第八十六話 裏切りの形
今、リドウは怒っていた。それはもう、とてつもなく激怒していた。
――自分自身に対して。
ベアトリクスの依頼――それは、最終的にはリドウの意思に委ねると彼女は言った。だから別に、何をしようが約束を破ったわけではない。
しかし、リドウも一度は選んでしまった――己の利益のために目の前で無駄に散ろうとする命を“許容”することを。
だが、結果を見れば……こうして我慢できなくなっている。
既に無駄な犠牲を出しておきながら、ベアトリクスの依頼に関しても中途半端。それならせめて最初から自分が全力でケルベロスを片づける方を選んでおくべきだった。
己の決断力の甘さと、どうせ我慢できなくなるという光景が思い浮かばなかった想像力の足りなさ。
リドウが自分自身に憤怒の感情を抱いているのは、己の意思で“無駄な”犠牲を出してしまったという事実への後悔もあるが、それよりも遥かに大きな真の原因は――己の中途半端さが故だ。
かつて、己の判断の甘さにより死なせてしまった神父の時以来、そしてその時以上、己が人生で最大にして最高の憤怒が、今彼自身に向けて放たれていた。
今までどんな悪党外道を目の前にしてきても、リドウがここまで激怒した事は無い。
――当然だ。彼が日本人たちと接する時、日本人には日本人の常識があるのだろうと一定の“考慮”は最低でも常にしてしまうように、悪党外道とて生まれながらに救いようの無いゲスだったのではなく、育ってきた環境が、経験が、思い出が、彼らの精神をそう形作らせてしまったのだと思うと……彼はむしろ哀れにさえ思ってしまうのだから。それと彼らを許せるかとなると、全く話は変わってくるが。
――しかし、己の不出来に対する己自身が下す評価にそんな情状酌量の余地は一切無い。なぜならば、神如き至高の超越者たる己が母の住まう次元とはそういう次元なのだから。そんな『楽な生き方』をしていて往き着けるほど甘いモノではないのだから。
……それがリドウという人間だった。
しかし、それが故に、その身が発する大迫力は筆舌に尽くし難い。
その身から醸し出されるオーラとも言うべき物が、今彼を見る者たちはハッキリと目にできる気がする。闘気の本流ではなく、感情がそのまま着色された凄まじい威圧感が、物理的な影響力さえ生まんばかりだった。
この凄まじき存在感は如何なハイエンシェントと思しきケルベロスと言えども無視はできなかった。
ケルベロスは三つ首を揃えて遠くのリドウを眺めながら、それぞれの首を傾げるようにして、
ぐるるるるるぅ
と低い唸り声を唱和させている。リドウの発する絶大な威圧感に恐怖するのでは決してなく、それはまるで「何だか妙な生き物が居るぞ?」という疑問の声だった。
「総員、最低でも森の中まで後退しろ」
外見が窺わせる凄まじい怒気とは裏腹に、あたかも全ての感情を失ったかのような、しかもぽつりと呟いたとしか思えない小声だった。
しかしその声は風に乗って広場の全域に木霊する。
――こんな広範囲にここまで精密な拡声結界!?
と、残る魔道士の二人がリドウの魔法制御力の高さに驚いているが、
「総員、退避ぃっ!」
マイス団長の怒声に近い命令にはっと意識を取り戻している姿も見える。
マイス団長がリドウに何も疑問を抱かず、彼の言葉に従ったのには無論、明確な理由がある。
(アレは……やばいっ……)
自分も森の中へ退避行動を取りながら、マイス団長は寒気を覚えると共に心の中で小さく叫ぶ。
マイス団長はハイエンドとの交流も面識も一切無かったが、それでも一目見ただけで理解せざるを得なかったのだ――
あの男は自分たちとは住まう次元が違う存在だ。これから始まるのは化け物と化け物による一対一の命懸けの闘争だと。
(何者かは判らんが……)
最早マイス団長は、ライドウが“最低でも”ハイエンドであるという考えを微塵も疑っていなかった。それも只のハイエンドではなく、“高々人間のサイズ”であのケルベロスに匹敵する威圧を発する尋常ではない存在であると。
しかし流石に、即座にそれが『月紅のリドウ』であるという考えに結びつきはしない。伝え聞く特徴とライドウの容姿格好ではあまりにも食い違いがすぎるし、何よりも月紅は気功士の刀使いとして勇名を馳せているのだから。共通するのは年齢くらいのものであるし、それにしても見る人間によって大分印象が違うのか、割と曖昧に伝わっていて、二十歳から三十歳の間くらい、というものだったから。
が――それも今までだけだった。
リドウの全身から闘気の本流が吹き荒れる。更に威圧感を増したその姿に、マイス団長の脳裏には「まさか……!?」という思いが閃いていた。
リドウとケルベロスは互いにゆっくりと歩み寄る。
ケルベロスも既に理解していた――あの小さな生き物は、しかし他の似たような生き物たちとは違い、確実に己の生存を脅かす存在であると。
他の小さな生き物たちは鬱陶しいことは間違いなかったが、それでも脅威など全く覚えていなかった。しかしあの存在だけは違うようだと。
三つ首揃えてたった一人を見下ろすケルベロスと、一切の感情が排された無表情でケルベロスを見上げるリドウ。
両者のサイズは文字通りに桁が違う。戦車に対するミニ四駆みたいなものだ。しかし、固唾を呑んで両者の対峙を見守る人間たちの目にはとてもそうとは映らない。
「こっちから襲っておいて悪ぃな」
うううううわぅっ
「だが、お前さんは邪魔なんだ。心から悪いとは思う。だが謝罪はしねぇ。許してくれとも言わねぇ。なのにお前さんが相手じゃ、苦しまずに息の根を止めてやる事もできそうにねぇんだ。大人しく殺されてくれるならそれもできるけどな……」
ぶわふぅっ‼
「だろう? そんなふざけた話は無ぇよな。だからよ、せめて後悔だけはしねぇよう――」
リドウはマントを体から取り外して側に投げ捨てる。
「――全力で、俺を殺しに来いっ!」
うぉおおおおおおおおおおおんっ‼
その宣言を合図として、ケルベロスの三つ首が天に向けて高々と吠えた。
刹那、リドウはケルベロスの中首の正面に跳び上がる。
ケルベロスはリドウの動きを見失うことなく、がつっ、とリドウを噛み砕こうとするが、彼は空中で器用に体を回転させて噛みつき攻撃を躱しながら、流れのままに右足でケルベロスの横顔を蹴りつける。
ぎゃんっ
ケルベロスの中首が悲鳴を上げるが、左首は自分の“兄弟”を痛めつけてくれたリドウを更に襲う。
が、リドウの掲げた右手から打ち出されるダブル魔力砲撃を食らって、自分も大きな痛みを味わう羽目になってしまった。
しかし、リドウのダブル魔力砲をまともに受けても未だに“生きて”いる。生物として死を迎えないどころか“左首単体”でも潰れていない。それが伝説級上位個体におけるハイエンシェントという出鱈目な存在だった。
おそらく、単純な戦闘力だけを見れば種族としては最強の古代竜――その中でも下級から中級の間くらいの戦闘力に匹敵するだろうとリドウは戦いながら人知れず思う。予想通りに『戦闘知能』があまり発達していないので『何か予想もつかない行動をしてくる怖さ』みたいな物は今のところ感じないが。
(天破煉翔が使えりゃ一発なんだが、挌闘戦をしながらじゃな。飛びながらのクイントキャストは……いけるか? しかし……加減が難しいか。いくら何でも、ただでさえこいつは利用されただけだってのに、こっちから襲っておいて、万が一にも魂ごと消滅させるわけにはいかねぇ……)
甘い、と思う人間は少なくないだろう、それこそ『敵は殺してナンボ』と、殺しこそが至高の所業と考える戦闘者たちならば。しかしリドウはこういう人間なのだ。
(どうかな……?)
リドウは風の足場を用いて空高く跳び上がると、上空から最も得意とする竜華葬送をケルベロスに向けて放つ。
が、ケルベロスは怯む様子も無く、自ら四肢に力を込めて炎竜へ向けて跳び上がる。
ケルベロスは炎竜と真正面からぶつかり合うが、全く影響を受けた様子も無く、大炎の中を突き抜けて、リドウへと躍り掛かった。
リドウは驚くことなく冷静に空中疾走を駆使して横に回避する。
(遺跡のケルベロスになら多少は通じたんだがな。ダブルとは言え俺の炎でも怯みすらしねぇときた。刀を置いてきたのが悔やまれるぜ)
着地の音は意外にも小さく、ずざざざぁっ、と大地を滑って止まり、自分の方を向くケルベロスを眺めながら、リドウは空中戦を諦めて地上に降り立った。
ラクセスは木に寄り掛かって地面に座りながら、リドウとケルベロスの闘争を静かに眺めていた。その姿に力強さは感じられないが、喋れるくらいには回復したとは言え、少なくともまともな戦闘などは不可能な重傷を未だに負っているのだから当然だった。
(流石に、ランスロット卿……ラヴァリエーレ殿に勝利しただけはある……と言うべきなのか、それとも――化け物め――の一言で呆れるべきなのかな……)
体はともかく闘気自体にはまだ余裕があったので視力強化にだけ闘気を注いで目の前の人外の闘争を見物しつつ、ラクセスは皮肉めいた事を考えながら、しかしその唇は、薄っすらとしたものではあったが、少なくとも悪い意味では決してない笑みを浮かべていたのに、
「な、何なんだよあれ……!?」
すぐ側からそんな声が聞こえてきて、彼女は何となく気分を害されたような気がしながら、そちらの方を向く。
「あれがハイエンド――この世界で最高位の使い手の一人だ」
ラクセスはもう敬語を使う気は失せたらしく、タメ口で、しかも僅かながら、どうしても蔑みの念を自分でも知らず知らずの内に込めた声になってしまいつつ、貴月の疑問に答える。もっとも、彼の方はそれどころではない様子で、彼女の心情については気づいている様子などなかったが。
「覚えておいた方がいいぞ。この先に起こるリリス教とロンダイク聖教の大戦では、あのクラスの使い手が、敵味方双方合わせて十名前後は入り乱れることになる」
ラクセスは言いながらも、流石にリドウと同レベルとなるともっと限られるか、それともアレクサンドル・ラヴァリエーレに勝利した件から考えて、魔王くらいのものかな、と心の中で考える。
「今の内に、最低限どう対処するかくらい、あの男を参考にして考えていた方が賢明だぞ」
「た、戦うのか!? あんなのと!? 動きが殆ど見えもしないんだぞ!?」
「誰も貴様にあのクラスとまともに戦えなどとは要求せんだろう。しかし戦場では何が起こるか判らん。不意に遭遇する可能性は決して低くはなかろう。少なくとも、有り得ない、と楽観視できるほど薄くはあるまい」
ラクセスは貴月を胡乱な目つきで眺めながら、これが『顔色を失う』という事かと初めて実感する。
真っ青を通り越して血の気が失せて絶句している貴月だったが、
「じょ、冗談じゃない……ッ」
そう、小声ながらも力一杯に叫んだ。
その途端に立ち上がって、森林内の方へと身を翻す貴月を、しかしラクセスは黙って見送るだけだった。
(月紅が助けてくれる、という約束は覚えてないのか? まあこれから死んだ事にするのは少々難事だろうし、所詮は口約束、信用しきるのも難しいかな……)
でも、きっとそこまで考えての判断ではなく、単なる脊髄反射だろうなと皮肉に考えて、ラクセスはふっと唇を歪めた。
「それにしても……」
ラクセスは再び戦場へ視線を戻してから呟く。その目には複雑な色が灯っていて……
「美しいものだな……」
以前に見た時は視力だけに強化を専念していたわけではなく、まともに見えなかったが、本来の得物である刀を持たないというのに、何の違和感も他者に抱かせない闘いっぷりを魅せているリドウであった。
ラクセスは、大いなる羨望と微かな嫉妬を覚えながら、しかし今は大人しく、普通ならば生涯に一度も拝む事はないはずの、生物として頂点に限りなく近い次元に住まう存在たちの闘争を楽しませてもらおうと、未だに己の身を苛む苦痛は忘れ去って、微笑と共に思うのだった。
リドウはケルベロスの下に潜り込み、跳び上がり様にケルベロスの腹部をアッパー気味に殴りつける。
ぎゃおんっ
と、ケルベロスは三つ首揃って悲鳴を上げるが、地面に落ちようとするリドウを後ろ足で蹴りつける。
しかしリドウはケルベロスの蹴りを避けようとせず、突き出てきたケルベロスの足に自分の足を合わせ、その威力を利用して一気にケルベロスの下から抜け出した。
刹那のタイミングの狂いが生死を分けるキチガイじみた行為だったが、リドウがやると、まるでそれが容易な技術のようにも思えてきてしまいかねなかった。
(……やっぱサイズの違いが痛ぇな)
吹き飛ばされる中、リドウは考える。
(浸透勁も何発か完全に入れたんだが、基本的に浸透勁は対気功士用なんだよな。あのサイズになると重要な器官に衝撃が届く前に威力が死んじまう。一番有効なのはシャイリーが好きなタイプの技なんだが、それもサイズの違いで中々入れづらい。やっぱ足から崩すか?)
今後の展開を思考しながら空中でのバク転を経て地面に着地したリドウは、その反動を利用してケルベロスの頭部に向けて跳び上がる。
サマーソルトキックの要領で中首の顎を打ち上げると、その場で浮遊するリドウに、左首が襲い掛かる。
しかも先ほどの攻防で学習したのか、左首に時間差をつけて右首までもがリドウを襲う。
一応、ダブル魔力砲を用意していたリドウであったが、ここで片方にだけ撃っても無駄だと考え、手のひらを“自分の腹部に”向けた。
同時に闘気で腹部を最大に強化して、魔力砲を解放する。
ちょうど地面に対して平行になっていたリドウは、己の魔法に腹部を撃ち抜かれて上空へ高々と飛翔する。
ケルベロスの左首と右首の額が、がっつーんっ、とぶつかり合い、お互いが相手に対して「何をしてるんだよ!」と言わんばかりに、ぶふぅっ、と鳴く。
全闘気を腹部に集中していればダブル魔力砲でもダメージは少なく、リドウはケルベロスのコントじみた仕草に微かな笑いを零しながらも自己回復を忘れず、それも一瞬で終わらせると、風で作り出した天井を足場にしてケルベロスの背中に向けて落下する。
落下の速度を利用しての全力攻撃。
これはケルベロスもたまったものではなかったようで、悲鳴の鳴き声を叫びながら地面に伏せってしまう。
しかし、その背に降り立ったリドウが追撃を加えようとするも、その身を蛇を思わせる尻尾が襲う。
リドウにとっては背中から襲われた形だったが、気配でそれを察し、跳び上がって回避する。
――も、蛇尻尾は間髪入れずに跳ね返ってきて、再びリドウの身を襲う。
「ちぃっ」
跳び上がっての落下の最中の出来事だ。尻尾の速度は風の足場を用意している間も与えてくれなかった。
蹴りの時のように、相手の力に乗ってしまうというのも難しかった。蹴りは例えるならば棒で殴る行為であり、尻尾攻撃は鞭なのだ。積み上げた鍛錬と実戦経験からくる勘によって半ば本能的に行われるベクトルの計算が非常にしづらい攻撃であった。
尻尾と言ってもケルベロスの巨体に見合ったサイズの尻尾だ。その太さはリドウの身長をも遥かに上回るし、硬い鱗で覆われたそれの威力はかなり洒落にならない。リドウの強靭な精神力で防御に集中していなければ一撃で意識を刈り取られていたことだろう。
ぶっ飛ばされながら、リドウは思う。
(こいつ、俺と戦いながらえれぇ速度で学習してやがるぜ。くそっ――楽しくなってきちまったじゃねぇか!)
バトルジャンキー乙、だった。
自分の行いに正当性など無い。少なくともリドウ自身の中では。そんな闘いを楽しんでしまうなんて許されないと彼の理性は思うのだが、救いようの無い戦闘脳だけは如何ともし難かった。
リドウは森林に激突する寸前、吹き飛ばされながらも用意した空間転移を発動する。森林で戦っては団員の犠牲が出ると考えたというのもあったが……それよりも、今が未だにチャンスであるのに変わりは無かったから。
その転移先は――
「けどよ、楽しくなってきたところで悪ぃな」
立ち上がろうとするケルベロス、その右足の裏側に出現したリドウ。
狙いは膝の裏だ。立ち上がる動作中のケルベロスの曲がった膝を、裏側から全力で蹴りつけた。
ぎゃぉおおおんっ
ケルベロスの悲鳴が木霊する。
かつてリドウ自身が麗覇サキから食らったキックと同質、衝撃を完全に対象内に残す回し蹴りの一撃。
ついでに、間髪入れずにもう一度、今度は逆の足、その踵でケルベロスの同じ個所を蹴り抜きながら、その反動を利用してケルベロスの下から飛び出す。
ケルベロスの曲がりきっていた右足はその衝撃に耐えられず、右足から崩れ落ち、再び地面に伏せってしまう。
その時には既に、リドウはケルベロスの真横に抜け出していた。
そしてリドウはケルベロスの横っ腹に開いた右の手のひらを柔らかく当てる。
「これで――」
全闘気を後ろに伸ばした左足に集め、地面を踏み締める。
「終わりだっ!」
その力を一切の漏れなく手まで伝える。シャイリーの最も得意とする技と原理をほぼ同じくする技だったが、ここでリドウの凄まじかった部分は気功士としての年季の違い――繊細な闘気コントロールで足から腕へと、力の移動に合わせて全闘気を完全にコントロールしきったところだ。
――しかもそれだけでは終わらない。いや、むしろここからが“この技”の本番だった。
「奥義――」
気合の籠った声を発しながら、再び足から手へと、力と闘気を精密かつ超々高速でコントロール。
その『勁』の移動に合わせて、ケルベロスの体に添えたままの右手の上に、左手を重ね合わせる。
「双牙烈発ッ‼」
同時にズドンッという凄まじい鈍音が轟き渡り、更にその直後にパァンッという何か大きな破裂音が鳴り響いた。
ぎゅあぉおおおおおんっ
三つ首が同時に雄叫びを上げた。今までの吠え声とは明らかに違う質を持ったそれは……まさしく断末魔の叫び声だった。
全ての首、その頭部の瞳が意思の光を失い、決して小さくない音を立てながら地面に崩れ落ちた。
双牙烈発――これも『衝天掌』と同じく、天武リーチェン直伝にして、完全な対生物破壊技だった。
一撃目の攻撃によって、一点直線方向に綺麗に衝撃を徹す。その衝撃が通り過ぎる方向へ更にもう一撃、同じ性質を持つ攻撃を重ねる。一撃目によって弱っている敵の内部は衝撃に対する防御力を完全に失っており、二撃目によって完膚なきまでに破壊されてしまう。その威力は天武リーチェンが誇る数々の奥義の中でも屈指を誇った。
振動を利用して対象の防御の上から問答無用でダメージを与える衝天掌とは正反対の性質を持ち、全力の攻撃を対象の防御の上から叩きつけ、その衝撃の方向性を真っ直ぐ一点にコントロールし、間髪入れずに全く同一の性質を持つ衝撃をもう一度送り込まなければならないという、かなり無茶苦茶な技術力を要求される文字通りの必殺奥義でもあった。
その分、決まった時の威力はご覧の通りで、決まれば、破壊力だけならリドウがクワッドキャストで行使した魔力砲の威力に匹敵する。魔力砲に比べると使い所が非常に限定されるが、掛かる手間はクワッド魔力砲に比べれば遥かに小さい。それも体内で直接起こされるのだ。これにはハイエンシェントなケルベロスも一溜りも無かったろう。
……リドウはしばらくの間、技を出し終えた体勢のままで、既に事切れたケルベロスに手を添えて瞑目していた。
が、再び目を開けると、その表情に浮かぶのは全てを割り切ったという無感情で、まだ回復が終わっていないラクセスたちの方へ急いで戻って行った。
戻って来たリドウを、ラクセスは微笑でもって迎える。
「ありがとう」
自分の願いを叶えてくれた事に対する純粋な謝礼だった。
だがリドウは応えようとはせず、感情の灯らない顔で、今もまだ力なく木に寄り掛かったままのラクセスの治療に取り掛かる。
その際、ラクセスの治療をしながらきょろきょろと辺りを見渡すリドウが居た。
「美土里はどうした?」
近くに気配も感じられない。リドウも流石に、ケルベロスとの死闘の最中に他の事柄に気を割いていられる余裕などなく、貴月の挙動など知らなかった。
「逃げたようだ」
「逃げた……?」
リドウは極低音の声で問いを重ねた。
「追い掛けるのか?」
「……小僧自ら逃げたならもう知ったこっちゃねぇよ」
どこへなりとも行けばいいのだと、リドウは心の中で吐き捨てる。
宮廷戦略旅団員、それも将来を嘱望され、その分優遇されていたはずの人間が無許可で脱走だ、ラーカイム王国は面子に懸けて美土里貴月を追い詰めようとするだろうが、もうリドウとしても流石に「やってられねぇ」という気分だった。
ラクセスの治療自体は特に問題も無く完了する。
痛みが消え、自由を取り戻したラクセスは立ち上がり、手を握ったり開いたりして体の調子を確かめている。
「どうだ?」
「ん、大丈夫そうだ。ありがとう」
「ああ」
今度の謝礼には、リドウは小声ながらも辛うじて応じた。
ちょうどその時、他の面々がこちらに集まって来た。
その気配を感じて振り向いたリドウ。その表情は何らかの覚悟を決めた風情で満たされている。
顔に浮かぶ表情はそのままに、リドウは一同をざっと眺める。全員が決して少なくない傷を負ってはいるが、取り敢えず即座に命に関わるような重傷を負っている者は見当たらない。まあ、そんな重傷を負っていれば、リドウがケルベロスと戦っている間に死んでいた事だろうが。
「……話は後にしようぜ。今はジヨンの治療に専念したい。まだ死にはしねぇ程度にしか回復させてねぇんだ」
「あんな戦いの後なのに悪いな。助かる」
マイス団長に一応の断りを入れてから、返事を待つ事なく勝手にジヨンの方を向いてしゃがみ込むリドウ。マイス団長はその背に礼の言葉を投げ掛けた。
「そう言えば……キヅキはどうしたんだ?」
将来は自分の後継者、そしてラーカイム王国の武力の象徴としての立場を嘱望されている男が見当たらない事に、マイス団長は視線を左右に散らしながら質問する。
「逃げました」
それに答えるのはラクセスだった。端的に事実のみを言葉にしていた。
「逃げた!?」
ざわっとメンバーの間でも動揺が広がる。
「ええ。この男がハイエンドと呼ばれる使い手であり、此度の大戦ではおそらく同レベルの使い手がわんさかと出張ってくるだろうから、参考にして対策くらい練っておいた方がいいと私が言ったら、急に『冗談じゃない!』と叫んで。それからはあっという間でした」
絶句するメンバーたちに向けて、ラクセスは淡々と事情を説明する。
「私としては親切心のつもりだったのですが、とうやら脅しになってしまったようで……追い駆けようにも、私もまだ動ける体ではありませんでしたし、それをおいてもケルベロスを放って逃亡者にかまけていられる余裕は無かったでしょうが」
正しくは親切心でも脅しでもなく、ラクセスはただ単に――試してみたかった――が故の言葉だったのだが、それは言っても仕方なかったので伏せてしまった。
「余計な事をしました。お叱りは如何様にでも」
ラクセスは腰を折って深々と謝罪する。
が、マイス団長は盛大に嘆息してから、顔を上げてくれ、と言った。
「どの道、いずれはこうなっていたと思う。上の連中はキヅキに多大な期待を抱いていたが、実を言えば、俺はあいつを雇い入れる段階で反対していたんだ。結局は上から押し切られて、普段も何かと他のメンバーよりも便宜を図らざるを得なかったがな」
その雰囲気は他のメンバーも何となく感じ取っていたらしく、貴月の臆病と無責任を責める声ばかりで、誰一人として彼を擁護する者が現れない。
彼らの声を要約すると、貴月は普段から自分のキャパシティの大きさを鼻に掛けるばかりで、訓練もお偉方から文句を言われない最低限だけを見せかけにやる程度ときて、メンバーの中では全く評価されていなかったらしい。
あるいは、貴月自身がそういう「自分はハブられている」という空気を何となく感じ取っていたのかもしれない。だから余計に、「こいつらと一緒に頑張ろう」という気分になる事ができなかったのだろうと、ジヨンの治療を続けながら黙って聞くリドウはふとそう思う。みんなが貴月をヨイショしまくっていれば彼もその気になっていたかもしれなかった、とも。
しかし、それで彼らメンバーを責めるのはお門違いだろう。的外れにすぎる。貴月のために世界が存在しているわけではないのだから。いくら才能は認めざるを得ないとは言え、彼らとて人間だ、自分よりも贔屓されている人間にいい思いは抱けないだろう。
それでもケルベロス戦では共に戦う選択肢を取らざるを得なかったのが、豊富なキャパシティが生み出す圧倒的な攻撃力は決して馬鹿にならないという証左だった。
今はこれ以上に貴月を糾弾していても仕方ないと考えたマイス団長は、ジヨンの治療をしているリドウに話し掛ける。
「ジヨンは治りそうか?」
「正直に言う。こいつはラクセスよりも重傷だった」
リドウは感情を窺わせない淡々とした声で説明する。
「だが……俺のプライドに懸けても、後遺症を残さずに完全に治療してみせる」
先ほどまでの無感情……いや、感情を押し殺した声とは違い、真剣な声で言ったリドウに、マイス団長は何も言わず、その後ろのメンバーたちは祈るような仕草をしながら固唾を呑んで、リドウとジヨンをじっと見守っている。
やがて……
「ん……うん?」
ジヨンの体が身動ぎしたと思うと、ぱっと目を開けて、何度か瞬きをした。
途端に歓声が満ちて、リドウもこの瞬間だけは微かに笑んでいた。
わっと自分の周りを取り囲まれて、ジヨンは盛大に困惑してしまう。
「あれ? 何で俺生きてんだ?」
完全に死んだと思っていたようだ。無理もないが。
「ライドウが治療してくれた」
「本当か!?」
よっぽどの使い手が自分を全力で治療していても死んでいたはずだし、怪我の影響自体が全く感じられない。もしかしたら自分が意識を失う直前に本能的に感じたよりも軽い怪我だったのかと――そう、呆然と言いながら自分の全身の調子を確認している。
「いや、ライドウはハイエンドなんだ。実力を隠していたらしい」
「はあ!?」
愕然とするジヨンに、マイス団長はケルベロスを倒したのもライドウだと告げる。
「そ、そうだったのか……」
全員が保証しても今一信じきれない思いがあったようだったが、ジヨンはリドウの前に立って頭を下げた。
「ありがとな」
「いや……」
しかし、笑顔で礼の言葉を紡いでくる相手に応えるリドウは苦虫を噛み潰したような顔で。
「俺からも礼を言う。結果的には貴殿のおかげでケルベロスは討伐できた。でなければ犠牲はもっと多くなっていただろう。最悪は撤退する事もできずに全滅していた」
と、マイス団長はリドウに向けて手を差し出す。
が、リドウはその手を取ろうとするどころか、何も応えようとはしない。
その瞬間――
マイス団長の手が力一杯に拳の形を作り上げ、その手がリドウの顔面を痛烈に殴りつけた。




