9. 大樹。おはよう
夢だ。夢を見ている。
まだ生まれたばかりの大樹が父母に抱かれ、どこかへ向かっていた。たどり着いたのは見覚えのある閑静な住宅街の一軒の家。瓦葺きの家屋だった。
アルミの引き戸を開いて、姿を表したのは祖母の姿だった。
「ダイちゃん、よく来たね」
まばゆい光の中で、笑顔を浮かべる祖母が話しかける。
部屋に上がり、彼女は母親から幼い大樹を優しく抱き取ると、庭がよく見えるガラス戸に佇んだ。まだ細い若木は、突風でも吹けば折れてしまいそうなほどだ。
「今日も元気に育ってるよ」
大樹に笑いかける祖母。そんな祖母の後ろから、喜々として両手に箱を抱えた祖父が話しかけた。
「外なんて見てないで、ほら。じいちゃんのコレクションでも見てくれよ」
「そんなの、赤ちゃんの大樹に見せたってわかりませんよ」
祖母はそう笑い返した。だが、祖父はきっぱりと言う。
「いーや。大樹には分かる。いつかこのコレクションは、大樹にやるんだから。分かってもらわなきゃ困る」
そう言った祖父を、祖母は笑った。
「そんな石を集めたモノなんて、価値なんてあるんですか」
「この良さが分からんとは……全く」
口をとがらせた祖父に、父親は「僕はわかります! こんなたくさんの鉱石コレクション持ってるの、お義父さんくらいですよ」と賛同した。祖父はその発言に「やっぱりお前は分かる男だな! さすが私の娘を嫁にしただけのことはある!」と、声を上げて豪快に笑いながら喜んだ。
母親は「ほんと、男の人って……」と、困ったように笑っていた。
そんな、ありふれた幸せな家族の光景だった。
その映像は、大樹の意識が覚醒し始めるとともに、徐々に掠れて白く儚く消えていった。
「う……ん……」
うっすらと目を開けると、視界に映り込んできたのは見覚えのない天井だった。
「今の、おじいちゃん……か」
横たわったまま、夢に見た光景を思い出した。形のない何かを求めて、両腕を天井に向かって上げた。そのまま無意識に左の手首を右手で触れた。
ここに何か付けていたような気がする。だが、今はその何かが無い。
「そうだ、俺……」
慌てて前髪を右手で書き上げながら寝床から起き上がり、昨日のことを思い出す。母親の実家にいたはずが、いつのまにか理解の追い付かない“異世界”とも言うべき空間に落とし込まれていたのだ。
おまけに、魔術がどうとか、非科学的な現象まで目の当たりにしていた。結果、魔術師事務所とやらに所属することになったのだ。
「いまだに現実味がないな。当たり前か」
肩を落としながら辺りを見回した。住み込みが基本と伝えられたこの環境。大樹に与えられたのは、唯一空いていた屋根裏部屋だった。
「そのうち掃除しないとな……」
長らく倉庫代わりであったというこの部屋は、ホコリっぽくカビ臭い。倉庫代わりであった、というか未だに倉庫であり、自室というには程遠い。
大樹用に使える空間は倉庫の角に空いた6畳ほどの空きスペースに過ぎなかった。おまけにベッドも古いらしく、寝返りを打つ度にギシギシと耳障りの悪い音を立てた。飛び乗ったら壊れる可能性が高い。
理解できない状況な上に新しい環境に置かれた身だ。大樹の寝覚めはいいとは言えなかった。
「居心地の良さとは……」
おまけに一応天窓と出窓があるが、謎に巨大な箱がやたらと置かれている環境のせいか薄暗い。独り言ちた言葉は、その薄闇に飲まれていくばかりだった。
『そろそろ身支度を整えて下へ降りるべきではないか?』
ふと声が響く。キョロキョロと見回せば、中空に丸い目玉が浮かんでいる。確認するまでもない。天眼石だ。
「お前、呼んでもいないのに何で動いてるんだよ」
大樹は、ため息混じりに立ち上がる。大樹の挙動に合わせて天眼石もフワリと移動した。
『お前のことを心配してのことだ。ありがたく思え、大樹』
「あれ……昨日まで“あるじ”じゃなかったっけ」
小さな変化に浮かぶ目玉を睨みつければ、ソレは『お前など、“主”と呼ぶには器が小さすぎる。呼び捨てで十分だ』と、サラリと言ってのけた。
「そりゃ、言いたいこともわかりますけどね」
大樹はため息と一緒に言葉を吐き出してから、身支度を整える。身支度と言っても彼は鉱石コレクションと身一つでやってきたから、服装は前日と同じである。その事実に、彼は今一度溜息を一つ吐く。
それから、部屋を出ると階段を降りて階下へ足を向けた。大樹に続いて天眼石も中空に浮かんだまま、大樹の背後から彼を観察するように付いて飛んできた。
「天眼石。お前、ずっとそのまま付いてくるのか?」
『私の本来の属性は“視る”ことだ。お前というやつは、いつ死ぬともわからん。だから監視してやっているのだ』
「なんだ、心配してくれてるのか」
大樹がクスリと笑うと、小石は『フンッ。もう良い』と、吐き捨てるように声を零した。
「大樹。おはよう」
階下に降りてすぐに、仮面を付けた女が大樹を待っていたかのように立っている。彼女は階段の手すりに右手を置き、口を開いて大樹に尋ねる。
「よく眠れたかい?」
「俺の顔はよく眠れたように見えますか」
大樹の顔色は、お世辞にもいいものとは言えない。それが見えているのかいないのか、クローチェは「それはそれは申し訳ない質問だったね」と、クスクスと笑いながら言った。
「今日から色々と仕事を頼むことになるからね。よろしく頼むよ」
手すりに乗せていた右手を大樹の肩に優しくポンポンと乗せて、彼女はそう言った。
「あ……はい」
「うん。お前もね、大樹のことをよろしくね」
表情のない仮面の顔を天眼石へ向けて彼女は言う。ふわふわと浮かぶ天眼石は、『無論だ』とスカしたように言って続けた。
『いくら使えない奴でも主は主だ。助けないわけにはいかないからな』
「お前なぁ……ったく」
大樹と天眼石のやりとりに、クローチェは「頼もしいね」と楽しそうに笑う。
クローチェは続けて「そろそろ食事の準備ができてるだろうからね」と言って「ほら」と視線を食堂へと向けた。
ふと、不意に焦げ臭い匂いが鼻を打つ。
「なんですか……これ」
階段の目の前はキッチンと食堂だ。匂いの元は容易に想像できた。
「ふふ、またやったのね。あの子は。朝食、しっかり食べてから下へおいで」
無機質な仮面の向こうから、弾けるような笑い声が響いた。クローチェはそう言いながら、大樹の横を通り過ぎて階段をさらに下へと降りていった。
「ダイジュ~……」
キッチンからはモクモクと煙が立ち上っており、その前で立ち尽くすブルネットの少女がいたからだ。
「メイア、おはよう。何か焦がしたのか?」
尋ねると、悲しげな声で「おはよ」とだけ返ってくる。彼女の立つコンロの上にはフライパンが乗っていた。さらにその上には黒焦げになった何かがある。
「オムレツを作ろうと思ってたんだけど……サラダを作ってたら焦がしちゃった」
あはは、と笑う彼女の表情は頼りない。
『間抜けだな』
「おい! 無機物は黙ってろよ」
感情もなく告げる天眼石に、メイアは「返す言葉もない」と、かっくりと頭を垂れた。
「コーヒー淹れるのはうまいのに、料理は苦手なんだな」
「全然できないわけじゃないからね!」
頬を赤らめるメイアに、大樹は「まぁ、俺がやるよ」と、苦笑しながらフライパンの持ち手を掴んだ。
大樹が作ったのはオムレツではなく厚焼き玉子だった。何故かキッチンには和食用の調味料が一通り置いてあり、材料は用意できたのだ。出汁の利いたふわふわの卵に、メイアは瞳を煌めかせていた。
『人間、何かしら得意なものはあるもんだな』
「うるせぇ」
「すごい~! これって、オリエンタルの料理? ハルさんが喜びそう」
大樹は「ハルさん、ね」と昨日の個性的な文字を書く人物の存在を思い出す。
「ハルさんは、オリエンタル系の人なの。この調味料もハルさんが用意したんだよ」
大樹は「へぇ~」と言いながら、ハルなる人物に俄然興味を持った。
「俺、居酒屋でバイトしてたからね。コレだけは得意なんだ」
大樹は、照れくさそうに小さく笑う。メイアは「いざかや?」と首を傾げた。
「うーん、そういうのは無いのか。酒場、って言えばいいのかな。お酒飲む店」
「うんうん。バーのことね。バザールにある!」
どうやら遠くない場所に市場のようなモノがあるらしい。大樹は静かに、服を買いに行こうと決めた。