14. 魔王と聖女2
*傷描写あり
「何、何が起こってるの?」
「しっ、ジゼラさん、もう少し」
温かく硬い手を剥がそうとしてもびくともしないし、背中はヴィットールの体に押し付けられて逃げ場がない。
閉ざされた視界の向こうで、高い女の悲鳴が上がって、ジゼラは体を震わせた。
よい意味で、だ。
聖女は、生きている。
「ヴィットールくん、大丈夫。落ち着いてるから、もう大丈夫」
とんとんと手の甲を叩いても、反応がない。仕方なく、ジゼラはそこを小さく抓った。
「いてて、もう、ジゼラさん。見なくてもいいと思いますよ」
「見ておきたいの」
名残を惜しむようにゆっくりと離れていった手の向こうで、魔王は、何事もなかったかのように、玉座に戻っていた。だが、初めとは違う。
「ああー! 痛い! 痛い!」
聖女は叫びながら自分の腕を抱えるようにして床に転がり、その周囲で騎士たちが微かに呻いていた。
「どうした、聖女よ。もっと回復魔法を励んだ方がよい」
「う、るっさ、やってるわよ! やってるのに、なんなの? 表面しかくっつかない、痛いーーー!」
抱えた腕に、傷はない。血痕の間に白い肌しか見えないのに、その腕の先の指は青白く動かないままだ。
「あれは、どうして。正しく魔法を使っても、魔力が足りないということ?」
「うーん、あの聖女の場合は、結論として魔力が足りないのでしょうね。回復魔法、治癒魔法、魔法はなんでも、魔力を使いますが、操作が精緻であるほど、消費魔力は少なく済む。極端に言えば、どの筋肉どの血管を繋ぎ合わせるかが分かれば、消費魔力は少なくて済む一方、人体の仕組みなど知らないまま、ただ治せと指示すれば、魔力消費は膨大になる」
「どれ、見本を見せてやろう」
気まぐれに魔王が指を振ると、聖女の声がふと途絶えた。
「あ、ああ、痛くない。よかった。よかったあああ」
すこしほっとしたジゼラの横で、ヴィットールが淡々と続けた。
「どちらに極端に偏った例は少ないでしょうね。魔王も、おそらく魔力消費を抑える具体的指示を取り入れています。どこまで知識で消費魔力を抑え、どこからどこまでを魔力で叩くか、その塩梅は意外と難しくて。結局魔族ですら、場数で体に叩き込む——と、聞きましたよ。全部、受け売りです」
「では、もう一度やってみるがよい」
魔王が言った瞬間、聖女の反対側の腕が、ぱっくりと赤く裂けた。
「あああーーーー!」
「今度は、できるであろう?」
「ふ、ざけるな! ああっ、い、たい」
泣き叫ぶ聖女を、魔王はいっそ優しい笑みを浮かべて眺めるだけだ。
「できる、とお主が言ったのだ。できるまでやれ」
「だから、やれてるって言ってるでしょおお! これだけやってるんだもの!」
「そうか。ではそのままでよいな」
魔王が指を動かす。
今度は幾人かの騎士の呻きが止まった。安堵の吐息が溢れるので、息絶えたわけではなく、むしろ。
「あ、あんたまさか、あいつらを治した?」
「治したな」
「な、なんでよ! 私も治しなさいよ!」
魔王は静かに首を傾げた。
「何故? 必要ないだろう? 回復はできていると言うのだから」
ジゼラが、聖女マールが言葉に詰まるのを見たのは、それが初めてだった。
「……………………。できてるわ。できてるのよ。痛いなんて、気のせい。気の」
「おお、修練のためには痛覚は必要だろう。そこだけは、守ってやろう」
「ああああああああ! 余計なことをすんじゃないわよ!」
「見本を、もう一度見せてやろうか? 口にした言葉を真実にするまで、繰り返す。さて、何度、切り裂かれれば回復が『できる』ようになるかな? ああ違うな。すでに『できる』のだから、簡単なことだ」
傷を治され、まだ切り裂かれる。叫びながらのたうち回る聖女を助けようとする騎士はいなかった。
誰もが、諦めを浮かべた目で眺めるだけだ。先程まで血走った目で憎々しげに聖女を見ていたはずが、怒りも恨みも通り越して、呆れているようだった。
それは、あまりに他人事の扱いで。
かつては、ジゼラに向けられていた視線だ。
「……ま「自業自得だ。嘘つき聖女め」
絞り出そうとしたジゼラの声に、誰か騎士の一人の呟きがぶつかった。ひどく醒めた声だった。
聖女は、ジゼラを誰かが責めている時、困ったような、けれどほのかに喜んでいるような、曖昧な顔をすることがあった。自分を擁護してくれることへの反応か、疎ましい相手が罵られることへの反応か測りかねていたけれど。
その回答は、ジゼラには分かりそうにない。
騎士たちが聖女を切り捨てるところを見ても、嬉しいなどと少しも思えなかったからだ。
それどころか、聖女の言うことを鵜呑みにする人々に対峙した時よりも、さらに冷たい風が胸の中に吹いただけだった。
「愚か者が」
「うっ、あー」
聖女を責めた騎士が、時が巻き戻ったかのように、再び痛みに呻き始めた。
いつの間にか、魔王がじっと騎士を見ている。
だが糾弾する声は魔王からではなく、ジゼラのすぐそばからだった。
「被害者面をしているが、自分たちが選んで信じたんだろうが。嘘つきだの騙されただの、俺は悪くないと言って責任逃れをする奴は、結局聖女と同類だってことだ。恥知らずが」
ジゼラの背に優しく手を置いたヴィットールが、険しい視線を騎士たちに向けていた。
「聖女を理由にして、自分たちに都合のいいことを信じたかっただけの、騎士のふりをした馬鹿揃いってことだ」
「な、お前、言っていいことと悪いことがあるぞ!」
「何故お前がそれを言う? 聖女を担ぎ上げて、代わりにジゼラさんを今みたいに貶してただろう。言っていいことだったんだろう? 同じことが、返ってきただけだ」
「—―!」
ヴィットールの弁舌に、魔王はうっすらと目を細めて面白がっているようだ。
その間も、聖女はただ泣き喚くばかり。
もう、まともな回復を為せないことは誰の目にも明らかなのに、決して「できない」とは認めない。その異常な頑なさの理由はわからない。だが、聖女の悲鳴に、ジゼラの心は削られていく。
止めたい。
哀れみも、同情もないが、ジゼラはもう、その苦痛の叫びも他者を責める呟きも、聞いていたくなかった。
だが、非は魔王をいきなり襲撃した聖女と騎士にあり、ジゼラの感情だけで魔王を止めれば、さらなる火種になる可能性もある。
ジゼラはただの事務官で、魔王と交渉をする立場にもなく、経験も足りない。
有り体に言えば、自信がない。
ここに、宰相がいれば。あるいは、先輩事務官がいれば。さっきからもう何度も、そこに思考が戻っていた。
問題は先送りにはできない。この場には自分しかいないのだといくら叱咤しても。
それでも、声が出なかった。
口を出したがために、事態が悪化することが、恐ろしい。
だが。
「いつの時代も人間こそが敵か。浮かばれんな、王女も」
聖女を眺める魔王がそう言って、ひとつ、つまらなそうに息を吐いたのに、ジゼラは焼け付くような焦燥を感じた。




