7、期限と告白と身勝手な望み
降り注ぎ入れたワインが、火柱になって立ち昇る。
滴る汗が顎の下に回り、コックコートに染みて、即座に乾いていく。
手は片時も休まない。ひたすら振り続け、ソースとアサリとパスタがからまっていくのを見計らい、素早く皿に盛り付ける。
「一卓出るよ!」
「はいっ」
送り出すボンゴレを受け取る代わりに、氷水のグラスを置いてアリシアが去っていく。
一息で水をあけると、終わった伝票を始末して、残りの注文を視線でなぞった。
ハンバーグが二、ボンゴレの赤が二と白が一。サイドメニューのブルスケッタが一。
何の問題もない。オーブンにハンバーグを入れ、三枚のフライパンにオイルを注ぐ。
まな板の上でトマトがざくざくと切られ、ついでにパセリ、ニンニクをみじん切り。
積みあがる準備、処理されていく注文。
その忙しさの全てが、ディルにとっての喜びだった。
料理をしているときは、わずらわしさが消える。目の前に山と積まれた伝票も、自分にとっては、やりごたえのあるゲームに等しかった。
ボールの中で、パセリとトマトとニンニクが、オリーブオイルと混ざり合い、塩を振られて、バケットに盛り上げられる。
「四卓ブルスケッタ!」
「はい!」
ついでにランチのサラダをカウンターへ。
残ったニンニクがフライパンの中で踊り始めると、その後はただ、流れのままに動く。
爆ぜるアサリが白煙を上げ、赤いソースが泡立ちながら、香しい蒸気を湧き立たせた。
空いた三枚目のフライパンに、オーブンで火を通したハンバーグを二つ入れ、表面を程よく焦がしながら、トマトソースとチーズで調味。
「四卓、残り出るよ」
ボンゴレとハンバーグを二枚づつ出し、お客の前で並べる姿を確認しつつ、最後に残ったパスタを仕上げると、カウンターに出す。
「おつかれさま。もう看板は変えてあるから、休憩入ってね」
「うん」
最後の一品を持っていくアリシアに頷き、溜まったフライパンや小鍋を洗っていく。
食事を終えた客が次第に去り、店が静かになる。
やがて、時計が三時になったことを告げた。
ここから二時間の休憩のあと、五時からは夜の営業だ。
休憩と言っても、厨房に休み時間はない。足りなくなった食材の補充と、夜用のメニューの準備が控えていた。
とはいえ、大抵は朝の内に仕込んでいるし、昼の間に出た共通する食材を補充するくらいで問題はない。
冷蔵庫の中から、イワシのマリネと『パンのサラダ』を引き出して、適当に皿に盛り合わせると、フロアの方へ回る。
遅い昼食の席に着くと、二人は食事を始めた。
「そういえば、これはメニューに載せないの?」
ざく切りにしたバケットとトマト、オリーブの実にゆで卵をドレッシングで和えただけの素朴な『パンのサラダ』は、初めて作って以来、アリシアのお気に入りだ。
「値段付けが難しいんだよ。この店がバールとかオステリアなら、大体二百から三百デナリくらいで出したと思う。それも売り切れたら終わりで」
「こんなにおいしいのに、なんかもったいないね」
ディルは笑い、イワシのマリネに手を付けた。
彼女の言うことはもっともだが、料理の値段はおいしいだけでは決まらない。注文するヒトの懐具合や、営業形態に合った『適正価格』が存在するからだ。
高級な料理店で出すなら、中に入れる具もすべて見直して、前菜と呼べる内容に引き上げることが要求される。
反対に、下町の居酒屋で出すなら、高い値段をつけるわけにはいかない。
量を出すなら具を安価なものに切り替え、このまま提供するなら材料費で足が出ないよう、売り切りで提供する。
制作費用とお客の層を考え、来たヒト達が、食べてよかったと思うように、味と値段を調整して、儲けを出すのが料理人の仕事だ。
儲け、という言葉に思い至ったところで、ディルは問いかけた。
「あと三日だけど、お金の方は?」
「う……うん」
それまでの様子は鳴りを潜め、背もたれに体を預けると、アリシアは言った。
「夜の売り上げは少しずつ伸びてきてるけど、ランチの方が……」
「分かってる。そろそろ『目新しさの魔法』も、解けてきたってことだね」
それは、新装開店した店舗にかかる、一種のブーストだ。珍しさから人が集まり、それなりの活況が続く時期。
自分の料理とアリシアの広告で、ここまで引っ張ってきたが、ランチの売り上げは安定期に入り、夜の営業はようやく知名度が上がってきた程度。
本来なら、ここから時間をかけて地力を上げていくのが経営というものだが、この店には絶望的に時間がなかった。
「それと……精肉さんから催促が来て、三か月分の未払いを払ったから、お金がかなり減っちゃって」
「仕方ないよ。向こうも商売だから」
店が活況になり、儲けが出ているとなれば、未払いだった買掛金を回収しにかかるのは当然のことだ。
グラントとの約束は、アリシアの個人的な問題で、取引先が気を使う理由はない。
ただ、もう少し待ってほしいというのも、正直なところだった。
「他のお店からは何か言ってきてる?」
「来月までは待ってもらえるようにしたよ。後は、三日間の売り上げで、合計二十万デナリ以上出せないと……」
「そうか」
「明日が土曜日なのが救いかな。土日には表通りから来るお客さんも増えるし」
アリシアの報告は喜ばしくもあり、絶望的でもあった。
こうなっては、打てる手は何もない。新メニューや料金の見直しは間に合わないし、チラシを撒く範囲を広げても、効果は上がらないだろう。
なまじ生き残れる可能性が出たせいか、彼女の顔は緊張と不安で張りつめていた。
「アリシアは――」
「ん?」
「どうして、この店を続けたいんだい」
自然に湧いた問いが、素直に口をついていた。
彼女は何かを探すようにテーブルに視線をさまよわせ、それから席を立ち、コーヒーメーカーの方へと向かった。
「ここはね、元々お父さんの店なの。亡くなってから、そろそろ一年になる」
「後を継ぐように言われた?」
「……違うよ。お父さんは、何一つ、この店のことを言わなかった」
濃くて苦い液体をテーブルに置きながら、アリシアは同じくらい、濃くて苦い思いを語り始めた。
「お父さんが店で倒れて、病院に運ばれたって連絡が来たの、去年の十月に。一人暮らしでしばらく実家にも帰ってなかったから、いきなりでびっくりした」
「もしかして、前から体が?」
「腎臓とか、内蔵のあちこちが、悪かったみたい。本当はもっと前から、投薬治療してたって先生に言われて、それも初めて知ったの」
実のところ、料理人が内臓を壊すのは、珍しい話ではない。
始業前の味見、料理の試作、業者から持ち込まれたサンプルの確認。そうしたことを繰り返すうちに、料理が『毒』として作用する者が出てくる。
労働時間や食生活を管理していても防ぎきれない。日常的に『余剰の栄養』を口にするために起こる、一種の職業病だ。
「ちゃんと仕事して、これからはお父さんが無理しないでもいいように、やっていくつもりだったのに」
「お父さんが借金をしていたとかは?」
「……全然。むしろ、わたしが手を出したせいで、焦げ付いたくらい」
遺言があったわけでも、借金返済のためでもない。
まともに料理もできないアリシアが、この店を続けた理由。
「わたしね、このままお店が消えちゃうのが、嫌だったの」
「思い出の場所がなくなるのが、嫌だったってこと?」
「それもあるけど、お父さんが体を壊してまでお店を続けた理由が、知りたかった」
それは適わない願いだ。
彼女の父親が理由を語らなかった以上、真実に到達する術はない。
それでも、彼女はそれを知ろうと、取り残された店の中で必死に探し続けたのだろう。
「こんな個人的なことが、わたしがお店を続けたい理由。あなたから見れば、本当にくだらなくて、許せないことかもしれないけど」
「そんなことないよ。飲食にこだわる理由なんて、ヒトそれぞれさ」
安心させるようにディルは笑い、言葉を継いだ。
「お金儲けのためにチェーン店を広げる社長、自分の親から譲渡されて、なんとなくで続けているヒト、税金対策のために、儲からないのを承知で続けている店だってあるよ」
「美味しいものを作るだけが目的じゃない、ってことね」
「むしろそっちの方が少数派かも。料理は手段で、目的じゃないってね」
空になった食器を手にすると、ディルは厨房に戻った。
アリシアも黙って、店内の清掃を始めていく。
「父親が店を続けた理由、か」
ディルは呟き、厨房の中を見回した。
ここで仕事をするようになって、一月ほど。
広くはないが、いい仕事場だった。
必要な食材は手の届く範囲に整理しておけるし、水道の位置やガス台もまとめられて、調理が始まっても火の前から離れることなく、調理に集中できる。
朝の仕込み、昼からの営業、終業して店を閉めるまでの動線が、きちんと考えられた見事な設計だった。
「ああ……そうか」
多分これは、アリシアには気づけないことだ。
そして、僕にはわかる。
彼女の父親は、ここで働くことが好きだったのだろう。だから、体を壊しても、ここに立ち続けることを選んだ、そんな気がした。
そう思うのと同時に、ある疑問が湧いた。
「ねえ、アリシア、ちょっといいかな」
「なに?」
「君のお父さんの遺品に、レシピ帳みたいなものはなかったのかい?」
掃除の手を止めた彼女は、苦笑しながら首を振った。
「全然。そんなものがあったら、もう少しうまくできてたと思わない?」
「そうかもね。ありがとう、そのまま掃除よろしく」
「こっちが終わったら、またチラシ撒きに行くね」
玉ねぎを刻みながら、白いドラゴンは少しだけ想像を飛躍させた。
おそらく彼女の父親は、この店に彼女を関わらせる気がなかった。だから、友人のグラントに処分を遺言していたのだろう。
それなら自分のレシピ帳も、同じようにしたはずだ。亡くなる前に処分したか、あるいはどこかに預けている気がした。
伝えるべきだろうか、自分の洞察を、彼女に。
「……大丈夫ですよ。何も言いませんから」
顔も知らない前任者に向けて、呟くように宣言する。故人が告げる必要はないと判断したのだから、僕もそれに従おう。
「ねえ! ディル、ちょっとこれ聞いて!」
慌てたアリシアの声に視線を上げる。
彼女はカウンターの上にラジオを置き、ボリュームを上げた。
『……依然勢力を増しながら、北北東へ移動しています。この台風の影響により、一部空路の閉鎖、ポートの使用制限、離着陸の禁止が発令される恐れがあります。今後の気象情報にご注意ください』
店の窓へ顔を向ける。
いつの間にか、窓枠が小刻みに揺れていた。昼下がりの空はすっかり陰り、わずかにのぞく空では、灰色の千切れ雲が勢いよく流れ去っていく。
ずっと晴ればかりで忘れていたが、八月は雨と暴風の季節だ。
「今夜の営業は早めに切り上げようか。たぶん電車も運休になると思うから」
「分かった。けど……売り上げ、落ちちゃうね」
「天気はどうしようもないさ。土日に挽回しよう」
不安を抱えた彼女を促すと、そのままいつも通りの仕事に戻る。
「……明日までに通り過ぎてくれるといいなぁ」
その呟きを聞かなかったことにして、再び仕込みに戻っていく。
彼女と同じぐらいの不安を、心に抱えたまま。
『続いて、交通情報です。先日夜半、台風により土砂崩れを起こしたアペン山道ですが、現在も一部を除き、通行止めや規制が続いています』
『サンセレスト、セドナ間は全面通行止めとなり、主要幹線道路に渋滞が発生している状況です。なお、復旧には一週間ほどを要するとのことです』
『繰り返しお伝えします。台風による土砂崩れのため、アペン山道の一部で交通規制、通行止めが行われおります。サンセレスト、セドナ間は全面通行止めとなり――』
パンのサラダ、あとで作ろうかな。