第九十話 女騎士の憂鬱、姫と女帝の悪巧み
リドウがベアトリクスや聖帝シルヴィアらと食事がてら話をしている頃、彼から冷たい言葉を投げ掛けられてしまい、涙ぐみながら走り去ったラクセスは、感情の赴くままに廊下を駆け抜けていると、いつの間にか屋上へとやって来ていた。
広さは精々五メートル四方しかない場所で、有事の際に物見台としての役割を果たすためにあるらしく、普段は誰も来ない場所で、入口のドアも特に鍵がかかっているわけではない。
気づいたらドアの前に立っていたラクセスは、どこに通じているのだろうかと思いながら、おもむろにドアを開けると、そこには美しい夜空が広がっていて、吸い込まれるように外へ出ていた。
見上げる先には満点の星空。そこから、自分の瞳から流れ落ちる涙に呼応したかの如く、星が一つ流れ落ちるのを見て、まるで夜空が悲しんでいるようだ、と彼女は思う。どんなに美しい光景も、心が悲哀で満たされていては、そのまま感じ入ることはできなかった。
何となく手すりまで歩いて、そこに両肘を掛け、体を預けながら、ぼーっと景色を眺める。
今夜は新月だった。大聖堂から零れる灯りが狭い範囲の辺りを照らしているし、星々の輝きこそあるが、自治領の外に出ると光一つ見当たらず、遠く、森があったはずの場所などは、まるで底なしの闇に落ちてしまいそう、と思ってしまったりして、本能的な恐怖に寒気を覚えて、ぶるっと身を震わせる。
「……いや。いっそ、やはり……堕ちてしまった方が良かったのかも……」
ぽつり、と。
己の無様さを嘲って笑う。
「落ちるって、ここから飛び降りるのか?」
背後からいきなり聞こえてきた幼い少女の声に、ラクセスは弾かれたように振り返る。
が、そこには誰も居ない。
そんなはずがないと、左右を素早く見渡すが、
「……どこ見てるんだ? お前」
はっと上を見てみれば、声の主が尖塔の上、その文字が示す通りに円錐状の屋根の上で、器用に片足だけで直立していた。
「リュリュ……さん……!?」
先日、リドウから紹介を受けた青髪の少女、リュリュ。見た目に反してかなり年齢を重ねていて、リドウを育てた家族にして師匠……の助手みたいな立場だと、ラクセスは説明されているため、一応敬称付けで呼んでいた。もっとも、どうしても見た目が見た目なため、気を抜くと呼び捨ててしまいそうになる事もたびたびあるようだったが。
リュリュは無感情な目つきでラクセスを見下ろしていたが、不意に、本当に不意に、予備動作をラクセスに感じ取らせる事なく、彼女の居る場所まですっと飛び降りてきた。
「――――!?」
ラクセスの目が意外な程に驚きで見開かれた。
尖塔の上からラクセスの場所までは十メートル弱がある。その距離を、リュリュは身体能力だけで、いとも簡単に跳び下りてみせたのだ。
魔法を用いて重力に逆らう不自然さは一切無く、しかもリュリュは気功士ではない。“少なくとも自分よりは年上”と聞かされてはいるが、単純な身体能力自体は見た目の体格相応であるはずだ。
それが、小さく『トンっ』という足音を立てたくらいで、綺麗に膝を折り曲げ、左手で地面に軽く触れて……それだけで着地してしまった。
リュリュがそれを可能とした手品の種はラクセスにも理解できる――リュリュはただ、ラクセスでは想像すらできないような異次元の技量によって、完璧なタイミングで全ての動作をし、落下が生み出す衝撃を完全に殺し切って、悠々と着地してみせたのだ。
リュリュは口に何かを銜えていて、立ち上がりながらそれを左手で口から引き抜き、ラクセスを見上げる。
「……長く生きてると、自然とこのくらいはできるようになる」
ラクセスの唖然とした表情の意味を見抜いたリュリュが、平然と言ってのけた。
「……あなたは、本当に魔王ではないのか?」
「……私ごときを超越者と一緒にするな。このくらいできる人間は、探せばそれなりにいる。たとえば、私の若様とか」
えっへんと無い胸張って“えばる”幼女であった。
対するラクセスは、そんな異常人種がそうそう居てたまるか、と内心でツッコミを入れている。
と、リュリュは改めて、左手に持った棒のような物を口に含んだ。
「ほれへ、らりしれ……」
リュリュは口をもごもごと動かして喋ろうとしているようだったが、そんなに大きくは見えない棒切れでも、彼女の小さな口では少々手狭だったようで、少しの間沈黙してから……
それを舐めることに専念することにしたらしく、口からは棒切れを抜いたくせに、それにペロペロと舌を這わしている。
「いや……何でそこでその選択なんだ?」
喋ろうよ、と暗にツッコミが入るも、リュリュはマイペースに消化している。
「……お前も……ちゅぱっ、食べるか?」
「何を食べているんだ?」
「アイスキャンディー……とゆーらしい。果汁を棒状に凍らせた、地球産の食べ物だ。以前、お前は地球出身の勇者と行動してたらしいけど、知らないのか?」
「……聞いたことはないな」
「遊び心を解さない、つまらない男だったんだな」
「ユーキは真面目だっただけだ……ッ」
絞り出すような声で反論するが、リュリュは相手にする気はないらしく、
「ん」
と、腰に括り付けてあった袋を手に持って、無造作に振るう。
その瞬間、極々小さな魔力がリュリュから発散されるのをラクセスは感じる。
……事は一瞬で終わった。袋から飛び出し、空中に放り投げられた数個のリンゴは一瞬で形を崩し、絞り出された果汁が一ヶ所に集められ、それも一瞬で棒状に凍りついてしまったのだ。
あまりにも鮮やかな手際だった。一度に使用した魔法は常に一種類で、使用した魔力は中位キャスト一発分にも満たない程度だろうが、キャストスイッチとコントロールの腕前が図抜けている。相応の時間を掛ければ同じ事をやってのける使い手は幾らでもいるだろうが、こんな神業を再現しきれる使い手など、世界に何人と居ないはずだった。
(化け物だっ……月紅もこの娘も……)
「ん」
ラクセスが内心で小さく叫びながら、顔に冷や汗しているのを知ってか知らずか、リュリュは彼女に向けて、新たに作ったアイスキャンディーを差し出している。食べろ、ということらしい。
「い、いや、私は」
「……私の渾身のアイスキャンディーが、まさか食べられないとでもゆーつもりか?」
「い……頂きます……」
酔っ払いの絡み酒か、と思いながらも、ラクセスは何となく敬語になりながら、余計なことは言わずに、アイスキャンディーを受け取った。
「お、美味しいな」
思ったよりも本当に美味しくて、ラクセスは素直にそう言った。
「だろう?」
「ユーキから聞いて薄々思ってはいたが、食一つとっても、地球は文化の豊かな場所なんだな」
「姫様曰く……」
リュリュは何かを言いかけて、無言になる。
――姫様だけはやめろ――
リドウから、ちょっと怒り気味に言われてしまったことを思い出したらしい。
「姫様……? とは、もしかして魔神のことか?」
確か『魔性の姫君』という字名があったなと、ピンッときたらしい。
「……知ってたのか?」
「ああ。リドウが魔神の息子だとは聞いている」
「……………………なら話は早い」
ちょっと長めの沈黙があったが、表情が動いていなかっただけで、その間に「ほっ」としていたらしい。
「姫様曰く、文化というのは平和な世でないと発展しづらいらしい。『黄昏』以前に芽生えた文化が軒並み消失してから先」
「黄昏?」
「…………気にするな」
「いや、気にするなと言われても」
「ようやく文化的な発展が始まったのはここ数百年の出来事。多少の争乱は時代の節目節目にあっても、数千年を積み重ねてきた地球との差は歴然で当然」
無理やり流したな、とラクセスはまたまた心の中でツッコミを入れていたが、言っても無駄な気がしたので、素直に聞き手に回る。
「対照的に、技術というのは争乱の世でこそ発展しやすいらしいけど、ルスティニアでは、魔法や武芸が直接的に超常戦力を発揮してしまうから、地球レベルの科学技術が人の手で実現されるにはまだまだ膨大な年月が要されるだろうし、発展の方向性自体が地球の科学技術とはもっと別の物になる可能性が高い……って仰ってた」
「カガク、か。そっちは聞いた事があるが、今一ピンとこなかったな」
「よほど正確な知識を持つ人間が魔道士として召喚されて、かつ技量が一定以上に熟練すれば、ある程度の再現はしてみせるだろうけど、“人の領域”では大量生産がまず不可能だから、結局大した意味はない」
「それも“姫様”のお言葉か?」
リュリュはただ、こくりと頷いた。
すると、話している内にアイスキャンディーが溶け始めていたようで、手持ち棒の部分を伝って指に垂れてきた汁を、舌でぺろっと舐め上げる。ついでに、さり気なく再度アイスキャンディーを魔法で凍らせていたりする。何とも便利なお嬢さんだった。
「……ところで、何であんな所に居たのだ?」
「散歩」
「散歩? あんな場所で? こんな時間に?」
「……何か文句でもあるのか?」
「い、いや……別にそういうわけでは……」
「私は生活習慣が夜行性気味なだ……」
リュリュはまた、不自然に黙り込む。その首が微かに傾げられているところは、さっきと違ったが。
「確かこーゆー時は……」
何か呟きながら、懐から取り出した紙束――要するにメモ帳をぺらぺらとめくり出し……
何をしているのか怪訝そうに見ているラクセスをよそに、とあるページで見入っていたと思うと……
突然の出来事だ。
リュリュはマントの裾を手で持って、身を守るようにマントで体を覆い、もう片方の手は目一杯に広げ、指の間から目だけが覗くように顔全体を覆い隠した。
あまりにもいきなりすぎる展開に、ラクセスは到底ついて行けず、呆然となってしまう。
「我が名は混沌と闇の覇者。夜の闇こそ我が安息の地よ。ふははははははっ!」
「な、なに……?」
普段の淡々としたマイペースっぷりが嘘のように感情豊か(?)な振る舞い……なくせに、表情だけは常と変わらず無感情なので、ただただ意味不明な怖さだけを覚えるラクセスは思わずドン引きだ。
メサイアは救世主だとか、日本語と英語ルビの因果関係がメチャクチャだとか、そういう空気を読まないツッコミをしてはいけない。それが清く正しい様式美である。
「……なんで黙って見てるんだ? お前」
「は……?」
「一緒になって乗るか、厨二病乙って突っ込むか、どっちかにしろ。ボケた私が恥ずかしいじゃないか。マヂ空気嫁なさすぎてチョベリバって感じ」
「私が悪いのか!? 私の何が!? どこが!? チューニビョーオツって、そんなの知らんし、ちょべりば? 意味が分からんぞ!?」
ボケ開始時のように、唐突に素に戻って、常時よりも幾分冷めた眼差しを送ってくるリュリュに、ラクセスはようやく、反射的に全力全壊のツッコミを入れていた。敢えてもう一度言う、全力全壊で、である……そのまま壊れ気味という意味で。
ちなみに『チョベリバ』とは『超ベリーバッド』という、これ自体が造語なくせに更に短縮された俗語で、意味はまあ、ニュアンスでお察し下さいという感じの、遥か昔に女子高生の間で流行ったらしい言葉である。
リュリュは、よし、と言わんばかりに、一度だけ深々と頷いた。さり気なく手がぐっと握られていたり、どことなく満足そうに唇が緩んでいるのは仕様だろう。
それを機に、リュリュは何も言わずに踵を返して、ドアの方へと歩み始めた。
「ど、どこへ行くんだ?」
また何の前触れもない行動に、ラクセスは特に訳もなく、訊ねる声が焦った調子になってしまう。
「……部屋に戻って寝る」
「夜行性云々は冗談だったのか?」
「……夜の方が、気分が比較的落ち着くのはホント」
「あ、待ってくれ!」
慌ててリュリュへ走り寄ったラクセスは、ドアに手を掛けようとするリュリュの肩を掴んで止める。
迷惑そうに首だけ振り返るリュリュだったが、ラクセスの方はそれどころではなかったらしい。
「もしかして、慰めに来てくれたのか……?」
「……見かけたのは偶然。散歩してたのもホント。ただ……」
リュリュは体ごと振り返って、正面からラクセスを見上げる。
「……お前が泣いてたように見えたし、“主な”原因が若様にあるのは何となく分かったから」
「意外と……優しいんだな、リュリュさん――あ、いや、失礼……別にあなたが意地悪だと思っていたわけでは決して」
「……私が優しいかは知らないけど……弟が失敗した時にフォローするのは姉として当然の役目」
と言って、ドアの方を向いてしまうが、まだ続きがあったらしい。
「どうしてもキツイようなら、正直に若様に言ってしまえ」
「何をだ……?」
ラクセスは、何となく想像がついていながらも、自分でも気づかない内に、反射的に言葉を返していた。それがとんだミステイクだったと思い知ったのは直後の出来事だった。
「抱いて――なり」
「は?」
「犯して――なり」
「ええっ!?」
「もしくは、忘れさせて――とか?」
「なぁっ!?」
「ここら辺がオーソドックスで、そーそー外さないらしーぞ」
どうやらリュリュはアドバイスをしているつもりのようで、しかも本当に親切心で言っているつもりらしいのだが、テンパっているラクセスからしてみればイジメ……というか、男が口にしたならば、まごうことなきセクハラだった。
「その手の手練手管は侍女長から散々しこまれているから、お前みたいな生娘同然の堅物なんて、まずイチコロだ。一晩で悩みなんて頭の中から綺麗サッパリ吹き飛ばして、他の男なんて眼に入らないくらい夢中にさせてくれる」
「なっ、なっ……」
「ただし……」
あまりにも赤裸々な物言いに、ラクセスが赤面して喘いでいるが、リュリュは全く意に介そうとはせず、また、その声質が若干低まる。
「どこの誰だかなんて私の知った事じゃないけど、お前の胸の中に巣食って離れないユーキとかいう男……」
「――――!?」
「その男への想いを忘れ去りたくないのなら、止めておく方をお勧めするぞ」
微かに首だけ振り返るリュリュ。その左目だけが僅かにラクセスから覗けたが、その眼差しがきゅっと射抜くように狭まった。
「元々がどうかなんて私の知った事じゃないけど、少なくとも今のお前は“どちらの意味でも”、心理的にかなり危うい境界線上に立っている。私は人の機微には疎い方(魔王城人外基準)だけど、それでもそのくらいは見抜ける。お前、結構判り易いからな」
「そん……な……」
ラクセスは何とか何かを反論しようとするが、言葉が思い浮かばないらしい。
「お前はどうも、極端から極端に走りすぎる傾向があるらしいから……」
だから、見かけた時に『危うい行動』を取っていたら止めてやってくれ、とリュリュはリドウから言い含められていた。
「せめて、お前の中に燻っているその男への想いを失ってしまうのは覚悟してからにしておけ。自分の中でキッチリ消化できてからでないと、たぶんお前はいずれ心を病む……どういう形で、かは、今は分からないけど。だから若様はお前を抱こうとしないんだ、ソッチ方面は手加減なんてなかなかできないだろーから。人の心を他人が完全にコントロールするのなんて、外道の業でも使わなければ流石に無理だし」
リュリュは最後に――愛憎方面に病まれたらたまったものじゃない。ヤンデレなんて若様に近づけさせてなるものか――と小声でぼやきながら、声も無く愕然とするラクセスを放って、今度こそドアを潜って行ってしまった。
そのぼやき声がラクセスに聞こえていたかは分からない。どの道彼女には理解できなかっただろうが。
色々な感情が心の内で渦巻いていたラクセスにそれを止められるような余裕はなく、しばらくの間はそのまま、その場で彫像のように固まっていた。
彼女が正気を取り戻せたのは、今もまだしっかり手に持っていたアイスキャンディーの溶けた汁が自分の指を濡らした時で、
「冷たっ」
とびっくりしてから、先ほどリュリュがやっていた事を思い出して、ぺろっと指を舐めてみる。
「……溶けてもちゃんとリンゴの味だな」
ラクセスは益体も無い感想を紡ぎながら、閉まったドアに背中を預けると、夜空を見上げる。
(……しょうがないじゃないか……初めてだったんだから)
心の中で、リュリュへの反論を呟く。
(今となっては本当に恋だったのかも……自分では判断することさえできないんだ……。でも、ユーキと共に過ごした時間、あの時に感じていた感情まで否定してしまったら……そんなの……)
くしゃっと顔を歪める。
(そんなの……認めてしまったら余計に惨めじゃないか、私もっ、ユーキもっ)
ずるっと背中をドアに滑らせるように、地面に座り込んで、俯きながら片手で顔を覆うようにして、声を押し殺して泣き出してしまった。
涙を流した事は幾度となくあった。それこそ、リドウと再会するまでは毎日のように、独りになると、自然と涙が瞳から溢れていた。
けど……もしかしたら……
ユーキと離別してから、ラクセスが思い切り感情を吐き出すように泣けたのは、この時が初めてだったのかもしれなかった。
いくら精神年齢は殆ど子供だとは言え、ここは約五百歳の面目躍如と言ったところか。流石は約五百歳であった。
――ババアちゃうわ――
どこかから抑揚の感じられない平坦な声が聞こえてきた気がしたが、気のせいだろう、きっと……。
食事を終えると、シルヴィアはベアトリクスと二人きりで話があると言った。政治絡みの話だろうし、自分には聞かせられない話をするのだろうと、リドウは素直に退散して部屋に帰ったそうだ。
その後、ベアトリクスは自室を相談場所に選び、二人は揃ってそちらへ。ドアの前を守る衛兵たちに、念入りに他の人間を近づけさせるなと厳命すると、自ら用意したワインをグラスに注いで、シルヴィアへ差し出した。
「ありがとよ」
シルヴィアはやはり、本当に目が見えていないのか疑わしいほど流麗な仕草でそれを受け取り、一口含んで喉を湿らした。
そして、ベアトリクスも席に着いたのを気配で察し、自ら話を切り出した。
「坊やは使えるね――予想以上に」
「力量は文句なしでしょう。それに、当初懸念された突発の襲撃にも、あの男なら被害が少ない内に対処できます。それも本日の一件で証明されました」
しかしシルヴィアは、テーブルの上に置いたワイングラスの淵を指でなぞりながら、苦い顔で言う。
「おかげで、早々に片づく目途が立った。このペースなら、全ての魔物を処理するのに、あと半年は掛からないだろうよ」
「ロウ殿。リドウ殿の前で『魔物を処理』は控えて下さるよう、お気をつけ下さい」
「うん?」
シルヴィアは一瞬首を傾げるが、
「ああ、魔物でも命を奪うのが嫌いなタイプなのかい、あの坊や」
「ええ。それもかなり……」
「分かった、気をつけるとしよう」
幾分真面目腐った表情で肯くシルヴィアだった。
「それで、どうですか?」
気を取り直して、ベアトリクスが質問する。具体的な主語が何も無かったが、シルヴィアの方は特に疑問を感じている様子もなく。
「あんたんとこはどうなんだい?」
「魔物の撃退に成功したところから余剰戦力を――最低でも、専有している冒険者たちを吐き出すように言っているのですが、どうにも。第二陣が存在しないとハッキリしない以上、なかなか難しい問題ですね」
「こっちも殆ど同じさね」
シルヴィアは手でかぶりを振って、ふて腐れた顔でテーブルに肘をつき、そこに頬を載せながら横を向いてしまう。
「まあ、魔物退治はあたしらに任せて、国の方は戦力の充実と訓練に力を割いてもらってた方がいい――って論拠も理解はできるんだけどね。下位なんて雑魚の始末にまであたしらが直々に出向く必要もないと思うんだよ」
「しかし、それでは不公平になりますからね」
下位とは言え、伝説級の魔物を雑魚と言い切ってしまうシルヴィアに、人知れず頬を引き攣らせるベアトリクスであったが、相手の目が見えないことを幸いに、声だけは平然として続けることで対面を保つ。
シルヴィアが気づいているかは、ベアトリクス自身にも測りきれなかったが、取り敢えず不快に思っていることはないらしいと、判断する。
「人里を襲撃される事さえ無ければ、あなた方に任せておけば、労力らしい労力を掛けずに済むのですから。ラーカイム王国を襲撃していたケルベロスや、ユリアス王国を襲撃していたフェンリルのような伝説級上位の魔物ならばともかく、中位以下では、自力で始末しても他国に誇れるようなものではありませんし」
「あたしらとしても、その方が助かる部分があるのも事実だからね」
将来の大戦のために、少しでも多く戦力を温存しておかなければならない、とシルヴィア。続けて、何事も上手くはいかないねぇ、とぼやいている。
「そういえば、聞いてるかい?」
「何をです?」
「そのユリアスのフェンリルを始末した女の話さ」
「ああ……」
適当に相槌を打つベアトリクスであったが、その正体には大凡の見当がついていた――“彼女”に違いない、と。魔王化しているとあらかじめ聞いていなければ、そこに結びつく事はなかっただろうが、そうと知っていれば伝え聞く容姿と完全に合致する。
「……何か知ってるね?」
ベアトリクスの態度に何か思うことがあったようで、シルヴィアが低い声で言う。しかも、知っているのかい? という疑問ではなく、完全に断定する口調だ。
(こ、これだからこの方と相対する時は油断ならないんだ……)
冷や汗を禁じ得ないベアトリクスだった。
その短い沈黙の間に、どうやら答える気は無いようだと判断したらしいシルヴィアは、
「その女も手を貸してくれないもんかねぇ」
そう、他人事のようにうそぶくことで、別に答えたくなければ答える必要は無い、と暗に告げた。
ベアトリクスは努めて動揺を表に出さないよう気をつけながら、話題を変える。
「それで、他の大陸はどうなのですか?」
「連盟司令官の件かい?」
「ええ」
「オリアースは、ベア姫も知ってるあの王子様に任せることになった」
「…………何ですと?」
ベアトリクスは引き攣った笑みで質問を重ねた。
「微妙な線だけどね、能力的にはまあギリギリ、ベア姫が苦手に思ってる部分にさえ目を瞑れるなら、基礎能力はベア姫にも劣らないんだ、他に選択肢も無いだろ。魔物の件が片づけば、ベア姫も顔を合わせるのは避けられないだろうけど――ま、頑張りな」
「他人事のように仰ってくれますな」
「だって、あたしにゃ関係ないし。そんな個人的事情なんて考慮するには値しないね」
と、言葉にした通りの知らん顔で、ワイングラスを煽るシルヴィアである。
「ユクリナス大陸も決まった。【騎士王子】だ」
「ハインリッヒ・エル・ディ=ヨーフェンハイム!?」
シルヴィアが誰かの二つ名と思われる名を告げた途端に、ベアトリクスの表情が喜色で一杯になった。
「よくぞ捕まえられましたな!」
「結局、あたしが直接出向いて説得する羽目になったけどね。もう二度と政治の世界には戻りたくないって、本当に頑固で困った」
やれやれ、とかぶりを振る。
「ベア姫にも引けを取らない超一級品の能力を持ってるってのに、もったいない坊やだよ」
「無理もありません。元々、リリス教六大国最古にして、今を以って隆盛を極めるジャルマニカ帝国、その御世継ぎとして最有力視されていたにも拘らず、何の未練もなく帝位継承権を放棄してしまった御仁ですからな」
「あの坊やが命令系統で上にくるんじゃ、そのジャルマニカ帝国が態度を硬化させる可能性を指摘してきたよ。ホント、可愛げが無いというか。それを考慮しても、ユクリナス大陸はあの坊やしかいないってのに、それも理解していて言うんだから、なかなか根性の捻じれた坊やだよ」
こっちは魔物の対処だけでも精一杯だってのに、余計な仕事をさせやがって……と悪態をつくシルヴィアである。
「では、ギルメキア大陸とカッスル大陸は?」
「まだ決まってないよ」
「まだ決まらないのですか?」
そんな悠長に構えていられる場合か、とベアトリクスは顔をしかめる。
「ベア姫は言うに及ばず、騎士王子とジーク王子は即決だったけど、そんな簡単に決まる方がおかしいんだよ。飛び抜けて優秀な能力とカリスマ性に恵まれた人間がいなきゃ、そりゃ揉めに揉めるに決まってる。この役目に選ばれれば、その大陸における次世代の最も優秀な王族と公に認められるようなもんなんだからね」
ベアトリクスが現在務めている立場は、実は政治的にとても大きな意義を持つ椅子なのだ。
現役の王は動かせない。彼らは自国を第一に考えなければならないのだから。別に王子王女には、自国を第一に考える必要は無い、というわけでは決してなかったが。
しかし、少なくとも、最低限、王族でなければ“この立場”は任せられない。
が、現王の同世代というのは非常に難しい。この立場は現王の一段上に置かれることとなるのに、継承争いで敗れた人間をそこに置くわけにはいかない。その程度では、どの道能力的に難しいだろうが。
もっと老世代ならどうかという説もあるが、それは余計に無い。この大戦が何年に渡り継続するかは全く予想がつかない中で、体力面に不安が残り、それ故にいつ大病を患って、最悪死去されるかも分からないからだ。
結果、次世代の最有力者という選択になるのだ。
その上で、「いや、うちの子こそ相応しい」と文句を言わせない圧倒的な能力を持ち、人格にも優れた人間が、ベアトリクスの世代には彼女自身を含めて三名存在した。うち一名を、彼女はちょっと苦手に思っていたが、それとこの立場に相応しいかは関係が無い話だ。
そうでなければ盛大に揉める。もうじゃんけんで決めちまお、というわけにもいかない問題だ。どうしても時間が掛かるのは致し方なかった。
「それでさ、リドウはどうかね?」
「は?」
考えてもいなかった名前が出て、ベアトリクスは一瞬呆ける。
「そんなに意外かい? 至天なら地位はクリアだろ」
「は、まあ……」
「あの坊や、どういう育ち方したのか知らないけど、相当強いだろ、そっち方面も……アニーみたいな戦闘馬鹿一代とは違って」
「それもまあ、実務経験はありませんから最初は多少拙い部分は見せても、すぐに私くらいはやってみせる事でしょうが……」
「一度も考えた事すら無かったのかい?」
「ええ」
ベアトリクスの声の調子から、酷く気が進まない……と言うよりも、本人に提案しても無駄に終わる可能性が高いと思っているようだ、とシルヴィアは感じ取る。
「あの男は非常に優秀です。私よりも更に幅広い方面に対して豊富な知識を持っていますが……それは“知っていなければ対処も難しい”から身に付けただけであって、自ら進んで行使しようとするのは基本的に嫌っています」
「悪辣な外法を知ってはいても、実際に使ったりは死んでもしない――あたしらのように。その範囲が闘士よりも更に広い、ってことかい?」
「それもありますが、あまりにも手の届く範囲が広すぎて、他人のために何でもかんでもやろうと思ってしまうと、際限がなくなるが故に、自分自身が動くために必要とされる『理由』を厳格に定めているのでしょう」
「しかも金や名誉じゃ動こうとしない、一等扱いづらい面倒な男なんだろ?」
「はい。それに、何と申しますか……」
ベアトリクスも言葉に困るのか、間を置く代わりにワイングラスを煽った。
「……いくらでも人の上に立てる男なのに、現実に人の上に立つのは好みません。まだ己には何もかもが到底足りないと思っていて、他人の人生にまで責任を負っていられる余裕は無い……と考えている節が多分に見受けられます」
「あれだけデキてかい?」
どれだけ理想が高いんだい、と呆れ顔なシルヴィアだった。
「あたしはあんたらの上で総司令官やんなきゃだし、上手くいかないねぇ、何事も」
取り敢えず、リドウを利用するのは諦めたらしいシルヴィア。今後を思うと気が重いったらないようで、本気で疲労感に一杯の様子で盛大なため息を吐くのであった。




