第六十八話 千鶴の苦悩
「せ、先生!?」
「皆川先生!?」
恵子と愛奈が大声を上げて、新たに現れた執事服の男性の名を呼んだ。
執事服を着てはいるが、ワイシャツのボタンは上から二つ目まで開けられており、ネクタイはそもそも着用すらされていない。無精髭もそうだが、はっきり言ってしまえば……だらしない。何と言うか、全体的に貧相だった。がりがりに痩せた体つきからも、運動とは縁遠く、食生活もあまりよろしくなさそうなのが伺える。
皆川先生は、教え子たちの登場にも特に驚いた様子もない。何を思っているのか、櫛を通しているとはとても思えないぼさぼさの髪をかき回しながら、困ったように教え子たちを眺めつつ……
己の腕に抱きついているメイド少女を見やる。
「あの、いい加減離れてくれませんか?」
メイド少女はご満悦の様子で、皆川先生とやらの腕に己の頬を擦り付けている。
「なに? もしかして照れてんの? かーっ、ホント年上なのにカワイイなー、せ・ん・せ・いは」
「いえ、あの……私にも教師としての立場が……」
「ほら、先生はあたしんだって主張はしとかないと、ぽっと出の新キャラに持ってかれちゃたまんねーし」
「誰がいつキミの物になったんですか!?」
皆川先生はメイド少女を無理やり引き剥がそうとするが、彼女は意地でも離れないと、全力で腕に力を込めながら、ようやく恵子たちに視線をやった。
「あー、麻木じゃん。やほっ」
そして、ひらひらと手を振りながら恵子の名を呼ぶ。
「え……?」
恵子は何とも友達甲斐が無いことに、一瞬それが誰なのか判らなかった。まさか「あんた誰?」と訊くわけにもいかず、何とか思い出そうと、じっとメイド少女を見つめる。
黒髪に黒目の黄色人種系、同級生なのは間違いないだろうと思うが……。
失礼ながら、即座に『可愛い』とか『綺麗』とか形容される顔立ちではないが、逆に男たちが妙に気負わずに話しかけられそうな親しみ易さがある。本当に恵子には覚えが無かった。
……が、メイド少女のある一点、チャームポイントな泣き黒子が目に付いた瞬間、唐突に“思いついた”。
「あ、あんた山中!? 山中果歩!? 一年の時に一緒のクラスだった!?」
恵子が一年生の時のクラスメイトだったそうな。しかし彼女にはすぐに山中果歩とは判らなかった。なぜならばこの山中果歩さん、元おデブさんの愛奈が遂げた変貌もかくやという、とてつもない変貌っぷりをみせていたから。
「あ、あんたホントに山中……?」
恵子はわなわなと震える指先を果歩へ突きつけている。
「あんた何そのキャラ!? ギャルメイクはどーしたのよ!? 髪黒いし、眉毛生えてるしっ」
いったい友人に何があったのかと詰め寄る恵子。
「そんな都合のいいメイク道具が揃えられるわけねーじゃん」
「そ、そりゃそーだけど……しかも何か……何で皆川先生狙ってる風なの? あんたどっちかってーと嫌ってなかった?」
「んー……」
果歩はあくまでも皆川先生の腕に抱きついたまま、苦笑気味に首を傾げる。
「ま、色々あったんよ。こー見えて案外頼れんだぜ、こいつ」
「あの……教師を『こいつ』呼ばわりとか、本当に止めてくれませんか?」
「今更教師も生徒もねーじゃん」
何だかなー、と恵子はふと思う。クラスが離れてすっかり疎遠になってしまっていたが、山中果歩はまあまあ親しい友人だった。彼女のギャル時代から変わらない口調に、今の素朴な外見はあんまり似合ってない。しかも着ているのがメイド服なので、余計に違和感が凄まじい。
果歩の方も、似たようで全く逆の感想を抱いたらしい。
「つかお前、マジに美少女だよな」
「へ?」
「今すっぴんだろ? それでそんな背後に点描がキラキラしてそーなくらいの美少女っぷりって、なんか同性としてマジむかつくわー」
「何その理不尽な理由……」
「それに……あいつ、一条だろ? あいつもすっぴんでアレとか、本気で人間か? なんか他にもやたら可愛いのが居るし。誰だよあの巨乳?」
「愛奈のこと?」
「あいな?」
「高坂愛奈」
「マジかよ!? しかも何だあの超イケメン!?」
「リドウ?」
「リドウ!? あれが例の『若様』!? お前あんなイケメンとずっと旅してたのか!?」
なんかグダグダな再会劇だった。
果歩の拘束が緩んだのを好機とみた皆川先生は、さりげなく離れてほっと一息つきながらリドウの方へ歩んでいる。
「麻木くんの我侭に付き合ってくれてたらしいですね。しかも高坂くんや一条くんまで保護してくれたみたいで、教師として礼を言わせてもらいます」
「いや……ん、まあ素直に受け取っておこう」
リドウが何か妙な返事をする。皆川というこの男から礼を言われる覚えはないのだが、『教師』というのはそういう――教え子に対して何かしら責任がある立場なのかと気付いたのが、こんな返事になってしまった原因だった。
皆川先生は一瞬怪訝そうな顔をしたが、気にしないことにしたらしく、愛奈や千鶴の方を向く。
「高坂くんと一条くんも、無事でよかった」
「皆川先生も、ご無事で何よりです」
千鶴はまだ立ち直ってはいないようで、影の差した表情で軽く俯いたままの返答になってしまっている。
「どうか……いえ、何でもありません」
千鶴の様子が気になった皆川先生が訊ねようとするも、彼はすぐに自ら撤回してしまった。こんな世界に突然放り出されて何もなかった方がありえず、聞き出すのは酷だと思ったようだ。
彼は無理やり笑みを浮かべて、努めて明るい声で言う。
「とにかく、このお城に居る限りは安全です。魔王が統治しているとんでもない場所です……が……」
冗談めかして言うが、顔を上げた千鶴は突き刺すような眼差しでじっと皆川を見やっており、彼は思わず気圧されてしまい、言葉が途切れてしまう。
「な、何か……?」
「……小杉くんたちの件はご存知ですわね?」
「それは……すいません。私と山中くんがここに来たのは既に彼らが旅立った後で……」
「そうですか。でも、まだこの世界には大勢の生徒が放り出されたままと思われますわ」
「そう……ですね……」
千鶴が何を言いたいのか理解し、沈んだ様子で言葉を濁した返事をする皆川だった。
「ですが……これは流石に、一介の教師が対応できる範疇を完全に逸脱しています。山中くんの身の安全を確保するだけでも私には精一杯だったんです……」
分かって下さいと搾り出すように言う皆川に、千鶴は気まずそうに視線を逸らした。
「そうですわね。無茶を言いました。忘れて下さい」
これを受けて、皆川先生も気まずそうに視線を逸らしてしまう。
「すいません……」
小声でそう言って、山中果歩の方へと、とぼとぼと気落ちした様子で歩いて行く。
「さあ、山中くん。仕事に戻りましょう」
「うーっす。じゃあな、麻木」
恵子との姦しいやり取りをあっさりと切り上げ、素直に従う。
「じゃあ侍女長さん。私たちはこれで」
「お仕事中にお手数をお掛け致しました」
サリスが丁寧に頭を下げる。仕事の上では『部下の部下』くらいに位置する彼らであるが、サリスにとってはあくまでも『お客様』ということのようだ。
皆川は無言で頭を軽く下げてから、山中を伴って部屋を辞して行った。
その後、知り合いが無事だったことを素直に喜ぶ恵子と愛奈であったが、そうはいかない人物も居た。
リドウは下唇を噛み締めて全身を小刻みに震わせている千鶴に近づいて行く。それに気付き、縋るような目で見上げてくる彼女に、彼の方から話しかける……彼女の長く艶やかな髪を掬い上げるようにその手に取り、顔をかがめて、まるで髪に口付けをするように玩びながら。
「少し……痛んでんじゃねぇか?」
顔の位置が自分の目線より下にきているせいで、上目遣いでじっと見られ、その仕草が存外に色っぽく感じてしまい、思考の何もかもが一瞬にして空の彼方へ飛び去ってしまう乙女が一人。滅多にない“大サービス”だった。
恵子や愛奈は顔を真っ赤にして硬直しており、侍女の三名はなぜか感心した様子でそれを見ている。
ちなみに明人少年は、気付きもしないで裁縫を続けている。しかもシャイリーまでが、騒ぎには一切関心を見せず、逆に明人の作業は興味津々の様子で、すぐ傍で眺めていた。……二人共いったい、いつからそうしているのか。
千鶴は全くらしくなく、あたふたと視線をあちこちに彷徨わせながら、
「そ、そうかしら……?」
声もうわずって盛大にどもっている。
「疲れてんだろ」
髪の橋を渡るように顔を移動させながら、最後に辿り着いた千鶴の耳元で囁くように。
「お前さんも愛奈と一緒に、一度休め」
「そ、そうさせてもらうわっ」
何とも乙女な反応であった。
「リュリュ、シュリ」
サリスの声に反応して、「はい」と小気味よく返事をするロリっ子たち。
「あなたたちは今後、愛奈様のお手伝いを命じます」
「え!?」
これに驚いたのは命じられた本人たちではなく、彼女たちに世話になる愛奈の方であった。
「こんな可愛くてちっちゃい子たちにですか!?」
「お気に召しませんか? 愛奈様も二人をお気に召されていたご様子でしたので、ちょうどよろしいかと思ったのですが」
「もしかして私、舐められてる?」
機嫌を損ねた風はなく、ただただ不思議そうに首を傾げるリュリュ。
「い、いえ……リュリュちゃんの実力が私なんかよりずっと高いのは何となく判るんですけど……」
「じゃあ、何で?」
「私にリュリュちゃんを攻撃するなんて……」
「別に気にしなくていい」
「愛奈」
でも、と動揺が解けない愛奈に、普段よりも厳しさを増した感じがするリドウの声が掛かる。
「り、リドウさん……」
「戦うと決めた以上、敵には容赦するんじゃねぇ。そういう甘ったれた感傷を取っ払うためにも、リューとシュリはちょうどいい相手だ」
「…………」
俯いてしまう愛奈。
しかしリドウの台詞は終わったわけではなかった。
「どうせ初めの内はボコられるだけだろうしな」
「あうっ……」
ずがーんと巨大な錘が圧し掛かったようにヘコむ愛奈である。相変わらず歯に絹を着せない男であった。
がしかし、彼の台詞はまだまだ続いていた。
「容赦してぇなら、何モンが相手でも圧倒できる高みまで上れ」
「――――!?」
愛奈は途端に、天啓を得たとばかりに顔を輝かせる。
そう、それがあったはずだ。そのために自分は強くなると決めたのではなかったか?
それを思い出した愛奈は、ニヒルに笑うリドウに向かって、
「はいっ!」
元気よく返事をする愛奈だった。
千鶴はそんな愛奈を眩しそうに見つめている。
そして恵子は……やはり複雑な顔で見つめていた。
「ったく。何だあいつ? 一条の態度。何様だっての」
廊下を歩く山中果歩が愚痴をたれる。
「何で言わせっぱなしだったんだよ、先生。先生が“止めなきゃ”あたしが文句言ってやったのに」
「彼女にも色々あったのでしょう」
「でもさ。先生は先生なりに頑張ったよ!」
果歩は皆川の前に回りこみ、両手を広げて主張する。
「頑張った……ですか……」
しかし皆川は自嘲の篭った顔で。
「つまり、今は頑張ってないんですよね。でもどうやら、彼女は生徒たちを保護したいらしいですし、そのために今も頑張り続けているようです」
「そ、そんなのあいつの勝手だろ!? こんなの教師だからってどうにかできる事態じゃねーよ!」
「そうですね。今もどこかで理不尽な目に遭っているかもしれない生徒たちには申し訳ありませんが、そう思います」
「そ、そーだよ」
「彼女はそれすら公正に理解できています。それでも私を責めなくてはならない精神状態だったのでしょう。そのくらいの八つ当たりは甘んじて受けてあげるのも教師としての勤めというものです」
だから彼女を責めてはいけませんよと、落ち着いた声で言う皆川に、果歩は納得いかない顔ではあったが、仕方なく了解の意思だけは伝える。
「でも、じゃあ何であんなどもってたんだよ。そう決めたんなら、男らしくどーんと受け止めてやればいーじゃん」
「いえ、どうも以前から一条くんは苦手で……」
「何で? 言いたかないけど、あいつのお綺麗なツラは嫉妬する気にもならねーぞ」
「私はお世辞にも優秀な教師じゃありませんでしたから……」
「そらまあ確かに」
ぼそぼそと教科書に書いてあることを繰り返すだけだった皆川の授業を思い出す果歩である。あの頃に比べたら随分と逞しくなっちゃってと、何だか親心のような感傷が同時に浮かんできたりしもして、くすりと笑う。
肝心の皆川は、
「そ、そんなはっきり言わなくても……まあそういうわけで、誤りを指摘されることばかりで……とても彼女に対して教師面できるものではないんですよ……」
目一杯に傷ついた顔をして落ち込んでいる。
「それって他のセンコーたちも似たよーなもんじゃねーの? 知ってるぜ。あいつ、センコーたちには相当疎まれてたろ? 外国の大学に飛び級で入学でもしてくんねーかなー……って他のセンコーが愚痴ってるの、聞いたことあんぜ」
「ええ……そういった話は少なくありませんでしたね」
そう同意し、ますます落ち込んでしまう皆川を見て、生徒に対するそんな陰口のようなことは教育者失格だ――とでも思ってるんだろうなーと解釈した果歩は、努めて明るい笑顔で、
「だーいじょーぶ。先生はちゃんと成長してっからさ――あたしが惚れちまうくらいにはっ」
と皆川の腕に抱きつく。
ちょっと止めて下さい、えーいーじゃーん、とラブコメを繰り返しながら仕事場へ戻る二人であった。
この二人に何があったのか……いずれ語られることもあるかもしれないが、まあそれなりの出来事があったのだということだ。
少女たちには一人につき一室が与えられた。別に一緒の部屋でも構わない……というか、一人用には広すぎると言ったのだが、部屋なら有り余ってるからと主張するサリスに、半ば強引に押し切られてしまった。
いかにも王宮で王族が寝起きをしていそうと思わせる広い部屋で、これまた絵に描いたような天蓋付きのベッド。
与えられた部屋に入った千鶴は、寝巻きに着替えるのも面倒だと、下着姿でそこへごろんと横になった。
ベッドの外へ足を投げ出すような格好で、仰向けに目元を腕で覆い隠すようにして、深く深く息を吐く。
「何を……やっているの……私は……」
自分は頑張らなければと気負っていたのは認めよう。けど、同級生たちの救世主だと自惚れていたわけではない。彼ら彼女らが無事で、あるいはこの世界に適応して幸せに暮らしているようならば何も問題はなく、それが自分の手柄である必要性は一切ない。
――そう思っていた。本心だった。
“だからこそ”、千鶴はここへ来る前、もっと期待していた。もっと大勢の同級生たちが無事に保護されているだろうと思い込んでいた。
それが蓋を開けてみればたったの三名。ありていに言えば――がっかりしてしまった。
しかも、嫌っている男が含まれるとはいえ三人も……一度この手に掴みかけておきながら、零れ落ちていってしまった。
その上、己が考えた中でも最悪のパターンだ。
当初、闘気に目覚めていれば大して心配は無いと考えていたが、この世界はそんなに甘くはないと知った……知ってしまった。
適度にレベルに合った遺跡ハンターでもやっていてくれるならいいが……。
調子に乗ってこの世界の真の実力者に喧嘩を売ろうものならば、その末の結果など目に見えている。
力を誇示していけば、いずれ必ず、あんな小物では決して抗い得ぬ実力者に辿り着いてしまう。それは別にハイエンドである必要はない。ハイエンド級、もしくはハイクラスでも十分だろう。そしてその時、彼は『主人公たる己が殺されるわけがない』と何の根拠もない妄信を糧に、平然と突っ掛かることだろう――あの時、圧倒的というのもおこがましい実力差を理解しようともせず、我が身の優位を確信してリドウへ突っ掛かっていった勇者のように。
別に実力者である必要もない。遺跡であろうと、調子に乗って深層階まで潜ってしまえば……。
「ダメね……」
千鶴は悲痛な声で呟く。考えれば考えるほどに、小杉少年の生存率は無に等しくなってゆく。
それが容易に想像できてしまったから、桂木明人を責めてしまった……自分にそんな権利なんて無いと自覚していながら。
挙句の果てに、『教師』を理由に皆川にまで八つ当たりしてしまうなんて……。
今まで教師に何かを期待したことなんて一度もない自分がだ! なんて傲慢! なんてワガママ!
千鶴は、あまりにも酷すぎる己の惨状に、自嘲と皮肉を込めて唇が歪んでしまう。
「あなたの言う通り、少し……疲れたわ」
腕に隠れた瞳から伝う涙が耳元を濡らす。
呟く声は掠れていて、とても一条千鶴とは思えない弱々しさだった。
今はとにかく、もうこれ以上何も考えたくないと思い、眠ってしまおうと全身の力を抜いた。
――その時。
こんこんとドアをノックする音が聞こえる。
はっと起き上がり、涙の痕を拭い去ると、慌てて衣服に手を伸ばす。
が、その途中で手を止めてしまう。
「まだ起きてるか?」
訪ねてきたのがリドウだと判り……
(……別に構わないかしら?)
何が『構わない』のか知らないが、“今の千鶴はとってもそういう気分”だった。
「ええ。入ってちょうだい」
返事の直後、ドアが開いてリドウが入室してくると、彼は思い切り顔をしかめる。
「服、着てから入れろよ」
がしがしと頭をかきながらも、別に眼を逸らしたりするわけでもない。
「ちょっと本気で誘惑してみようと思って」
「あん?」
ベッドに座りながら魅惑の足を組んで、片腕で豊かな胸を支えるように主張させながら、片手で髪を梳き上げて、蠱惑的に流し目を送る千鶴である。
「抱いてくれないかしら?」
「そこまで参ってんのか?」
千鶴の傍まで歩んだリドウは、ベッドの淵でしゃがむと、彼女の頬に手を添えて、普段よりも幾分優しげな眼差しで見つめる。
あっさりと強がりを見抜かれてしまった千鶴は、表情を消しながら目を伏せる。
「かなり……キツイみたいだわ……」
泣きそうな声で言った。
泣き顔を見られたくないと、リドウの背に柔らかく腕を回しながら、肩にコテンと顔を預ける。
リドウは戸惑うことなくそれを受け入れながら、千鶴の頭に回した手で、彼女の髪を梳くように撫でる。
「強くならなければ……今後私は今まで以上にお荷物になってしまう……。今の私如きは軽く捻れるくらいにならなければお話にならないでしょう。そのためには余事を全て排し、ただひたすらに力を高めなければならない」
「そうだな」
「でも、鍛えるためには……今まさに死地へ自ら赴こうとしている同級生たちを見捨てなければならない……」
「そうかもな」
「考えないようにしていたのよ。だってどの道、より多くの同級生を救うためには強くならなければならないのですもの。未来の多数を救うためには、今の少数は切り捨てるべきですもの」
「間違った判断だとは思わねぇぜ」
リドウは千鶴の頭を撫で、千鶴は悲痛な声で独白を続ける。
ただただその光景だけが繰り返される。
「ここに来る以前に小杉くんたちのことを知っていれば、私は彼らを優先したかもしれないわ。でも、敵の……ロンダイク聖教の真の目的を知ってしまった以上、それを選ぶわけにはいかない。たとえ今、向こうに囚われているみんなが、実際は平穏に暮らしていられたとしても、最終的に無事でいられることはまずないでしょう」
「だろうな」
「なら、今の少数は切り捨て、未来のためにも力をつけなくてはならない――」
千鶴はベッドから身を乗り出し、全身でリドウにしがみ付く。
「そう冷静に判断し、小杉くんたちのことは仕方ないと、いともあっさり自分自身を納得させることができてしまう自分が――私は世界で一番嫌いよっ!」
叫ぶように吐き捨てながら、リドウの肩に顔を強く押し付けて、声を押し殺して泣き出した。
感情の向くままに突っ走っていれば何だかんだでどうにかなる――そう考えるには、一条千鶴という女はあまりにも賢明すぎた。
己を絶対視し、少年マンガの主人公のようにみんなを救ってみせると決然と言い放ち、周囲の状況が最終的にそう導いてくれるような都合のいい存在だと妄信するには、彼女はあまりにも現実的すぎた。
そして、『現在の己に可能な範囲』で最も効率のいい道をあっさりと導き出してしまえるほどに聡明で……
また、己が最適と判断する選択肢なら、どんなに残酷な解答であろうと、苦渋を呑んで選び取ってしまえるほどに冷徹であった。
もし彼女が他人の人生に責任を持つ立場――それこそ王侯貴族であったならば、それは称賛されるべき資質であったろう。だが、そうと己を認めてあげるには、彼女の本質はとても優しすぎたし、まだまだ幻想に縋りたい子供の内でもあったのだ。
リドウは何も言わず、黙って千鶴のしたいようにさせ続ける。
彼からしてみれば、千鶴には何の落ち度も無いし、彼女の選んだ解答は当然の判断だとも思う。超常の存在を身近に知るからこそ、そうでない人間にできることなど知れたものでしかないと、彼はよく知っていた。
だが、今の千鶴が欲しているのは慰めの言葉でもなければ、励ましの言葉でもなく。
ただ人肌の温もりだけが僅かな安堵を与えてくれる。
所詮は誤魔化しだ。それでも、それが必要な時というのは人間誰しもあるもので……
(こいつの望み通り、抱いちまうのが早いんだがな……)
――しかし、今彼女を抱いてしまうわけにはいかなかった。
(つか、こんなあられもない格好でこの女に抱き付かれてっと、ちっと理性が厳しいぞ……)
が、流石にこの男でも、殆ど裸みたいな千鶴に抱き付かれて、胸やら何やらの温もりやら軟っこさやらをはっきり感じられるこの状況は精神的にキツイらしく、いっそ開き直るかどうしようか、理性の狭間で揺れ動いていた。
……千鶴的には全然ウェルカムだろうが。
結局、数分もそのままでいると、千鶴は泣き疲れてしまったようで、いつの間にか小さく呼吸を繰り返すようになっていた。
リドウは千鶴をベッドに横たえると、肺の中身を全て吐き出さんばかりに嘆息しながら立ち上がり、
「……こいつも寝ちまえば可愛いもんだな」
起きる様子はない千鶴を見てふっと笑むと、一切の音も立てずに部屋を出て行った。
残された千鶴は、先ほどまでの苦悩などまるで無かったかのように、穏やかな表情でぐっすりと眠り続けていた。
千鶴の部屋を辞したリドウは、部屋の外で待っていた恵子と、何食わぬ顔で合流する。
恵子は恵子でリリステラに何かお願いがあるらしいのだ。なぜ先ほどあの場で言わなかったのか疑問に思うリドウであったが、まあ気にするまでもないと捨て置いた。自分も義母と改めて話があったので、ついででもあった。
しかし、その前に千鶴をケアするべきだと判断し、恵子が一緒に居ては素直に弱音を吐き出し辛いだろうと考え、部屋の外で待機させていたのだ。
絶対に入ってくるなと言われていたので、中で何があったか恵子には判らない。が、実際に何があったのかはとても気になるようで……
「ねえ。“あの話”だけにしちゃ、やけに長くなかった? それになんか千鶴の大声も聞こえたんだけど」
壁はかなり分厚いが、叫び声くらいに大きければ十分に通してしまう。
自分が嫌いだと心の底から吐き出した千鶴の声だけは聞こえてしまったようだが、しかし何と言っていたかまで正確に聞き取れるほどではなかったから余計に気になってしまう恵子である。
疑惑の目で問い掛けるも、
「そうか?」
そういえばその話をしに来たんだと思い出し、話しそびれたなと考えながらも、平然とした顔でしらばっくれるリドウに、恵子はそれ以上の追求の言葉が見つからず、面白くなさそうに黙り込んでしまう。
「それより、行くぞ」
「うん」
と、リドウが率先して歩き出した。
するとその瞬間、ふわっとリドウの体から香る知った匂いが恵子の鼻孔を擽り、呆然とする羽目になった。
(これ、千鶴の匂い――!?)
先を行くリドウの背を、思わず足を止めて、信じられない物を見る目で凝視してしまう。
香りが移るほどの『なに』をしていたのか……。
「おい、どうした?」
「べ、別に何でもないわよっ」
慌てて応じながら、小走りに追い駆ける。
まさかナニをしていたわけは……するほど長い時間じゃ流石になかったわよねと思いながらも、“その際”にどれくらいの時間が掛かるものなのかまでは実体験として具体的に知っているわけでもなく、まさかという思いと、いやいやそれこそまさかという思いとの狭間で、ぐるぐると回る思考が止まらない。
はっ、まさかまさかの、あの大声はイっちゃった時の声ってやつじゃ!?
(って違う! あの時間でそれはそれこそ流石に絶対ありえないでしょ!? い、いや……相当食べちゃってきたっぽいこいつの場合、ソッチまでとんでもないウルテクを持って――ってあたし何考えてんの!?)
何だか色々追い詰められて、脳内であっちゃこっちゃと……むしろもう楽しそうなくらいに右往左往している。
(だだだ大体、別にこいつらが何してよーがあたしの知ったこっちゃないしっ。それより今は……もっと大事なことがあるんだから、しっかりしろっ、あたし!)
ぱんぱんっと頬を叩いて活を入れる恵子に、何をやっているんだと、変な物を見る目で振り返っているリドウ。
恵子は、何でもないわよと、半ば敵意の篭った視線で睨みつけてから、ずんずんと先に行ってしまう。
何となく察しがついたリドウであったが、言い訳するのも変に思えたし、どうしたもんかと考えながらも、結局何も言わずに恵子の隣に立つのであった。




