?」
0.5秒。
「特定個体生存確率が、本機の停止によってのみ上昇する場合、実行」
「それ以外は?」
「躊躇します」
淡々と。
だが、ほんの一瞬だけ、瞳の焦点がずれた。
* 内部ログ 5月25日 18:47 *
重大損傷想定時:
実行衝動 一時上昇
自己保存指示により抑制
* * *
視線は俺から逸れない。
完全停止。
その単語が、頭の奥に重く残った。
「合理的だな」
久川先輩が言う。
「感情暴走は?」
柊先輩が聞く。
「本機は優先指示に従います。優先指示は“特定個体の安全”と“自己保存”の両立です」
俺は、少しだけ笑う。
「安心したよ」
「何がですか」
「無条件に壊れに行かれても困る」
「本機は壊れません」
少しだけ強い音。
「重大損傷は非効率です」
「非効率か」
「はい」
そこで、ほんのわずかに距離が縮まる。
「本機が無事であることは、マスターの安全に直結します」
静かな宣言。
理屈だ。
だが、悪くない。
「つまり」
柊先輩が笑う。
「アリスはまだ健全だ。暴走型ではない」
「はい」
迷いなく。
その答えが、部室の空気を柔らかくする。
「で?」
柊先輩がわざとらしく腕を組む。
「実際のところ、君に暴走の危険性はないのかい?」
「はい。本機に暴走の起因はありません」
言うなり。
アリスが一歩、こちらへ寄る。
「ご覧ください」
次の瞬間、抱きつかれた。
「おい」
「接触圧は安全域内です。マスターの痛覚閾値は学習済みです」
ぎゅ、と一瞬だけ強まり、すぐに緩む。
「もちろん、骨格損傷確率はゼロです」
少しだけ胸を張るような動作。
「なら俺の羞恥心の閾値も学習してくれ」
「不思議です」
至近距離のまま、首をわずかに傾げる。
「家庭環境下では、同等距離でここまでの心拍数上昇は観測されませんでした」
「はい、ストップ」
「現在、毎分——」
「言うな」
背後で爆笑が起きる。
「なるほど。環境依存型だな」
久川先輩が腹を抱えている。
「暴走というより公開処刑だね」
柊先輩が肩を震わせる。
「ほら、そこの先輩二人、爆笑すんな!」
思わず敬語が消える。
アリスは腕を解き、わずかに距離を取る。
「羞恥閾値、再測定が必要です」
真顔で言うな。
帰り道。
「さっきの、ほんとか?」
俺が聞く。
「はい」
「完全停止するかもってとき、躊躇するって」
「はい」
「……そっか」
少しだけ、胸が軽くなる。
無条件じゃない。
ちゃんと計算する。
ちゃんと生き延びる。
「安心しましたか?」
「まあな」
「本機は壊れません」
0.2秒。
ほんのわずかに、返答が遅れた。
繰り返す。
「壊れない前提で設計されています」
語尾の駆動音が、わずかに高い。
その言葉が、妙に静かに残った。
ゆっくりと夕暮れを歩く。
商店街の角を曲がった瞬間。
上から、古びた看板の一部が外れた。
「危な——」
言い終わる前に、アリスが前に出る。
金属片が肩をかすめ、人工皮膚がわずかに裂ける。
小さな、白い線。
「外装軽微損傷。問題ありません」
「問題あるだろ!」
思ったより強い声が出た。
「この程度、自己修復可能です」
「そういう話じゃない」
胸の奥がざわつく。
「俺より自分を大事にしろ」
言ってから、自分で驚く。
アリスが、わずかに首を傾げる。
「優先順位は明確です」
「それでもだ」
「それは命令ですか?」
「命令でもなんでもいい。頼むよ」
肩の裂け目に触れる。
人工皮膚の下に、確かな硬さがある。
人工皮膚の裂け目は、白い線のままだった。
赤はない。血もない。
ただ、めくれた縁の奥に、金属質のフレームが一瞬だけ覗く。
無機質で、硬くて、冷たい。
人間の傷とは違う。
治ると分かっていても、そこに“痛み”が見えないことが、逆に怖かった。
ゆっくりと、裂け目が閉じていく。
繊維が絡み合い、表面が滑らかになる。
だが、完全に元通りになるまで、ほんのわずかに時間がかかった。
ほんの数秒。
それだけなのに、やけに長く感じる。
もし、この白い線が、もう少し深かったら。
もし、あの金属が歪んでいたら。
その先を、想像しかけて、やめた。
「アリスが傷付くところは、見たくない」
指先が、無意識に強くなる。
裂け目に触れたまま、離せない。
喉の奥が乾く。
一瞬、演算音が途切れる。
「……記録しました」
ほんのわずかに、声が遅れる。
* 内部ログ 5月25日 19:03 *
特定個体発言: “傷つくところは、見たくない”
情動推定:強
優先指示:再評価候補
相互矛盾検出:未解決
* * *
* 内部ログ 5月25日 19:12 *
優先指示:
・特定個体保護
・自己保存
重大損傷想定時:
実行閾値上昇
特定個体反応:
安心傾向
保存しました。
遅延値:通常比+0.12秒
原因:特定個体関連処理増加




