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唄を聴かせて  作者: 亜耶
2/3

中編

 分かっていた。


 ぜんぶ、分かっていたよ。

 その白い手を伸ばされた、あの時に。この人は、そうなのだと。

 けれど、だめなの。


 この声じゃ、だめなの――




   ◇◇◇




「な……っ!」


 ラズリはその場に立ち尽くし、声を上げた。それは人買いの元から救い出した『唄い人』の少女を、保護施設に送り届けた帰りのことだった。

 うっすらと遠目に見える我が家。その扉が、開け放たれている。ざわりと胸騒ぎがした。嫌な予感が頭をよぎり、ラズリは駆け出した。


 建物の目の前までやってきて、ラズリは嫌な予感が的中した事を悟った。 開け放たれたままの扉は、酷くいびつな形にねじ曲がり、扉としての用途を果たしていない。それは明らかに人為的であった。

 壊れたドアをくぐり、足を踏み入れたラズリが見たもの――それは惨劇の痕。散乱した家具や衣服、破壊された椅子が、辺りに転がっている。


「ルビィ……!」


 転がる椅子を蹴飛ばしながら、ラズリはルビィの眠る寝室へと向かった。鼓動が早まる。頼む、いてくれ――そんな思いだけがラズリの胸に広がっていた。

 しかし、それは呆気なく崩された。


「ルビィ!」


 『仕事』に出る前まで、確かにそこで寝息をたてていた場所に、ルビィはいなかった。

 それが己の意思ではないことは明らかだ。シーツや毛布は乱れ、あろうことか枕は裂け、中の綿が出た状態で床に転がっていた。


「ああ……!」


 なんてことだ。

 けれど、分かっていたはずだった。

 ただでさえ、『唄い人』は狙われやすい。離れるべきではなかったのだ。

 目眩がした。激しい後悔が胸に渦巻く。


「くそっ!」


 あとはもう静かに生きようと決めたのに。残りわずかな時間を、共に過ごそうと決めたのに。

 それとも、初めからその手を離せば良かったのか。他の『唄い人』と同じように、すぐに施設に預けてしまえば良かったのか。

 そうすれば、こんなことには――。


「……ルビィ……俺はまた……」


 ガクリと膝を折り、呻くように呟いた。

 『ルビィ』――それは名も無き『唄い人』の少女に与えた、ラズリの妹の名。幼い頃に失ったたった一人の妹の名だ。

 しかし、幼き頃に信じていた事実は、両親の死の際の言葉に覆された。


 幼い頃、ラズリの住む貧しい集落を流行り病が襲った。子供ばかりがかかる病で、当然のようにラズリも高熱に三日三晩うなされ、生死の堺をさ迷うこととなった。そして幼い妹は同じ病に冒され、高熱に耐え切れず死んだと両親に告げられた。それはあまりに突然で、呆気ない別れだった。

 その数年後、両親は白化病で死んだ。その際、ラズリに真実と後悔の念を告げる。 これは報いなのだ、と。娘を金と引き換えに売ってしまった罰なのだ、と。

 真っ白な手で見えない目から流れる涙を拭う両親の言葉は、ラズリにとって青天の霹靂だった。つまりは、貧しい家族四人が暮らすには生活はあまりに厳しく、たった一人の妹は、幼いあの頃に人買いの手に渡してしまったのだ。


 ラズリは、その時理解した。

 自分が今生きていられるのは、『唄い人』である妹を犠牲にしたからなのだ、と。 真実を得て決意した贖罪。

 生きる為に犠牲にしてしまった妹のかわりに、同じ『唄い人』を救うこと。自己満足にしか過ぎないけれど、ラズリにはそれしか方法が見当たらなかったのだ。


「くそ……っ!」


 ドン、と床を激しく叩く。

 自責の念と怒りとが入り混じるその心の内を、そのこぶしに込める。

 人さらいにさらわれた『唄い人』の辿る道は一つだ。心ない人間に買われ、家畜以下の扱いを受け、喉が潰れるまで唄わされ、そして死んでいく。

 ラズリの脳裏に、ルビィの顔が浮かんだ。恐怖に歪み、声も出せないまま涙を流す、そんな少女の顔が。

 同時に浮かぶもう一人のルビィ。その少女は打って変わって、海のように深い青色の瞳で、自分を睨みつけている。――それは妹の姿だった。


「ルビィ……っ」


 思わず叫ぶ。それと同じくして、脳裏に浮かんだ二人のルビィは消えた。

 続く言葉を口内に残したまま、ラズリは唇を噛みしめた。さらわれたルビィの行方など皆目見当もつかない。彼には、ただ無事を祈るしかない、それしかないと思われた。

 その時だった。





「や……やったぞ。これで、大金持ちだ!」


 灰色の雪原を、一人の痩せた男が駆け抜けていた。くまで縁取られた目をぎょろぎょろと動かし、辺りを窺うようにして走るその姿は酷く異様だ。加えてその腕には、一人の少女が抱えられていた。


「さっさと売っちまって早いとこずらかろう」


 その男は酷く小心な人間だった。そしてそれを補うかのように小賢しかった。


「へへ……思わぬ収穫だ。『ハク』が『唄い人』を匿っているなんてな」


 男はこそ泥だった。ラズリに目を付けたのは、昨日のことだ。

 通りを歩いていたマントを羽織ったその青年は、商人に絡まれていた。噂では違法な取引――つまりは、『唄い人』を売買すると聞いていたが――をする商人に見向きもしない青年の被るフードが、偶然脱げたところを、この男は目撃したのだ。

 白い髪と白い肌を見て、男はその青年の病状がだいぶ進んでいると踏んだ。そして後をつけたのだ。予想は的中し、青年は男の気配にも気付くことなく、家路へと着いた。

 そこからはこの男の根気との勝負だ。

 やがて日は落ち気温もぐんと低下したが、男はそれを耐え青年が外出するのを待った。

 不在になるのを待つのであれば、それは健康な者であろうと、白化病の患者であろうと変わらないように思われるが、小心な男はいざという時に逃げやすいように、体力の低下した出来るだけ病状の進んだ白化病である人間を選んだのだ。それが、ラズリだった。


「はあっ、はあっ……」


 ここまで来れば平気だろう、と小さく呟いて男は走るのを止めた。

 ずいぶんと走った。これならばたとえあの白化病の青年が気付いたとしても追えはしまい。

 自然と笑みが漏れた。明日からは、豊かな生活が待っている。そう考えただけで、嬉しさが込み上げた。

 しかし、男はただ逃げることに精一杯で、気付かなかった。

 自分の抱える『唄い人』の少女の手から、少女の着る藍色のワンピースの切れ端が、点々と雪原に残されていたことに。





「あれは」


 それに気付いたラズリは、素早く駆け寄った。

 視界にぼんやりと映り込んだそれは、藍色の布の切れ端。ラズリにはその布が何であるのか瞬時に察知した。


「これは、ルビィの……」


 気に入り、毎日のように着ていたワンピースだ。その切れ端が落ちている。

 ラズリはそれを手に取り、顔を上げた。そして、それまでは気が動転していて気付かなかったが、同じ切れ端が家の入り口にもう一枚落ちていることに気付く。 すぐに駆け寄り手に取ると、ラズリは祈るような思いで、歪んだ扉をくぐった。 眼前に広がる灰色の雪原。

 ラズリは目を凝らし、細める。


「…………!」


 灰色をわずかに彩る藍色。

 視力の衰えた彼にとって、それを視認することはひどく困難なことだった。しかし、ラズリには、それはルビィの元までの道のりを照らす希望の光のように、眩しく感じた。

 ラズリは患っていることを感じさせない勢いで、雪原を駆け出した。



 ちらちらと、舞い落ちる灰色の雪。

 転々と残された布の切れ端を追ううちに、天気は見る間に崩れていった。日中であるにもかかわらず、空は暗く気温は下がる一方だ。雪の粒も細かい。

 焦る気持ちを抑えながら、ラズリは一瞬でも止まることなく走り続けている。

 もし、その容姿が見えなければ、人は彼が白化病であるとは思わないだろう。実際この時、ラズリ自身病のことを忘れていたのかもしれない。ルビィを救いたいという強い思いが、彼の体を奮い立たせていたのだ。


「……!」


 そのかいもあり、ラズリは前方をのろのろと歩く男を見つけた。その腕には、ここに至るまでに追い続けていた、布の切れ端と同じ色の服を着た子供が抱えられている。

 それがルビィであると直感的に確信し、ラズリは懐から鈍く光る刃をを取り出した。それと同時に叫ぶ。


「ルビィー!!」


 その雄叫びに、男が振り向いた。その表情が歪む。

 目を疑った。

 それは、紛れもなく昨日男が目を付けた青年だった。気候に似つかわしくない薄着で現れたラズリは、恐ろしく鋭い眼光を浮かべ、男に向かい突進してくる。白い髪と白い肌が、灰色の雪原を背に酷く浮き立って見えた。


「ひ、ひぃっ……!」


 情けない声を上げ、男は踵を返す。逃げなければ、そう思ったのだ。

 しかし年甲斐もなく先程まで全力疾走していたことと、子供一人分の重さが、男の足をもつれさせた。男は、雪に足をとられその場に倒れ込んだ。同時に、それまで抱えられていたルビィの体は放り出された。


「ルビィ!」


 それを見逃さず、ラズリはルビィの元へ駆け寄ると、倒れ込んだ小さな体を抱き起こし、その名前を呼んだ。


「ラ……ズリ……」


 幸いなことに、ルビィは怪我一つしていなかった。そのことに、ラズリはほっと胸をなで下ろし、その体を抱きしめた。


「良かった……良かった……!」


「苦しいよぉ、ラズリ」


 ああ悪い、と言ってラズリは腕を解いた。ルビィの頭を撫で、微笑む。それに応えるように、ルビィも満面の笑みを浮かべた。


「ごめんな、怖い思いをさせて。早く帰ろうな」


 ルビィの小さな手を取り、立ち上がろうとしたその時、異変が襲った。


「……っ」


 瞬間的な激しい頭痛とともに、視界が一段と暗くなり、ラズリは思わず片膝をついた。こめかみを押さえ、ぐらぐらと揺れる視界に目を開けていることすら叶わず、目を閉じる。

 それは、白化病の症状が進んだことを意味していた。


「ラズリ……?」


 突然崩れたラズリを心配に思ったルビィが覗き込んだ。その青い瞳は不安の色が浮かんでいる。


「…………っ」


 目を閉ざした暗闇の中だというのに、ラズリに襲いかかった目眩は、まだ続いている。暗闇すらも回り、平行感覚を失った体を支えるのに、彼は心配するルビィに大丈夫だと告げる余裕さえ失っていた。


「ラズリ、だいじょうぶ?」


 嗄れた声で呼びかけながら、ルビィはラズリの肩に触れた。そのあまりの冷たさに一瞬身じろぎし、いっそう不安げな表情を浮かべる。


「ラズリ、さむいの?」


 そう尋ねるルビィの声は、ラズリの耳には酷く遠くに感じる。遠く、暗闇に反響する声に応えようと、彼はやっと口を開いた。


「……大丈夫」


 それは嘘ではない。

 ラズリは寒さを感じていなかった。少女の小さな手の温かさすら、感じることも出来なかったのだ。自分の体がどれほど冷え切っているのかも、分かってはいなかった。


「大丈夫」


 言い聞かせるように、もう一度口を動かし、立ち上がった。若干足がふらついたが、何とかそれをこらえ、そして目を開ける。

 しかし、そこにあったのは暗闇だった。

 ラズリは言葉を失った。

 開けているはずなのに、何も見えない。小さな手の、温もりすら感じない。しんと静まり返った暗闇に届くのは、どこか遠くで響くルビィの声だけ。

 焦点の定まらない瞳を見開いたまま、ラズリの手が空をかく。そしてやっと隣にいたルビィの体に触れると、その体を引き寄せた。


「ルビィ、ここにいるな?」


「ラズリ……? ルビィはずっとここにいるよ」


 存在を確かめるように抱きしめ、その手がルビィの頭を撫でる。


「周りをよく見て……お前を連れていこうとした男はどこにいる?」


「うーん。あれ、いなくなってる? ラズリ、あの人どこか行っちゃったよ」


「そうか」


 その言葉を聞いて、ラズリは胸をなで下ろした。

 恐らくは逃げたのであろう。もし人を殺めることに躊躇いを感じない人間であるならば、対峙した時点でそのような行動に走る。それがなく、気付いた瞬間に逃げ出そうと踵を返したのは、あの男が予想外に小心であったからだ。

 本来なら追いかけ仕留めるのだが、今はその状況をありがたく感じた。

 ラズリは、自分の状況をよく理解していた。今自分がすべきなのは、ルビィを安全な場所へ移動させることなのだ、と。


「ルビィ」


 抱きしめていた小さな体を離し、ラズリは目の前で心配そうな顔をする少女の名前を呼んだ。


「ルビィ、お前がここまで落としてきたコレ、見えるか?」


 ラズリは懐を探ると、一番最初に拾った藍色の切れ端を取り出した。それをルビィに分かるよう目の前でひらひらとかざす。


「これを辿れば家に着く」


 ルビィはラズリのそんな言葉をきょとんとした様子で聞いていた。

 その言葉の意味が分からなかったわけではない。そんなことを聞くことの意味が分からなかったのだ。


「着いたら俺の部屋に行くんだ。枕元にメモが置いてあるから、とりあえずそれを見てくれ。施設までの簡単な地図が載ってる」

 早口に言葉を紡ぐ。

 それはいつか来るこの日の為に用意していた言葉だった。まさかこんな場所で言うことになるとは思っていなかったのだが。


「しせつ……?」


 途端にルビィの顔が曇る。そして首を横に振った。


「しせつって? ねぇラズリ、いっしょにお家に帰ろう」


「…………ルビィ」


 ルビィの嗄れた声は震えている。そのことにラズリも気付いていた。しかし暗闇で遠く聞こえるその声に、応えることが出来ないことも、分かっていた。

 この状態で一緒に帰るのは得策ではない。時間もかかる。何より、共に行けたとしても、この状態のラズリに少女を守る術はないのだ。

 それならば、と思う。一人で行かせたほうが小回りがきく。足手まといになるよりは、そのほうがいいのだ、と。


「……施設にはお前の仲間が沢山いる。みんな仲良くしてくれるさ。あそこの施設長もいいヤツだから、その身ひとつで行ったって、お前の助けになってくれる」


 それは危険な賭けかもしれない。

 この道に、先のような悪行を考える人間がいないとも限らないのだから。


「俺のマントが部屋に出しっぱなしになってるはずだから、それを羽織っていくんだ。フードまでしっかりかぶるんだぞ」


「ラズリ……」


 震えた声が、ラズリの名前を呼ぶ。一緒に行こうよ、と小さな手が彼の服の裾を掴んだ。


「ルビィ」


 その声を振り払うように、ラズリは声を張り上げる。ルビィの肩がびくりと小さく跳ねた。


「行くんだ。振り返らず、走って」


 ラズリにルビィの表情は見えない。けれど、容易に想像することは出来る。

 酷なことを言っていると思う。幼いルビィに、たった一人でこの広い雪原を歩かせようとしているのだから。

 けれど降りしきる雪が切れ端を覆ってしまったら、それは終わりを意味する。行ってもらうしかないのだ。


「さあ、行くんだ」


 細い肩を押す。突き放すように言い放ち、ラズリは俯いた。

 しかしルビィは動こうとしない。懸命に首を横に振りながら、青い瞳に涙をため、じっとラズリを見つめていた。


「ラズリ……ルビィひとりじゃ帰れないよ」


 ルビィは手を伸ばし、自身のわずかに冷えた手でラズリの頬に触れた。


「一緒に帰ろうよぉ……」


 それは今にも泣き出しそうな声だった。

 その声に、ラズリは胸を締め付けられるような思いに駆られた。ごめんな、と心の中で詫びながら、もう一度声を張り上げる。


「行け、ルビィ!」


 雪原にその声は酷く大きく響いた。

 その声にルビィの顔がくしゃりと歪み、たまっていた涙がぽろぽろと落ちた。ラズリの頬に触れていた小さな手がゆっくりと下ろされる。


「……すぐにむかえに来てね」


 振り絞るような声を出し、ルビィは踵を返した。


「……分かった」


 その声に応えて、ラズリは微笑んだ。


「すぐに迎えに行くよ、ルビィ」


 待ってろ、と付け加えたその声を背に、ルビィは走り出した。

 一度も振り返ることなく、ただひたすらに、走り続けた。

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