第十話
湖の辺りで男子生徒を見た日を境に寮内には生徒が徐々に増えてゆき、賑やかになっていった。生徒たちの浮ついたような空気は楓にも夏休みが終わり新学期が始まろうとしていることが伝わる。
久々に会う友人との会話や歓声、夏季休暇課題が終わらないという悲鳴が聞こえる中でも楓は変わらず森に足繁く通った。何度か他生徒に話しかけようと試みたものの、初日に駅で見た歓迎ムードではない生徒の表情が頭をよぎるせいで友人は一人としてできないままだった。
そして迎えた始業式の日。前日に苦労して選んだ選択制の制服ーー青色を基調とする制服を着て、楓は体育館に向かった。
普通の高等学校となんら変わりのない校長の挨拶があり、式は終了した。しかし壇上のマイクは撤収されることなく、去った校長の代わりにある人物がその前に立った。
『あー! 湖で見た男の子だよ、楓!』
楓の言いつけ通り終始静かにしていた『声』が突然声を張り上げた。不意の大声に驚き士心臓が止まる思いをした楓だったが、一番後ろの座席で誰にも気づかれなかったことに胸を撫で下ろす。
正しく制服を着こなし、明るい髪を清潔な長さに整えた男子生徒は小さな咳払いとともに眼鏡を軽く押し上げてから口を開いた。
「おはようございます、風紀委員二年生の北條です。新しい学期が本日から始まりますがいくつか風紀委員から注意とお願いがありますーー」
『あれ? 日本語ペラペラだね?』
風紀委員だと名乗る男子生徒ーー北條と楓が出会った日、彼の髪色を見て日本語がわからないのだろうと判断していた『声』は不思議そうな反応をした。
『じゃあなんであの日、ほーじょーくんは楓に返事しなかったんだろう?』
「そんなこと気にしなくていいのよ」
呼吸をするのと変わらないくらいの音量で『声』に返事をして楓は椅子に座り直す。そう、気にしなくていい。彼は二年生で今後関わり合いはほとんどないはずだし、別に返事してもらえなかったことを気にしているわけではないと思ったが故の返事である。
そもそも楓の人生において自ら人に話しかけること自体が滅多にないことであったため、返事があろうとなかろうとそこは重要ではなかった。しかし、彼女自身は目線を逸らされ、半分逃げられるように去っていかれたことを未だに無意識に気にしていることに気づく由もない。
「……以上です。ありがとうございました」
パチパチとまばらな拍手が起こる。礼をして舞台から降りてゆく北條を生徒全員が目で追った。こそこそと聞こえる話し声。
「やっぱり北條さんかっこいいよね」
「そうかな、私はあの眼鏡が無ければって感じだな」
半分盗み聞きのような形で前に座る女子生徒たちの好みを知ることになったが、体育館を出る頃には楓の記憶には残っていなかった。
*
「永井さん」
中学と共通の高校校舎に足を踏み入れた時、誰かが楓を呼び止めた。振り返るとネクタイを締め、ひょろりとした、しかし特徴のない平凡な顔の中年男性がいた。生徒名簿を持ち、男子生徒を一人連れて楓のいる方へと歩み寄って来る。
「始めまして永井さん。担任の今井恭弥です。教室に入る前に君を見つけられてよかった」
そう言って差し出された手を楓はおずおずと握り、握手を交わす。担任教師はにっこりと笑って隣に立つ生徒を指さした。
「ここにいる原田くんも永井さんと同じで今学期からの転校生なんだ。高校生にもなって二人も、しかも同時に転校してくるなんて珍しいからなんだか僕は嬉しいよ」
そう紹介されたやんちゃそうな短い茶髪の男子生徒は楓をまじまじと見つめている。挨拶でもするのかと思い待っていた楓と今井だったが、しばらくたっても口を動かすでもない彼に肩をすくめた。
転校生らを教室へと先導する今井は楓らに自己紹介をしてほしいと告げた。人と話すことさえも得意でない楓はこれを聞いた途端嫌な顔をしそうになるのを必死にこらえた。原田と呼ばれた男子生徒はずっとちらちらと楓を見ていたが、自己紹介をすると言われたそばからブツブツと何かを呟きだした。どうやら練習をしているらしく、その様子をおかしく思ったのか『声』が楽しそうに笑った。
第二国立稀代学園高等は各学年にクラスを一つずつしか設けなくてもよい程に生徒数が少なく、そのクラスも三十人に満たないことがほとんどだ。つまり高校生のクラスは計三教室、中学生と合わせても六教室となる。そのためか、三人が入って行った教室にある札も「高校一年」という簡素なもので、この学園に組という概念がないことを物語っていた。
楓が寮で聞いたものと同じ類の賑やかさで満ちた教室は三人が入ると水を打ったように静まった。せかせかと各々の座席まで行き、ガタガタと椅子を引く音とともに三十人程の生徒が一斉に着席する。
今井は教卓に手をつき、クラスを見渡してから口を開いた。
「おはようみんな、夏休みは満喫できたみたいで何よりだ。とまあ挨拶は置いておいて。始業式のときに気づいた人もいるかもしれないけど、今学期からここにいる二人がクラスメイトとなる。じゃあ君から自己紹介よろしく」
と肩を叩かれたのは、先ほど今井に原田と呼ばれた生徒。直前までぶつぶつと練習していた原田を知る楓と今井は、本番彼がどのように話すのかを期待していたのだがーー
「ち、ちわっす!! 俺は原田輝幸! 高校入学して早々に転校になってまじでビビったんすけど、皆さんめちゃくちゃ仲良さそうっすね! 国立校ってなんかお堅そうなイメージあったら安心したあ……。魔法とか全然わからないけど、とにかくよろしくお願いしまっす!」
なぜか右手を挙手して自己紹介をし、話し終えるとかばっと頭を下げた。中身がありそうでない、己を紹介できてそうでできていない自己紹介に担任と女子生徒たちは頭を抱えた。
しかし直後、男子生徒には受けがよかったらしく、教室内は歓声に包まれた。椅子から立ち上がって拍手する者もいる。クラスの反応に原田は満更もない顔で頭を掻いた。
予想外の自己紹介とクラスの反応に目を白黒させながら、今井は楓に自己紹介をするよう促した。男子生徒たちの浮ついたままの空気を気にすることなく、楓は当たり障りのない、平凡とも言える自己紹介をした。楓のごく普通の自己紹介に安心したのか、女子生徒たちに安堵している様子が見える。
自己紹介を終えた二人は担任に指定された一番後ろの座席についた。クラス全体がちらちらと後ろを振り返り、珍しい転校生がどのような人物なのかを窺っている。
『原田くん面白いね、自己紹介してた? みんなも楽しそうだなあ、ここでなら楓にもお友だちできるんじゃない? 例えば、柚ちゃんみたいなさ』
「……そうだといいけど」
ぼそりと呟くように返事をした楓の胸が少し傷む。卒業するまでの約三年間、柚を思い出す度に憂愁に染まることになるのかと思うと自分の決意と精神面の弱さに呆れ、思わず俯いた楓を膝の上の手にはめられた青緑色の指輪が楓を見上げていた。
「さて二人がクラスメイトに加わって、課題も今集めたな。今日のホームルームは終わりだ。というか、今日の授業は終わりだ」
「えっ?! 終わりっすか?!」
楓の隣に座る原田が大声で反応すると、教室中にくすくすと笑い声が広がる。苦笑いを返した今井だったが、すぐに何かを思い出したようにニヤリと笑った。
「安心しろ、原田。お前と永井さんは今日、30分後から魔法基礎の授業があるぞ。この後3階の魔法実習室まで行って担当の教師が来るまで待っていてくれ」
「ぅえ、授業あるんすか?!」
どっちなんだよ、と笑う今井。頬を緩めたままの彼が名簿を机に立てたのを合図に日直の号令がかかる。それ合わせて全員が席を立ち、礼をした。
今井が発した「魔法基礎」という言葉以外に魔法使いを取り扱う学校らしさは見当たらない。全員の指に光る天然石の指輪と腰にある革製のポシェットだけが唯一の違いだと言えた。
担任が出て行った教室には賑やかな声が戻ってきていた。生徒たちは談笑しながら寮に帰る準備をしている。しかし楓の行き先は先ほど告げられた「魔法実習室」だ。特に何が入っているでもない鞄を持ち、その足を出口に向けたのだがーー
「永井さん……だったよね、お名前?」
前に回り込むように女子生徒3人が立ちはだかり、楓は足を一歩踏み出すこともできなかった。声をかけてきた3人の表情が読めず、楓は困惑しながら頷く。前の高校では入学早々楓が気に入らないと言い放ち目の敵にするような態度をとった者ーー例の二つくくりの少女であるーーがいたので、どこか不安を覚える。
しかしそれは楓の杞憂に終わる。
「永井さんの髪の毛、すっごく綺麗だね! 私思わずうっとりしちゃった!」
「あ、ちょっとあんた抜け駆け! でもほんと、こんなに綺麗な黒髪ロングとか超あこがれるー」
楓にかけられた言葉は、本人には予想だにできなかったものだった。突如髪を褒められた楓は思わず口から間の抜けた声を出す。
「……え?」
ぽかんとしたままの楓を近くで見ようと詰め寄ろうとする二人。しかしその二人を引き戻したのは3人組の内の残りの一人。
「ごめんね永井さん、挨拶もなしに。こいつらいつもこんな感じで……」
「「こいつらって何よー!」」
盛り上がってゆく3人を中心に人が集まってゆく。皆が笑顔で楓に近づき、「これからよろしく」、「仲良くしてね」と声をかけてくる。これほどまでの人数に囲まれた経験がない楓はその光景に目を見張った。
「ほら、あんまり二人がぐいぐい行くから永井さん困っちゃってるじゃん」
「い、いえそんなことは……!」
二人の少女が責められそうになるのを楓は必死に止めた。楓としても困ったというよりも驚いたのだから誤解は解かねばならないと思ったからだ。
「お二人は何も悪いことはしていないです。私がただこうやって人に囲まれることに慣れていないもので、少し驚いてしまって……。あの、みなさんこちらこそよろしくお願いします」
深々と頭を下げた楓にその場にいる全員が目を丸くした。しかしすぐに親し気な笑顔の戻り、歓迎を示す言葉を口にした。
それを聞きそろそろと顔を上げた楓に飛んできたのは、ムードというものを知らないような叫び声だった。
「永井さーん! 実習室一緒に行こうよー!」
声がした方を全員が振り向くと原田が教室の入り口で嬉しそうに足踏みをしていた。その様子はまるで散歩に行くぞと告げられ居ても立っても居られない犬のようだった。
「調子いいなー、あいつ」
「でもどこか憎めないオーラが出てる」
壁にかけられた時計の針はいつの間にか担任に指定された時間の5分前を指していた。原田の待つ教室の扉まで行こうと慌てた楓に生徒たちは道を譲り、手を振った。ぺこぺこと会釈をしながら出て行く彼女を全員が微笑ましく思い、笑顔で見送る。
静かになった教室に残された誰もが心中で、もしくは声に出して呟いたのだった。
「永井さん、綺麗なのに可愛い……」




