第15話
帰路は、往路より二日長くかかる山道を選んだ。大聖女誕生の報せが大陸中を駆け巡り、街道筋の宿場には見物人が詰めかけていると聞いたからだ。
その夜は、峠の森で野営になった。
護衛たちが天幕を張り終える前に、日が落ちた。リーゼロッテは、離れた木立へ向かうギルベルトの背を目で追った。変化を人目に晒さぬよう、彼はいつも一人で夜の中へ消える。
だがその夜、様子が違った。
左手首の腕輪が、焼けるように熱を持ったのだ。黒い石が不穏に明滅している。彼女は護衛の制止を振り切り、木立の奥へ走った。
月明かりの下、それはいた。
漆黒の魔獣が、大樹の根元にうずくまり、荒い息をついていた。変化そのものは終わっている。しかし黒い靄が毛皮の表面で渦を巻き、時折、痙攣のように巨躯が跳ねた。
「ギルベルト!」
「……来るな。今夜は、荒れている」
軋む声。彼女は構わず歩み寄り、その首筋に触れた。掌の下で、呪いの澱が暴れているのが分かる。いつもの夜の比ではなかった。
「最近、ずっとこうだったのですか。私に隠して」
「…………」
「腕輪は嘘をつきません。答えて」
長い沈黙の後、獣は観念したように息を吐いた。
「……リヒトブルクに発つ、少し前からだ。夜の変化が、重くなっている。おそらく原因は、お前だ」
「私?」
「お前の力が、日ごとに強くなっている。制御を覚え、解放され、本来の水位を取り戻しつつある。そして腕輪は、俺たちの力を繋いでいる。正の力が強まれば、対になる俺の呪いも、釣り合いを取ろうと活性化する。……そういう理屈らしい」
リーゼロッテは、言葉を失った。
自分が力を取り戻すほど、この人が苦しむ。契約の要だったはずの相互補完が、いつの間にか、彼だけが代償を払う構造に変わっていた。
「なぜ、黙っていたのです。腕輪を外せば」
「外せば、お前の暴走を感知できなくなる。俺が呑む方が合理的だ」
「合理的、ですって」
声が震えた。怒っているのだと、自分でも遅れて気づいた。
「あなたはいつもそう。呪いも、痛みも、全部一人で呑み込んで、合理の一言で片づけて。……三年前からずっと、そうやって生きてきたのですか」
獣は答えなかった。彼女は濡れた下草の上に座り込み、その大きな頭を、両腕で抱え込むようにして撫でた。聖力は流さない。今夜は流せば毒になる。ただ、体温だけを分け合った。
やがて、ぽつりと、獣が語り始めた。
「……三年前、先代が――父が死んだ。魔獣の森の大氾濫を、呪いの力で一人で堰き止めて、そのまま。呪いは次代へ移る。俺が継いだ」
「ええ」
「当時、婚約者がいた。中央の伯爵家の令嬢だ。初めての変化の夜、彼女は偶然、俺を見た。……翌朝には屋敷から消えていた。置き文が一枚。『化け物に嫁ぐことはできません』」
月が雲に隠れ、また現れた。
「以来、夜は一人と決めていた。誰にも見せず、誰にも頼らず。それが一番、誰も傷つけない」
「……ええ。そうやって、あなただけが傷ついてきた」
国境の橋で初めて会った夜のことを、彼女は思い出していた。暴走する光の中へ、躊躇なく飛び込んできた黒い獣。あれは、自分と同じ痛みを知る者の迷いのなさだったのだ。
リーゼロッテは獣の首筋に額を寄せた。
「もう、一人で夜を越えないで。契約妻には、夫の苦痛を分担する権利があります。第四条に書き加えておきますから」
獣の喉から、掠れた音が漏れた。それが笑い声だと気づくまで、少しかかった。
その夜、二人は夜明けまで、同じ木の下にいた。




