番なしの娘
この国では、恋は鼻でするものだ。
獣人たちは成人を迎える頃、たったひとりの相手の匂いに気づく。甘いとも、懐かしいとも言われるその香りを持つ者が「番」。一生に一度、魂で結ばれる運命の相手。
だから匂いを持たない私は、誰にも見つけてもらえない。
「ミラ。お前との婚約は解消させてもらう」
ロウェル商会の応接間。クラウス様は、私の顔を見ずにそう言った。
隣には義妹のジゼルが座っている。艶やかな赤毛の尻尾が、ゆっくりと揺れていた。
「ジゼルが俺の番だとわかった。……悪く思うな」
「番なし同士の婚約なんて、どうせ形だけだったでしょう?」
ジゼルが笑う。ふわりと、甘ったるい花の香りがした。
私は少しだけ首を傾げた。
その香りは、先月ジゼルが王都の香水店で買っていた瓶と、よく似ている気がしたから。
けれど、口には出さなかった。
言ったところで、匂いのわからない私の言葉など、誰も信じない。
「わかりました」
それだけ答えると、クラウス様は拍子抜けしたように眉を上げた。
継母がため息をつく。
「本当に可愛げのない子。……ちょうどいいわ。北方騎士団の砦が、下働きを探しているそうなの」
北方騎士団。国境の雪山で魔獣を食い止める、荒くれ者の集まり。
商家の娘が行く場所ではない。つまり、そういうことだ。
「行きます」
私は頭を下げた。
父は、最後まで帳簿から顔を上げなかった。
◇
荷造りは一晩で済んだ。
着替えが三着。裁縫道具。母の形見の小さな鋏。
それから、自分で書きためた覚え書きの束。
覚え書きには、いろいろなことが書いてある。
古い布を煮て消毒する方法。保存食の傷まない積み方。乾燥させると咳止めになる草の見分け方。
どこで覚えたのか、自分でもよくわからない。
ただ、幼い頃から時々、知らないはずの手順がふっと頭に浮かぶことがあった。
夢の中で、白い服を着て誰かの世話をしていたような——そんな、ぼんやりとした記憶と一緒に。
深く考えたことはない。考えても、仕方がないから。
◇
北の砦に着いたのは、十日後のことだった。
灰色の石壁。凍てつく風。門番の熊獣人は、私の顔を見るなり鼻をひくつかせ、眉をひそめた。
「……匂いがしねえな。本当に獣人か?」
「狐です。一応」
耳を見せると、門番は気味悪そうに目を逸らした。慣れている。
案内されたのは、砦の奥の執務室だった。
「団長。新しい下働きです」
机に向かっていた男が、顔を上げた。
黒い髪に、黒い狼の耳。左の頬から首筋にかけて、古い傷痕が走っている。
灰色の瞳は静かで、どこか疲れているように見えた。
ルーカス・グレイ。北方騎士団長。
十年前の大戦で魔獣の毒を浴び、嗅覚を失った——と、道中で聞いた。
彼はペンを置くと、立ち上がって私の前まで来た。
「遠いところをよく来てくれた。北方騎士団長のルーカス・グレイだ」
「ミラ・ロウェルと申します」
頭を下げると、団長は少しだけ困ったように眉を寄せた。
「先に言っておかなければならないことがある。ここは寒く、人手も足りない。仕事は厨房と洗濯が中心になるが、決して楽ではないと思う」
「はい」
「それから——、」
団長は一度言葉を切り、まっすぐに私を見た。
「君の事情は、紹介状で大まかに知っている。だが、ここではそれを理由に君を扱うつもりはない。もし部下が無礼を働いたら、遠慮なく私に言ってほしい」
「……ありがとうございます」
「礼を言われるようなことではない。当然のことだ」
団長はそう言って、扉の外に控えていた騎士を呼んだ。
「部屋と厨房に案内してやってくれ。……ミラ殿、何か足りないものが殿、と。
下働きの娘に、彼はそう言った。
◇
厨房は、ひどい有様だった。
床には泥。鍋には焦げ付き。食料庫を覗くと、芋の袋の底が湿って芽が出ている。干し肉は湿気った場所に積まれ、一部に白いものが浮いていた。
「新入りか。まあ、適当にやってくれ」
料理番の老兵——片足を引きずる猪獣人のバルトさんは、そう言って椅子で居眠りを始めてしまった。
私は袖をまくった。
芋を袋から出して、風の通る棚に並べる。傷んだ干し肉は取り除き、残りは火のそばの乾いた壁際へ。
鍋は灰と砂で磨く。床は熱湯で流す。
手が勝手に動く。こうするものだと、知っている気がした。
日が暮れる頃、ようやく厨房は「台所」と呼べる程度にはなった。
「……おい、なんだこりゃ」
目を覚ましたバルトさんが、ぽかんと口を開けている。
「すみません、勝手に片付けてしまいました」
「いや、謝るこたぁねえが……」
その夜の夕食は、いつもの塩辛い煮込みだった。
ただ、芋が傷んでいない分、少しだけ味がましになった——と、食堂の騎士たちが首を傾げていたらしい。
私はそれを知らないまま、洗い場で山のような皿を洗っていた。
◇
深夜。
ようやく仕事を終えて、屋根裏部屋へ向かう途中。
暗い廊下の先に、灯りを持った人影があった。
団長だ。
私に気づくと、彼は驚いたように目を瞬かせた。
「こんな時間まで働いていたのか」
「片付けが残っておりましたので」
「……すまない。初日からそこまでさせるつもりはなかった」
団長は本当に申し訳なさそうに、耳を少し伏せた。
「バルトから聞いた。厨房と食料庫を、一日で見違えるようにしてくれたと」
「勝手なことをしてしまって、申し訳ありません」
「いや。礼を言いに来たんだ」
礼。また、その言葉。
「食料庫の芋や干し肉は、冬を越すための大事な蓄えだ。傷んでいることに、誰も気づいていなかった。私も含めて」
団長は少しだけ視線を落とした。
「……部下たちが、今日の夕食は匂いが違うと言っていた。私にはわからないのが、少し残念だが」
穏やかな声だった。
自分の欠けたものを、責めるでも嘆くでもなく、ただ事実として口にする人の声。
私は、なんと答えていいかわからなかった。
「明日は、朝食の支度を少し遅らせて構わない。バルトには私から伝えておく。今日はゆっくり休んでくれ」
「ですが」
「これは命令ではなく、お願いだ」
そう言われてしまっては、頷くしかない。
「……おやすみなさいませ、団長」
「ああ。おやすみ、ミラ殿」
階段を上りながら、私はそっと胸に手を当てた。
誰かに「休んでいい」と言われたのは、いつ以来だろう。
だから、知らなかった。
私が去った後も、彼がしばらくその場に立ち止まっていたことを。
匂いなど、とうに失ったはずの鼻先で。
なぜか、ほんのかすかに——温かな何かを、感じた気がして。あれば、それも私に」
◇
厨房は、ひどい有様だった。
床には泥。鍋には焦げ付き。食料庫を覗くと、芋の袋の底が湿って芽が出ている。干し肉は湿気った場所に積まれ、一部に白いものが浮いていた。
「新入りか。まあ、適当にやってくれ」
料理番の老兵——片足を引きずる猪獣人のバルトさんは、そう言って椅子で居眠りを始めてしまった。
私は袖をまくった。
芋を袋から出して、風の通る棚に並べる。傷んだ干し肉は取り除き、残りは火のそばの乾いた壁際へ。
鍋は灰と砂で磨く。床は熱湯で流す。
手が勝手に動く。こうするものだと、知っている気がした。
日が暮れる頃、ようやく厨房は「台所」と呼べる程度にはなった。
「……おい、なんだこりゃ」
目を覚ましたバルトさんが、ぽかんと口を開けている。
「すみません、勝手に片付けてしまいました」
「いや、謝るこたぁねえが……」
その夜の夕食は、いつもの塩辛い煮込みだった。
ただ、芋が傷んでいない分、少しだけ味がましになった——と、食堂の騎士たちが首を傾げていたらしい。
私はそれを知らないまま、洗い場で山のような皿を洗っていた。
◇
深夜。
ようやく仕事を終えて、屋根裏部屋へ向かう途中。
暗い廊下の先に、灯りを持った人影があった。
団長だ。
私に気づくと、彼は驚いたように目を瞬かせた。
「こんな時間まで働いていたのか」
「片付けが残っておりましたので」
「……すまない。初日からそこまでさせるつもりはなかった」
団長は本当に申し訳なさそうに、耳を少し伏せた。
「バルトから聞いた。厨房と食料庫を、一日で見違えるようにしてくれたと」
「勝手なことをしてしまって、申し訳ありません」
「いや。礼を言いに来たんだ。食料庫の芋や干し肉は、冬を越すための大事な蓄えだ。傷んでいることに、誰も気づいていなかった。私も含めて」
団長は少しだけ視線を落とした。
「……部下たちが、今日の夕食は匂いが違うと言っていた。私にはわからないのが、少し残念だが」
穏やかな声だった。
自分の欠けたものを、責めるでも嘆くでもなく、ただ事実として口にする人の声。
私は、なんと答えていいかわからなかった。
「明日は、朝食の支度を少し遅らせて構わない。バルトには私から伝えておく。今日はゆっくり休んでくれ」
「ですが」
「これは命令ではなく、お願いだ」
そう言われてしまっては、頷くしかない。
「……おやすみなさいませ、団長」
「ああ。おやすみ、ミラ殿」
階段を上りながら、私はそっと胸に手を当てた。
誰かに「休んでいい」と言われたのは、いつ以来だろう。
だから、知らなかった。
私が去った後も、彼がしばらくその場に立ち止まっていたことを。
匂いなど、とうに失ったはずの鼻先で。
なぜか、ほんのかすかに——温かな何かを、感じた気がして。




