前編
東京ドームは、異様な熱気に包まれていた。年末の強烈な寒気も吹き飛ぶ熱気だ。
五万を超える観客が詰めかけたスタンドは、上層階までびっしりと人で埋め尽くされている。リングを照らす無数の照明が、巨大なドームの天井に反射していた。場内を埋めるざわめきは、時折、地鳴りのような歓声となって膨れ上がる。大型ビジョンには、リング中央に設置された四角いキャンバスが映し出され、その周囲を取り囲む観客の姿が幾重にも重なっていた。
日本ボクシング界にとって、歴史的な一夜だった。
メインイベントは、ウェルター級世界タイトルマッチ。
挑戦者は、仙道羅刹。二十五歳。日本ボクシング界中量級のエースであり、日本人初となるウェルター級世界王者の座を狙う男だった。
アマチュア時代から将来を嘱望されたエリートである。国内外の主要大会で実績を積み、パリオリンピックに出場。その実力を引っ提げてプロに転向した。
プロデビュー後の勢いは凄まじかった。
最初の五試合は、ほぼ二ヶ月に一度という異例のハイペースでリングに上がり、そのすべてで勝利を収めた。そこで一度、じっくりと準備期間を設けた六戦目。東洋太平洋王者との一戦を制し、初のタイトルを獲得する。続く七戦目では世界ランカーを撃破。そして今回が、プロ八戦目にして初めての世界挑戦だった。
恵まれた長身に、長いリーチ。試合中は両拳を頬のあたりまで高く引き上げ、堅牢なガードで相手の攻撃を受け止める。そこから繰り出されるパンチは、見た目以上に重い。相手の攻撃を恐れず、確実に距離を詰め、強烈な左右の拳で仕留める。華麗なテクニックで翻弄するというより、真正面から相手を叩き潰すタイプのボクサーだった。
高いKO率は、何よりも分かりやすい魅力だった。
プロ転向と同時に開設したYouTubeチャンネルの登録者数は、すでに百万人を突破している。試合前のトレーニング風景や減量の様子、飾らない日常を公開する一方で、リングに上がれば容赦なく相手を打ち砕く。その分かりやすい強さと親しみやすさが、ボクシングファン以外の層まで取り込んでいた。
対する王者は、韓国の曺大成。三十歳。
十七歳でプロデビューしてから十三年。今夜がちょうど三十戦目となる。戦績は二十九戦二十六勝五KO。数字だけを見れば、挑戦者のような派手さはない。
曺は、仙道とはまるで正反対のボクサーだった。
長身でもなければ、パンチに際立った威力があるわけでもない。むしろ非力な部類に入る。しかし、その身軽さとスピードは一級品だった。相手の攻撃を紙一重でかわし、打っては離れ、離れては動く。十二ラウンドを通じて運動量を落とさず、相手に決定打を許さないままポイントを積み重ねていく。
華やかなKOシーンとは無縁の、徹底したポイントアウト型。観客を熱狂させるという意味では、決して人気の出るスタイルではなかった。
それでも曺は、アメリカに活動拠点を置き、厳しい競争の中で着実にキャリアを積み上げてきた。前戦では、下馬評で圧倒的に不利とされながらも、世界王者を相手に番狂わせを演じてベルトを奪取している。
もっとも、その勝利を日本の観客がどれほど真剣に受け止めていたかは疑わしい。
仙道の圧倒的なパワーを前にすれば、曺の細かなフットワークなどいずれ捕まる。逃げ回るだけでは、いずれ逃げ場を失う。そう考える者が大半だった。
会場の空気も、それを裏付けていた。
大型ビジョンに仙道の姿が映るたび、ドームを揺らすような歓声が上がる。一方、曺の紹介映像が流れても、拍手はまばらだった。観客の関心は、すでに挑戦者がどのラウンドで王者を仕留めるのかという一点に集まっているように見えた。
日本人初のウェルター級世界王者誕生。
それはもはや、期待というより、既定路線のように語られていた。
曺大成に勝ち目はない。
少なくとも、この夜、東京ドームに集まった大多数の人間はそう信じていた。
最初に姿を現したのは、挑戦者の仙道羅刹だった。
場内の照明が落ち、大型ビジョンに仙道の顔が大写しになる。直後、昭和のロックスターが歌った往年の名曲がドームいっぱいに鳴り響いた。イントロが流れた瞬間、観客席から歓声が沸き起こる。若い世代には新鮮に、年配の世代には懐かしく響く選曲だった。
仙道は、両手を軽く振りながら花道を進んでいく。白を基調にしたガウンには、スポンサーのロゴと自身の名前が刺繍されていた。表情に緊張は見られない。時折、沿道の観客に視線を向け、笑顔で拳を突き上げる。そのたびに歓声が大きくなった。
その後ろには、数人のセコンドが続いていた。
中でも目を引くのは、仙道の父親だった。
父親もまた、かつてリングに上がっていた元ボクサーである。息子が幼い頃から指導を続け、アマチュア時代の輝かしい実績も、プロ転向後の快進撃も、常に二人三脚で築き上げてきた。親子で世界を目指す姿は、いつしか「父子鷹」としてメディアに取り上げられるようになっていた。
今日も父親は、息子のすぐ後ろを歩いている。リングに上がる前の仙道が一度だけ振り返ると、父親は短くうなずいた。
それだけで十分だった。
仙道がリングに上がると、ドームの歓声はひときわ大きくなった。日本人初のウェルター級世界王者。その期待を一身に背負った若者の姿に、観客は惜しみない拍手を送っていた。
続いて、チャンピオンの入場が告げられた。
大型ビジョンに映し出されたのは、曺大成の顔だった。
場内アナウンスが、韓国語の読み方で名前をコールする。
「チェ・デフン!」
K-POPアイドルグループのヒット曲が流れ始めた。軽快で華やかなビートに合わせ、花道の両脇で待ち構えていた観客たちがスマートフォンを掲げる。応援団の姿もあったが、会場全体を包む歓声は、先ほどの仙道の入場と比べれば控えめだった。
曺は、ゆっくりと姿を現した。
黒を基調としたガウンをまとい、両手を軽く上げて観客に応える。派手なパフォーマンスはない。笑顔を振りまくこともなく、時折、首を左右に動かしながら淡々と花道を進んでいく。
その後ろを歩くセコンドの顔ぶれは、少しばかり異様だった。
黒人の大柄な男がトレーナーとして付き従い、その隣には白人のカットマンがいる。さらに数人のスタッフが続いていたが、そこに韓国人の姿はなかった。
韓国の世界王者でありながら、彼を支える陣営はまるでアメリカのボクサーのようだった。
曺はアメリカを拠点に活動している。トレーニングも、日常生活も、試合の準備も、すべて現地のチームとともに行ってきた。彼にとって、この黒人トレーナーと白人カットマンは、苦楽をともにしてきた仲間だった。
花道の途中で、曺は一度だけ立ち止まった。
リングを見上げる。
その先には、五万人を超える観客と、すでに入場を終えた挑戦者が待っていた。
曺は小さく息を吐き、再び歩き始めた。
歓声の大きさは、明らかに違っていた。だが、それを気にしている様子はなかった。自分の名前が呼ばれようと、相手の名前が呼ばれようと、リングの上でやることに変わりはない。
彼はチャンピオンとして、東京ドームのリングに向かっていた。
◇
2013年、夏。後楽園ホール。
冷房の効いた場内には、独特の熱気が漂っていた。
リングの上では、すでに次の試合の準備が整っている。客席はまだまばらだった。前座の試合が続く時間帯で、空席の目立つスタンドには、熱心なボクシングファンや関係者らしき男たちがぽつぽつと座っている。売店の方から漂う軽食の匂いと、リング上で選手が動くたびに響くシューズの擦れる音。後楽園ホールでは珍しくもない、いつもの興行の風景だった。
場内アナウンスがマイクを通して響いた。
「青コーナー、デビュー戦、タイソン石島!」
青コーナー側の通路から、一人の少年が姿を現した。
タイソン石島。高校生だった。
黒いトランクスに身を包み、肩には大きめのバスタオルを掛けている。まだ十代の身体は、プロボクサーとしては細く、肩幅も十分に発達していない。胸や腕にも、鍛え上げられた選手特有の厚みはなかった。だが、歩き方には妙な落ち着きがあった。足取りが軽く、無駄な力が入っていない。リングに上がると、軽く二度ほど跳ねて身体をほぐした。
「赤コーナー、一戦一勝、吉田和也!」
続いて、赤コーナーから吉田が入場する。こちらは一度プロのリングを経験している二十歳前後の選手だった。石島よりも身体つきはしっかりしており、胸板にも厚みがある。デビュー戦の高校生を相手に、落ち着いた表情でリングへ上がった。
「ライト級四回戦の試合です」
簡潔な紹介が終わると、両者はリング中央に呼ばれた。レフェリーから注意事項を受け、グローブを合わせる。石島のグローブが吉田のそれに触れた。ほんの一瞬、吉田が少年の顔を見た。相手が高校生だということを、改めて意識したのかもしれない。
ゴングが鳴った。
吉田がジャブを突きながら前に出る。デビュー戦の相手を慎重に見極めようという構えだった。
しかし、石島は下がらなかった。
両拳を頬の前に高く掲げ、顎を引いたまま、一直線に距離を詰める。吉田のジャブがグローブに当たる。石島はそれを気にする様子もなく、さらに一歩踏み込んだ。
次の瞬間、左右の拳が飛び出した。
ジャブやストレートといった教科書どおりの打ち分けではない。ガードを固めたまま相手の懐に入り、左右のフックをぶんぶんと振り回す。大振りで荒っぽい。フォームだけを見れば、洗練されたボクシングとは言い難かった。
だが、速かった。
高校生の身体から繰り出されているとは思えないほど、拳の回転が速い。腕を振り回しているだけに見えて、その一発一発には確かな体重が乗っていた。吉田はガードを固めて応戦するが、石島の連打を受け止めるうちに、徐々に足が止まり始めた。
石島は構わず前に出る。
吉田が右に回り込もうとしたところへ、石島の左フックが飛んだ。吉田のガードがわずかにずれる。その隙間を狙うように、石島の右腕が大きく弧を描いた。
右フック。
拳が吉田の側頭部を捉えた。
乾いた打撃音が、リングサイドまで届いた。
吉田の身体が横に流れた。足がもつれ、何かをつかもうとするように右手が宙をさまよう。だが、そこには何もなかった。次の瞬間、膝から崩れるようにキャンバスへ倒れ込んだ。
レフェリーがすぐさま間に入る。
吉田は仰向けになったまま、動かなかった。
カウントが始まる。だが、三つ数えたところでレフェリーは試合を止めた。意識を失っているのは明らかだった。
ゴングが鳴る。
デビュー戦、第一ラウンドKO。
あまりにもあっけない幕切れだった。
まばらな客席から、遅れて歓声と拍手が起こる。何が起きたのか理解するまでに、少し時間がかかった観客もいた。
石島はリング中央で立ち尽くしていた。
高く掲げていた両拳をゆっくり下ろし、倒れた吉田の方を見る。勝利を喜んで飛び跳ねるでもなく、派手なポーズを取るでもない。セコンドに促されてようやく青コーナーへ戻り始めた。
まだ高校生の身体には、少し大きすぎるグローブがよく似合っていた。
この日、後楽園ホールの客席にいた人間のうち、どれほどが彼の名前を覚えて帰っただろうか。
タイソン石島。
それが、彼のプロボクサーとしての最初の夜だった。
◇
ゴングが鳴った。
東京ドームを埋め尽くす歓声の中、最初のラウンドが始まった。
仙道羅刹は、リング中央に陣取った。両足の幅は狭く、ほぼ正面を向いた構え。顎を引き、両拳を頬の前に高く掲げている。長い腕と大きなグローブで顔面を覆い、相手の動きを正面から見据えていた。余計な動きはない。相手がどこから打ってきても対応できる、堅実なガードだった。
対する曺大成は、広く足を開いていた。
腰を落とし、上体を半身に構える。左肩を前に出し、右手を顔の横に置くL字ブロック。仙道とは対照的に、絶えず小刻みに足を動かしていた。リングの中央に立つ仙道を中心に、円を描くように左右へステップする。
時折、左手が伸びる。
顔面へのジャブ。続けて、今度は腹部へ。強く打ち込むというより、相手の反応を確かめるような軽いパンチだった。
仙道はほとんど動じない。高く構えたグローブで受け止め、曺の動きを目で追っている。
「構うことはない。一発はないぞ」
仙道のセコンドから声が飛んだ。
曺のパンチが当たっても気にするな、という意味だろう。確かに、曺のジャブには目を見張るような威力はなかった。仙道の頬やガードに触れる程度のパンチで、相手を倒すような代物ではない。
仙道は一歩踏み込んだ。
右拳が大きく振り出される。曺は半歩下がってこれをかわした。続く左フックも、上体を傾けて外す。仙道の拳が空を切るたび、観客席からどよめきが起こった。
しかし、仙道は止まらない。
高く構えたガードを崩さず、強引に距離を詰める。左右の拳が次々と振り回された。正確なコンビネーションというより、相手を捕まえるための豪快な連打だった。一発でもまともに当たれば、試合を終わらせるだけの威力がある。
曺はそれを丁寧に避けていく。
頭を左右に振り、腰を沈め、時には上体を大きく後ろへ反らす。仙道の拳が目の前を通り過ぎると、その隙間から左手を伸ばした。
「Don't get hit. We're here to win on points.」
トレーナーの指示が飛んだ。
もらうな。ポイントを取って勝つぞ。
曺は短くうなずいた。
彼のボクシングは、徹底して左を中心に組み立てられていた。左ジャブで顔面を突き、次は低い位置へ打ち込む。仙道がガードを下げれば、今度は顔面へ。時折、鋭い左フックが側頭部をかすめた。
足幅を広く保ったまま、前後左右に出入りする。仙道が踏み込めば、すっと距離を外す。拳が伸びてくれば、ダッキングでその下をくぐる。大きく身体を沈めた姿勢から、再び軽やかに立ち上がる。その動きには無駄がなかった。
仙道はリング中央で構えている。
高いガードの向こうから、曺の姿を見下ろしていた。長身の仙道に対し、低く腰を落とした曺は、まるで相手を見上げるような姿勢になる。二人の体格差は、構えた状態でもはっきりと分かった。
仙道が前に出る。
曺はすっと後退しながら、前に出した左手を伸ばした。
コツン。
仙道の顔面にジャブが当たる。
もう一発。
今度はガードの隙間を狙うように、左手が軽く触れた。さらに左、左。小刻みな連打が続く。どれも決定打にはならない。だが、仙道が攻撃を仕掛けようとする瞬間に、曺の拳が先に届いていた。
右も出る。
しかし、こちらも相手を倒すための強打ではなかった。肩と腕の力を抜き、手首のスナップを利かせて弾くように打つ。右ストレートというより、左の連打に変化をつけるための一発だった。
左、左、左、右。
また左。
曺は大きく踏み込むことも、力いっぱい拳を振るうこともない。仙道のガードに触れ、顔面をかすめ、身体に軽く当てては離れる。その繰り返しだった。
仙道はなおも中央に立ち、曺を捕まえようとしている。
東京ドームの観客にとっては、少しじれったい展開だった。
挑戦者が前に出る。王者が逃げる。仙道の拳が空を切る。曺の軽いパンチが当たる。
派手な打ち合いにはならない。
それでも、リングの上では確実に何かが積み重なっていた。曺の左手が仙道の顔に触れるたび、そして仙道の強打が空を切るたびに、わずかながら試合の流れが形を変えていく。
曺大成は、まだ一度も本気で力を込めたパンチを打っていなかった。
◇
2014年、夏。後楽園ホール、医務室。
興行を終えたばかりの会場には、まだ試合の余韻が残っていた。廊下の向こうからは、撤収作業をするスタッフの声や、選手と関係者が交わす話し声が聞こえてくる。
その一角にある医務室で、タイソン石島は椅子に腰掛けていた。
右手には大きなアイスパックが当てられていたが、腫れは隠しきれない。グローブを外した拳は赤黒く変色し、指の付け根から手の甲にかけて、ひどく膨れ上がっていた。手を握ろうとしても、痛みでまともに力が入らない。
デビューから三戦。石島はそのすべてをKO勝利で飾っていた。
高校生とは思えないパンチ力と、相手を倒すことを恐れない強気なファイトスタイル。デビュー戦での鮮烈なKOを皮切りに、二戦目、三戦目も相手をマットに沈めた。試合数こそまだ少ないものの、所属ジムでは早くも将来を期待される存在になっていた。
ただ、その代償も小さくなかった。
医師は石島の右手を慎重に触診し、何度か角度を変えて状態を確かめた。石島は顔色ひとつ変えずにそれを見つめている。痛みがないわけではない。むしろ、少し触れられるだけでも鈍い痛みが腕の奥まで響いていた。
医師はレントゲン写真を確認すると、困ったように眉を寄せた。
「これは折れてるなぁ」
淡々とした口調だった。
石島は一度だけ医師の顔を見た。
「骨折ですか」
「うん。しかも、ちょっと厄介だね。自然にくっつくのを待つより、手術した方がいい。固定して、しばらく安静にしないと」
「どれくらいですか」
「手術して、リハビリも含めると半年くらいは見ておいた方がいいかな。もちろん、その間はスパーリングもできないよ」
半年。
医師にとっては、決して珍しい数字ではなかったのだろう。だが、石島にとっては長すぎる時間だった。
ようやく三戦を終えたところだった。これから試合を重ねて、もっと強くなって、上を目指していく。そのために毎日練習してきたのに、半年もリングから離れなければならない。
石島は腫れ上がった右拳を見下ろした。
その拳で、三人の相手を倒してきた。
医師が席を外すと、付き添っていたトレーナーが隣の椅子に腰を下ろした。腕を組み、しばらく石島の顔を眺めていたが、やがて口を開いた。
「どうする石島? 来年には高校卒業だろ? やっぱり大学行っとくか?」
冗談めかした言い方だったが、目は真剣だった。
プロボクサーとして生きていくのは簡単ではない。特に十代の選手が、ボクシングだけで生活できるようになるまでには時間がかかる。ファイトマネーが入るとはいえ、四回戦の新人に十分な収入があるわけではない。怪我をすれば、その収入さえ途絶える。
高校を卒業した後の進路を考える時期でもあった。
トレーナーとしては、大学に進学するという選択肢を残しておいてほしかったのだろう。学歴を得ながらボクシングを続けることもできる。怪我や不調で競技を続けられなくなった場合のことも考えなければならない。
石島は少し考えるように黙っていた。
去年のデビュー戦の頃と比べれば、身体つきはずいぶん変わっていた。肩回りには厚みが増し、腕も太くなっている。まだ成長途中の身体ではあったが、日々のトレーニングの成果は確実に表れていた。
「いや。自分はボクシング一本で行きたいです」
石島は、腫れた右手を膝の上に置いたまま答えた。
「プロ一本で行けるまではバイトして金稼いで、ボクシングやります」
迷いのない口調だった。
トレーナーは小さく息を吐いた。
「簡単じゃないぞ。生活だって楽じゃない」
「分かってます」
「半年も練習できないんだぞ」
「治します」
石島は短く答えた。
その言葉には、強がりとも違う、妙な確信があった。
右拳はひどく腫れ上がっていた。これから手術を受け、長いリハビリをしなければならない。復帰したところで、以前と同じようにパンチを打てる保証もない。
それでも石島は、ボクシングを辞めるという選択肢を考えていなかった。
トレーナーはそんな少年の横顔を見つめ、苦笑する。
医務室の白い壁に、廊下から漏れる興行終了のアナウンスが反響していた。彼のプロキャリアは、まだ始まったばかりだった。
◇
第二ラウンドのゴングが鳴った。
曺大成は、再び広いスタンスを取った。左足を前に出し、右肩を引いた半身の構え。左腕を前方に伸ばし、右拳を顔の横に置くL字ガードだった。足は止まらない。小刻みにステップを踏みながら、上半身もわずかに揺れ続けている。まるで身体全体が一つのリズムを刻んでいるようだった。
仙道はガードを高く掲げて前に出る。
右のストレートが飛んだ。
曺は左手で軽く払い落とす。パリング。続く左フックには腰を沈めて潜り込み、ダッキングでかわした。仙道がさらに踏み込むと、今度は後ろ足に体重を移してバックステップ。長い腕から繰り出された拳は、曺の顔の前を通り過ぎていった。
その一連の動作に、ほとんど無理がなかった。
もちろん、すべてを避けられるわけではない。仙道のジャブが頬に触れることもあったし、大きなグローブが額やガードを叩くこともある。しかし、いずれも拳の芯を捉えたクリーンヒットではなかった。曺は当たる瞬間に身体をずらし、衝撃を逃がしている。
「パンチ無いぞ。ガンガン行けよ」
仙道のコーナーから声が飛んだ。
セコンドは曺のパンチを警戒していない。実際、ここまで曺の攻撃で仙道が大きくよろめいた場面はなかった。ならば恐れることはない。前に出て、強いパンチを叩き込めばいい。
仙道はその指示に従うように、プレッシャーを強めた。
しかし、曺は下がるだけではなかった。
仙道が踏み込んだ瞬間、右のカウンターが飛ぶ。大きく振りかぶるパンチではない。短く、鋭く、タイミングを合わせた右だった。仙道が一瞬だけ動きを止める。その隙に曺の左が続けざまに伸びた。
左、左、右、左。
素早い連打が仙道のガードを叩き、前進を押し返す。
パンチ自体に倒すほどの威力はない。だが、だからといって無視できるものでもなかった。顔面に何発もパンチを受ければ、たとえダメージが小さくても、ジャッジには攻撃を許しているように映る。仙道が前進しているというだけで、ラウンドを取れるわけではないのだ。
この試合の採点は、十ポイント・マストシステムで行われている。各ラウンドで優勢だった選手に十点、劣勢だった選手に九点以下を与える方式だ。ダウンなどがなければ、接戦のラウンドは十対九になることが多い。
世界タイトルマッチは十二ラウンド制。引き分けなら王者の曺がベルトを保持する。
つまり、仙道は十二ラウンドのうち、少なくとも七ラウンドを取らなければならない。
KOを狙うだけなら話は簡単だった。だが、判定まで持ち込まれた場合、仙道には一つも落とせないような重圧がある。曺は、ただ逃げ回っているわけではない。確実に自分のポイントを積み上げようとしていた。
曺のコーナーから英語の指示が飛ぶ。
「He's keeping his guard high. Work the body. Take the points.」
ガードが高い。ボディを攻めろ。ポイントを取れ。
曺の左が、今度は仙道の腹部へ伸びた。
高く掲げられた仙道の両拳の下を狙うように、左ジャブが上下に打ち分けられる。顔面を突いたかと思えば、次の一発はみぞおちのあたり。仙道がガードを下げれば、すぐに顔面へ戻る。
さらに曺は、右のフックをボディに打ち込んだ。
肝臓は人体の右側にある。ボクシングで肝臓打ちと呼ばれる左フックのような、急所を狙った一撃ではない。右フックで相手の左脇腹を叩いても、同じような効果は期待できない。それでも、ボディへの攻撃は採点上の有効打になる。高いガードを崩すためにも、仙道の意識を上下に散らすためにも意味があった。
仙道の右が振り下ろされる。
曺はダッキングでその下をくぐった。仙道が体勢を立て直して前に出ようとした瞬間、左ジャブを合わせる。拳が仙道の顔面に触れた。続けてもう一発。今度はガードの上からだった。
「気にするな羅刹。パンチをまとめろ。単発になるなよ。打たせて打てよ。正面からぶつかれば勝てるぞ」
仙道のセコンドは、消耗戦に持ち込みたいようだった。
フィジカルでは仙道が圧倒的に有利だと考えているのだろう。長身で、リーチがあり、パンチ力もある。曺の攻撃を多少受けたところで、力で押し切れるという判断だった。
しかし、実際には仙道の前進は、曺の左手によって何度も止められていた。
曺のパンチは軽い。だが、当たるタイミングがいい。仙道が足を踏み出す瞬間、体重を前に移す瞬間、拳を振り出そうとする瞬間。そうした動作の節目に、曺の左が正確に差し込まれる。力任せに進もうとすればするほど、細かなパンチを浴びることになる。
曺のコーナーからも声が響いた。
「Stop throwing single shots. Put your punches together. Show the judges you're working.」
単発はやめろ。連打しろ。ジャッジに攻めているところを見せろ。
曺は忙しく動き続けた。
時折、右のオーバーハンドを大きく振り下ろす。仙道の高いガードを越えようとする軌道ではあったが、力を込めて倒しにいくというより、相手の視線と意識を上に向けるためのパンチだった。そのまま左を二発、三発と続け、仙道が反撃に出る前に距離を外す。
出入りの仕方も一定ではない。後ろに下がったかと思えば、斜めに踏み込んで左を打つ。正面から離れるように見せて、急に角度を変えて戻ってくる。相手に攻撃のタイミングを読ませない。
このスピードとペースで、ポンポンポンポンとパンチを出し続ける。
それが曺大成のボクシングだった。
「身体を振って強引に入れ!」
仙道のコーナーから、再び檄が飛ぶ。
仙道は両肩を大きく揺さぶりながら、曺に向かって突進した。ガードを固めたまま、頭を左右に振って距離を詰める。細かな駆け引きを無視して、身体ごと相手を押し込もうという強引な攻めだった。
曺は正面から受け止めなかった。
仙道が突っ込んでくる方向を見極めると、すっと左へ回り込む。まるで闘牛士が牛の突進をかわすような動きだった。仙道の長い腕が空を切る。その脇を抜けながら、曺の左拳が連続して飛んだ。
左、左、左。
仙道が振り返る頃には、曺はすでに別の角度に移動していた。
残り時間を告げる拍子木が鳴る。
ラウンド終了まで、あとわずかだった。
曺はそこで、あえて距離を取らなかった。
仙道のガードの前に踏み込み、左をまとめて打ち込む。顔面、ガード、ボディ。拳の威力よりも手数を優先した連打だった。仙道は両腕を固めて受け止める。そこへさらに左、右、左。最後まで攻め続け、終了のゴングが鳴る直前までパンチを浴びせた。
ゴングが鳴った。
曺はすぐに身体を離し、自分のコーナーへ戻っていく。
「Good. That's exactly what we needed. You did a great job that round.」
よし。よくやった。いい仕事ができたラウンドだったぞ。
黒人トレーナーが曺の肩を叩いた。
曺は椅子に腰を下ろし、マウスピースを外した。息は上がっているが、表情に大きな変化はない。トレーナーが水を口に含ませ、カットマンが顔を確認する。
東京ドームの巨大なスクリーンには、インターバルに入った二人の姿が映し出されていた。
第二ラウンドが終わった。
◇
2016年、冬。後楽園ホール。
興行を終えたばかりのホールには、まだ熱気が残っていた。リングの上では次の試合に向けた準備が始まり、客席では帰り支度をする観客たちの声が交じり合っている。そんな喧騒から少し離れた一角で、試合を終えたばかりの若いボクサーが記者たちに囲まれていた。
「それでは、全日本新人王決定戦、スーパーライト級を制したスイートピー石島選手に来て頂いてます」
司会者の紹介に、カメラのシャッター音が重なった。
石島は少し照れたように笑い、マイクを受け取った。
リングネームは、いつの間にかスイートピー石島になっていた。本人が望んだ名前ではない。ジムの会長が勝手に決めたものだった。
由来は、往年の名ボクサー、パーネル・ウィテカーである。卓越したディフェンスと、相手のパンチを紙一重でかわす身のこなし。軽やかなフットワークでリングを支配した、稀代のスピードスターだ。会長は、右拳を痛めて以来、戦い方を一変させた石島に、その愛称を与えたのだった。
もっとも、本人は最初、ひどく嫌がっていた。スイートピーなどという可愛らしい花の名前が、自分の風貌にもボクシングにも似合うとは思えなかったからだ。しかし、会長は聞く耳を持たなかった。
現在の戦績は八戦八勝、三KO。
デビュー当時の石島は、相手の懐に飛び込んでは左右のパンチを力任せに振り回す、荒削りなファイターだった。拳を痛める前までは、その勢いと一発の威力で相手をなぎ倒してきた。だが、右拳の負傷は、彼から最大の武器を奪った。
半年間、まともに拳を使えない日々。リングから遠ざかることを余儀なくされた石島は、その時間を無駄にはしなかった。
踏み込みの角度、重心の移動、相手との距離。ひとつひとつを見直し、フットワークとディフェンスを徹底的に磨いた。パンチを打てないなら、打たれない技術を身につければいい。そう考えたのか、あるいは、ほかに選択肢がなかったのか。
復帰した石島は、以前とは別人のようなボクサーになっていた。
相手の攻撃をわずかな動きで外し、打ち終わりに素早くパンチを返す。深追いはせず、危険な距離に長居もしない。派手なKOこそ減ったものの、試合の主導権を握り、着実にポイントを積み重ねる。かつての荒々しいファイターは、スピードとディフェンステクニックを武器に相手を翻弄するアウトボクサーへと変貌していた。
その新しいスタイルで勝ち星を重ね、ついに全日本新人王の座を手にしたのである。
「次は、やっぱり日本タイトルが目標ですか?」
記者の質問に、石島は大きくうなずいた。
「そうですね。日本王者になって、早く彼女を安心させたいですね」
そう答えると、二十歳の若者は照れくさそうに歯を見せた。
記者たちの間から笑い声が漏れ、再びカメラのシャッターが鳴った。リングの上で見せる冷静な表情とは違い、そこにいるのは、将来の夢と恋人のことを語る、ごく普通の若者だった。
◇
第三ラウンド開始のゴングが鳴った。
コーナーから立ち上がった仙道羅刹は、開始と同時にリング中央へ踏み込んだ。
左目の周囲が赤く腫れ始めている。まだ視界を塞ぐほどではないが、まぶたには明らかな膨らみがあった。二ラウンドを終えた時点で、仙道のセコンドは曺にポイントを取られたと見ていた。派手な攻撃を仕掛けているのは仙道の方だが、空振りが多く、曺はその隙間を縫うようにパンチを当てている。手数でも、正確さでも、相手に上回られていた。
このラウンドは落とせない。
少なくとも、ここで流れを引き戻しておきたかった。
仙道はガードを高く構え、曺の逃げ道を塞ぐように前進した。今度こそ捕まえて、強烈なパンチをまとめて叩き込む。会場の観客も、それを期待していた。
だが、曺のスピードは落ちなかった。
仙道が強気に出てくるなら、こちらも迎え撃つ。そう言わんばかりに、曺はさらに動きを速めた。細かいステップで位置を変え、仙道の踏み込みに合わせて左を差し込む。これまでの、軽く弾くようなスナッピーなパンチだけではない。時折、身体の軸を乗せた強い右ストレートが、仙道のガードを打ち抜くように伸びてきた。
仙道が前に出ても、曺はクリンチに逃げなかった。
抱きついて相手の攻撃を止めることも、レフェリーに割って入らせることもない。仙道が打ってくるなら、同じように打ち返す。相手の圧力を正面から受け止めるのではなく、わずかに角度を変えながら、打ち返せる場所に立ち続ける。
曺にKOを狙うつもりはなかった。
試合前から、彼のプランは明確だった。序盤でポイントを取り切る。仙道の強打をまともにもらわず、手数と正確さでラウンドを積み重ねる。中盤以降に相手が焦り始めれば、さらに戦いやすくなる。
ここで流れを渡すわけにはいかなかった。
左、左、左。
ジャブを連ねるだけではない。三発目に左のアッパーを混ぜ、仙道の高いガードの内側を狙う。顔面を意識させたところでボディへ打ち分け、また顔へ戻す。仙道が反撃に出れば、すぐに位置を変えて次のパンチを打つ。
曺はバックステップとダッキングを多用していたが、スウェーバックはほとんど使わなかった。上体を大きく反らして相手のパンチをかわすのではなく、足を動かし、頭の位置をずらす。相手の攻撃を避けたあと、すぐに反撃できる姿勢を崩さないためだった。
逃げるためのディフェンスではない。
打ち返すためのディフェンスだった。
ジャブの差し合いで、仙道の左が曺の顔をかすめた。グローブが頬を叩く乾いた音が、リングサイドまで届く。
その瞬間、東京ドームがどよめいた。
仙道のパンチが当たった。それだけで観客の反応が大きく膨らむ。彼らは、この試合を見に来たのだ。日本人初のウェルター級世界王座挑戦者が、韓国の王者を豪快にノックアウトする瞬間を。
だが、曺にその期待に応える義理はなかった。
彼は淡々と動き続けた。細かく位置を変え、相手の攻撃を外し、パンチを当てる。大きな見せ場を作ろうとはしない。派手な連打も、力任せの打ち合いも必要ない。ただ、仙道を少しずつ刻み続ける。
そして、時折、何の予備動作もなく右が飛んだ。
ノーモーションの右ストレート。
肩も腰も大きく動かさず、構えの中から突然伸びてくる。仙道のガードの隙間を狙い、顔面を捉える。威力は決して侮れない。
それでも、仙道のセコンドは声を張り上げた。
「右は無視しろ。右の強打はない! アイツの右はガラスの拳だ。額で受けろ。折れるぞ!」
曺の右拳に強打を打てるだけの力はない。そう判断しているのだろう。仙道のセコンドは、右を警戒して足を止めるよりも、前進を続けることを選んだ。
一方、曺のコーナーからも指示が飛ぶ。
「That's fine. Keep your distance and focus on your defense.」
そのままでいい。距離を保ち、ディフェンスに集中しろ。
曺は指示通り、無理に打ち合おうとはしなかった。仙道が圧力を強めるたび、半歩下がり、横へ回る。仙道のパンチが届く距離から逃れたと思えば、すぐにまた左を差し込む。
仙道がどれだけ圧力を掛けても、曺を捕まえることができない。
「回り込んで打て。止まるな。パンチを集めろ!」
仙道のセコンドが叫んだ。
正面から追いかけるだけでは、曺の足に追いつけない。相手の進行方向を塞ぐように回り込み、逃げる先を限定する必要があった。仙道は左右にステップを踏みながら距離を詰め、拳を振るう。だが、曺はその動きに合わせて、さらに角度を変えていく。
ラウンド終盤。
曺はそれまでの動きを崩さないまま、突然ギアを上げた。
左、左、右。さらに左を重ねる。仙道のガードに阻まれても構わず、手を止めない。顔面からボディへ、再び顔面へ。最後の数秒を使い切るように、連打を畳み掛けた。
それはKOを狙った攻撃ではなかった。
ラウンドを終える直前、手数を見せる。自分が攻めていたことを、ジャッジに印象づけるための連打だった。
ゴングが鳴る。
曺はすぐに手を下ろし、何事もなかったように自分のコーナーへ戻っていった。
その背中に、東京ドームの観客席からブーイングが浴びせられた。
期待していた打ち合いは起こらなかった。仙道は前に出続けたが、曺を捕まえられなかった。強烈な一発も、劇的なダウンシーンもない。観客が見たかった試合とは、あまりにも違っていた。
曺はブーイングを振り返りもしなかった。
コーナーに戻った曺は、腰を下ろすと、セコンドに顔を向けた。
「I'm a little worried. I don't know how the Japanese judges will score this fight.」
日本の審判がどう採点するのか分からない。少し怖いな。
曺は息を整えながら、苦笑した。自分のパンチが当たっていることは分かっている。ラウンドを取れているという手応えもあった。だが、敵地での世界戦だ。ジャッジの採点まで思い通りになるとは限らない。
セコンドは曺の肩にタオルを掛け、落ち着いた声で答えた。
「You'll be fine. Just don't get hit. But if you take even one clean shot, they'll say he did more damage and give him the round. Don't get lazy with your defense.」
大丈夫だ。パンチを食らわなければいい。ただし、一発でもまともに食らえば、ダメージで上回ったなどと言い訳されて、向こうにポイントをつけられる。ディフェンスをサボるな。
曺は小さくうなずいた。
ブーイングがまだ遠くに聞こえていた。だが、彼はそれを気にする様子もなかった。
◇
2018年、秋。水道橋駅前の居酒屋。
店の奥にある座敷席は、ジム関係者で埋め尽くされていた。テーブルには枝豆や唐揚げ、刺身の盛り合わせが並び、壁際には空いたビール瓶が早くも何本か転がっている。普段は練習の合間に顔を合わせるトレーナーや選手たちも、この日ばかりはジャージ姿ではなく、思い思いの私服で集まっていた。
主役は、石島大成だった。
スーパーライト級で全日本新人王を獲得してから二年。右拳の負傷による長いブランクを乗り越え、アウトボクサーとしてスタイルを確立した彼は、着実に勝ち星を重ねてきた。そして今日、ついにウェルター級の日本タイトルを手にしたのである。
会長が立ち上がり、ビールの入ったジョッキを高く掲げた。
「ついに我がジムのホープ、石島大成が日本王者を獲得した事を祝って、乾杯!」
「乾杯!」
威勢のいい声が店内に響き、ジョッキやグラスがぶつかり合った。あちこちで拍手が起こり、石島の肩を叩く者もいれば、早くも次の世界戦を口にする者もいる。
当の石島は、少し照れくさそうに笑いながら、手元のグラスを口に運んだ。中身はコーラだった。
試合を終えたばかりで、顔にはまだ腫れが残っている。さすがに今日は酒を控えるように言われていた。日本王者になった夜くらい飲ませてやれ、という声もあったが、本人は素直に従っている。ボクサーとしての自覚なのか、それとも隣に座る彼女にたしなめられたからなのかは分からない。
彼女の名前は美緒。高校時代から付き合っている恋人だった。
すらりとしたスタイルの良い女性で、派手に着飾ることはないが、座敷の中でも自然と目を引く。石島の隣に座り、周囲の賑やかな会話に笑顔で相槌を打っていた。
石島が右拳を痛め、手術を受けたときも、美緒はそばにいた。思うように練習できず、復帰の見通しも立たない時期。焦りや苛立ちを抱えた石島を、彼女は急かすことなく支え続けた。リハビリに付き添い、練習の再開を見守り、勝てない時期にも変わらず応援してくれた。
ボクシングを続けることができたのは、彼女の存在があったからだと、石島自身が一番よく分かっていた。
美緒は来年、看護大学を卒業し、看護師として働き始める予定だった。これからは彼女自身にも新しい生活が待っている。石島はそのことを誰よりも喜んでいた。
ひとしきり周囲が盛り上がったところで、会長が石島に声を掛けた。
「おい、石島。お前も何か一言くらい言えよ」
視線が一斉に集まる。石島は少し困ったように笑い、グラスをテーブルに置いた。それから隣の美緒をちらりと見て、照れくさそうに口を開いた。
「美緒が居てくれたんで、今日の僕が居ます。本当に美緒に感謝してます」
その言葉に、周囲から一斉に歓声が上がった。
「おお、言うねえ!」
「日本王者の次は結婚か?」
「美緒ちゃん、大事にしろよ!」
囃し立てる声に、石島は顔を赤くして笑った。美緒も頬を染めながら、彼の腕を軽くつつく。
店内は再び笑い声に包まれた。
石島大成にとって、この夜は初めて日本王者になった記念すべき夜だった。そして、リングの上で勝ち取ったベルトを、誰よりも見せたい相手が隣にいる夜でもあった。
◇
第四ラウンド開始のゴングが鳴った。
曺大成は、これまでと変わらない構えでリング中央へ出た。右手を顔の前に置き、左手を低めに構える。L字型のガード。右で相手の攻撃を受け、左で先手を取り続ける。それが曺の基本戦術だった。
細かいステップで動き続ける。時には大きく跳ねることもなく、ただ歩くように位置を変える。リングの上を忙しなく動き回っているようには見えない。それでも、気がつけば仙道との距離が変わり、立ち位置が変わり、攻撃の角度が変わっている。
曺は自分から展開を作り続けていた。
そのときだった。
仙道の左が、曺の顔を捉えた。
ジャブに近い軌道から放たれた左フック。大きく振り回したパンチではない。踏み込みに合わせて短く放たれた一撃が、曺の顎を跳ね上げた。
それまで曺の動きを追い切れずにいた仙道のパンチが、初めてはっきりと顔面を捉えたのだ。
東京ドームが沸いた。
曺は一瞬だけ上体を崩したが、すぐに体勢を立て直した。後退することなく、左のジャブを連打して仙道を牽制する。打たれた直後に反撃することで、相手に攻勢を続けさせない。ダメージを悟らせないためでもあり、仙道に流れを渡さないためでもあった。
コーナーから声が飛ぶ。
「Don't worry about the score. Stick to the plan. Keep doing your job.」
得点は気にするな。プラン通りだ。仕事を続けろ。
曺は聞こえているのかいないのか、表情を変えずに左を差し込んだ。
だが、仙道はもう止まらなかった。
ワンツー。左のジャブに続く右ストレート。その二発目が、曺のガードの隙間を抜けて顔面に刺さった。
仙道がギアを上げたのだ。
それまでのように大きく振り回すのではなく、前に出ながらコンビネーションをまとめてくる。左で道を作り、右を打ち込む。曺が動き出す前に、次のパンチを重ねていく。
会場の歓声が、さらに大きくなった。
ようやく仙道のパンチが当たり始めた。観客の期待が、リングの上に一気に押し寄せる。
「Uppercut! His guard is open!」
アッパーだ。ガードが甘いぞ。
曺のセコンドが叫んだ。
仙道はその声に応えるように、さらに強引に距離を詰めてきた。ここで流れを掴もうとしている。曺を後退させ、ロープ際に追い込み、得意の連打を叩き込むつもりだった。
だが、曺はその踏み込みを待っていた。
仙道が頭を下げて入ってくる瞬間、右のアッパーを突き上げる。顎を狙った鋭い一撃が、仙道の前進を止めた。
それでも仙道は下がらない。
曺は右のガードを高く保ち、ダッキングとフットワークで続く攻撃をかわしていく。L字のガードを崩さず、仙道の動きを見据える。顔を守りながら、左を打ち、右を返し、再び左を重ねる。相手の攻撃を避けるだけではない。常に反撃の機会をうかがい、連打を見せて仙道の攻勢を寸断していた。
だが、先ほどの二発は確かに曺に効いているようだった。
動きそのものは衰えていない。足も止まっていない。しかし、これまでのような余裕が少しずつ失われていた。左を差し込むタイミングがわずかに遅れ、連打の切れも鈍くなっている。仙道のパンチを警戒するあまり、攻撃に移るまでの間が長くなっていた。
一方、仙道のコーナーは勢いづいていた。
「よし! 羅刹。そのまま行けよ。倒せるぞ!」
セコンドの声に、仙道はさらに前へ出る。観客の歓声もそれを後押しする。ここまでの三ラウンドで見せていた一方的な展開が、少しずつ変わり始めていた。
それでも、曺のコーナーに焦りはなかった。
「Don't get emotional. Stick to the game plan. Don't back straight up.」
ムキになるな。仕事をしろ。真っ直ぐ下がるな。
百戦錬磨のセコンドは、曺が打たれたことにも、仙道が勢いづいたことにも動じていなかった。相手のパンチが当たり始めたからといって、ここで打ち合いに付き合う必要はない。真っ直ぐ後退すれば追い込まれる。角度を変え、距離を保ち、これまで通りにポイントを積み重ねる。それだけだった。
曺もまた、コーナーの指示を理解していた。
仙道の連打を受け止めることなく、横へ回り、左を返す。時折、右のアッパーをちらつかせて踏み込みを牽制する。仙道の攻撃は確かに鋭さを増していたが、曺もまた、簡単には捕まらなかった。
そして、第四ラウンド終了のゴングが鳴った。
曺はコーナーへ戻ると、椅子に腰を下ろす前にセコンドへ顔を向けた。頬には汗が浮かび、呼吸も少し荒い。
「Shit. We lost that one. Three-one?」
クソ。今のは取られた。これで三対一か?
セコンドはタオルで曺の顔を拭きながら、静かに首を振った。
「No. We might have lost the first round, too. It's two-two.」
いや、最初のラウンドも持っていかれている可能性が高い。二対二だ。
曺は短く息を吐いた。
四ラウンドを終えて、互角。少なくとも、彼らの見立てではそうだった。
リングの反対側では、仙道のコーナーが盛り上がっている。東京ドームの観客も、試合が動き始めたことを感じ取っていた。
曺はグローブを握り直した。まだ試合は半分も終わっていない。




