第28話
王都は、記憶の中の街ではなくなっていた。
凱旋門の金箔は剥がれ、大通りの並木は黒く立ち枯れ、空の低いところには薄墨色の靄がかかっている。大聖堂の方角は封鎖壁で仕切られ、壁の向こうから瘴気が絶えず滲み出していた。それでも沿道には市民が鈴なりに並び、一行の馬車に花を投げた。枯れた街で、どこに残っていたのかと思うほどの、たくさんの花を。一行の宿舎には、離宮のひとつが充てられた。
到着の翌夕、王家主催の歓迎の宴が開かれた。
「あんな状況で宴ですか」とヨハンナは呆れたが、リーゼロッテは出席を選んだ。浄化の段取りには貴族議会の協力がいる。それに――顔ぶれを見ておきたかった。
果たして、離宮の広間は着飾った貴族で溢れていた。そして彼女が入場した瞬間、その全員が、潮が引くように頭を下げた。
「大聖女様! ようこそお戻りくださいました!」
「お噂はかねがね! いえ、私は昔から、あなた様のお力を信じておりましたとも」
寄ってくる、寄ってくる。一年前、彼女を「白紙」と嘲笑った口が、今は蜜のような世辞を垂れ流す。リーゼロッテは完璧な微笑で応対しながら、内心で一人ひとりの顔と、あの夜会での言動を静かに照合していった。二十年の社交界で鍛えた記憶力は、こういうときのためにある。
「まあ、ケッセルリンク伯爵夫人。ご機嫌よう」
ひときわ豪奢な扇の婦人が近づいてきた。社交界の顔役で、かつて「白紙の聖女」という綽名を最初に流行らせた張本人である。
「大聖女様におかれましては、ご立派になられて。わたくし、昔からあなた様と親しくさせていただいた身として、誇らしくて」
「親しく?」
リーゼロッテは、小首を傾げた。あくまで無邪気に、あくまで上品に。
「あら、ごめんなさい。記憶違いでしたら申し訳ないのですけれど――卒業の夜会で、扇の陰から『白紙が今夜で処分されるわね』と仰っていた方と、お声がよく似ていらしたものですから。ご親戚の方かしら?」
夫人の顔から、笑みが剥がれ落ちた。
「そ、それは、その」
「まあ、いいのです。あの夜のことは、第二条に基づいてすべて公文書になりますから。どなたが何を仰ったかも、証言と共に、永久に」
「こ、公文書……」
「ええ。歴史に残るのですわ。素敵でしょう?」
夫人は扇を取り落とさんばかりに青ざめ、後退りして人混みに消えた。それを皮切りに、身に覚えのある貴族たちが、一人、また一人と、彼女の周囲から音もなく蒸発していった。
「……夫人、いま、笑ってました?」
「あら、私はいつでも笑っていてよ、クラウス」
「怖っ」
一方で、露骨に距離を詰めてくる者もいた。独身時代の彼女には見向きもしなかった青年貴族が、酒気を帯びて馴れ馴れしく腕に触れようとした、その瞬間。
背後から伸びた手が、青年の手首を掴んで止めた。
「妻に、何か用か」
ギルベルトだった。病み上がりとは思えない握力と、辺境で魔獣を従えてきた男の眼光。青年は蒼白になり、何事かを喚きながら逃げ去った。
「……握り潰すかと思いました」
「潰しかけた」
「まあ。お行儀の悪い」
言いながら、リーゼロッテは彼の腕に自分の手を添えた。広間の視線が集まるのが分かった。構わなかった。むしろ、見せておきたかった。この人が私の隣にいる。それが今の私の、何よりの答えなのだと。
宴の喧騒の向こう、広間の入り口がにわかにざわめいた。
人垣が割れ、憔悴しきった顔の男が立っていた。
アルノルト王太子――いや、廃嫡動議のさなかにある、かつての婚約者だった。




