【木彫りのハニーベア・終章:10】
「準備はできたな」
コゲツが確かめ、影が無言で頷く。
地面にはフォクサス族の旧き言葉で構築された儀式の場が完成している。
クロキバにつけた影の一体と念話することで状況の把握に努める。
あちらの戦いも、じきに始まるようだ。
――念話。
それはフォクサス族ならば、その強さに個人差はあれど誰しも持つ特殊能力。
魂同士を感応させることで意志の伝達や感覚の共有などを可能とする。
基本的にはフォクサス族の間でのみ使用ができるもので、かつては死者や神を降ろし交信できる者もいたというが、それほどの力を持つ者は絶えて久しい。
その念話を応用した禁呪を、コゲツは行おうとしていた。
『先祖返り』についての情報を集め、推測したその正体。
それは、同じ魂として生まれながらも異なる性質を持つ何かが、もう一つの魂との主導権争いをしていくものではないか、ということ。
今は主が『先祖返り』、従がロウガなのだろう。
それらは呪わしくも一体であり、分かつことはできない。
だが。
少なくともその比重を変えることはできるのではないか。
「ふん。あいつらめ、せいぜい手前の役に立て」
誰に聞かせるでもなくつぶやく。
どちらにせよ、チャンスは一瞬だ。
薬瓶を握りしめ、影からの情報に集中する――。
その頃、クロキバは相対していた。自分の娘――銀の巨狼と。
伏せたまま前足を組み、こちらを値踏みするかのように顔をあげて鼻を鳴らす。
月明かりを受け、毛並みが美しく輝いている。
「は、えらくまあ別嬪に育ったもんだぜ」
武器を構える。
ヒヒイロカネの牙を持ちやすく削った槍。急ごしらえの武器だが、その威力・耐久力は十分。
相対する巨狼は、あくびをするとゆったりと立ち上がった。
まるで、わざわざ餌場にきた物好きな獲物をからかうかのように。
「そう言えば、お前とは結局一度も殴り合いの喧嘩をしたことはなかったな」
あくまで軽く。これから凄惨な殺し合いをするというよりは、軽く運動するかといった調子で話しかける。
当たり前だが返事はない。
しばしにらみ合い、そして――
「チィ――!」
跳んで避ける。
前足での横なぎ。
それはあくまで遊びの一環にすぎないものだったのだろう、追撃はしてこない。
だが、その余波は凄まじく、背後にあった木々はあっという間に刈り取られてしまった。
「命がけの親子喧嘩ってか。上等じゃねえか……!」
着地。
槍を持っていない片手と両足を接地させた姿勢でその衝撃を殺し、腰を低く構える。
ググ、と両足の筋肉が膨れ上がり、今にもはじけそうなその様は肉食獣のそれだ。
「歯ぁ食いしばれ!」
跳ぶ。
勢いのままその槍は巨狼の頬を張り飛ばす。
空中で体制を立て直し、そのまま更に追撃を加えようとした時。
全身の毛が文字通り総毛だつ。
(なんか知らんがやべえ!!!)
「クロキバさん後ろ!!!」
咄嗟に防御態勢をとる。
次の瞬間強烈な衝撃が体中を駆け抜けた。
「がっ」
凄まじい勢いで吹き飛ばされる。
木々に頭から突っ込んだ。
バリバリと音を立てているのは自分の骨か木か。
「生きてますかクロキバさん!!」
立ち上がりながら、傍に隠れていた少女の声に何とか応える。
「……おう。わりい、俺が不甲斐なくてよ。」
まるでイノシシ数百頭が一気に突っ込んできたような衝撃。
すぐには来なかったようだが、追撃がいつ来てもおかしくない。
武器を構えなおし、相手に向き直った。
スズメは戦慄していた。
元々の作戦では自分は隠密に徹し、ここぞという時に矢を撃ちこむ狙撃役だった。
ヒヒイロカネの時と基本的には同じで、うまくいくはずだった。
その意味でいえば、作戦は自分の一声のせいで失敗してしまったのかもしれない。
しかし、確かに見たのだ。
あの一瞬。
私が弓に矢をつがえ、できたはずの隙を狙い撃とうとした時。あの巨狼の目がこちらを見て、その口がにやりとゆがんだのを。
ロウガは――間違いなく私がどこに隠れているか初めから知っていた。
知っていて、わざと隙ができたかのように見せかけ、しかもクロキバさんをいたぶって見せたのだ。
(今攻撃しても、この作戦は失敗する。ならば――)
だから私は、クロキバさんに声をかけた。
勝利の機会を0にしないために。
「今は違うんだね、ロウガ。」
悲しかったのか、悔しかったのか。
今でもそれはよくわからない。
さっきまでは、話し合えば何とかなるんじゃないかと心のどこかで思っていた。
でも――
(あの表情――)
獲物を弄ぶ、残酷な上位者としての愉悦に満ちた表情。
その顔は、あちらの世界でも見たことがあった。
苛めてもいい誰かを苛めるとき。殴ってもいい誰かを殴るとき。貶めてもいい誰かを貶めるとき。人間はそういう独特な表情をする。
それは、かつてのロウガなら絶対にすることはない表情だった。
となりでクロキバさんがせき込んで、血の混じったつばを吐く。
「ビビったか、嬢ちゃん」
「うん、少し。でも……友達が間違ってることしてたら、止めるのが友達だよね」
弓を構え、矢をつがえる。
照準の向こう側で、初めての友達がまるで嗤うように喉を鳴らすのを見た。




