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Sketch: 0-1 穏やかな朝

"No day shall erase you from the memory of time."

「いかなる日も、あなたを時の記憶から消し去ることはない。」

――ウェルギリウス





空が黎明に染まりはじめるころ、町はゆっくりと目を覚ます。

石畳の上を、牛乳売りの荷車が軋む音を立てながら進んでいく。

パン屋の煙突からは白い煙が細く立ちのぼり、焼きたての甘い香りが路地にまで漂っていた。

路地の角では老人たちが挨拶を交わし、どこかの窓からは子どもを起こす母親の声が響く。


変わらない朝の気配が、じわじわと町の隅にまで染みていく。


そんな朝の中を、一人の男が歩いていた。

すれ違う住民が「おはようございます」と頭を下げると、彼は決まって足を止める。


「おはようございます、マダム。今日もいい天気ですね」

「えぇ、本当に。こんなにいい天気だと、不思議と気持ちもあたたかくなるわ。特に、朝からあなたに出会えるとね。クラウディオさん」


「光栄です」


そう応える唇の端を穏やかな角度に保ったまま、ほんの一瞬、瞳の焦点だけが鋭く壁際を射抜いた。

湿った土の匂いをうっすらと残す、昨日まではなかった荷車の轍。

何かに強く打ち付けられたのであろう、石畳の僅かな欠けと、剥き出しになった白い断面。


彼の中に広がる繊細な風景の地図を、誰にも悟られない速さで、静かに書き換えていく。

けれど、そのささやかな変化が、彼の柔らかな表情に影を落とすことはない。


クラウディオは春の陽光をそのまま掬い取ったような、穏やかな微笑みを再び住人へと向けた。

紺色の制服に、淡い金色の髪。陽の光を受けて、その色が静かに揺れる。

穏やかな目元を細め、ぺこりと丁寧に頭を下げる仕草は、どこか品があった。


彼はこの地区を預かり、守る一人の刑事だ。

いつもと同じ時間に、いつもと同じ道を歩き、静かな石造りの建物へと向かっている。


――穏やかな男だ。

誰の目にも、そう映っていた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――


ほどなくして、クラウディオは石造りの分署へとたどり着く。

年季の入った建物だったが、壁のひび一つ放置された気配はなく、きちんと手入れが行き届いている。

入口の脇には季節の花が控えめに植えられ、無骨な外観の中でそこだけがやわらかな彩りを添えていた。


扉を開けると、かび臭さと羊皮紙の匂いが混ざった空気が流れ込む。

朝の冷気を引きずった室内は、ひんやりとしていて外套越しでもわずかな寒さを感じた。

「おはよう」そう声をかけながら中を見渡し、いつもの面々に軽く挨拶を送る。


自席へ向かい、肩から提げていた鞄を床へ下ろしかけたところで、ふと視線が止まった。

自分の椅子に、背もたれごとだらりと体を預けながら、書類を顔の前に広げている男がいる。

――いや、正確には、書類を広げているふりをしながら、彼は欠伸を噛み殺していた。


「おはよう、グイード」

「……っす」


気の抜けた返事が返る。

グイードと呼ばれた青年は、書類の陰で欠伸を噛み殺しながら視線だけをこちらへ向けた。

制服の襟はわずかに曲がり、寝癖も残っている。 眠たげな様子だが、その目だけは射抜くような鋭さを秘めていた。


「今日もまた例の聞き込みですかァ?あんな地区、何度行ったって何も出ねえと思うんスけど」

「そうかもしれないね」

「そうかもしれないね、じゃなくて――」


グイードはそう言って、手にしていた書類をぱさりと机に置いた。

「もう何度目っスか。わざわざ外された担当地区に足突っ込んで…。オレあそこ好きじゃないんスよね。じめじめしてて、猫の死骸とか落ちてそうで」

「…あれは、猫の死骸じゃなくて、帽子だったじゃないか」


「ありゃどう見ても猫だったっての」


「つーか、オレがいいたいのはそういうことじゃなくて…」ぶつくさと言いながら頭を掻きむしっているグイードに対し、クラウディオは苦笑しながらも 「あそこには、忘れ物があるんだよ」と呟きながら、自分の席に腰を下ろした。


椅子がぎし、と小さく軋む。

長く使いすぎているのは分かっていたが、替え時を決められないまま結局ここまで来てしまった。

その音に気づいたのか、グイードがじろりとこちらを見る。自分の直属の部下であるはずだが、その態度は昔から変わらない。 「んで?」と、憎たらしく口を開いた。


「今日も行くんすか」

「ああ、行くよ。もちろんだとも」


「はあ」 大げさなため息をひとつ。

天井を仰ぎながら、ぎしりと音を立ててゆっくりと立ち上がる。


「わかりましたよ。しかたねーから付き合ってやります。どうせ一人で行かせたら、アンタ――」


一瞬だけ、言葉を切る。

はっとしたように、小さく舌打ちをして目を伏せると 「何するか分かんねーし」と、ぼそりと独り言を落とした。

その言葉には、クラウディオを案じる上司の情を越えた、「いつかこの男は、取り返しのつかない場所へ行ってしまうのではないか」という切実な思いが、言葉の中にいりまじっていた。


クラウディオは、ただ聞こえなかったふりをした。

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