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第七話 乙女たち

 ギルドこと正式名……というよりも通称でただ《斡旋所》と呼ばれるそこから、とりあえず落ち着いた場所で話をしようと、リドウはハインツと共に繁華街の酒場へとやって来た。


 酒場とはいえども大半は昼間から営業しており、正午を過ぎたこの時間帯であると、既に営業が始まっている場所の方が多くある。


 リドウは昨晩にも利用した、落ち着いた雰囲気の酒場である《小鳥の憩い亭》を選んだ。どうやら気に入ったらしい。


「よう、ゴラン」

「リドウか」


 リドウが入店し、片手を挙げて陽気に挨拶すると、ゴランと呼ばれた人物が彼の名を口にする。どうやらこの酒場の店主らしいが、リドウはまだ一度しか利用していないというのに、早くも名前を覚えられている上に、呼び捨てすら許されているらしい。


 ゴランは名前が体をなす中々いかめしい雰囲気の四十絡みの男で、左目に縦傷が走っており、その目は完全に閉じられている。とても『小鳥の憩い』などという可愛らしい雰囲気ではないが、ゴラン本人は気に入っているからこそ、そのような店名にしたのだろう、きっと。


 事情を突っ込んで聞いたりはしていないし、勝手に想像しただけだが、恐らくはその目傷が原因で冒険者を引退したのだろうと、リドウは見ている。


 リドウの見る限りゴランはノーマルだ。


 熟練の気功士や魔道士になると、相手を見れば大体どの程度の闘気や魔法の使い手なのか、感覚で何となく理解できるようになる。それは、体から常時漏れ出すほんの極々僅かな闘気や魔力を感じ取って、その洗練具合がどの程度かで判断できるのだ。

 また相手が素人であっても、その身に内包された容量も大凡は判断がつく。


 がまあ、相手が格上だと完全に闘気や魔力を体内に引っ込めることができたりするので、そればかりで相手の実力を判断していると痛い目を見ることになってしまうが。


 その点ゴランはやはり闘気は持たず、魔力も『魔法使い』と言えるレベルではない。あくまでもリドウが見る限りだが。


 しかし基礎が完璧に身についてしまっているのだろう、立ち振る舞いは完全に玄人のそれだ。もし戦うことになったら、先日の気功士スニフよりもよほど戦闘巧者だろうと、彼は考える。


 ゴランはリドウの横に立つハインツをちらりと見ると、自分の目の前のカウンター席に向かって無言で首を振った。そこに座れということらしい。


「この街も物騒になったものだ」


 そう言ったのは、注文も受けずにリドウとハインツの前へ酒を出したゴランであった。


「物騒、ですか?」


 不思議そうな顔で聞くのはハインツ。

 そんな彼をゴランはじろりと、まるで睨み付けるように見るが、それはゴランの顔が元々厳しいからそう見えるだけで、実際にはただ視線を置いただけだろう。


「この街は本来、お前たちのようなハイクラスが来る場所じゃない」

「あの……そんなに僕って簡単に実力がばれちゃいます?」


 ハインツくんはどこか落ち込んだ様子を見せる。

 しかし、ゴランはふんと鼻息を鳴らしただけで、何もフォローはしない。


「アクレイアは確かに都市と呼べる規模だが、ユリアスの最南端一帯の中心地としての役割が必要とされているだけの、本来は何の旨味もない場所だ。シルウェス神聖国に行くなら一度は寄る場所でこそあるが、それ以外に交通の要所というわけでも特にない。何せ少し足を伸ばせば手出し無用が暗黙の了解の魔の森だからな。スニフ程度が大きな顔をしてられる、そんな街にお前たちのような気功士という事実に胡坐をかかない本物など、そう滅多に見られん。近頃じゃイチジョーとかいう新進気鋭まで居る。俺の知る限りじゃ初めての異常事態と言っても構わんな」

「ただの武芸者で能力者とは限らねぇんじゃねぇか?」

「感じ取れるのが能力者同士の特権だと思わないことだな。熟練の冒険者ならノーマルでも大抵はその感覚を持っているものだ」

「ほう。勉強になったぜ、ありがとよ。ついでに、何か食いもんも頼むぜ」

「待ってろ」


 ゴランが奥の調理場へと引っ込むのを見届けたリドウは、未だに落ち込み気味のハインツの肩を軽く叩く。


「まあそう気にするな。実力を隠すってのは意外に大変なんだぜ? 何せ俺らは体に染み付いちまってるからな。気を抜くとすぐに地が出ちまうし、武技に必要な部分を意識的に外すだけじゃな、逆に不自然すぎるから玄人には丸判りだ。雑魚どころかど素人でも、普通に生活してるだけで最低限楽な体の動かし方くれぇは身についてるもんだからな。本当に隠したきゃ、適度に素人から抜け出した程度には見せる必要がある」

「そ、それは難しそうですね」

「ああ、難しいぜ。冒険者だってのにど素人丸出しじゃな、逆に『武芸に必要とされることは全て知ってますよ』とてめぇから言ってるようなもんだ。新品の装備で身を固めてんならともかく、そんな使い込まれた格好じゃ不自然すぎんだよ」

「中古かも知れないじゃないですか」


 と言うハインツは少し機嫌を損ねたような顔をしている。よほど面白くないらしい。


「中古にしちゃ体に馴染みすぎだ。あんたにだってそんくれぇ見取れる目はあんだろ?」

「まあ、そうですが……はぁ」

「ま、そう落ち込むな。チンピラ冒険者くれぇは騙せるだろうよ」

「止めを刺しにきてませんか? リドウさん」


 ジト目でリドウの横顔を見るハインツだったが、リドウは気にせず煙管を吹かしている。


「開き直った方が楽だぜ? あんたが隠密の類か、それとも平和に暮らしてぇって心算だってんならともかく、冒険者がてめぇの実力を隠しても大して意味はねぇだろ。実力を見抜けねぇ低能くらいしか、喧嘩を吹っかけてきたりしねぇだろうしよ。あんたより上ならそもそも騙されちゃくんねぇだろ?」

「言われてみれば確かにそうですね」


 今初めて気づきましたといった感じのハインツだが、少しは元気が出たらしく、出された酒に口をつけ、喉を湿らせる。

 リドウはふっと笑んで、自分も酒に口をつけると、一口飲んだ後に再び煙管を吹かし始める。


「で? 詳しい話を聞こうじゃねぇか」

「まあ一言で言ってしまえば先ほどのように盗賊退治です」

「的は? 俺に声をかけにゃならん相手なんだろ?」

「ええ」


 ハインツは肯いて、少し声を落として真剣さを演出する。


「彼らはノイケン盗賊団。構成員数は凡そ二百名とこの近隣では最大の盗賊団で、頭領のノイケンはどうやら気功士らしいんです。更に、彼に従う魔法使いが数名」

「魔法使い、と呼べるレベルってことだな?」

「はい。彼らがもし、自警団のような役割を果しているタイプの盗賊なら、僕も放っておいたのですが……」

「まあ、その規模ならねぇだろうな」


 リドウは遠くに向けて吐き出すように、煙を吹かす。


「となると、頭は確殺……か」


 物騒なことを口にするリドウに、しかしハインツはあっさりと肯いた。


「はい。アクレイアには能力者を抑えられるだけの戦力はありません。懸賞金もデッドオンリーで設定されているようです。魔道士級までは居ないと思いますが、魔法使いも幹部としてデッドオンリーの賞金がついています」

「やれやれだな、おい。殺しを重ねてんのは確実ってことか」


 難しい顔で言うも、その声にまともな感情は窺えない。これはかなり頭にきているらしい。


「僕もここには旅の途中に寄っただけで、長く滞在しているつもりはありませんでしたが、彼らの犯した罪状は見逃すに余りあります。高貴な出自の者として、そのような悪辣極まりない暴漢どもを野放しにしておくなど到底許せません。が、相手を考えると僕一人では少々難しい。所詮は盗賊、そうハイレベルとは思えませんが、無謀にも侮って返り討ちという愚を犯すわけにはいきません」

「正しい判断だと思うぜ」

「我らが麗しき魔神はこう仰っています――人は自らを助けるように他者を助けることもできる尊い存在ですが、それは己が身を犠牲にするという意味ではなく、自らが持つ余剰を割いての献身でなくては逆に悲しませる人を多くしてしまう――と」


 うっとりとしながら何やら言っているハインツに、リドウは一瞬顔面を引き攣らせた。


「……あんた、リリス教徒かい?」

「無論。天上の如き力と、この世ならざる美の極致におわし、神すらその御前には跪く大いなる慈悲の体現者。騎士として崇めるに真に相応しきお方です。ロンダイク聖教国の騎士たちはよくもまあ、あのような神などという曖昧な存在を崇めていられるものです」


 ふんすと顔に似合わない鼻息を立てるハインツであったが、あっと何かを思いついた様子で、更にどこか気まずそうにリドウをちらりと見やる。


「……もしかしてリドウさん、ロンダイク教徒でした?」

「あー、いや……まあ、どちらかっちゃぁ、リリス教徒だな。ロンダイクはありえん」

「ですよね!」


 額を手で押さえて天上を仰いでいるリドウに対して、全く気にせず目を煌かせている爽やか好青年が居た。


「まあ、なんだ……リリス教徒云々はともかく、いい腕してる上に、てめぇの実力を過信した挙句に正義正義と拘って自爆しにいかねぇたぁ、ボンボンにしちゃ見上げたもんだぜ、ハインツ。気に入った、喜んで手を貸そう。元々その連中を見逃すわけにもいかねぇしな」

「ありがとうございます!」


 ハインツは突然勢い良く立ち上がり、リドウの手を握って礼を言う。


「あなたならそう言って下さると思ってました。あなたにご協力頂けるとあれば百人力です」

「野郎にそんな熱い目で見られても、嬉しくもなんもねぇんだがな」

「そうですね。僕もそんな趣味はありません」


 ハインツは、今の自分の行動が自分でも可笑しかったのか、苦笑いを浮かべながら座りなおす。


「それで、やっぱ一網打尽にするっきゃねぇだろ? どうやって調べる?」

「既に次の集会日の検討は粗方ついています」

「ほう、手際がいいじゃねぇか」

「実はもう一月近く手を拱いていたんです。どの道前回の集会日はそれ以前でしたがね。一応の見当はついていますので、あとは近日になったらノイケン盗賊団と思しき構成員を張るつもりですが、僕一人ではやはり……。最悪、最近急激に台頭してきたイチジョーという、恐ろしく美しいと評判の女性の気功士がこの街にはいらっしゃるということですので、お手をお借りしようと思っていたのですが――女性を蔑視するわけではないですが、やはり騎士として女性にこのような荒事をお手伝い頂くというのも少々」

「つっても、その一条だが、俺のパーティーメンバーなんだがね」

「え……?」


 先日の大盗賊団頭領捕縛の件がリドウの手によるものだという事実は知っていても、それに千鶴が絡んでいたことは、どうやら本気で知らなかったらしい。


 ハインツは一瞬ぴしっと固まった。


「それは……どうしましょう?」

「俺に訊いてくれるな。まあ最悪は黙って行っちまえばいい話だが……ここに来て知り合ったばかりで、旅の目的が同じってことで組む話になったんだが、やたら勘のいい女なのは間違いねぇ。下手に黙ってたら後が怖ぇな」

「そこはリドウさんがご自分の身を犠牲になさる、ということでどうでしょう?」

「お前さん……中々いい性格してやがるな、存外によ」


 煙管片手にジト目のリドウに、ハインツは苦笑する。


「冗談ですよ。しかし、本当にどうしましょう……」

「そう拘ることでもねぇだろ。連れてっちまおうぜ」

「しかし……」


 なおも渋るハインツ。

 リドウは煙管を吹かしながら更に口を開く。


「どの道、俺の連れにゃ一人、足手纏い以下のお荷物が居る。元々はそいつがどうしても旅をしなきゃならねぇ事情があって、俺はその護衛役を仰せつかってるんだ。千鶴……一条のことだが、あいつもその護衛を手伝っちゃくれてるが、あいつも来るとなったらお嬢をここに放っておくわけにもいかねぇんでな、連れてかにゃならん。俺一人ならこんなケースじゃお嬢を留守番させとくつもりだったが、できるだけお嬢を単独で置いておきたくはねぇ。千鶴にはお嬢の身辺警護だけやらせりゃいいさ。才能はぴか一だが、どうせ今はまだ俺らの戦闘についてこれるレベルじゃねぇ」

「ですが、それならイチジョー嬢とそのお嬢様を街で待機させておいた方がなお更よろしいのでは?」

「いや……」


 そこでリドウは、少し難しげな顔でハインツの言葉を否定する。


「ちとな」

「何か?」

「ん……まあ、お前さんにゃ悪ぃが、ここら辺で一度、お嬢にも必要な経験だろうと思ってな」

「うーん……」


 ハインツは唸りながら顔を顰めてしばらく悩んでいたが、リドウの事情を深く突っ込んだりはせず、仕方ないかという思いではあったようだが、最後は頷いてみせた。


「では、それで行きましょう」


 ということで近日のノイケン盗賊団討伐が決定したのであった。










 さて、その夜のことである。


 特に待ち合わせの時間を決めていたわけではないので、どうやら先に宿に戻っていた女性陣に、リドウはハインツを引き合わせた。


 その際、特に千鶴に対しては過剰であったが、恵子にもしっかりと騎士風の礼と賞賛の言葉を送ったハインツが居て、千鶴は特に感じ入った様子はなく平然としたものではあったが、ここまで気障ったらしい扱いを初めて受けた恵子の方といえば、満更でもなく得意そうに、こういう扱いこそ自分に相応しいと言わんばかりの目を、リドウに対して向けていた。


 が、リドウがそれで気に病むようなタチの男であるわけがなく、千鶴ばかりか恵子にさえ、どちらかと言えばあまり相手にされなかったハインツくんといえば、しかし彼も特段気にしてはいない様子であった。


 その姿を見て内心であるが、感心したのは千鶴であった。なるほど、リドウが気に入っているようであるが、ハインツという男もかなり好い男だな、と。


 普通、ハインツのような色男然とした男が、女からこんな扱いを受けてそうそう気持ち良くいられるものではないし、千鶴は当然として、恵子も含んだこの二人を相手にいきなり口説きに入らないというのも、千鶴的には高得点であった。


 初見の挨拶時の歯の浮くセリフ集は、騎士として最低限の社交辞令であるのだろうと判断できる。


 これが、自分には目が無いと最初から諦めた末の行動であるなら話は別だが、千鶴の見る限りにおいて、ハインツはリドウと同様、自己に対して明確な自負を持っているタイプに見える。

 女なら自分に惚れて当然だ、という傲慢な姿勢ではなく、あくまでも女性側の意思を尊重しつつ、自分の気持ちに対して正直に行動できる――言ってしまえば、騎士としてこれ以上にないくらいに絵に描いた騎士の姿を、ハインツには見ることができた。


(リドウと先に出逢っていなければ、少しは気持ちが傾いたかもしれないわね)


 声に出しこそしなかったが、千鶴にとっては異性に対する最上級の賛辞だった。


 しかし、千鶴のハインツに対する印象が逆転したのは、彼がいつも利用している酒場で、例の話が始まってしばらくしてのことである。


 ハインツはやはり上流階級の出であるからか、趣味がいいというべきか、ピアノの生伴奏付きの酒場を常用しているらしく、少々お高くはあるのだが、リドウも資金には困っていないので、別にいいんじゃないか? ということで……まあそれは千鶴的にも問題ない。


 ちなみにピアノだが、思わずその存在に突っ込みを入れてしまった恵子が居たりしたが、百年ほど前に召喚された勇者が広めたものであると聞いて、こんなもんに力入れるくらいなら、もう少し生活全般が楽になるような知識を広めておいてくれと、思い切り思ったそうだ。


 とはいえ、恐らくピアノを広めたのは、召喚された勇者が本物のピアノの専門家だったのだろう。

 専門家でもない者が、にわか知識で何かしらの改革やら改変やらを行おうとしても、技術的にか民の精神性にかのどちらに問題があるにしろ、その時代に適切であるよう、上手く内容をすり合わせて実行できるものでは中々ない。


 リドウにそう言われてしまった恵子はぶーたれたが、じゃあ彼女の方は今すぐ何か、具体的に生活を良くできるだけの知識を披露できるのかと問われてしまえば、残念ながら特に思い浮かぶこともなく、ぶーたれたままであったが、納得はしたようであった。


 さて、それはともかくとして、千鶴のご機嫌が斜めになってしまった理由であるが、実のところ、別にハインツの印象が逆転したわけではなかった。


 ただ……


「私は足手纏いだと言うのね」

「い、いえ……」

「そうだ」

「リドウさん!?」


 お荷物より若干マシ程度の扱いを受けてしまった千鶴が、ハインツに対抗心を抱いたのが原因であった。


 彼女の言葉を一応は否定しようとしたハインツだったが、リドウにあっさり邪魔されて、そんなにはっきりと言うことはないだろうと、ハインツはリドウに非難の眼差しを送る。


 千鶴は憎々しそうな視線をリドウに向ける。


 彼女は本当にリドウのことが好きなのだ。それはもう、外見では冷静を装っているが、初恋に浮かれて内心は有頂天なくらいに。


 だが、お相手であるリドウは全く靡いてくれない。どうして有象無象は幾らでも寄ってくるのに、肝心のお目当てだけが振り向いてくれないのだろうと、ただ今彼女は絶賛、世の理不尽を噛み締めている真っ最中。


 かと言って、彼女には自分から「好きなの。付き合って」とは言えなかった。この少女には似合わないだろうが、真面目に恥ずかしかったのだ、自分から告白するのが。


 だから一々リドウを誘惑してみせたりして、相手から「好き」なり「愛してる」なり言わせようと、これで本人は健気に頑張っているつもりなのだ。

 例を挙げれば、自慢の美貌と肉体で虜にしてしまおうという気で、彼女は今朝の取引を持ちかけたわけだが……これくらいは彼女の中では『健気』に分類されているらしい。「恋愛の駆け引きにそのくらいは当然でしょう? 相手は大人なのだから」という論拠があるらしいが、それでいいのか女子高生。


 ともかく、だ。


 リドウから女として相手にされるには、彼にとって『自立した大人の女』である必要があるのではないか、というのが千鶴の分析であった。


 恵子は当然として、千鶴も現在、リドウに対して依存心を全く感じないわけではない。恐らくそれを彼は察していて、だからこそ彼にとっては『お子様』の扱いでしかないのではないか? でなければ、「この私が相手にされないわけがない」という絶対の自信があるのだ、彼女には。


 これでリドウに『心に決めた相手』でも居るなら話は別だし、その場合は悪いが略奪させてもらうつもりではあるものの、彼にはそんな気配はなく、仮にいたとしても生涯一穴主義には到底見えず、というかつい今朝にはその証拠を拝んでいる。

 “あの程度”の女が相手にされて自分が相手にされないわけがない、と。……いや、今朝の女魔法使いもこれが中々の美女ではあったのだが、まあ公平に見て千鶴と勝負できるかといえば否としか言えないのも事実ではあるっちゃある。


 ならば、他に決まった女がいようと、今は旅道中で遠距離恋愛なわけだから、後はじわじわと自分の魅力で虜にしてしまえばいい。そのためには一刻も早くリドウに一条千鶴という女を求めさせなければ……というのが現在の彼女の主な行動原理だ。


 では、自分を認めさせるのに最も手っ取り早いのは何か? といえば、それはまず自分の実力を認めさせること、と誰でもそう結論付けるだろうが、千鶴も当然そう考えている。


 それが、である。足手纏いだから大人しくしてろと言われて、「はい、そうしてます」と簡単に頷けるだろうか? 無論のこと、否である。


 可愛さ余って憎さ百倍とはまさにこのこと。


 彼女は目線をリドウからハインツに移す。


 恐ろしく美しいと評されるように、千鶴の美貌は氷柱の美しさだ。ただでさえ中々に鋭い系統の面立ちであるのに、それが更に怒気を押し殺した細目で見てくるのであるから、なまじ美麗であるだけに恐ろしいものがいや増す。


 恨みますよリドウさん、とハインツは内心でリドウに悪態を吐いていた。


「この男が、私よりもそれほど強いというのね、リドウ」

「お前さんの才能は確実に、何年に一人と称されても可笑しかねぇもんだ。現時点でも中々のもんなのは間違いねぇ。が、それはあくまでも修練の短さを考慮すればの話だ。単純な実力じゃあのスニフって野郎は既にぶっちぎってる、それも認めてやるぜ。だがあんなのは気功士としちゃ最底辺以下でしかねぇ。保証してやるぜ。今のお前さんじゃハインツ相手に五合と持たねぇだろうよ。つまり瞬殺だ」

「……そう。別にあなたの見立てを疑うつもりはないわ。でも……」

「でも……?」


 と訊いたのは恵子であった。彼女もハインツ同様、千鶴の様子に若干のびびりが入っているようで、どこか慎重な問いかけであった。


「面白くないわね。全くもって面白くないわ。リドウに認めてもらえない自分が。弱い自分が。それに――この下手くそなピアノもよ」


 千鶴は言い切るといきなり立ち上がり、強い歩調で演奏中のピアノ奏者の前へと歩む。


 それに気づいたピアノ奏者の男が一瞬の視線を千鶴に向けると、その美貌のあまりに演奏を忘れてぴたりと止めてしまい、殺気すら漂う怒気の篭った視線で見下ろされながら、「退きなさい」と静かな声で告げられ、哀れ彼は反射的に椅子を飛び退いていた。


 千鶴は椅子に座ると高さを調節し、続いて流れるように鍵盤の下から上へと右手を流す。

 それはただ手を流しただけではなく、一つ一つの音階が丁寧に指先で弾かれた音であり、それだけでも彼女がピアノの素人でないことは誰にでも明らかだろう。


 彼女は少し気に入らない部分があったのか、二箇所を何度か連続で叩くと、「杜撰な調律ね。まあ今回はいいわ」と、慌てて飛び出してきた支配人らしき男に向けて、氷の眼差しと共に言った。


 やはりその美貌のせいなのか、支配人はうっと詰まるとぺこぺこ頭を下げる。


 そんなことはどうでもいいのか、千鶴はさっそく両手を鍵盤に置く。


「ほう?」

「うわぁ……」

「これは何とも、素晴らしいですね」


 今の彼女の内心を表しているかのような、荒々しい曲調であったが、その音は確かに、この場にいる全ての人間を感動させ得るだけの素晴らしい音色であった。


 雇われ奏者だった男など、既にして千鶴のことをまるで女神の如く崇めている。


 およそ十分に及ぶ演奏は、じゃんっ――と、全身で音を出したような動作で鍵盤を叩いたことで終わりを告げる。


 それで少しは怒りが晴れたのか、彼女は続いて大人しい曲調の演奏を開始した。

 どうやら、店内の雰囲気に不似合いな曲を奏でてしまった、彼女なりの謝罪らしい。


 店内の男たちは彼女の容姿に見惚れているばかりだが、そういった男たちの連れの女も、素晴らしい腕前に感動しているらしく、陶然と聴き惚れている。


 とそこで、恵子は舞台脇にリドウの姿を発見し、「あれ?」と思って隣だった彼の席を見てみると、いつの間にか消えていた。


 リドウは楽屋裏らしき場所から戻ってきた支配人から何かを受け取る。


「ヴァイオリン?」


 思わず口を突いて出てしまった声だが、確かにそれはヴァイオリンにしか見えない。


 ヴァイオリンを手にしたリドウは、千鶴のピアノの脇まで歩むと、彼女が爪弾く音色に合わせて、即興でヴァイオリンを奏で始めたではないか。


「これはまた、素晴らしい……宮廷でもこのお二人ほどの演奏はそうそう聴けませんよ」

「あいつ……こんな芸まで持ってたのね……」

「うーん、これは中々、お似合いだと思いませんか? ケーコさん」

「え?」


 演奏に感動しているだけだった女性客までが、今度はリドウにうっとりと見惚れている中で、彼は実に楽しそうに、そして千鶴も先ほどまでの不機嫌がすっかり吹き飛んでしまった様子で、珍しく柔らかい笑顔を浮かべて演奏している。


 確かに、これ以上なくお似合いにしか見えない二人であった。


 それを指摘された恵子といえば、ちくりと胸の奥が痛み、二人を見れば見るほど、なぜだか悲しい気持ちが溢れてきてしまい、知らぬ内にその瞳からは一筋の涙が流れ出す。


 それにようやく気づいた恵子自身は、これはきっと素晴らしい演奏に感動したが故のものであると完結し、涙を拭ってから再びお似合いな二人に視線を戻し……やっぱり悲しい気持ちは拭えず、すぐに視線を逸らして俯いてしまった。


(ふむ……罪な方ですね、リドウさんも)


 それなりにきっちりと、自身のスペックに見合っただけの女性経験を積んできているハインツからしてみれば、千鶴の気持ちどころか、恵子の気持ちも決まりきったものでしかなく、両者共にそれぞれの魅力を持つ少女たちから想いを寄せられているリドウに、思わず苦笑が零れてしまう。


 かと言って、恵子と千鶴の二人に対して、どちらかに特に思い入れがあるわけでもないので、恵子に味方するようなフォローを入れたりするものではなかったが。


 しばらくして演奏を終え、観客たちの拍手と歓声に包まれる中、千鶴は椅子から立ち上がり、苦笑いのご様子でリドウに近づいて行く。


「まさか、こんなところでまで女を虜にするような芸をお持ちとは思わなかったわね」

「特に女受けを狙って身につけた芸ってわけじゃねぇよ。俺の実家の教育方針もお前さんの家に負けず劣らず、中々に厳しかったんだぜ?」

「そのようね。まったく、これでは機嫌を直して差し上げるしかないじゃない」


 千鶴は自分の髪を指で弄くりながら言うと、リドウはそんな彼女の頭にぽふっと手を置く。


「お嬢様のご機嫌を取れたとあっちゃあ、さんざ苦労して身につけた甲斐もあったってもんだ。ま、今回は我慢しとけ。てめぇより遥かにハイレベルな使い手の動きを見るってのも、案外いい鍛錬になるもんだぜ」


 千鶴はその手を払いのけようとはせず、そのまま彼を見上げてにこりと笑って魅せる。


「今回は騙されておいて差し上げるわ」

「嘘吐き呼ばわりたぁ、俺も信用がねぇな」

「さて……どうかしら、ね」


 そんなことを全く思っていない笑顔で千鶴はリドウの腕を取って、体を密着させながら、賛辞を投げかける客たちの間を優雅に通り過ぎて、席へと戻るのであった。


 その時の恵子の様子に……その時には既に笑顔を作れていた彼女であったが、それは千鶴からしてみれば作り笑いにしか到底見えず、彼女は僅かの瞬間だけ目を細めて恵子を眺めたものの、その内心は千鶴本人しか知らないことである。










 その後のことだ。


 宿屋はまだ変更しない……というか、どうせ千鶴の『戟』が出来上がるまでの滞在でしかないので、ノイケン盗賊団討伐を終えれば殆どすぐにアクレイアを出立することは決まっているため、変更は特に必要ないだろうというのが千鶴の言であり、それもそうかとリドウが納得したので恵子が云々言う筋合いでもなく、そのままということで決まったのであった。


 そんな中、恵子はリドウと二人きりで話があると言って、彼の一人部屋に今は居た。


 何となく、千鶴に了解を取らないのは後が怖い気がした恵子は、「ふーん」という気の無い返事と共に、しかしどこか冷たい眼差しを送られながらも何とか認めてもらえたようで、今はこうしてリドウの部屋のベッドに腰掛けている。


 ではリドウ本人といえば、窓に腰を掛けて夜空を眺めながら、酒ツボ片手にもう片方の手には煙管を持ちと、まあ常時の有様である。


「で?」

「あ、うん……」


 どこか落ち込んだ様子を見せる恵子に向かって、リドウが内心どう思っているのか彼女には定かではないが、少なくとも彼の外面は何も気づいた風でもなく、月を眺めたままで、彼女を見ずに何の用だと声を投げかける。


「あんた、あんなことまでできたのね」

「それを言いたかったのか?」

「別に……話は別のことだけどさ」


 どうにも煮え切らない恵子をちらりと流し見たリドウだが、すぐに視線を夜空の星々に戻す。


「あの手のことはサリスから徹底的に仕込まれてんだよ。何せサリスの教育方針は『殿方とはカッコ良くなければなりません』だそうだからな。ガキの頃は何も疑わずにせっせと練習してたもんだ」

「……前から疑問だったんだけど、あのサリスさんって何者? あんたの教育係だったにしちゃ若すぎるけど、魔王ってわけじゃないんでしょ?」

「サリスはリリィが造ったホモンクルスだ」

「ホモンクルスって……人造人間ってやつ? この世界の魔法の技術……魔導学だっけ? ってそこまできてんの?」

「いんや、リリィが特別なだけだ」


 その一言で済んでしまうのが【魔神】リリステラの凄いところである。

 もうそれだけで納得できてしまう恵子は、改めて反則な存在だなと思うだけでしかない。


「五百年前、エーテライスに引き篭もると決めた時に、無聊を慰めるためと、あとは世話係も必要だからってことで、サリスたち侍女隊を創造したらしい。できるだけ人間味を持たせるために、外見が画一的だとホモンクルスの自己認識に障ると考えて、一人一人個性を持たせる上で、ああして人種や年齢を手間かけて別々に造ったって話だ。魔王ほど普遍の存在じゃねぇが、百年に一度の調整さえ欠かさなきゃ、半永久的に生きてられるって話だぜ」

「……ねえ。何でリリステラさんって、エーテライスに引き篭もろうと思ったの?」

「何でとは?」

「だって、人間が好きで、人間のためにキャスティングとかいう画期的な魔法まで開発して、教えてあげたくらいなんでしょ? そのせいで、リリス教なんてもんまで出来ちゃったくらい崇められててさ。引き篭もる理由なくない?」

「千鶴か?」

「うん、まあ」


 リドウはふっと笑いながら煙管を一吸いする。


「僅か一月そこそこで、あそこまで力をつけながら良くぞまあ……状況認識能力と判断能力が図抜けてやがるぜ。俺みてぇに、それ専門の訓練を受けたってわけでもねぇだろうに」

「ねえっ」


 恵子は自分では全く気づいていない……いや、千鶴に訊けば「気づきたくないだけでしょう? 私には好都合よ」とでも言ったかもしれないが、リドウが千鶴を褒めるのが何でか気に食わなくって、強い口調で自分の質問に答えろと催促してしまう。


 助かったのは、リドウがそんな些細なことで気を悪くするような男でも、察しの悪い男でもなかったことだろう。

 ここで「何を怒ってんだ?」とでも返されてしまったら、恵子は恐らく自分でも意味不明に激昂したであろうから。


「そもそも、そのキャスティングとリリス教が原因なんだよ」

「え?」


 五百年より更に以前、ルスティニア人類の総人口は現在の十分の一すら割っていた。


 実は初代の魔王――要するにリリステラのことであるが、彼女が生まれ人の歴史が記されるようになってから、既にルスティニアは一万年近くの時を経ている。

 それなのに中々人類の数が増えなかった理由は、地球とは違い、ルスティニアには地球の肉食獣と比べ、遥かに強力な魔物が数多存在したからに相違ない。


 人類は集合となることと知恵を駆使することで何とか徐々に生存圏を広げて行っていたが、それでも一万年の時をかけてようやくこの五百年で培った十分の一程度にまで広げるので精一杯だったのだ。


 魔物に対して極めて脆弱な存在である人間。

 中には魔王に至るような使い手――そこまでいかなくても、今で言う気功士や魔道士も確かに存在したが、人類の総人口が少ないということはそのような存在も比例して少ないということになる。


 しかも闘気はおろか魔力すらこの世界では遺伝性の才能ではないという事実が、より厳しい現実として人類に対して重く圧し掛かる。


 リリステラに限らず魔王という存在の大半は人類に対して基本的に好意的だ。


 それは魔王なら、やはり大半に「新たな魔王の誕生を心から望んでいるのです」という事実が当てはまるのが主な理由であるのだが――同時に魔王が誕生するためには、自らがより究極の力を追い求める飽くなき渇望が必要であるとも考えるため、人類にとってあまりにも危機的な場面でなら力を貸しこそすれど、基本的にはノータッチが、ほぼ全ての魔王の行動に見ることができる原則であった。


 【魔神】リリステラも当時はそうであった。多少、他の魔王よりは積極的に人類の手助けをしてはいたが。


 だが、彼女自身が記憶している最初の頃の人類と当時五百……いや、ほぼ千年前の人類。比べると、確かに徐々に勢力を増してはいるのだが、あまりにも遅々としたものでしかなかった。


 このまま人類だけに任せておくにしても、未だ人類が未接触だった古代竜や巨人を筆頭とする最上位の魔物をどうにかできるとも思えない。

 それどころか、魔王に到るような『大馬鹿』を除いてしまうと、最強の使い手がドラゴンにすら手を焼くレベルだった当時の人類が、魔王の手を借りずにそれらと生存競争を繰り広げられるためにはまず数の暴力、要するに人口が増えないことにはどうにもならないか――と判断したのが凡そ千年前のことであった。


 ……ようやく諦めた、と言い換えてもいい――人類のみの手による彼らの成長を。

 

 リリステラたち魔王の手で魔物を掃討してしまうことはありえなかった。なぜならば、魔物の存在は人類が成長するための『試練』であり、悪く言えば『糧』や『贄』であったのだから。


 そしてそれから五百年。


 闘気とは違い、人類は誰しもが大小はあれども魔力を持っているが、小さな魔力の持ち主ではまともに魔法を使えない。

 いや、闘気とて持っていないのではなく、一般人は使用するための回路が繋がっていないために行使できないだけで、体内には内在しているのが正確なところであり、魔力の場合は誰でも回路が成立した状態で生まれてくるのが真実であるのだが。


 だがその魔力も誰もが自由に使えるわけではない。感覚の問題であるのだが――本人が膨大な魔力の持ち主であれば、最初は火種を起こすくらいの魔法を『魔力の暴発』により、ようやく実行でき得る。

 そうして『炎を起こす感覚』を、延いては『魔力を扱う感覚』を徐々に広げていき、最後は己が持つ全ての魔力を自在に扱った極大の魔法を行使することすら可能となる。それが《ロスト・スペリング》なのだ。


 小さな魔力しか持たない人間では、その第一歩で躓いてしまい、しかもこの感覚はどうしても言葉で他人に伝えられるものではないので、使用者が限られてくる。


 ならば『魔力を扱う感覚』を養うための第一歩を補助してやれればいいのではないか?


 そう考えた末に、リリステラが凡そ五百年の歳月を賭して開発したのが――呪文詠唱と、更にロスト・スペリングを扱えるほどではないにしても、ごく初期段階の魔力感知能力を得た者であれば可能となる、魔力により空中に魔法陣を構築する行為、通称《虚空陣》を用いた《キャスティング》であり、それを人類に授けたのが、これまた凡そ五百年前であった。


 それによって、魔力の暴発が起こせない程度ではあるこその、それなりの魔力保有者であればキャスティングにより魔力感知能力を養えるため、ロスト・スペリングを体現することが可能となった。


 もっとも、キャスティングがあまりにも便利すぎるため、ロスト・スペリングに手を出そうと考える術者がそもそも少なくなってしまったが、まあそれ自体はリリステラもあらかじめ予想していた現象であったし、魔王に到るような『大馬鹿』であれば、更なる力を求めてロスト・スペリングに勝手に手を出すだろうとも予想していたため、彼女はあまり問題にはしていないようだ。


 その後、最下級の魔物であれば、威力だけに限ればではあるが、二人に一人レベルで対処可能な魔法技術を得た人類の侵攻速度は凄まじく、それまでの遅々としたものが嘘であるかのように、急速にその勢力圏を広げて行った。


 そこで起こってしまった現象が――リリス教の出現である。


 元来【魔神】リリステラといえば、最も慈悲深い魔王として古くから尊敬の念を集めていたのが、この一件で完全に女神扱いにまで昇格してしまった。


 自然と、人類の誰もが彼女の言葉を、そしてご機嫌を伺うようになり……


 その事態を憂慮した彼女が、当時では未だ人類では対処が不可能に近かった天災級の魔物たちを確保して、エーテライスに大結界を構築し、無聊を慰めるためにサリスたち侍女を創造し、そして引き篭もってしまったのである。


 その後、人の世界に住み辛くなった【戦鬼】ザイケンや【天武】リーチェンが移り住んできたのを彼女は心から歓迎し、現在のエーテライスの状況が出来上がったのだ。


「リリィの話を聞いたお嬢なら、リリィがどう考えるか理解できるだろう?」

「うん。良くわかったわ」


 恵子は素直に頷いた。


 更にその後、リリステラが引き篭もってから凡そ百年ほどが経過すると、あちこちに大小様々な国家が乱立するようになり、権力という美酒に酔った愚か者たちが現れ始める。


 彼らの世代になると、直接的に【魔神】の存在を目にしたこともなければ、恩恵を授かったわけでもない。


 力を持たなかった以前ならともかく、中途半端に己の力に酔い痴れているからこそタチが悪い。

 魔王という絶対普遍にして圧倒的な力を持つ存在がどうしても気に入らず、しかし下手に手出しもできない。魔王の怒りを買ってしまえば、自分の国ごと滅ぼされてしまうのだから。


 そんな時、一人の天才魔導学者が登場した――彼の名は【ヴェイン=テトスラトス】。


 彼は自身が強大な魔法を行使できるような魔道士ではなかったが、儀式魔法の術式構築に関しては人間で彼に勝る才は今後数百年経っても現れることはないだろうと言われ、事実それから四百年が経過した今でも彼の功績を凌駕する魔導学者は出現していない。


 彼は各国の魔王に対して鬱屈した念を抱えている権力者たちに提案した――《勇者召喚》を。


 そして、その記念すべき第一回目の勇者によって魔王の一柱が滅ぼされてしまうこととなり、世の権力者たちはその事実に大いに湧いた。


 その後、魔王と相打ちに終わった第一回目に続き、第二回目の勇者召喚が実行されたが、その勇者はあっさりと返り討ちになってしまった。


 それに恐慌したのが実行を命じた権力者たちである。


 彼らは報復を恐れて、当時は誰一人として一歩たりとも宮廷から出ようとはしなかったと歴史には記されている。魔王の力を持ってすれば宮廷内に居ようが居まいが大して変わらなかっただろうが、要するにできるだけ孤独ではいたくなく、大人数で固まっていたかったのだろう。


 がしかし。いつまで経っても報復行為がないと知ると「あれ?」と思いこそすれ、じゃあもう一回となり、それも失敗し再びぶるっていたら、やっぱり報復はない。


 この魔王たちの行動に関する学者たちの分析は、どいつもこいつもバトルジャンキーの気質が大なり小なりあるため、むしろ「召喚された勇者とのバトルを楽しんでんじゃね?」というのが大凡の見解であり、だからこそ、魔王に対して好意的なリリス教国家の人間たちもロンダイク聖教国家に対して勇者召喚に関してケチを吐けたりはしないので、それほど大きな戦争が勃発することもなく、それなりに平穏な時代がここ百年ほど続いている。


 ――というのが、ルスティニアにおけるここ数百年の大雑把な歴史の流れである。


「それで、それが聞きたかったことなのか?」


 話の流れからして他に質問があるのではないかと、リドウは自ら問う。


 恵子は少しの間迷った様子を窺わせたが、最後までおずおずといった印象ではあるものの、黙って夜空を眺めながら煙管を吹かして待っていたリドウに、ようやく口を開く。


「千鶴にさ、リリステラさんたちのことは話さないの?」

「逆に訊くが、一々話す必要があるか?」


 そう言われてしまうと、恵子には何とも言えない。


「……黙ってるのはなんか悪いってゆーか、気持ち良くないってゆーか……」

「必要と感じればてめぇから話す。お嬢が口出しする問題じゃねぇ」

「でも……」

「くどい……ぞ?」


 しつこいぞと鋭い眼差しを送ったリドウは、しかしそこでぽろぽろと涙を流してる恵子を見ることになり、ぎょっと目を見開いた。


 その涙の意味が哀しみであることは誰の目にも明白であり、この男がそれくらいを解せないわけがない。


 恵子自身は何で自分は泣いているのだろうと、自分自身で理由がわからず、けれども涙は全然止まってくれない。


 ぶっちゃけてしまえば、哀しいの一言に尽きるのだが。


 言動の一々が大人な雰囲気溢れるリドウに、しかし千鶴は平然と合わせてしまえ、二人はお似合いだという厳格な事実を見せ付けられてしまった。

 恋愛関係が成立しているわけではなくても、その仲睦まじい様子は傍目に恋人同士にしか見えない。


 麻木恵子は純情であり潔癖な乙女である。だからこそ、恋人を裏切るようなマネを自分がするはずがないと心底思い込んでいるため、自分がリドウに惹かれてしまっているなどとは考えてもいないが、千鶴やハインツから言わせれば、もう手遅れっしょ? としか見えない。


 そうして、自分では意味が理解できない哀しみの淵にあって、更にこんな冷たい対応をされてしまえば、涙の一つや二つも流れ出てこようというものである。


 そんなお姫様を見たリドウといえば、心底面倒くさそうに頭をがしがしかいて、仕方ないとばかりに窓の方を向いていた彼女の目の前までベッドの上を移動し――


 彼女の左頬に己の右手を添えて、彼女の左瞼から流れ落ちる涙を自身の親指で拭いとる。


 まるで他人事かのようにぼーっと虚ろに目の前の男を見つめる恵子は、いつもなら反射的に「あたしには恋人がいるの!」とでも拒否していただろうが、この時はそんな行動に出たりせず、大人しくされるがままに、彼に任せている。


 次第に涙は止まり、それを見て取ったリドウは、今度は恵子の頭にぽふっと手を置いた。


 今度も恵子は拒否しない。いつもなら間違いなく激昂と共に拒絶していたであろうに、この時ばかりはそんなマネをしようとは考え付きすらしていない様子である。


「俺は一々説明するのが面倒だし、その必要がそもそもねぇと思ってるだけだが、お嬢が話したきゃ好きにしていい。千鶴なら他人に言い触らしたりもしねぇだろ」

「……いいの?」

「ああ。お嬢の好きにしろ」

「……うん」


 リドウの手を頭に乗せたままで、恵子はようやく冷静になった様子でこくんと頷いた。


 それを見て、彼はぽんぽんと二度、軽く彼女の頭を叩くと、もう寝ろと言って彼女を部屋から追い出した……といっても、別に強引に押し出したりしたわけではなかったが。


 部屋に戻れというリドウの指示に素直に従い、彼の部屋を辞した恵子は……


 数瞬の間、彼の部屋の前で立ち止まったままで、いわゆる狐に摘まれたような風情でぼーっと立ち尽くしていたが、次第に一歩、二歩とよろめきながら目の前の壁に片手をつくと、もう片方の手で口元を押さえながら、ずるりと床に崩れ落ちた。


(やばいよ……何なのこれ……)


 真っ赤に染まりきった顔だけが、彼女の内心を如実に表しているようにしか思えない。


(ウソよ……絶対ウソ。だってあたしには……芳樹が……)


 彼女にとって恋人への裏切りは『絶対にありえない』ことなのだ。だって約束したのだから――「ずっと一緒だよ」とお互いに。

 今の離れ離れな状況はあくまでも不可抗力でしかなく、せめて心だけは常に一緒でなくてはならないのだ……麻木恵子という少女にとっては。


(違うっ! あたしは浮気なんて絶対しないっ。他の男を好きになったりなんて絶対しないっ)


 ぶんぶんと、何かを強く拒絶するように首を振る。


(そうよっ。あんな女タラシ、女の子の扱いが上手なだけで、あたしもちょっと引っ掛かっちゃっただけなのよ! まったく、本当にサイテーな男よね! 芳樹とはぜんっぜん違うわ!)


 何とか自分の中でフォローが完成したらしい。


 彼女は何を勝手に納得しているのか「うんうん」と頷きながら、ようやく自分の部屋へと歩み出した。


 その姿を……


(ま、そうでしょうね。でもね恵子ちゃん、ようやく認めることができたその時には既に手遅れでした、なんてことになっていても――私の知ったことではないのよ)


 廊下の陰から、冷徹とすら言える凍えた眼差しで眺めている千鶴がいたのに、恵子が気付くことはなかった。

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