第八十七話 ツケ
リドウの頬をマイス団長の右拳が完全に捉えた。
殴り飛ばされたリドウに苦痛の声は無く、しかし右足が勢いに負けて大きく開かれる。
「なっ!?」
悲鳴に近い驚愕の声を上げたのはラクセスだった。
「何をするのです!?」
ラクセスは、己の望みを完璧に果たしてくれたリドウへの仕打ちに、宮廷戦略旅団のメンバーたちも決して小さくない動揺を見せる中、マイス団長に食って掛かった。
が、その前に、当の理不尽な仕打ちを受けたリドウ本人が、痛みに耐えているのか、地面を見つめる項垂れるような姿勢のまま差し出した手が、ラクセスの進路を阻む。
ラクセスは「ここは怒るところだろう!?」と問いたげな視線をリドウに向ける。顔を上げた彼の頬は既に赤く腫れ上がっており、口の中が切れたらしく、唇の端から微かに血が垂れていた。
しかしその顔が「何も言うな」と強い眼差しで語っており、ラクセスは思わず口を噤んでしまう。
リドウは一度目を瞑って感情を切り替え、静かな瞳で憮然としているマイス団長に向き合う。
「ガスパーに家族は?」
「嫁一人だ」
「そうか。俺の報酬はその嫁さんに全部やってくれ。ケルベロスを仕留めたんだ、それなりのボーナスはあるんだろ?」
「女一人なら一生遊んで暮らせるだろうな。しかし、貴様がそこまで考える必要は無いのだぞ?」
「金で解決する問題じゃねぇが、俺にできる事はそれだけだ。頼む」
「承知した。必ず」
「感謝するぜ」
礼を言うリドウに真摯な態度で頷くマイス団長。
そしてリドウはもう一度だけ「頼む」と念を押してから身を翻した。
その背に、
「感謝する、名無しの英雄よ」
マイス団長の声が掛かるが、リドウは何も応えようとはしなかった。
そのまま独りで歩き出してしまうリドウに、ラクセスは彼とマイス団長の間で狼狽しきりの視線を右往左往させていたが、やがて勢い良く一礼してからリドウを追って駆け出した。
メンバーたちは黙ってその光景を眺めていた。
が、リドウとラクセスの姿が視界から消え去ると、メンバーの一人がおもむろにマイス団長に近づいて行った。
「どういう事だったのですか?」
「お二方のやり取り、ちょっと我々には理解が及ばなかったのですが……」
「必要な儀式だった」
マイス団長は短く答えた。
それから部下全員をゆっくりと見渡す。
「あの男がいなければ我々は良くて半壊だったろう。バラバラに逃げ出せば、運が良ければ、狙われなかった者だけは生き残れた。……お前たちはそう思っているのだろう?」
その言葉に、全員が躊躇いながらもそれぞれの形で肯定の返事をしている。
が、マイス団長は厳しい顔で首を横に振った。
「だが、初めからあの男が本気で戦っていればガスパーは死なずに済んだ」
「あっ……」
誰かが小さく驚きの声を上げるが、全員が似たような顔になっている。誰一人として同僚の死を忘れていたわけでは決してなかったが、リドウがケルベロスを打倒したのが鮮烈すぎて、そこまで考えが至らなかったらしい。マイス団長は流石に統率者を任されているだけはあったという事だろう。
「前提の問題だ。死なずに済んだはずのガスパーが死んだ責任が、少なからずあの男にはある」
無論、自分にもなと、マイス団長は歯を噛みしめながら苦しげに言う。
「冷静に事実だけを見て考えれば、どういった形にしろケルベロスを打倒せしめたあの男を罰する道理などない。失ったのも高々一人の命だ、それっぽっちの犠牲でのケルベロス打倒は上出来すぎる。だがあの男にとってはそうではなかった。部下を失った俺にとってもだ」
故に『儀式』だ、とマイス団長は重厚な声で言った。
「そもそも、あの男が俺如きの攻撃を避けられないわけがないだろう? 不意打ちならいざ知らず、あんな真正面からの大振りのパンチを」
真理だった。これ以上ない説得力だった。
「あの男が何を目的に実力を隠していたのかは知らん。だが何かしらの目的があったのだろう。それを曲げてまで我々を救ってくれた恩は忘れん。最後の礼の言葉はそういう意味だ」
マイス団長は、感嘆の表情で、自分を褒めようと口を開きかける部下たちを、視線だけ動かして一瞬で見渡す。
「一つ、言っておこう。これは俺からの至上命令だ」
その眼差しの厳しさのあまり、一同は喉を鳴らしてしまう。
「あの男の正体に関しては一切考えるな」
「な、なぜです?」
「最悪、我が国はリリス教から孤立する。理解はできるな?」
目を見開く部下たちだったが、しかしすぐに真剣な顔で頷くのを見て、マイス団長は、
「おそらく、リリス教の方からすぐにアプローチがあるはずだ。我々は起こった事実をありのまま上に伝えればいい。上の者から何を聞かれても、推測は一切織り交ぜん事を心掛けろ。いいな?」
はい、と威勢のいい返事が木霊するのに、マイス団長は気難しそうな顔で頷いた。
彼は話すことを話し終えたようで一瞬会話が途切れる。するとメンバーの一人が躊躇う様子を見せながらおずおずと口を開いた。
「団長……我々はライドウ……彼に感謝すべきなのですか?」
「感謝はしろ」
無事に生き残れた喜びを表せばいいのか、それともガスパーを失ったことを悲しめばいいのか今一判断に困っているらしいが、それはこの質問をした者に限った話ではないようだった。
それも上司の迷いの無い言葉を受けて、方針が決定されたことで、ほっと息をしながら笑顔になりかけていた。
が、続けて――
「しかし、ガスパーはいい奴だった」
マイス団長は瞑目しながら、
「感謝はしろ」
もう一度それを繰り返し、
「しかし、あの男が全力で戦わなかったせいでガスパーが失われたことを我々は常に忘れてはならん」
そんな器用なマネをしろと言われても、とますます困ってしまうメンバーであった。
リドウを追い駆けたラクセスは、マイス団長が語ったのと全く同じ内容の話を彼の方から聞かされ、何も言えなくなってしまっていた。
ラクセスは物静かに歩くリドウを斜め後ろから追従している。
「ケルベロスをそのまま残したのは……」
「俺の報酬額を釣り上げるためだ。だからできるだけ原型を残して倒すように気を配った」
リントブルムの時とは違う対応も不審に思っていたラクセスは、やはりそうか、と声に出さずに思う。今まではその理由が理解できなかったが、今のリドウの話を聞いて、彼女も自ずとそうではないかと考えたらしい。
「本当ならガスパーの嫁さんの所まで行って、殴られるなり罵られるなり、気の済むまでやらせてやりてぇんだがな。相手からしてみりゃ、それで失った旦那が戻ってくるわけでもなし、迷惑なだけだろう。クソみてぇに最低な方法だが、手っ取り早く、これからの嫁さんに必要なもんとして、俺にはできるだけ慰謝料の額を釣り上げてやる事くらいしかできなかった」
所詮は俺の自己満足だがな、とリドウは吐き捨てるように言った。
それはそれで、果たしてマイス団長が約束を守ってくれるかという心配はあったが……
彼は人並みに欲望もあるし野心もあるが、己の義務と責任はきっちりと果たせる人間だ。少なくとも彼が勝手に着服してしまうようなオチにはならないだろうとリドウは見ていた。
もっとも、マイス団長は“普通に人間”だ。大金を前にしてどういう反応を見せるかはリドウにも何とも断言できるものではなかった。なので約束が果たされているかは“いずれ確認させてもらう”つもりだったが。
「それで、質問は終わりかい?」
「……ああ」
「なら、さっさと戻るこったな」
答えを躊躇う様子を見せるラクセスに、リドウは足を止めて振り返る。
「あんたにだってそれなりの報酬は入るだろ。それを受け取って、あんたはあんたの目的を果たしゃいい」
自分はとっとと帰る。そう言って風を身に纏うリドウに、
「待ってくれ!」
ラクセスは焦燥感で一杯の顔で、彼の手を掴んで無理やり止める。
今は“適度に”気を張っていた状態だったおかげで、リドウの反射神経が迎撃に費やされることが無かったのは幸いか。
いったん風を解除してラクセスの方を向き直るリドウに、彼女は逃がすまいと彼の手を握る力を強くしながら、
「私も一緒に連れて行ってくれっ」
「正気で言ってんのか?」
言葉通り、正気を疑う目で見てくるリドウに、ラクセスは怯まずに言い募る。
「正気だ。そして本気でもある」
「それがどういう意味か理解して言ってんのか? ロンダイク聖教を敵に回すんだぜ。あんたにそれができるのか?」
「私にとって、その質問は意味が無い」
リドウも流石に少しばかり意味不明だったようで、訝しげに眉を顰めながら微かに首を捻っている。
「私は勇者に従者として仕えるために生きてきた。聖ロンダイクに仕えるために生きていると考えたことは一度も無い」
リドウはこれだけで、ラクセスが自分に対して何を求めているのか察し、拒絶の言葉を伝えようと口を開く。
が、その口は開きかけのところで、ラクセスの手、その人差し指が立てられ、彼自身の唇に振れる寸前にまで差し出されたことで、反射的に閉じられてしまった。
「もう少しだけ、私の話を聞いてくれないか……?」
切望するか細い声だったが、リドウは途端に踵を返して歩き出してしまう。
あ、という小さく切なげな声がラクセスの口から零れ、リドウの背に向けて、縋るように手が伸びる。
が、リドウは側の木に背を預けると、煙管を取り出しながら、顎をしゃくって話を促した。
ほっと安堵の吐息をつきながら、ラクセスもリドウの側まで歩む。そして彼が寄り掛かっている木の横に自分も背を預けた。彼女の肩が彼の腕に触れ合い、互いに視線は合わさずに、正面を見据えて話し出す。
「あの後……ユーキは抜け殻になった」
今にも泣きだしそうな声だった。
「それでもヴィレッタは甲斐甲斐しく世話を焼いていたが、私には耐えられなかった。勝手に期待して勝手に失望して、挙句の果てに見捨てたと思われても仕方ないがな。いや、事実、その通りでしかない」
声音が涙に濡れているのがリドウにも判る。今はただ、何も言わずに聴いてやるのが自分の務めかなと判断し、静かに煙管を吹かすだけで何も声にはしない。
「それに私自身、何が正しくて何が間違っているのか……判らなくなってしまっていた」
すんっと鼻を啜る音がリドウの耳に届く。
「独りで国に帰る気にはなれなかった。どの道、私一人で帰ったところで、もう齢二十四。少なくとも冒険者社会以外でなら十分にオバサンだ。こんな年増の中古女など、新たな勇者に払い下げられる価値も無い。使い物にならなくなった従者など、愚劣な貴族の慰み者にでもされるのが精々だったろう」
「自虐が過ぎるだろ。あんたやヴィレッタは勇者の従者としちゃ相当なもんだろ? 少なくともあのマイスって団長さんと同等には張り合えるはずだ。他国の宮廷戦略旅団長並みの従者となりゃお宝もんだろうに。それに何つっても、あんたは十分に美人だ。男を知ってるくらいで価値が下がるもんじゃねぇだろうが」
「女心を殺すのがお上手なことだな」
嫌味っぽい台詞の割には柔らかい声音のラクセス。その頭がこてんと倒れ、リドウの肩に預けられる。
「弱った女ほど口説き易いものはないと聞いたことがある。以前はそんな弱い女を馬鹿にしていたが、今ならその気持ちが理解できる気がする」
自虐の篭った声で言うが、
「もう少し……このままで聴いてくれるか……?」
その声が少し甘く変化したのをリドウは敏感に感じ取った。
ラクセスの提案に答える声は無い。が、ぴくりとも変化しない態度から、リドウに拒絶の意思は無いと、彼女は勝手に解釈させてもらうことにした。
「勇者の従者として生きていくことだけを考えて生きてきた私は、ユーキから離れたら何をすればいいのか自分で判断することすらできなかった。一時は落ちる所まで落ちてしまおうかと、娼婦にでも身を窶そうかと自暴自棄に考えたこともあった」
「……一つ聞かせろ」
「ん?」
「どうしてこの国を選んだ?」
ラクセスの唇が悲しげな笑いに歪んだことを、リドウは気配で察する。
「判っていて訊いているようだが?」
「…………」
リドウはぎゅっと眉間に皺を寄せてしまう。
金が欲しければ今は他に幾らでも稼ぎ先があるだろう。それがわざわざ、落ち目なせいで戦力にも乏しい国で、エーテライスですら希少で、今回の同時襲撃事件ですら一体も確認されていない最上位という超特殊例を除けば最強クラスの化け物に挑まなければならないときている。リドウのように他に目的があるならともかく、普通なら他の被害国に行くだろう。
つまり、ラクセスには他に何か目的が有ると考えるのが自然で……そんな自暴自棄になって考えることなど、一つしかリドウには思い浮かばなかった。
「死ぬつもりだったのか?」
「ああ……そうだ」
ラクセスは苦しそうな声で吐き出す。
「自決なんて完全な無駄死にをする気にはなれなかった。だからせめて……最期は他人の役に立って死のうと……」
その相手は誰でも良かった。この国だったのは、そう思い立った時にちょうどケルベロス襲撃が発生していて、たまたま近くに居たからだったと、ラクセスは言った。
「あんたは決して弱くはねぇが、悪いがケルベロス相手じゃ十把一絡げの雑魚でしかねぇ。戦力の一人として欠片も役に立たねぇとまでは言わねぇが、そんな心算でいるようじゃ無駄死にと変わらなかったぜ」
「厳しい男だな、きさ……お前は、月紅」
「その二つ名は好きじゃねぇ。何でもいいから他のにしてくれ」
ラクセスは何が可笑しいのか、くすくすと小さな笑い声を零している。
「ならば、名前で呼んでも?」
「それが一番いいな」
「ならリドウ。お前が勇者召喚でこの世界に呼ばれたのは事実なのか?」
「ああ」
嘘から出た真……と言うか、その可能性が元々高かったのは事実だが、とリドウは内心で思いながら応じる。
その時、ラクセスが大きく身を動かす気配をリドウは感じるが、彼女は彼の目の前にやって来て、
「私は……他の生き方を知らないんだ」
再び涙ぐんだ声になってしまっているラクセスに、リドウは内心の舌打ちを押し隠して、微かに眉根を寄せながらも、彼女の目を真っ直ぐに見つめる。
「お前が殺すなと言うなら、たとえ私自身が殺されようが決して殺さないと誓う」
ラクセスは己の胸を手で押さえながら、切実に言い募る。
「私を美人だと言ってくれたな?」
「俺は思ってもねぇ世辞で他人のご機嫌を取れるほど、出来た性格はしてねぇよ」
いかにもリドウらしい回りくどい物言いに、ラクセスは柔らかく、しかし同時に切ない雰囲気を湛えた笑みで、
「お前が望むならどんな辱めだって受け入れてみせる。お前にとって可愛い女になれるように努力する。だからお願い……」
縋るような眼差しで、しかしその手は男を誘う妖艶な仕草でリドウの頬を挟み持ち。
「私の勇者になって……」
ラクセスは徐々にリドウへ自らの顔を近づけていく。
「そして少しでもお前の慰めに……」
パァンッ
その頬が張り飛ばされた。
決して強い力ではなかった。ラクセスも闘気を纏っているわけではなかったが、痛みは殆ど無かったであろう。
しかし、ラクセスは叩かれた頬を手で押さえながら呆然としてしまう。
「そりゃ依存だ。するのもされるのも好かねぇ」
途端に、ラクセスはキッと眦を吊り上げた。
「ならばどうして邪魔をした!? いや、そもそもどうして“あの時”、ユーキ共々、私を殺してくれなかったんだっ!?」
「単純だ――あんたが弱いのが悪い」
「よ、弱いから殺されない……!?」
普通は『弱いから殺される』ものだろうに、正反対のリドウの言葉の意味がラクセスには理解できなかった。闘士にとっては『当然の摂理』なのだが、ここら辺が“頭のネジがどこか狂っている大馬鹿連中”と一般的な感性の持ち主の差なのだろう。
「あんたが、俺が殺さなきゃ勝てねぇ程の使い手だったら殺してたろうよ。お互い命張ってんだ。けどな、勝者に敗者をどうこうする権利が有るってなら、生かす権利だって存在するだろうが」
ラクセスは一瞬、なるほどと納得しかけてしまったが、いやいやと首を横に振って反論しようとする。
が、その前にリドウが彼女の両の肩を強く掴んだ。いつの間にか煙管は既に手の中には無い。
「俺は強く生きると母親に誓った」
ラクセスも過去の一件で既に知る――この男の育ての母は彼の魔神であると。彼女も忘れていたわけではないが、その存在が本人の口から改めて知らされると、自然とその瞳は思い切り見開かれてしまっている。
「てめぇの弱った心を女で慰められようなんぞ、俺には死んでも許されねぇんだ」
プライド命、ここに極まれり。
「それにあんたを抱いて慰めてやるのは簡単だ。けどな、一時の慰めになってやるくらいならできるが、今の俺にはあんたにかまけてられる余裕は無ぇ。今のあんたに必要なのは、そんな安易な慰めじゃねぇだろ?」
やはり拒絶されるのかと表情を沈ませてしまうラクセス。
しかしリドウは、だから、とまだ話を続けていた。
「あんたが独りで立てるようになるまでの寄り木になってやる事くらいしか俺にはできねぇ」
「え……!?」
驚愕するラクセスを放って、リドウは彼女の横を通り過ぎてしまう。
釣られながら振り返るラクセスの目に、背中越しに顔だけ振り返って自分を見ているリドウの姿が映り込む。
「どうするんだい?」
「あ、ああ! 一緒に連れて行ってくれ!」
ラクセスはぱぁっと顔を明るくして、力強く頷く。
「時間が惜しい。飛ぶぜ」
その宣言と同時にラクセスの全身が風で包まれた。
数時間を経てアイルゼン大陸中央教会の座するガーラホルン自治領まで戻ってきたリドウは、真っ先にベアトリクスを探した。
既に夜の帳が落ちている時間帯だった。何人かに訊ねると、明日の大陸間リリス教同盟国会議のための調整もひと段落を終えたので、今は明日の会議に万全の体調で臨むために、教会内に宛がわれた自室で休んでいるはずとの話だった。
連日の激務で疲労も濃いだろうと、リドウは酷く申し訳ない気分にしかなれなかったが、“この件”の対処はまさに拙速を尊ばれる話だったので、ラクセスを伴ってベアトリクスの部屋を訪れる。
流石に王女様なだけはあって、部屋の周囲には衛兵がドアを挟んで左右に一名ずつ立っている。教会保有の神殿騎士とは装いが違うので、おそらくベアトリクスが国から付けられた護衛なのだろう。
はっきり言って戦力的に考えれば、ベアトリクスにとってこんな護衛など全くの無意味だろうが、一応はお忍びではなく『プリンセス・ベアトリクス』として動いているため、対外的なパフォーマンスは必要という事なのだろう。
彼らはリドウを見たことは無かったらしいが、彼自身の余人には中々お目に掛かれない容姿のおかげですぐに理解してくれた。それでも一応確認のために『ベアトリクスを何と呼ぶか』を訊ねられたのだから、それがどれだけ特殊な呼称なのかが良く表れている。
衛兵がリドウの来訪を告げると、室内から入ってくれと言う声がする。
リドウはラクセスにここで待っているように言いつけて、一人で中へ入っていった。
入室と共に、
「手間を掛けたな」
とベッドの淵に座るベアトリクスが労いの声を掛けながら、隣に座れとベッドの自分の横をぽんぽんと叩いているが、リドウは応答せずにいきなり遮音結界を起動させた。
ハイドキャストにはしていなかったし、ベアトリクスもすぐに気づいて訝しげな顔をする。
「しくった」
ベアトリクスの一メートル程前に立ちながら、厳しい顔で言うリドウ。彼女も釣られて表情を引き締めた。
「どういう事だ?」
「我慢できなくなってやっちまった」
端的に事実だけを言い表すリドウであったが、ベアトリクスはそれだけで十分に理解した。
「まあ……あなたらしいよ」
ふっと柔らかく微笑を零す。ベアトリクスも、そうなる可能性はかなり高いと最初から踏んでいたし、想定外という程の事態ではなかった。
「では、当初の予定通りに」
「やめろ」
普段よりも大分強い語気に、ベアトリクスは眉をひそめる。
「頼む、やめてくれ」
二度の拒絶に、ただ事ではなさそうだとベアトリクスも理解する。
「何があった?」
「言いたくねぇ」
リドウは苦痛を感じているのではとすら思わせる顔で、絞り出すように言った。
「とにかく、今回の一件で至天とやらにするのだきゃやめてくれ」
しかし、と反論しようとするベアトリクスに、リドウは平手を差し出して彼女の発言を止める。
「ケルベロス討伐の手柄は全部、ラーカイム王国にくれてやっちまってくれ」
リドウには何か考えが有るらしいと気づいたベアトリクスは黙って聞き手に回ることにした。
それからリドウは、起こった事実をありのままに伝えた。
それを聞き終えたベアトリクスは……唖然とするばかりだった。
「に、逃げた? あなたが出張った後に?」
ライトニング・インパクトこと美土里貴月の行動が、ベアトリクスには心底から信じられないらしく、頬が若干の引き攣りを見せている。
「ああ。こうなっちまった以上、いくらラーカイム王国の上層部が野郎を買ってようが、二度とまともには使えんだろ。現役の旅団員を総入れ替えする覚悟は要るだろうからな。才能の数割も発揮してねぇあの野郎にそこまでの価値はねぇだろ」
「とすると、肝心の戦力を提供できない以上、いざ権利を主張しようにも強気に出ることはできまいな」
リドウの狙いを理解したベアトリクスが気難しげな顔で頷いている。
「そこら辺は外交次第だろう。あまり後手に回ると、向こうさんにデカい顔を許す羽目になりかねん」
「時間の勝負だな」
「ああ。頭の回転が速い口の達者な奴を、できるだけ早く送り込んでやってくれ」
「了解した」
ベアトリクスは軽く頷くが、その顔はにんまりと笑っていて、
「貸し一つ、だぞ――リドウ殿」
「分かってる」
何を要求されるのだかと、盛大に顔を顰めながらも、リドウは否とは決して言わなかった。
「しかし……わざわざ遮音結界を使う必要があったか?」
「それはこれからだ」
リドウは瞬時に表情を引き締めた。
「ラーカイムに雇われてた気功士を一人、拾っちまった。部屋の外で待たせてんだが、気功士だからな、この話は聞かれたくねぇ」
「拾った?」
「ちょっとした因縁がある奴だったんだよ。拒否ったら自殺でもしかねなかったんで、仕方なく、な」
「それは女かな? ついでに美人か?」
「女だし、美人だな」
「これはまた、実にあなたらしいと言うべきか……」
ベアトリクスは思い切り苦笑しながら、口からはクスクスという小さな声を発している。
「そいつだがな、前にブランカ帝国でオルライン帝国の勇者と揉めた話はしたな?」
「ああ。見事にラヴァリエーレ殿まで引っ張り出す事になったな」
「そいつの従者だった女だ」
「それは……!?」
ベアトリクスは途端に瞠目して息を呑んだ。
「……大丈夫なのか?」
慎重に問い質してくるベアトリクスに、リドウも重苦しい様子で、しかし深く首肯してみせた。
「俺が勇者の野郎をぶっ潰した後、色々とあったらしい。再会した時は拒食症気味で自滅しかけてやがった。俺の行動を予測して先回りしてたとは考えにくいし、あれが演技だったとすりゃ希代の名女優だ。以前にブランカ帝国で会った時の事から考えても、そんなに器用な女には思えねぇ」
顎を指先で軽く擦りながら、ふむ、とベアトリクス。
「しかし、一応、俺から離れてる間はラクセスに常時監視を付けといてくれねぇか?」
「慎重だな。密偵の可能性を疑っているのか? それにしてはご自分の眼を信用しているようだが」
「ツケを払うのが俺の事だけで済むなら気にもしねぇがな。今は俺のミスだけで済む範囲を越えるだろ」
「それで、もし本当に黒だったらどうする?」
「始末するなら好きにしてくれ。何なら俺に申し付けてくれて構わん。俺ならそれよりも、与える情報を選別してからくれてやっちまうがな」
うむ、とベアトリクスは満足そうに頷いた。
「状況次第だな。泳がせた方が利益に繋がるようなら利用するさ。とは言え、本当に黒だったらの話だが」
限りなく白なのだろう? とベアトリクスはリドウに問いを投げ掛けると、彼はごく短く、ああ、と肯定した。
「それと、リューはどうしてる?」
「戦力的なバランスと諸般の事情が多大に作用した結果、今はオリアース大陸のガルディッシュ皇国まで出張してもらっている」
「そうか」
リドウは何でもない風を装って応じながら、しかし内心では軽く舌打ちを鳴らしている。
「サティーは今どこら辺か、もう連絡はついたかい?」
「いや、まだだ。約束は忘れていないから安心してくれ」
「ん……まあ、頼む」
リドウが伝えたい事柄は一通り話し終えたので、ベアトリクスの方からは何か特にないのかと訊くと、殊更には無いと言うので、彼は部屋を出ようと、風の遮音結界を解除しながら踵を返す。
が、その背に待ったの声が掛かる。
「少し飲まないか?」
「休まなくていいのかい?」
「眠るだけが休息という事もないだろう?」
リドウはそりゃそうだと納得し、そのくらいならと色よい返事をする。
「選別は任せるぜ」
リドウが、誰が適切な能力を持っているかなど知るわけがなく、そこはベアトリクスに一任してしまう。彼女の方も二つ返事だった。
「カラッド大司教と相談して決めるよ」
「なら急いだ方がいいんじゃねぇか?」
「カラッド大司教も連日の激務でお疲れだよ。お年のせいもあるだろうが、あまり無理をさせたくはない」
ベアトリクスは、相談は明日の朝にすると言いながら外へ向かう。
一緒にリドウも一度外へ出て、衛兵の一人に酒の準備を命じているベアトリクスの横で、ラクセスに今夜はもう休めと言い置いた。
闘気の反応も無かったので、聞き耳を立てられていた風は無かったのはリドウにとって幸いだった。やはり一度は受け入れた人間を疑うのはあまり気持ち良くない。
ラクセスは、少し前までは敵地と考えていた場所で独りになるのを嫌ったのか、微かに躊躇う様子を見せたが、自分は酒が飲めないしと考えて、素直にリドウの言葉に従い、もう一人の衛兵に案内されて部屋を離れて行った。
それからの二人っきりの宴会は、二人とも酒に強い体質なだけあって、深夜まで延々と、静かながらに盛り上がったそうな。
そしてリドウは思った――どうせ気を紛らわせるなら、やはり話していて楽しい相手と酒を飲むに限る、と。
しかし、己の過失(少なくともリドウ自身はそう考えている)により犠牲にしてしまった一つの人生が心のどこかにしこりとなって、心から酒宴を楽しめることはなかった。




