風町美砂の焦燥⑤ エキドナ
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美砂と桜が必死に力を込めてはいるものの、エキドナの尾は以前として力強さを失うことなくもがき続けていた。
「プチデーモン!」
「あいよ! 分かってますとも!」
美砂の呼びかけに応じて地を蹴った朱音は、エキドナの肩を踏みつけてさらに高く飛び上がる。
そして尾の付け根をめがけて落下し、そこへ全体重を預けた片膝を突き刺した。
つんざくような悲鳴が辺りに響き渡り、先ほどまでのたうち回っていたエキドナの尾が、とうとう抵抗することを諦めた。
とはいえ、まだ命を絶つにはいたっておらず、エキドナはわずかに頭だけをもたげながら殺意に満ちた視線を彼女たちに送っていた。
「ほんと、しぶといわね」
美砂が尾に突き刺さしていた鉾を乱暴に蹴ると、再び不憫な悲鳴を上げて背をそらせるエキドナ。
「なんか可哀そうだし、とどめ刺しちゃおうか?」
朱音が手刀を尾に振り下ろす仕草をしながら美砂の方を見つめる。
しかし、美砂は足元の包丁を拾い上げると、それを桜に差し出しながら言った。
「あんたが殺りなさい」
桜は耳を疑いながら、冗談だろうかと美砂の目の色を確かめてみたが、それはひどく冷たく、極めて真剣だった。
「あんた、私のようになりたいんでしょう?」
「はい……」
「だったら、今後は自分の力で歩きなさい。私はもう、あんたを抱えて歩くのはごめんよ」
昨日、学校の校庭でガルムに襲われた後、足がすくんで動けない自分を美砂が抱えて逃げてくれた。
そのことを言っているのだと、桜はすぐに察した。
「美砂ちゃん! 桜ちゃんはモンスターに襲われて怖い思いをしてたんだよ! 何もこれ以上――――」
「いいから黙りなさい!!」
止めようとした朱音を美砂が叱咤すると、朱音は背筋を伸ばして「イエッサ!」と元気に返事をした。
「さっきはできたはずよ。やりなさい」
有無を言わさぬ気迫を込めて美砂がそう促すと、桜は固唾をごくりと飲み込んだあとでついに包丁を掴んだ。
そして震える足で尾の傍まで進み出ると、しばらくそこに立ち尽くしたまま、エキドナの恨めしそうな瞳を眺めていた。
長い静寂のあと、彼女は覚悟を決めてぎゅっと瞼を閉じると、逆手に握った包丁の柄に力を込めた。
振り上げてからまた一度手が止まったが、すぅっと息を吸い込んでから、とうとうその白刃を振り下ろす。
悲鳴と真っ黒な血しぶきが同時に上がるはずだった。
しかし、桜のイメージとは裏腹に、突き刺したはずの包丁はその表皮を傷つけるだけにとどまっていた。
「もう一度よ」
腕組みをした美砂がそういうと、桜は鱗のめくれたわずかな隙間を狙って再び包丁を振り下ろす。
その刃は、先ほどよりは深く刺さったが、やはり致命傷には程遠い。
「もう一度」
振り下ろす。
「もう一度」
また振り下ろす。
「もう一度」
そのリズムに合わせて、エキドナの腹の奥底から短い悲鳴が何度も何度も漏れ出した。
桜の耳は、瞳は、目の前の厚肉な尾が早く切断されることだけを祈っていた。
何度目だっただろうか。
桜のラクダ色のカーディガンが余す所なく黒に染色されたころ、立ち昇った黒煙が砂埃と共に遠方の空へと消えいった。
「ホウギ サクラハ レベルガ アガッタ」
「ホウギ サクラハ レベルガ アガッタ」
「ホウギ サクラハ レベルガ アガッタ」
魔物を倒すと、飛び散った血液も一緒に煙となって消えていく。
すっかり綺麗になってしまった自分のカーディガンとは裏腹に、両手に沁み込んで消えない筋や骨を断つ際の不気味な手応え。
桜は唯々、ぼんやりと自分の手の平を眺めていた。
「これがポーションね」
美砂は右腕の傷を庇いながら足元のポーションを拾い上げると、瓶を振って中の液体を踊らせながら、じっと見入っていた。
「美砂ちゃん、早くポーションを傷口にっ」
美砂の腕を伝って指先から滴り落ちていた血の雫を見ながら、朱音が急かす。
「これはそんな下らないことに使えないわ」
「下らないって……。早く血を止めないと、頭くらくらしたり大変なことになるよ!」
「もう若干なってるわよ。でもダメ」
美砂は声色こそ平静を装ってはいたが、眉間に寄る深い溝が状態の危うさを物語っていた。
「……じゃあせめて、指先にちょこっとだけつけてから傷口に塗ってみて。効果も確かめておきたいでしょ?」
いつになく真剣な朱音に根負けして、美砂は溜め息を吐き出しながらその瓶の栓を抜いた。
瓶の入り口に細い指先を挿入して、少しだけ浸してからゆっくりと引き抜くと、パックリと開いた傷口にそれを這わせる。
すると、傷口から薄らと赤い煙が立ち上り、あっというまに流血が止まってしまった。
「とんでもないわね、これ」
「うん……とんでもなく美味しいよ」
「いや、味はどうでもいいけど……」
流血は止まったが、傷口はまだ完全には塞がっていない。
美砂は唐突にブラウスを脱ぎ始めて半裸になると、血の付いた長袖の部分を包丁で切り取ってしまった。
そして切り取った袖を傷口に手早く巻きつけて縛ると、片袖のないブラウスと腰に巻いていた紺色のカーディガンを羽織った。
「もうちょっと塗れば完璧に治るのに。そんなにまでして、何に使うの?」
「なんだっていいでしょ」
美砂はやはり、ポーションの用途について語る気はなさそうだった。
朱音はしばらく考えたあとで、手の平をパンと打ち合わせながら言った。
「あ、そうだ。美砂ちゃんは私に借りがあるんだったよね」