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後編

 ◇


 2019年は、石島大成にとって飛躍の年だった。

 それまで国内を主戦場としていた石島が、初めてラスベガスのリングに上がった。軽量級の日本人スター選手がメインを務める興行の前座だった。会場の注目は当然ながらメインイベントに集まっていたが、石島にとっては、それまでテレビや雑誌でしか見たことのなかったボクシングの本場で、自分の実力を試す大きな機会だった。

 試合はウェルター級の十回戦。相手はスーパーライト級の元世界王者だった。階級を上げてきたとはいえ、世界の頂点を経験した選手である。経験も実績も石島を上回っていた。

 しかし、石島は一歩も譲らなかった。

 相手の強打を正面から受けることなく、軽快なフットワークで距離を保つ。踏み込んでくる相手にはジャブを合わせ、パンチを打ち終えた瞬間を狙って素早く位置を変える。元世界王者が圧力を強めても、石島は慌てなかった。相手の攻撃を見切り、わずかな隙間に自分のパンチを差し込んでいく。

 そして六ラウンド目だった。

 相手が踏み込んできた瞬間、石島の左フックがカウンターで炸裂した。顔面を正確に捉えた一撃に、元世界王者の身体が大きく揺れる。倒れ込んだ相手は立ち上がることができず、レフェリーが試合を止めた。

 ノックアウト勝ち。

 プロ三戦目以来、実に十六戦ぶりのKO勝利だった。

 石島の評価は、この一戦で大きく変わった。ポイントを積み重ねる技巧派のアウトボクサーというだけではない。相手の動きを読み、勝負どころで倒し切る力も持っている。しかも、それをアメリカのリングで、元世界王者を相手にやってのけたのだ。

 帰国後も勢いは止まらなかった。

 東洋太平洋ウェルター級のタイトルを獲得すると、日本王座を返上。国内の枠にとどまらず、ウェルター級で世界を目指す姿勢を明確にした。

 さらに、四大世界タイトル団体以外のマイナー団体が認定する世界タイトルにも挑戦した。相手はその団体の現役王者。石島はここでも持ち前のスピードとディフェンスを発揮し、十数ラウンドにわたって相手を翻弄した。判定で勝利を収めたものの、獲得したベルトは保持しなかった。あくまで目標は、主要四団体の世界王座だったからだ。タイトルを返上し、次の機会を待つことにした。

 日本のボクシングファンの間では、石島の名前が頻繁に語られるようになっていた。

 ウェルター級は、日本人にとって決して簡単な階級ではない。世界のトップには欧米や中南米の強豪がひしめき、日本人選手が世界王座にたどり着くこと自体が難しいとされてきた。その階級で、石島は国内王者、東洋太平洋王者、そして海外での実績を積み上げていた。

 ボクシング専門誌やネットの掲示板、ファンの集まる酒場でも、彼の名前が話題に上る。

「日本人初のウェルター級世界王者か?」

 そんな声が、少しずつ現実味を帯びて広がり始めていた。


 ◇


 第五ラウンド開始のゴングが鳴った。

 仙道羅刹は、もう曺大成の動きに戸惑ってはいなかった。

 最初の数ラウンドでは、曺の細かなフットワークと独特のリズムに翻弄されていた。踏み込めば距離を外され、パンチを振れば身体を沈めてかわされる。だが、四ラウンドを戦ううちに、仙道は少しずつその動きに慣れてきていた。

 曺がバックステップを踏むタイミング。ダッキングで頭を沈める方向。左を差し込んだあとに移動する角度。

 仙道のパンチが、徐々に曺を捉え始めていた。

 ジャブが頬をかすめ、左フックがガードの外側から顔面を叩く。曺が下がる方向に合わせて仙道が踏み込み、逃げる先へパンチを置く。以前なら空を切っていた拳が、確実に相手との距離を縮めていた。

 仙道の猛攻に、曺の足が絡んだ。

 互いの肩がぶつかり、身体がもつれた瞬間、曺の足が滑る。片手をキャンバスについて、すぐに立ち上がった。

 スリップだった。

 レフェリーはダウンを宣告しなかったが、東京ドームの観客は一斉に沸き立った。

「ダウンだろ!」

「今の倒れただろ!」

 あちこちから野次が飛ぶ。仙道が追い詰めている。そう見えたのだろう。曺は立ち上がると、すぐにレフェリーへ向き直った。

「Our feet got tangled, then his shoulder hit me and pushed me off balance. I slipped.」

 足が絡まったところで肩がぶつかって押された。滑ったんだ。

 曺はそう説明した。レフェリーはアメリカ系の黒人で、曺の言葉を聞きながら短くうなずく。試合を止めることなく、両者に続行を促した。

 この試合で、曺が最も押されている時間だった。

「倒しにいけ! ここでダウン取れ!」

 仙道のコーナーが叫ぶ。

 観客の声援を背に、仙道はさらに前へ出た。大きな歩幅で距離を詰め、左右のパンチを打ち込んでいく。曺はジャブを合わせてその前進を止めようとした。頭を左右に振り、相手のパンチを外しながら、細かく足を動かす。

「Move your head and throw more punches!」

 頭を振って手数を増やせ。

 曺のセコンドの声が飛んだ。

 仙道は構わず前進した。パンチを受けても、多少外されても、攻める手を止めない。曺を後退させ、リングの端へ追い詰めようとしていた。

 だが、曺はその踏み込みに右のアッパーを合わせた。

 顎を狙ったパンチがクリーンヒットする。

 仙道の頭が跳ね上がり、身体が後ろへ下がった。曺は間髪入れずに踏み込み、右のボディブローを打ち込む。顔面へのアッパーで姿勢を崩し、その下へ拳を叩き込んだ。

 仙道が一歩、二歩と後退する。

 それまで押し込まれていた曺が、初めて明確に反撃へ転じた。

「Now! Let's take this round!」

 ここでポイントを取るぞ。

 セコンドの声に、曺は左を連打した。ジャブを顔面に突き刺し、仙道がガードを上げれば、またその上から打つ。仙道もたまらずジャブを差し返した。

 ジャブの差し合い。

 今度は曺が制した。

 仙道の左が伸びるより早く、曺の左が届く。仙道が打ち返すと、曺はわずかに頭をずらして次のジャブを重ねる。単発で終わらせず、手数を途切れさせない。先ほどまでの仙道の勢いを、今度は曺が押し返していた。

 そして、ゴングが鳴った。

 曺はすぐにコーナーへ戻った。息は上がっていたが、表情にはまだ余裕が残っている。椅子に腰を下ろすと、セコンドに顔を向けた。

「Did I lose that round?」

 取られたか?

 セコンドは笑いながら、曺の肩にタオルを掛けた。

「In Vegas, that was your round.」

 ベガスだったらお前のラウンドだ。

 軽口だった。曺もそれを理解していたが、笑わなかった。

「We're in Japan.」

 ここは日本だぞ。

 セコンドは肩をすくめる。

「Then he's probably getting that one. We need to make a move next round.」

 だったら向こうだな。次のラウンドは仕掛けないといけねぇな。

「I know.」

 分かった。

 曺は短く答えた。

 正念場だった。

 これまでの戦い方は、あくまでポイントを積み重ねて競り勝つためのものだった。相手のパンチをかわし、手数で上回り、ラウンドを一つずつ奪っていく。曺には、仙道を一撃で倒せるようなパンチがない。

 右拳は、かつての負傷以来、完全には戻っていなかった。強く打ち込めば痛みが走る。仙道のセコンドが言っていたように、右はガラスの拳だった。

 だからこそ、曺は右を無理に振るわず、左を中心に戦ってきた。スピードとディフェンス、そして手数。それが彼の勝ち筋だった。

 しかし、仙道は曺の動きに慣れ始めている。パンチも当たり始めた。これ以上、同じ展開が続けば、いずれ捕まる。

 リスクを承知で右を当てにいくべきなのかもしれない。

 曺はグローブの中で右手を握り、ゆっくりと開いた。

 次のラウンドからは、これまでのプランを少し変えなければならない。勝つために、何かを仕掛ける必要があった。


 ◇


 2020年、秋。池袋の病院。

 街には、まだ落ち着かない空気が漂っていた。

 新型コロナウイルスの感染拡大によって、社会の仕組みは大きく変わりつつあった。マスクを着けることが当たり前になり、人と人との距離が意識され、病院もまた厳しい感染対策を求められていた。面会は制限され、家族であっても自由に病室を訪れることはできない。

 そんな時期に、美緒は出産した。

 石島大成と美緒は結婚し、夫婦になっていた。高校時代から付き合い続けてきた二人に、ようやく子供が生まれたのだ。けれど、その喜びを分かち合うはずの時間は、世の中の事情によって大きく制限されていた。

 石島は出産に立ち会えなかった。入院中も、面会は許されなかった。電話やメッセージで美緒の様子を聞くことはできても、病院に行って顔を見ることさえできない。無事に生まれたという知らせを受けたときも、彼がいたのは病院の外だった。

 退院の日になって、石島はようやく病院の中に入ることができた。

 受付で検温や確認を済ませ、消毒をして、案内された病室へ向かう。マスク越しに見る美緒は、少し疲れた顔をしていたが、以前と変わらない笑顔を浮かべていた。

「ごめんな。出産にも立ち会えなかったし、入院中もずっと一人にして」

 石島は、ベッドのそばに立って頭を下げた。

 美緒は首を横に振った。

「仕方ないよ。病院だって、みんな大変なんだから」

 そう言って笑う美緒の隣には、小さなベビーベッドが置かれていた。そこに、二人の子供が眠っていた。

 石島は、しばらくその姿を眺めていた。

 これまで何度も試合をしてきた。勝った日も、負けた日もあった。拳を壊して、もうボクシングを続けられないかもしれないと思ったこともある。そんなとき、いつもそばにいてくれた美緒と、今度は家族になった。

 そして、目の前には自分たちの子供がいる。

 退院の準備が整い、美緒が荷物をまとめている間、石島はベビーベッドのそばで落ち着かない様子だった。看護師から抱き方を教わり、恐る恐る両腕を差し出す。

 それまで何度も試合前にグローブをはめてきた手が、今は小さな赤ん坊を受け止めようとしていた。

 石島が初めて子供を抱いた。

「思ったよりもずっと小さいな」

「可愛いじゃなくて?」

「勿論、可愛い。けど、それ以上にビックリして」

 腕の中の赤ん坊は、思っていたよりもずっと軽かった。

 体重は三千グラム。決して小さく生まれたわけではない。それでも、石島の大きな手で背中を支えると、身体のほとんどが腕の中に収まってしまう。指先も、耳も、頬も、何もかもが小さい。力を入れすぎないように、彼はひどく慎重に抱いていた。

 男の子だった。

 目を開けた顔は、美緒によく似ていた。ぱっちりとした目元が、妻の面影をそのまま受け継いでいる。石島はその顔を覗き込み、何度も確かめるように眺めた。

「美緒にそっくりだな」

「そう? 耳の形は大成に似てるよ」

 美緒が笑った。

 石島は赤ん坊を抱いたまま、もう一度その顔を見た。試合でどれほど強いパンチを受けても、これほど緊張したことはなかった。

 小さな身体の重みが、腕の中に確かにあった。


 ◇


 六ラウンド目の開始を告げるゴングが鳴った。

 その音が消えるより早く、曺が前に出た。

 左、左、左。立て続けにジャブを繰り出す。仙道はもう慣れたとばかりに、ジャブをかいくぐって反撃してきた。鋭い左、続けざまの右。曺は上体を左右に振ってかわし、L字ガードを崩さないまま、リングを歩き回る。仙道と正面から向き合い続けるのではなく、わずかに位置をずらしながら、相手の狙いを外していく。

 その途中、曺は眉を上げて小さく頷いた。

 分かりやすい挑発だった。

 掛かってこいよ。そう言わんばかりに、拳を構えたまま仙道を手招きする。

 仙道は乗った。

 踏み込んでくる。大きく、鋭く、強烈なパンチが曺を襲った。左フック、右ストレート。曺はそれを腕で受け、手のひらで軌道を逸らし、上体を沈めてかわす。続くパンチもガードで受け止め、足を使って射程から逃れた。

 慣れているのは、お互い様だった。

 仙道の連打が途切れた瞬間、曺の左が飛んだ。打ち終わりに合わせたカウンター気味の一発が、仙道の顔面に深く突き刺さる。

 仙道の鼻から血が流れた。

 仙道はたまらず両腕を高く上げ、顔面を固める。そこへ曺はボディジャブを打ち込み、間髪入れずに右のオーバーハンドを振り下ろした。さらに距離が詰まると、左右のボディブローを連打する。脇腹を狙って拳をねじ込み、仙道の身体を揺さぶった。

 仙道も黙ってはいない。曺の打ち終わりを狙って拳を振るう。しかし、曺は上体を後ろへ反らすスウェーバックで、その一発をかわした。

「Increase your output. Make sure you take this round!」

 曺のセコンドから声が飛ぶ。

「一発無いから安心して前に出ろ。下がるな羅刹! 大丈夫だ!」

 仙道のコーナーも、声を張り上げていた。

 仙道が前に出る。曺が下がる。

 しかし、ただ逃げているわけではない。下がりながら上体を動かし、仙道のパンチを避ける。そのたびに左を突き、右を合わせ、確実に手数を重ねていく。仙道が距離を詰めようとすれば、曺は一歩下がりながら拳を当てた。

 仙道の右ストレートが曺の顔に伸びた。

 拳が届いたように見えた瞬間、曺は顔を横に逸らした。スリップアウェイ。パンチの進行方向に顔をずらし、衝撃を逃がすディフェンスだ。完全に外したわけではない。拳は頬に触れていたが、まともな打撃にはなっていない。

 その動作とほぼ同時に、曺の左フックが仙道の顔を叩いた。

 観客席が沸いた。

 だが、リングサイドの曺のセコンド陣は渋い表情だった。

「That looks bad to the judges.」

「It looks like he's getting hit.」

 曺の動きは、審判に与える印象がよくない。観客は曺がパンチを食らったと勘違いして歓声を上げている。実際にはダメージをほとんど受けていないのだが、見た目の印象は別だった。

 曺は構わず前進してくる仙道をボディで止めた。

 今まで見せていなかった、長めの左ボディブローだった。踏み込みながら拳を伸ばし、仙道の腹部へ深く打ち込む。

 仙道が曺にしがみつくようにクリンチへ来た。

 曺は相手の肩を押しながら、身体をくるりと回り込ませた。正面から抱え込まれる前に位置を入れ替え、最後にパンチを打ち込んで仙道を突き放す。クリンチを許さず、すぐに距離を取り直した。

「That body shot hurt him. You're taking this round back!」

 セコンドの声にも、手応えが感じられた。

 ゴングが鳴った。

 六ラウンド終了。曺にとっては、ここ数ラウンドの中でも久しぶりに、明確に自分のものにできたラウンドだった。


 ◇


 2022年。石島大成にとって、プロデビューから二十四戦目にして初めての世界タイトル挑戦だった。

 相手は、オーストラリアの黒豹と呼ばれるハードパンチャーだった。背丈こそ低いものの、背中から肩にかけて筋肉が盛り上がった頑丈な身体つきをしている。重心が低く、踏み込みには力があった。何より、一発がある。拳をまともにもらえば、試合の流れなど一瞬でひっくり返されかねない。ウェルター級でも屈指の強打者として知られていた。

 試合は十二ラウンドに及んだ。

 黒豹は序盤から距離を詰め、重いパンチを振るってきた。ガードの上からでも身体を揺さぶるような連打だった。相手の得意な距離に付き合えば危険だったが、石島は逃げ回るだけではなかった。足を使って攻撃を外し、打ち終わりに合わせて拳を返す。相手が踏み込んでくれば、身体をずらして連打をかわし、空いたところへジャブやフックを打ち込んだ。

 黒豹の猛攻を受け止めるのではなく、十二ラウンドを通じて、その攻撃を防ぎ続けた。そして、相手が息をつく間もないほど、ガツガツとパンチを当て続けたのである。

 試合中には、石島がダウンを奪う場面もあった。強打者を相手に一歩も引かず、むしろ自分のペースに引き込んでいく。判定までもつれ込んだものの、内容は石島の優勢が明らかだった。完勝と言っても差し支えない試合だった。

 石島大成は、世界タイトルを手にした。

 翌日のスポーツ紙には、大きな見出しが躍った。

「日本人初のウェルター級世界王者」

 その言葉が、思いもよらない形で炎上することになる。

 きっかけは、暴露系YouTuberの投稿だった。

『石島大成は通名。あいつは日本人じゃない。本名は曺大成。在日韓国人だ』

 それまで公に語られることのなかった曺大成の出自が、インターネット上で一気に拡散された。曺は在日韓国人四世だった。日本で生まれ、日本で育ち、日本のジムに所属し、日本のリングで戦ってきた。石島大成というリングネームで活動していたことも、特別に隠していたわけではない。しかし、その名前が本名ではないという一点だけが切り取られ、あたかも重大な秘密を暴いたかのように扱われた。

 当時、ネット上では韓国人や中国人に対する批判的な言説が目立っていた。生活保護の不正受給問題や、犯罪報道における通名の使用などがしばしば取り上げられ、在日外国人への反感と結びつけられていた。

 そうした空気の中で、曺大成もまた批判の標的になった。

 日本人になりすましていた。日本人のふりをして世界王者になった。日本人のためのベルトを奪った。そんな言葉が、SNSの投稿や動画のコメント欄に並んだ。

 世界タイトルマッチは、日本の所属ジムが交渉し、実現させたものだった。石島が勝つことを期待していた人々にとって、その勝利は誇るべき出来事だったはずだ。しかし、曺の出自が知られると、称賛はたちまち反転した。

「本来なら日本の選手が取るべきベルトだった」

 そうした怨嗟の声が、曺大成本人に向けられた。

 やがて批判は、対戦相手にまで及ぶようになった。

 オーストラリアの黒豹は、世界王者としての実力を疑われた。穴王者だったから勝てただけだ。日本王者の武者小路でも勝てた相手だ。そんな言葉が並び、世界タイトルを懸けた十二ラウンドの激闘さえ、なかったことにするような論調が広がっていった。

 曺が勝ったからこそ、相手の価値まで引き下げられた。試合の内容を見ようとする者は少なく、彼が何者であるかという話ばかりが繰り返された。

 最初はインターネット上の書き込みに過ぎなかった。

 しかし、やがて所属ジムや自宅にまで怪文書が届くようになった。差出人の分からない手紙や、家族を不安にさせるような内容の文書。ジムの関係者にも対応を求める連絡が相次ぎ、興行の協力者やスポンサーとの関係にも影響が出始めた。

 所属ジムとしても、曺大成を国内でプロモートし続けることは難しくなっていた。試合を組めば批判が集まり、興行そのものに余計な問題を抱え込む。選手としての価値とは別のところで、彼を取り巻く環境は悪化していった。

 ジムはラスベガスの大手プロモーションに連絡を取った。曺大成のプロモート権を売り渡すことが決まったのは、そのためだった。

 曺は妻と幼い子供を連れ、日本を離れた。

 世界王者になったばかりのボクサーが、栄光を祝う間もなく海を渡る。行き先はアメリカだった。

 新しい挑戦のために日本を飛び出した、というような華々しい話ではない。

 曺大成は、家族を連れて逃げるようにアメリカへ渡った。


 ◇


 七ラウンド目のゴングが鳴った。

 仙道の左目の下は、大きく腫れ上がっていた。まぶたの周囲が膨らみ、目を開けるのも難しそうだった。試合前には仙道の勝利を疑わなかった観客席にも、少しずつ冷めた空気が広がり始めている。期待していた展開とは違う。仙道が一方的に攻め込むどころか、試合が進むほどにダメージを蓄積していることは、誰の目にも明らかだった。

「Just do your job. Stay disciplined.」

 曺のセコンドの英語が響く。余計なことはするな。自分の仕事を淡々とこなせ、という指示だった。

 曺はその言葉どおり、淡々とジャブを繰り出し続けた。

 顔面へ、時には胸元へ。大きく踏み込むこともなく、一定のリズムで左を刻む。仙道はガードを固めて前に出てくるが、ジャブを防ぎきれない。左目が腫れて視界が狭まっているのか、曺の拳を見切るタイミングが遅れ始めていた。これまでなら反応できていた距離でも、顔にジャブを受ける場面が増えている。

 仙道はそれでも前進を止めなかった。

 両腕で顔面を守りながら、曺を追う。曺は下がりながらパンチを当て、相手の勢いを削いでいく。仙道が一歩踏み込めば、曺は半歩下がる。追いつかれそうになれば角度を変え、またジャブを突く。攻撃を受ける前に、先に手を出す。七ラウンドに入っても、その基本は変わらなかった。

 だが、次第に両者の距離が詰まっていく。

 仙道が強引に身体を寄せ、曺と肩がぶつかった。腕が絡み、クリンチになる。

 ここまでの試合では、クリンチはほとんど見られなかった。距離を保って戦う曺が、相手に密着される場面自体が珍しい。

「His eye's nearly shut. He can't judge the distance anymore. He's trying to get his head against yours and trade at close range. Don't play along.」

 セコンドの声が飛んだ。

 仙道の狙いは明らかだった。腫れた目では、これまでのように相手との距離を正確に測れない。ならば、いっそ頭が触れるほどの距離まで詰め、近距離でパンチを交換する。自分の強打を当てることだけに集中するつもりなのだ。

 曺はクリンチの最中、無理にパンチを出そうとはしなかった。腕が絡んだ状態で不用意に打てば、反則を取られる可能性もある。相手の身体を押し返すこともせず、レフェリーが割って入るのを待った。

 その間に、曺はレフェリーへ目配せした。

「Break us up. The crowd's getting cold.」

 早く離してくれ。客が冷めるぞ。

 そんな軽口を叩く余裕すら見せた。

 レフェリーが両者を引き離す。曺はすぐに距離を取り直した。仙道は再び前に出ようとするが、今度はジャブで突き放す。顔面に左を当て、踏み込んでくる勢いを止める。

「撃ち合え。相打ちにしろ」

 仙道のコーナーから声が飛んだ。

 曺はその言葉を聞いていたわけではない。しかし、仙道の攻め方が変わったことは分かっていた。ガードを固め、細かいパンチを受けることも恐れずに距離を詰めてくる。これまでのようにポイントを積み重ねるだけでは、相手の勢いを止められない。

 ならば、こちらも応じるしかない。

 曺は、ここぞとばかりに右拳を使った。

 これまで温存してきた右の強打を、仙道の踏み込みに合わせて打ち込む。右ストレート。続けて右フック。拳を振り抜くたびに、古傷のある右手に負担がかかる。それでも、今は出し惜しみをしている場合ではなかった。

 ここで仙道にダメージを与え、削り切る。

 たとえ右拳が使い物にならなくなったとしても、残りのラウンドを左一本で戦えばいい。ジャブを刻み、距離を保ち、ポイントアウトする。そこまで持ち込めるだけの余裕を作るには、今この場面で相手の勢いを断ち切る必要があった。

 曺の右が仙道を捉えた。

 仙道の巨体がぐらりと揺れる。

 それでも倒れない。踏みとどまろうとする身体が、わずかに後ろへ傾いた。

 次のパンチを打ち込もうとした、その瞬間だった。

 ゴングが鳴った。


 ◇


 2023年の初め、曺大成はアメリカでの初戦を迎えた。

 日本を離れてから初めての試合。そして、リングネームの石島大成ではなく、本名の曺大成として臨む初めての試合でもあった。

 対戦相手は、リッキー・「ヒットマン」・アシュトン。マンチェスター出身の世界二階級制覇王者で、イギリスでは絶大な人気を誇るスター選手だった。

 アシュトンは、いかにもイギリスのファイターらしい、前進を信条とするボクサーだった。背はそれほど高くないが、首から肩、背中にかけて分厚い筋肉がついている。重心を低く保ち、前傾姿勢で相手との距離を詰める。左右のフックを大きく振り抜き、相手が下がれば執拗に追いかける。華麗な技巧で観客を魅了するというより、リングの中央を奪い、相手をロープ際に追い詰め、休む間もなくパンチを浴びせる。彼の試合には、いつも熱狂的な声援がついて回った。

 舞台はラスベガスのMGMグランド・ガーデン・アリーナ。ウェルター級の世界王座統一戦だった。

 曺はいつものように足を使い、相手の攻撃をかわしながらポイントを重ねた。アシュトンの前進を止めるためにジャブを打ち、打ち終わりにはカウンターを合わせる。だが、相手は簡単には止まらなかった。被弾しても構わず前へ出てくる。ガードの上からでも構わず拳を振るい、曺が距離を取ろうとすれば、さらに一歩踏み込んでくる。

 試合が進むにつれて、曺の右拳に異変が生じた。

 かつての怪我が再発したのだ。右を思い切り振り抜くことができなくなり、攻撃の選択肢が狭まっていく。アシュトンはそこを逃さなかった。休むことなく圧力をかけ、曺を追い詰めていった。

 十一ラウンド、レフェリーが試合を止めた。

 曺大成の十一回TKO負けだった。

 初めての世界タイトル挑戦で手にしたベルトは、アメリカでの初戦を終えた時点で失われた。試合後、右拳は再手術を余儀なくされた。ファイトマネーは支払われたものの、負傷による長期離脱は避けられない。アメリカでの生活は、思い描いていたような華やかなものにはならなかった。

 物価の高い土地で、家族三人の暮らしは慎ましいものだった。大きな家を借りる余裕はなく、生活費を計算しながら日々を過ごす。曺は練習と治療に時間を費やし、美緒も家計をやりくりした。世界王者になった男の生活としては、ずいぶん地味なものだった。

「これで勝ててれば豪邸に住めたけどな」

 曺は冗談めかして言った。

「何言ってるの。そんなもの欲しくないでしょ」

 美緒は呆れたように返した。

 実際、美緒は豪邸も贅沢な暮らしも望んでいなかった。日本にいた頃から、彼女は大成の成功を自分の生活の豊かさに結びつけようとはしていなかった。彼がリングに立ち続けられること、それが何より大切だった。

 それでも、大成には思うところがあった。

 怪我をしていた時期も、世界王者になった後の騒動も、そして日本を離れる決断をした時も、美緒はずっとそばにいてくれた。彼女は何も要求しなかったが、だからこそ、何かを返したいと思っていた。

 せめて、もう少し楽をさせてやりたい。

 自分の拳が壊れてしまえば、その願いも遠のいてしまう。そんな思いを胸の内にしまいながら、大成は再び治療とトレーニングに取り組んだ。

 復帰したのは2024年だった。

 長いブランクを経てリングに戻った曺は、まずノンタイトル戦で実戦感覚を取り戻していった。かつてのような強引な打ち合いはしない。右拳の状態を確かめながら、足を使い、相手の攻撃を外し、正確にポイントを積み重ねる。勝ち方は地味でも、試合を支配する技術は健在だった。

 復帰戦を勝利で飾ると、その後も連勝した。三試合すべてを勝ち抜き、ノンタイトルながら着実に評価を取り戻していく。

 かつて世界の頂点に立った男は、再びウェルター級の上位戦線に姿を現していた。

 ランキングを上げ、次の世界挑戦を狙えるトップコンテンダーとして、その存在感を取り戻しつつあった。


 ◇


 八ラウンド目のゴングが鳴った。

 曺はリング中央で向かい合った仙道の顔を見ていた。

 左目の下が大きく腫れている。まぶたは膨らみ、目の周囲には濃い内出血が広がっていた。骨にまでダメージが及んでいるのかもしれない。眼窩にヒビが入っていても不思議ではなかった。

「He's going to come at us before that left eye closes completely.」

 セコンドの声が聞こえた。左目が完全に塞がる前に、勝負を仕掛けてくる。

 その予想はすぐに現実になった。

 仙道が強引に踏み込んできた。大きなパンチを振り回す。左のフック、右のストレート。どれも一発の威力を感じさせる重いパンチだった。いつものように相手の出方をうかがう余裕はない。今度のラウンドで仕留める。その意志が、攻撃の激しさに表れていた。

 このままなら、次のラウンドには仙道の左目はさらに腫れるだろう。視界が狭まれば、曺の動きを追うことも難しくなる。だからこそ、両目がまだ使えるうちに勝負を決める。仙道はそう考えているのだろう。

 それができるのが、仙道羅刹というボクサーの強みだった。

 多少の無理を承知で、強引にパンチを振り抜く。まともに当たらなくても、掠めただけで相手にダメージを与えそうな威力がある。ガードの上からでも身体を揺さぶり、相手の戦意を削る。八ラウンド目にすべてを出し尽くすつもりなのかもしれなかった。

「下がるなよ羅刹。前に出ろ。打って打って打ちまくれ!」

 仙道のコーナーから、父親の声が飛ぶ。息子を奮い立たせるように、途切れることなく声を掛け続けていた。

 一方の曺は、冷静だった。

 ここを凌げば、次のラウンドは楽になる。仙道の左目はさらに腫れ、視界は今以上に悪くなるはずだ。無理に打ち合う必要はない。相手が勝負を急いでいるのなら、その時間をやり過ごせばいい。

「Right overhand!」

 セコンドの指示が飛んだ。

 曺は左の連打の中に、右の大きなフックを混ぜた。力任せに振り回すような軌道だったが、狙いは必ずしもダメージを与えることではない。仙道の見えにくくなっている左目、その目の下を狙って拳を当てる。腫れをさらに大きくするための一発だった。

 リング上の攻防だけを見れば、曺が防戦に回っているように映った。

 会場には羅刹コールが鳴り響いている。仙道の重いパンチが曺のガードを捉えるたび、東京ドームが大きく沸いた。ガードの上から打ち込まれた拳の音にも、観客は歓声を上げる。

 仙道羅刹は華のあるボクサーだった。

 リングに立つだけで観客の視線を集める。大きな身体、堂々とした構え、思い切りのいいパンチ。そこには、技術や戦績だけでは説明できないオーラがあった。観客が彼に期待するのは、ただ勝つことではない。相手を圧倒し、倒す姿を見せることだった。

 その仙道の顔が、今や大きく腫れている。

 曺のセコンドが大声を張り上げた。

「Watch the body! He's setting you up upstairs!」

 上への攻撃は陽動だ。ボディに気をつけろ。

 曺はL字ガードに力を込めた。やや前屈みになり、右腕で顔面を守りながら左を構える。L字ブロックの隙間から、矢継ぎ早にジャブが放たれた。

 左、左、左。

 その拳が仙道の顔を刻む。腫れた目の周囲にも、頬にも、額にも。仙道はそれを受けながら、迷わず前に出てきた。ここで終わらせる。その決意は揺らいでいない。

 身体を左右に振り、頭を動かしながら距離を詰める。まずは押さえつけるような緩いジャブ。曺の視線を上に集めたところへ、強烈なパンチを叩き込もうとする。

 曺は正面から受けなかった。

 身体を回り込ませながら左を連打し、仙道の踏み込みに合わせてダッキングする。頭を沈めてパンチの軌道を外し、肩を使って相手の拳を逸らす。L字ブロックは崩さず、顔面だけでなくボディへの攻撃にも備えていた。

 時折、右が飛ぶ。

 仙道からは見えにくい、大きく回り込む軌道だった。強打というほどの力は込めていない。ただ、拳の先端で左目の下を軽く小突く。仙道が反応するより先に、曺はまた左のジャブを打ち込んでいた。

「Don't get greedy in front of the Japanese crowd.」

 セコンドが釘を刺す。日本の観客の前だからといって、欲を出すな。倒しにいこうとするな、という意味だった。

「I know.」

 曺は小さく答えた。

 分かっている。

 彼は呟きながら、また左を繰り出した。

 仙道は前に出る。曺は回り込み、下がり、ジャブを当てる。重いパンチがガードを叩くたびに観客が沸き、羅刹コールが大きくなる。それでも曺は、目の前の相手だけを見ていた。

 打ち合う必要はない。焦る必要もない。

 ただ、時間を使い切ればいい。

 そして、八ラウンド目のゴングが鳴った。

 曺は、仙道の猛攻を凌ぎ切った。


 ◇


 曺大成は、二〇二六年の年明け早々、世界タイトルを懸けた一戦で再びベルトを手にしていた。

 指名挑戦者として迎えた試合の相手は、ライト級からスーパーライト級、そしてウェルター級へと階級を上げてきた三階級制覇王者だった。アマチュア時代から輝かしい実績を持ち、プロでも長くトップ戦線を歩んできたエリートボクサーである。階級を上げてもその強さは変わらず、厚い肩と背中を持つ頑丈な身体で相手に圧力をかけ続ける。低く構えた姿勢から前へ出て、左右のフックを上下に打ち分ける。相手に考える時間を与えず、近い距離で連打を浴びせるのが彼のスタイルだった。

 その戦い方は、観客を熱狂させる。相手の攻撃を受けても怯まず、さらに踏み込んで殴り返す。顔面へのフックだけでなく、脇腹や肝臓を狙うボディブローも容赦なく繰り出す。多少の被弾を気にせず、相手が疲弊するまで圧力をかけ続ける。試合前の予想では、曺に勝ち目はほとんどないと見られていた。

 しかし、試合は予想を裏切った。

 曺は相手の前進に合わせて細かく位置を変え、得意のフットワークで攻撃をかわしながら、鋭いパンチを返した。相手の強打をまともに受ければ、たちまち試合を終わらせられる。だからといって逃げ続けるだけでは勝てない。曺は相手の懐に踏み込むことも恐れず、危険な距離で打ち合った。

 そして、最後は倒した。

 勝利を手にするために、曺は大きな賭けに出ていた。かつて手術までした右拳を、もう一度壊すかもしれない。それでも構わないと考え、拳の故障を覚悟した強打を繰り出したのだ。慎重にポイントを重ねる、いつもの曺大成ではない。自分の身体に残されたリスクをすべて賭け金にして、勝利を買いにいった。

 結果はKO勝利。圧倒的不利の予想を覆し、曺は再び世界の頂点に立った。

 その試合からしばらくして、曺は池袋の焼肉屋にいた。

 向かいに座っているのは、金元国という男だった。曺が新人王を獲るよりもずっと前から、長年にわたってスポンサーを続けてくれている会社の社長である。従業員は三十人ほど。決して大きな会社ではないが、金は社員を大切にする経営者だった。ベトナム人や韓国人、中国人など、さまざまな国籍の従業員が働いている。会社の規模よりも、そこで働く人間を大切にする。そういう男だった。

 曺のボクシングパンツには、今でも会社のロゴが入っている。

 Mirae。

 韓国語で「未来」を意味する言葉だ。

 かつては多くのスポンサーが曺の周囲にいた。世界王者になり、注目を集め、そして自身の出自をめぐる騒動が起きると、彼らの多くは離れていった。日本での活動が難しくなり、曺が家族を連れてアメリカへ渡ることになっても、金だけは変わらなかった。

 金元国は、曺の父親の幼馴染だった。二人は朝鮮学校の同期であり、金は曺の祖父の親友の息子でもある。曺にとっては、父親の友人であると同時に、祖父の時代から続く縁のある人間だった。

 曺自身は、民族教育を一切受けていない。それが父と母の方針だった。

 民族活動に熱心だった在日二世の祖父がいる手前、家族の国籍をすぐに変えることはなかったらしい。しかし、両親は祖父母が亡くなった後には日本国籍に変えるつもりでいたという。だから曺は、物心ついた頃から石島大成だった。今でも両親はもちろん、妻の美緒も彼を「たいせい」と呼ぶ。「テソン」と呼ぶのは、金社長と祖父母くらいのものだった。

 曺が日本で石島大成として生きてきた時間は長い。自分の出自を知らなかったわけではないが、それを日常の中で意識することもほとんどなかった。

 ところが、世間にそのことを暴かれ、激しいバッシングを受けた後、彼はリングネームを捨てた。石島大成ではなく、曺大成として試合に出るようになった。韓国人として、太極旗を掲げてアメリカのリングに上がる。それは、彼自身が選んだ生き方だった。

 昨年、祖父は八十九歳で亡くなった。

 生前の祖父は、孫がいつか民族名で試合に出ることを望んでいた。曺が石島大成として日本で活躍していた頃も、その気持ちは変わらなかったという。

「お爺さんは喜んでいたぞ」

 金元国が、網の上の肉を眺めながら言った。

「そう言う意味では、良い祖父孝行が出来ました」

 曺はそう答え、焼き上がった肉を皿に移した。

 儒教の影響が強い朝鮮の家庭では、親や祖父母を敬い、大切にすることが重んじられる。金もまた、民族教育を受けて育った人間だった。彼にとって、祖父の願いを孫が叶えたという話は、単にリングネームを変えたという以上の意味を持っていた。

「良いことだ」

 金は短く頷いた。

「次は日本でやるのか? 相手は仙道羅刹だろ? 十分に勝てる相手だ」

「今更、日本でやるのは気が乗りませんね」

 曺はそう言いながら、金の分の肉も焼いていた。

 肉の焼き方を金に仕込まれたのは、拳を壊すよりもずっと前のことだ。まだ若く、ボクサーとしても今ほどの実績がなかった頃、金に連れられて焼肉屋に来るたびに、肉の種類や焼き加減を教えられた。今では自分で焼くことにも慣れたが、金の前では自然と世話を焼いてしまう。

「気が乗らないか」

「はい」

 曺はトングで肉をひっくり返した。

「ならば、家族のためだけに戦えば良い」

 金は当たり前のことを言うように続けた。

「息子は六歳だろ? 来年から小学校か?」

「はい」

「なら、お前の息子に見せてやれ。自分の父親は世界で一番強い男だと見せてやれ。嫁と子供のためだけに戦えば良いんだ。どこで誰と戦うかなんて関係ない」

 曺は返事をせず、焼き上がった肉を皿に置いた。

 金元国は、少し説教くさいところがある。民族としての誇りを持ち続け、誰に対しても分け隔てなく接する博愛主義者である一方、考え方には時代錯誤な部分もあった。何かにつけて昔の教えを持ち出し、若い人間に諭すような話をする。

 それでも、曺はこの男を嫌いになれなかった。

 スポンサーが次々と離れ、曺が家族を連れてアメリカへ渡ることになったときも、金は変わらずに支援を申し出てくれた。

『生活費に困ったら言え。送ってやる。お前はオレの息子みたいなものだからな』

 そう言ってくれたことを、曺は忘れていない。

 金にとって、曺は単なるスポンサー契約の相手ではなかった。父親の幼馴染の息子であり、祖父の親友の孫であり、長い時間をかけて成長を見守ってきた若者だった。

 曺は、焼き上がった肉を金の皿に置いた。

 家族のためだけに戦えば良い。

 金の言葉が、頭の中に残っていた。

 日本で試合をすることに、今さら積極的な気持ちはない。かつて自分を応援してくれた人々の前で、もう一度戦いたいという感情も薄れていた。リングに上がれば、また自分の名前や国籍が話題になるのだろう。仙道羅刹との試合も、きっとボクシング以外の何かを背負わされる。

 だが、息子に見せるためなら、それでいい。

 自分が何者であるかを、誰に認めてもらう必要もない。どこの国の人間だと、誰かに決めてもらう必要もない。

 ただ、父親としてリングに上がる。

 曺はそう決めた。


 ◇


 第九ラウンド開始のゴングが鳴った。

 東京ドームを埋め尽くした観客の声が、再び大きく膨れ上がる。

 仙道羅刹の左目は、もう開いていなかった。まぶたの周囲は大きく腫れ上がり、目の輪郭さえ分からなくなっている。右目だけで相手を捉えなければならない。八ラウンドを戦い抜いた身体にも疲労が蓄積していた。

 それでも仙道は前に出た。

 闘志を剥き出しにし、両腕を高く構えて曺との距離を詰めていく。まだ倒せる。まだ一発ある。そう信じているのか、あるいは信じる以外に選択肢が残されていないのか。大きな身体を揺らしながら、強烈なパンチを振り抜いた。

 だが、当たらない。

 それまでなら曺の身体を捉えていたはずのパンチが、空を切るようになっていた。片目が塞がったことで距離感が狂っている。相手の位置を正確に測れず、踏み込む距離も、拳を伸ばすタイミングも合わない。

 曺はそのわずかな狂いを見逃さなかった。

 仙道が踏み込む。曺は半歩だけ位置をずらす。強烈なフックが目の前を通り過ぎた瞬間、左のジャブを顔面に突き刺し、続けて右、左と拳を送り込んだ。

 一発一発で倒すためのパンチではない。ガードの上から、腕と腕の隙間から、わずかに開いた防御の間を狙って叩き込んでいく。相手の拳が届かない位置から、次々とパンチをまとめる。仙道が反撃しようとすれば、もう曺はそこにいない。

 曺は試合を終わらせにかかっていた。

 ただし、倒しにいっているわけではない。

 無理に強打を狙う必要はなかった。片目が塞がり、距離を測れなくなった相手を、残されたラウンドの間、完封すればいい。パンチを避け、打ち返し、相手の攻撃を封じ込める。残る四ラウンドをこのまま殴り続けるのか、それともその前に主審が試合を止めるのか。決めるのは曺ではなかった。

「諦めるな! まだだぞ。当たれば倒せるぞ!」

 仙道のセコンドが叫んでいた。

 最後までタオルを投げるつもりはないらしい。選手が立っている限り、勝機は残っている。そう信じているのか、あるいは本人の闘志に応えようとしているのか。コーナーからは、何度も前に出ろという声が飛んだ。

 仙道も応えようとした。

 だが、攻撃を仕掛けるたびに曺の連打を浴びた。一つの攻防で三発、四発、ときには五発。仙道がパンチを振るう間に、曺はその攻撃を外し、反撃をまとめて叩き込んでいく。仙道の高いガードも、疲労と視界の悪さで反応が遅れていた。腕を動かして防ごうとしても、その隙間を曺の拳が抜けてくる。

 仙道は、もう曺の連打を受けきれなかった。

 また一度、仙道が大きく踏み込んだ。右の強打を振り抜く。しかし曺はその軌道から身体を外し、すぐさま左、右、左とパンチをまとめた。

 仙道の身体が揺れる。

 さらに一発。

 もう一発。

 防御の手が追いつかず、仙道はただ立っていることしかできなくなっていた。

 その瞬間、レフェリーが二人の間に飛び込んだ。

 仙道の身体を抱き止め、曺を引き離す。試合を続けさせることはできない。そう判断したのだった。

 直後、試合の終わりを告げるゴングが鳴った。

 曺大成のTKO勝ちだった。

 東京ドームは、歓声と怒号が入り交じった騒然とした空気に包まれた。

「早すぎるだろ?」

 どこからか野次が飛んだ。リングにペットボトルが投げ込まれる。試合を止めるのが早いと不満を訴える声もあれば、仙道を心配する声もある。観客の反応は一つではなかった。

 曺はリングサイドに駆け上がることもなかった。両手を突き上げて勝利を誇示することも、拳を振り回して喜びを爆発させることもない。

 ただ、大きな仕事を終えた父親の顔をして、観客席の中にいる家族の姿を探していた。

 リングサイド席ではない。けれども、十分に顔を確認できる場所だった。美緒と息子は、観客席の一角に並んで座っていた。

 曺はトップロープに身体を預けた。

 周囲ではセコンドが駆け寄り、レフェリーが何かを確認し、リングアナウンサーが勝者の名前を告げようとしている。観客の声は途切れることなく響き続けていた。

 そのすべてを無視するように、曺は家族だけを見ていた。

 息子と目が合った。

 少年は嬉しそうに笑っていた。小さな身体を弾ませるようにして、父親の勝利を喜んでいる。その顔を見て、曺も笑った。ロープに身体を預けたまま、息子に向かって拳を突き出してみせる。

 息子も、何かを伝えようとするように身を乗り出した。

 その隣にいる美緒へ、曺は視線を移した。

 そして、口を動かした。

 ありがとう。

 あいしてる。

 どちらだったのか、美緒にはよく分からなかった。声は東京ドームの喧騒にかき消されてしまう。けれど、唇の動きが分かるくらいの距離にはいた。

 美緒は曺を見つめていた。

 曺はもう一度、家族の姿を見た。

 自分の父親は世界で一番強い男だと見せてやれたのだろうか。

 金元国の言葉が、ふと頭に浮かんだ。

 嫁と子供のためだけに戦えば良い。

 どこで誰と戦うかなんて関係ない。

 曺は、ようやくその意味を理解した気がした。

 セコンドが駆け寄ってくる。レフェリーも声をかけている。勝利を祝う者たちが、曺の周りに集まり始めていた。

 それでも曺は、彼らがそこにいないかのように、ずっと家族の方だけを見ていた。

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