第九話
広々とした食堂はいかにも「食堂」という雰囲気が漂っていたが、食事をしている生徒は誰一人としていなかった。時間が遅かったのもあるが、何よりの理由は学生の帰省だろう。
白衣を着た中年の女性スタッフに「本日のメニュー」であるチキン南蛮を頼み、楓はそれを黙々と食べた。家で食べる食事と負けず劣らずの味に彼女は驚いた。
食事を終え、食器を下げた楓の前に再び大内が現れた。
「どう?美味しかったでしょ?峯岸さんの料理めちゃくちゃ美味しいからね。ねー、峯岸さーん?」
厨房の奥に大内が叫ぶと、こだまのように「褒めないとくれよ恥ずかしい!」と満更でもなさそうな答えが返ってきた。しばらくして照れ笑いを隠し切れていない食堂スタッフが表に戻ってくる。
「でも今日で峯岸さんも終わりでしょ?夏休み?」
「そうそう、今日の夕食分までで街に戻るのよ。私が休みの間はキッチンをよろしくね、亜貴ちゃん」
そう言い残し、楓と大内に手をひらひらと振って出て行ってしまった。慌ててペコリと頭を下げた楓をクスクスと笑う『声』が楓には聞こえた。
「学生もスタッフさんも帰っちゃうのよ、夏休みって。でも今年は楓ちゃんがいるから寂しい思いしなくて済みそう!」
「私、大内さんを楽しませられますかね……」
なにかを期待されている気がした楓は思わず一歩足を引いて返事をした。そんな楓に首を横にぶんぶんと振って見せた大内は優しい笑みを見せる。
「いてくれればそれだけで嬉しいのよ、楓ちゃん。……でも楓ちゃんはいるだけじゃあ楽しくないでしょ?だからほらっ、これ!」
大内がテーブルにどさっと置いたのは数冊の冊子とプリントの束。どれにも『夏季休暇課題』と印字されている。
「んー、宿題も別に楽しくはないか……。でもやることはあった方がいいかなと思ったんだけど……、どう?先生方から預かってるんだ。全然強制じゃないらしいし、やりたくなければやらなくてもいいみたいだったけど……」
この学校の課題ができるというのは楓にとってはとても好都合なことだった。各教科の進度もわかるので二学期の準備もしやすくなるだろう。
「ありがとうございます、是非やらせてください」
楓は少し重量のある書類をテーブルから持ち上げて礼をした。楓は至って真面目な生徒であり、世間一般で言う優秀な成績をとるような学生である。新しく始まる学園生活においても勉学を疎かにするつもりはなかったので心の底からの礼であった。
楓は食堂を出て大内と別れ、自分の部屋に戻った。受け取った課題を机に置いたところで飴を食べていないことを思い出した。
「早速忘れるところだったわ」
『宿題に気を取られてたでしょ、楓』
かもね、と答えて飴を口に含んだ。昨日のような体に染みるような甘さはなかったが、優しい甘さを感じながら課題表に目を通した。
「あら、どれも普通の課題ね。進度もほとんど前の学校と同じ……。魔法の課題とかもあるのかと思ったけれど、課題一覧表にも書いてない……」
『書いてたところで楓はその課題できるの?』
楓は少し考えるような仕草をしたが、すぐに頭を横に振った。
「……もちろんできないわ、何の知識もないもの」
飴を口内で転がしながら、昼食の間放りっぱなしだったトランクを開く。中身をある程度クローゼットにしまい終えるとそのまま机につき、数学の課題を開いた。
「今日は午後からだし、10ページできれば上出来ね」
『え、もう?!今からやるの?!夏休みって長いんでしょ、ねーねー僕森見に行きたいんだけどー!』
問題集の最初の設問を読みながら楓は返事をする。
「行きたいなら一人で行けばいいのに……。もちろん毎日一日中部屋に籠るつもりではないわ、ある程度学園内の散策もしたいもの。そうね……、じゃあ毎朝散歩するっていうならどう?宿題の合間に行くのもいいかもしれないし」
勝手に机の端へ転がって行こうとするペンを手で押さえながら楓は『声』に提案した。
『それなら……うーん、いいけどさぁ?今日は初日なんだからいいじゃーん!ね、行こう?』
「初日だからよ、今日はたくさん電車に乗って疲れたの。もう歩きたくないのよ……」
ぶーぶーと文句を言う『声』だったが一人で森に行くわけではないようだ。あくまで楓と行きたいのだろう。楓がもくもくと課題を進め始めると『声』は大人しくなり、しかし時折楓に話しかけながら彼女の手が空くのを待つのだった。
日が暮れる頃、ようやく楓は課題から顔を上げた。できれば上出来だと言っていた10ページを終わらせ、夕食のために部屋を後にした。彼女が勉強している間比較的大人しくしていた『声』はその反動のようにひたすらに話していた。
部屋に戻り、寝る支度を済ませた楓はベッドに横たわった。家のものとは違う匂い、違う反発のベッドで眠れるかどうか不安に思っていたはずだったが、濃ゆい1日の疲れが彼女に眠気を運んだ。『声』の『明日は森に行くんだからね!』という張り切り声を聞きながら楓は眠りについた。
*
次の日から楓は『声』への提案通り毎朝散歩に出かけた。森から香る木々の匂いと朝の澄んだ空気の混ざる風が吹く、森に続く小道を楓は歩いた。森に入り、しばらく進むと現れる開けた場所に木製のベンチがあり、そこに小一時間座って過ごすことがいつしか楓の日課となっていた。学園内を散策していても最後には森に戻ってきてしまうほど、気に入ってしまったのである。
『ここを楓が気に入ってくれたのうれしいなぁ、毎日来れて僕も楽しいよ。最初は全然乗り気じゃなかったのにね』
くすくすと笑う『声』に読んでいた小説を閉じて楓が返事をした。
「木陰と木漏れ日がとてもいい具合にあって、空気もとてもいい……、夏であることを忘れるほどに爽やかで快適なんだもの。というか、別に乗り気じゃなかったわけじゃないって言ってるじゃない、あの日は疲れてたのよ……」
楓の頭上から聞こえる『声』のくすぐり笑いとともにざあっと風が吹き、辺りにある木を揺らした。膝の上に落ちてきた葉を払い、楓はベンチを後にして食堂に向かった。
寮に入ってしばらく経ち、ある程度学園内を回り終えた楓だったが、大内以外に人と会うことはなかった。初日から学園内の散歩と食事以外にはあまり部屋の外には出ないのもあるが、やはりどの学生も教師も夏休みを利用して街に戻っているのだろう。しかしあまり人付き合いに慣れていない楓にとって、それは重要なことではなかったことは言うまでもない。
課題が大方片付いてきた頃、楓は自宅に送る手紙を書いた。母や祖母にに向けた文を書くか悩んだが、話すこともままならない相手に何を書けばいいのか数日熟考し、結局久保にのみ当てることにしたのだった。
指輪のこと、課題のこと、寮の裏の森や湖のこと、受付の前を通る度に声をかけてくれる大内のこと、彼女が峯岸の代わりに作る食事も遜色なく美味しいこと。つらつらと書き連ねた文は楓が久保に託した柚への手紙の行方を尋ねた文で終わった。楓は封筒に便箋をしまい、寮の外にあるポストに入れた。
「家族にお手紙?いいねー」
受付から大内の声が聞こえた。楓は少し困ったように笑い、訂正する。
「家族……というよりも執事の方当てなんですけどね」
「し、しつじ……!?」
楓の言葉に大内は目を見張った。しかし楓のこの返事で、楓の家柄や家族との距離、謙虚で一歩下がった立ち位置で話す理由が見えた気がした。ぺこりと頭を下げて自分の部屋に戻る楓を見送りながら、大内は彼女に話しかける時間を少しずつ増やしていこうと決めたのだった。
手紙の返事は1週間と経たないうちに楓の元へ帰ってきた。久保は達筆な縦書きの文章で楓の新たな生活への期待と幸運を祈っていた。久保に託された柚への手紙は転校の手続きで楓が元いた学校に足を運んだ際に、柚の担任に預けられたという。久保ならばどこに柚の家があるかを調べ上げられただろうが、住所を知らないはずの楓から手紙が届くということが起こらないよう計らってくれたようだ。
ベッドに腰掛けた楓は手紙を読み終え、息をついた。体を横たえた彼女に『声』が尋ねた。
『ねーぇ、楓。指輪の人が言ってた事さ、覚えてる?』
『声』が聞こえた方向を見上げながら楓は首を傾げてみせる。
「いきなりどうしたの?……それに『言ってた事』ってどれのことかしら」
『名前のことだよー、名前!魔法使いの人たちはニセモノの名前を使うって言ってたでしょ』
「偽名ね。それがどうし……」
そこまで答えて楓はピタリと口を止めた。数秒間頭の中で考えを巡らせてから『声』への返事を再開した。
「もしかして、久保さんの名前も……ってこと?」
『やっぱりニセモノなのかなぁ?久保さんの指にも紋様があったから、魔法使いなんでしょう?』
楓の脳裏にはタクシーに乗る直前に見せられた久保の指が思い出された。『声』の言った通り、彼の指には紋様があった。しかし……
「……指輪はしてなかったわよね、久保さん」
『そこまでは覚えてないなぁ』
ベッドの上で軽く伸びをしながら思い出そうと努力したが、考えれば考えるほど記憶が正しくないような気がしてきた楓はため息をついた。
「次に手紙を出す時にでも聞いてみるしか無さそうね。名前のことも指輪のことも」
『別に急ぎの用事じゃないもんねー』
『声』に頷き、シャワーを浴びに行くために立ちあがった。夏休みもあと一週間程で終わり、授業が始まる。忙しくなる前に寮裏の森を満喫する予定なのだ。早朝の空気を楽しむため、寝る準備をさっさと終わらせてベッドに潜ったのだった。
次の日の朝、いつも通り楓は森に向かおうと寮の外へ出た。いつもと変わらない爽やかな風が吹く湖を横切ろうとした楓は、どこかに違和感を感じた。
『あ!人がいるー!!』
ジャージを着た男子生徒が湖のそばにしゃがんでいたのだ。湖の水で顔を洗っていたのだろうか、タオルで顔を覆っている。寮に入った日に駅で3人の生徒を見て以来の学園の生徒と話す機会だ。タオルで周囲が見えていない生徒を驚かせないようにと、楓は落ち着いた声で話しかけた。
「こんにちは……。あの、ここの生徒の方……ですよね?」
楓の声に気づき、男子生徒はタオルを下ろして楓の方を向いた。二人の目が合う。楓は少年の明るい茶色の目に引き込まれるような感覚に陥った。
互いに何も言わず、時が止まったかのように固まったまま沈黙が続いた。しかし木々を揺らす優しい風が時間が止まっていないことを証明していた。
『二人ともどうしたの?』
『声』が不思議そうに尋ねた途端、男子生徒は足元にある眼鏡を急いで拾って身につけた。何も言わずに立ち上がり、楓に背を向けて早足で去ってゆく。
『あーあ、行っちゃった。日本語わからなかったのかなぁ?』
「……髪の色で判断したの?染めているのかもしれないでしょう」
いそいそと寮に戻ってゆく男子生徒の髪はブロンドに近い色をしていた。顔立ちもどちらかというと日本人のものではなかったが、全くの西洋人というものでもなかった。
『じゃああの人はなんで楓に返事しなかったの?』
「……」
楓は『声』に返事をしなかった。一瞬だけ男子生徒があの日の柚子と同じ目で楓を見たのは気のせいだと思いたかった。




