第五話 少女たちの夜
再会した恵子と千鶴、そしてリドウの三名がアクレイアに到着した頃には、既にすっかり夜が更けていた。
途中、リドウが無情にも地面に引き摺って連行していた盗賊の頭領が目を覚ましていたが、彼は意外にも大人しくリドウに従って歩いてくれた。
頭領の心情としては当然逃げ出したい。しかし、今の自分の身の安全は、ある意味リドウが保障してくれているようなものだと、彼は理解していたのだ。
下手に逆らって千鶴に引き渡されたら、目も当てられない拷問地獄が待っているのは揺るがしがたい現実。かと言って、千鶴だけでも手に負えないのに、その彼女が大人しくリドウに従っているということは、彼の実力は彼女以上だと考えるしかない。
盗賊には珍しく、中々頭が切れると同業者や冒険者から評価されていた彼は、ここで下手な動きをするよりも、お上に引き渡されてからの方が、よほど逃走のチャンスはあると考えていたのだ。まあまあ、正しい見解だろう。
大盗賊団の親分を生きて引き渡されたアクレイア騎士隊の隊員は大喜びで、何と隊長までもが出張ってきて、三人のことを労った。
ちなみに、各都市には王国直属騎士団の団員が必ず中隊規模で派遣されていて、基本的にその部隊は都市名を頭に付けて呼称されている。
彼らがこれほど大喜びな理由は、それだけ生存したままで引き渡される例が少ないということだ。特に大盗賊団頭領の捕縛など、殆ど例が無いと言っていい。
そして最も大きな理由だが、実際に手柄を立てたのは冒険者だが、こういった場合には彼ら騎士隊、特に隊長の評価に繋がるのだ。まあ、そう大きいものではないのは事実だが、無いよりはずっと良い。
無論、もし彼ら自身が捕縛したのであれば、その功績は極めて大きく評価されるので、相手は所詮冒険者風情と侮って、懸賞金も渡さずに追い返し、手柄を自分の物にしてしまうような隊長も中には居るのだが……これだけの功績を立てられるような実力者の不興を買ってしまう方が、よほど国にとっては不利益なので、その事実が明るみに出れば左遷は免れず、下手をすれば犯罪者の烙印を押されて、その場合は良くて強制労働だ。よほどの能無しでないかぎりは、誠実な対応を心がけるものである。
何せ、今回捕縛された盗賊団頭領に懸かっている賞金の額ともなれば、根本的に貰えないどころか、アライブ分の差額が貰えないだけでも、近隣の町にでも足を伸ばして、他の官憲に引き渡すだけの価値がある。
騎士隊の評価に繋がるというのも、犯罪者の捕縛による功績に対して評価されるのではなく、いかに誠実な対応をしたかを評価されるのだ。大盗賊団頭領の捕縛とあれば、隊長自ら謝礼に出るというのは、むしろ当然と言えた。
しかも、リドウからまだ生き残りが大勢いると知らされた隊長さんは、大喜びで即座に出動の号令をかけ、その上に確認でき次第だが、他に賞金が懸かっている盗賊の分についても、後日支払ってくれると約束してくれた。
リドウは正直、そこまでしてくれるとは思わなかったので、思わぬ収入にほくほく顔で、今は食事のために繁華街へと歩んでいた。
恵子も同様に、当分お金に苦労する羽目にはならなそうだと安心して、また今夜はようやくお風呂とベッドにありつけるとご機嫌だった。
そして千鶴であるが、彼女は平素の無表情で、内心何を思っているのか、他の二人にはさっぱりであった。
「賞金は山分けで構わねぇだろ?」
「ええ、助かるわ」
「その金で、あんたに合った武器を特注することをお勧めするぜ」
「……分かるの?」
いかにも驚きましたという顔をする千鶴に、この女もこんな顔をするのかと、黙って二人の会話を見ている恵子は自分こそ驚愕の念を覚えていた。
「まあな。あんたの動きは俺の刀と同じく斬撃に特化したものだろう? だが、長得物を扱うことに慣れているのも分かる。梃子の原理を利用した柔の技も混じってるように見えるぜ。俺はそんな武器、寡聞にして耳にしたこたねぇが、別の文明で発展した武器だっつうなら、俺が知らねぇのも道理だ」
「正解よ。薙刀という、槍の穂先が刀状の物を武器にした武芸を嗜んでいたわ。でも今回は薙刀ではなく、戟という武器にするつもり。今の私の力なら、そのくらいの重さがあった方がしっくりきそうだから。柔の技は使えなくなりそうだけれど、力任せにぶっ叩いた方が効率も良さそうですし」
「戟、ね。ま、出来上がりを楽しみにしておこうか」
「あら、それまで付き合ってくれるの?」
千鶴はふふっと悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「あんたが嫌ならとっとと別れるがな」
「冗談ぽいっ、よ。私としては神崎くんのことなんて二の次ですけれども、日本に帰る方法を探すというのに、付き合わない道理はないわね。特にあなたのような、人格にも信頼が置ける実力者の協力を得られる千載一遇の好機を逃すだなんて、ありえないわ」
「だろう? けどな、俺から言うのもなんだが、俺を信用してくれてるのは嬉しいが、正直まだ判断するには早ぇと思うぜ」
「麻木さんが無事だという時点で、信を置くには十分だと思うけれど」
と、千鶴は恵子に視線を移す。
改めて確認してみても、千鶴には恵子が、日本に居た頃と何ら変わった風な印象を受けることはない。
この世界に来て、恵子のように純情可憐な乙女を地で行く小娘が、現代日本に生きていた頃から何も変わらずにいられるなど、千鶴からしてみれば殆ど奇跡だ。それも、聞けば闘気はおろか、キャスティングすら使えないという、完全無欠の一般人仕様ときた。
ありえないでしょ……と千鶴は強く思う。
「えっと……どうかしたの?」
「……何でもないわ」
再会時のやり取りのせいか、恵子は若干、千鶴に対して苦手意識を持ってしまったようで、感情を映さない瞳に見つめられ、少し引きながら理由を訊ねたのだが、千鶴はすぐに視線を逸らしてしまった。
と、概ねこんな関係が構築されているこの三名だが、通りすがりにすれ違う人々の視線を、彼らは尽く集めていた。
野生的ながら知性を感じさせる精悍な顔立ちのリドウ、ひたすら愛くるしさの際立つ恵子、抜群のスタイルに問答無用の美貌を誇る千鶴――たった一人でも十分に注目に値するこの三名が並んでいるのに、注目するなという方が無理である。
が、恵子にしても千鶴にしても、こういった視線には慣れっこだったし、そんなことを気にするリドウではそもそもない。それどころか彼に至っては、人混みに入っても向こうから道を開けてくれるので、こりゃ良いと、得をしているなくらいにしか感じていなかった。
しかし、繁華街に入り込んだ辺りで、少し視線の意味が変わったことに、リドウは気づいた。
今までは視線に込められた意味が羨望や嫉妬くらいだったのに対して、驚愕が目立つようになったのだ。
リドウも不思議には思いつつ、気にするまでもないかと、すぐに考えるのをやめてしまったのだが、図らずもすぐにその理由を知ることになった。
「イチジョー!」
と、千鶴の名前を大声で呼ぶ声がして、三人は揃ってそちらに顔を向ける。
するとそこには、二十代半ば頃の体格の良い髭面の男が、なぜかやたらに興奮した様子で迫って来ていた。その興奮の方向性は、どうやら怒気のように見える。
男は三人の手前まで来ると、今にも掴み掛からんばかりの勢いで千鶴を睨み付ける。
「イチジョー、その男は……何だ?」
「それがあなたに何か関係あるのかしら、スニフ」
両腕を組んで顔を逸らす千鶴。相手のスニフの方が遥かに大柄であるのに、まるで彼女が見下ろしているようにすら感じさせるものがあった。
「てめぇ……散々俺に世話になっておきながら、まさかそんな女連れの若造に乗り換える気じゃねぇだろうな」
「乗り換える? 笑わせないで。私とあなたの関係に、そんな言葉が入り込むような余地はなかったと、私は記憶しているのですけれど?」
「闘気の扱い方を懇切丁寧に教えてやっただろうが。弟子は師匠のパーティで、恩を返すまでは只働きってのが、せめてもの礼儀ってもんだろう?」
「ほんの一刻足らずの間、極々基本的なことを習っただけで弟子扱いだなんて、図々しいにも程があるのではないかしら? その間、好きなように私の体を触らせてあげたじゃない。それでチャラよ」
「体に触らねぇで、どうやって指導しろってんだ」
「気づいてなかったと思うの? あなたが必要のないところまで弄っているのを。胸とか、お尻とかを、ね」
「何だそりゃ? 厚かましいなんてもんじゃねぇわな」
事情を聞いて同意を示すリドウを、スニフという男はギンっと睨み付け、しかしリドウが何も感じていないのを理解すると、ちっと舌打ち一つ、すぐに千鶴へと矛先を戻した。
「今までは目的があるっつーから見逃してやってたが、こうなったからには話は別だ。今夜はまともに眠れるとは思うんじゃねぇぞ」
「十七年間大切に守ってきた私の処女を、あなたみたいな粗野で無礼で、何と言っても大した矜持もない男に捧げるだなんて、死んでも願い下げだわ。どうせ捧げるなら、そうね――」
千鶴はにこりと笑顔を作って、色っぽい仕草でリドウの腕に己の手を添えて、しなりと彼の肩に己の頭も預ける。
「このくらいの男じゃないと、ね」
「なっ!?」
と声を上げたのはスニフではなく恵子であった。
ではスニフの方はといえば、怒り心頭で言葉も無いといった様子である。
「……なあ」
「何かしら?」
「ふと疑問に思ったんだが、あいつ、どうしてあんたのことを名じゃなくて家名の方で呼んでんだ? こういう場合、本人が嫌がっても、勝手に馴れ馴れしく名で呼んでくるもんだろ」
「ああ、それね。名前を聞かれて正直に一条千鶴って答えたら、勝手に一条の方が名だと勘違いしたのよ。ほら、こちらでは家名が後にくるでしょう? あんな男に名前を呼び捨てされるなんてぞっとしないから、勘違いさせたままにしているのよ」
「納得した」
この時の二人のやりとりは、互いに顔を寄せ合った囁き声のものであったので、それがより親密さを演出しているようにしか見えず、スニフの状態は既に怒髪天を突くとばかりである。
この先に起こるだろうことなど、もう誰にも明らかであった。なのでリドウは、面倒なやり取りで時間を取られるのを嫌い、ため息まじりに「お嬢と一緒に離れてろ」と千鶴へ囁いて、彼女が素直に離れると、煙管を取り出して火をつけた。
「ふぅ……ま、あれだけのツラぁしてる女どもを連れてりゃ、こういうこともあらぁな。一応確認しておくが、大人しく引き下がる気はねぇかい? スニフさんよ」
「てめぇをぶっ殺して、イチジョーと、ついでにそっちの女も頂いてからなら、俺も大人しくなって引き下がるだろうぜ」
「だよなぁ。いいぜ、いつでも、とっとときな」
「アクレイア最強の冒険者たる俺様相手に良い度胸だ」
アクレイア最強とは、この場合確かに事実であった。
だが、別に彼が特別優れた冒険者というわけではなく、アクレイアを拠点に活動している能力者の冒険者が彼しか居ないだけでしかない。
というか、リドウの見るところ、既に実力では千鶴の方が上回っているように感じる。彼女にはここ一月そこそこしか戦闘経験がないので、実際に両者が戦った場合の結果は違ってくるかもしれないが、とも同時に考えていたが。
余談だが、ユリアス王国に所属する気功士や魔道士は、特に任務が無ければ王都を離れることはない。
大剣を抜いて、闘気で己の体と武器を強化するスニフ、その体と剣が白い靄で包まれる。闘気を身に纏った証である。
挑みかかってくるスニフを、リドウは胡乱な眼差しで眺める。
リドウは本来バトルフリークだ。不要な殺生は好まないが、強者との命懸けの戦り取りに心を躍らせる、生粋の闘技者である。その際に対戦相手の命を奪ってしまうケースもあり、第三者からしてみれば、それを不要な殺生とも思わなくはないだろうが、彼の中では完全に別物として明確に区別されている……嫌がる相手に無理矢理しかけるようなマネまでは流石にしないし。
しかして、スニフの力量は、リドウを満足させるだけのものではなかったらしく、彼は刀を抜くことすらせずに、一度灰を捨てた煙管に再び火を点している。
両者が接触したのはその直後のことであった。
大上段からリドウの頭を襲う大剣に、恵子は思わず「危ないっ」と声を上げてしまう。
恵子も正直な話、リドウが負けるとは全く思っていなかった。何せリドウは、一つ一つの技前では及ばずとも、総合的な『殺傷能力』ではあの三魔王に匹敵すると聞いている……まあ、魔神だけは別格だが。ルスティニアにおいて魔王がどの程度の扱いなのかは、実のところ彼女はまだ良く分かっていないなかったが、別格の魔神を除く戦鬼と天武の二人と限定しても、仮にも魔王の二つ名を冠する存在に伍する使い手が、そうそう負けるとは考えてもいなかった。
しかしながら、今までは常に相手に攻撃させる暇すら与えずに倒していたので、こうして先手を取られているのを目にして、思わず慌ててしまったのだ。
が――
見物していた観客たちには、リドウの体がふらりとよろめいたようにしか見えなかった。
しかし彼の体はいつの間にか、スニフの大剣の間合いより、スニフ寄りに一歩内側に在った。
え……?
そう皆が思った瞬間には、スニフから見て右側寄りに居たリドウの右手が、リドウから見て奥にあたるスニフの右手首の部分に添えられており、その事実をスニフを含んだ皆が認識した時には、既にリドウの右足がスニフの左足を流れるように跳ね上げていた。
スニフの全身が宙を浮く。
更に、スニフの右手首を掴んでいるリドウが、全く力を入れたようには見えない、すっと軽く自らの身を退くような動作をしたかと思うと、ぐるんっと一気にスニフの体が天地を逆さまにした。
最後は体の位置を入れ替えていたリドウが、スニフの頭をほんの少し左手で押した。それは傍目には本当に軽い仕草にしか見えなかったのに――
スニフの顔がずどんっと音を立てて地面に激突したのであった。
そしてリドウは、地面に倒れてぴくりとも動かないスニフに視線を置きながら、銜えていた煙管を左手に持ち、ぷはぁと煙を吐き出していた。
数瞬の沈黙の後に、神業に感動した観客たちにより、辺りは歓声に包まれるのであった。
「日本で言う合気の類ね。剣術だけじゃなくて武術までこれほどのレベルだなんて正直信じ難い……凄まじい技量よね。分かる? 麻木さん」
「いえ……そーゆうのはあんまし」
「彼、今の、一切闘気を使ってないわよ、あくまでも私の見立てだけれど。それがどういう意味かは?」
「え? えっと……」
うーんと一応考える恵子であったが、何も思いつかないその様子を見て、千鶴は「ふぅ」と呆れの混じった吐息を零した。
「通常、非能力者の武芸者が気功士相手に肉弾戦で対抗するには、武芸における才能、武才と鍛錬と経験の全てが極めて高い位置に存在して、初めて可能となる、と言われているわ」
「えっと……つまり?」
「彼は闘気を用いるまでもなく、ただ自己の技量だけで達人の領域に既に存在しているのよ――あの若さで。はっきり言って、実際にこの目にしたのでなければ、到底信じられないわ」
「そうなの? でも……」
「でも、何かしら?」
「あいつ、自分はまだまだだって、いっつも言ってるわよ?」
「……あれより先の次元なんて、私には想像もつかないのだけれど……まあ、彼の年齢を考えれば、まだ技量を高められる可能性はあるのでしょうね」
その口調は、どこか呆れているように、恵子には聞こえていた。
一悶着あったその後、現場のすぐ側の酒場から、わざわざ野次馬に出てきていたその店の店主から是非にと誘われたので、一同には断る理由もなく、そこで食事を済ませた。
食事の最中、周りの客たちが、リドウの腕前を讃えたり、スニフの野郎はいつも威張っていて気に入らなかったとか、もしくは恵子や千鶴へのナンパなどで、常に休まる暇がなかったが。
繁華街に入った途端に増えた驚愕の視線の理由もこの時になり判明した。つまり、たまにふらりと現れ食事だけして去って行く千鶴は繁華街では有名人で、冒険者なのは一目瞭然だったが、誰が誘っても素気無く断るというのに、他に女を連れているとはいえ、男と一緒に歩いていたから、それで驚かれていたらしい。
それに、彼女にスニフが強引に言い寄っているのも知る者は知っていたので、これは大変なことになるのではないだろうか? 度胸があるな……という意味でも、驚いていたようだ。
その後、いつも千鶴が利用しているという宿屋に、リドウと恵子も避ける理由は何も無いので行くと、部屋は空いているということなので、そこに宿泊を決める。
だが増やしたのは一部屋であった。内、元々千鶴が使用していた一人部屋をリドウが譲り受ける形になり、新たに借りた二人部屋に、恵子は千鶴と一緒に泊まることになった。
いくら宿屋の中とはいえ、恵子ほどの美少女が、しかも殆ど戦闘能力が無いとなると、単身で泊まらせるのは流石に危ない。千鶴と再会するまでは、もし宿屋に泊まることになっても、二人部屋でリドウが一緒に寝るとあらかじめ言われていたので、それが同性である千鶴になって、恵子はほっと胸を撫で下ろした。
どうしても別々の部屋でなきゃ嫌だと強固に主張する場合、夜中に何があっても、そこまでは責任は持てない。多少の羞恥心と貞操の保証と、どちらを選ぶかは彼女の自由だと言われてしまったら、アクレイアまでの道中に幾らでも機会があった彼が今更襲ってくるとはもう思わなかったので、渋々ながら認めていたのだが、本当に助かったというのが彼女の正直な感想だった。
そして今は翌朝までは別行動という話になり、リドウはまだ飲み足りないと言って外に出かけてしまったので、恵子と千鶴は二人きりだ。
彼も、恵子の身の安全を軽視してまで夜を楽しむつもりはなかったので、千鶴の登場は大歓迎であった。彼女の実力なら、よほどの事態でもない限りは大丈夫だろうと判断したので、それ以上自分が神経質になっても、自分もつまらないし、恵子だって異性と延々一緒では気が休まらないだろう。
その二人といえば、疲労の色濃い恵子と、外見は平然を装っていたが、こちらも体の重い千鶴は、さっさとお風呂を頂いて、既に部屋へ戻ってきていた。
恵子はさて今夜はぐっすりお休みするぞと、もう本末転倒にも意気込んでベッドに入った。
ところが、千鶴もすぐに眠るのだろうと思っていた恵子だが、千鶴はおもむろに、先ほどリドウと入れ替わった一人部屋から持ってきたリュックサックタイプの荷物袋から酒ビンらしきものを取り出して、ビンの中身を木製のコップに注いで、ごくごくとやり始めたではないか。
「えっと……一条さんって、お酒飲むの?」
「覚えたのはこの世界に来てからよ。日本ではちゃんと法律を守っていたわ。一応付け加えておくけれど、この世界では厳格に幾つから飲酒可能という法は無いわね」
「そ、そーなんだ……」
「外では飲まないようにしているのよ。あまりお酒に強い性質じゃないみたいだから……まともに戦えなくなったら、飢えた狼たちの格好の餌食だもの」
千鶴の危機管理意識の高さを聞いた恵子は、やっぱりそういう世界なんだと認識を新たにする。
それと同時に、一つ気になることもあった。
「でも、どうしてお酒を飲もうと思ったの? ってゆーか、弱いって分かってからもどうして飲むの?」
「あなた……ッ」
恵子が無邪気にそう問いかけると、問われた千鶴は一瞬鋭い視線で恵子を睨み付けたが、びくりと身を震わせる彼女を見て、すぐに気まずげにその視線を逸らした。
「そうね。あなたは……そうでしょう、ね」
「あ、あの……」
おずおずと千鶴に声をかける恵子。
対して千鶴はゆっくりと視線を恵子に固定する。その瞳に、特に強い感情が浮かんでいないことに、恵子はどこかほっとする自分を感じていた。
「あなたは自分がどれだけ幸運か、全く理解していないわ」
「幸運って……こんな訳わかんないとこに放り出されて、運が良いだなんて、そんなこと……」
「いいえ、幸運よ。どこに落ちたのか知らないし、そんな事実はどうでも良いけれど、その場所でいきなりあんな男に出会えて、しかも無償で恋人探しを手伝ってもらっているですって? はっきり言って、冗談にしか聞こえないわ」
「そりゃ、確かに、今のあたしには、あいつに返せるものは何も無いけど……いつか、その……芳樹と再会できたら、きっと何かあると思うわ」
恋人の名前を出したあたりから、だんだんと口調が確かなものになっていく恵子を見て、しかし千鶴は、ふっと嘲笑を浮かべてみせた。
「神崎芳樹、ね。あなたがあの男をどれだけ高く評価しているかは知らないけれど、私はあの程度の男にリドウほどの男に対して、何か報いれるとは思えないわね」
「……どういう意味?」
「今口にした通りの意味ですけれど?」
「確かに一条さんよりも成績は下だったかもしれないけど、芳樹は頭も運動も、何でも他の男子よりずっと」
「そんなこと、何の足しにもならないわ」
恋人を馬鹿にされたのがよほど頭にきたらしく、恵子は強い口調で反論しようとしたが、その言葉は途中で遮られてしまった。
「あなた、モテるわよね」
「は? 何よ突然」
「でもね、知ってたかしら? 私はもっとモテるのよ」
「ッ――だから、何だってのよ!?」
「日本に居た頃、私に告白してきたのは学生だけではないわ。青年実業家、芸能人、政治家……は愛人だったかしら? ふふ、笑えるわ。どいつもこいつも、特に有力者の家系でもないこんな高校生の小娘に、本気で熱を上げてくるんですもの。あの時は蔑んでいただけですけれど、今思えばただの笑い話ね」
「なに? 自慢してるつもり?」
「いいえ。それだけ年齢や職業の様々な男たちを見てきたということよ。だから分かるのよ」
「……何が?」
「――あのリドウという男はね、決して金銭で己の意思を曲げるような性質の男ではないわ。いいえ、それどころか、無闇やたらと彼の目の前に大金を積み上げたりしたら、逆に侮辱と判断してしまう……とても、面倒で、厄介で……そして」
女にとってはたまらなく魅力的な男――そう、千鶴は独白するかのように零す。
その言葉が耳に届いた瞬間、何が理由か本人には理解できなかったが、かっと顔が熱を持つのを、恵子は自覚する。
何かを口にしようとするが、とっさに言葉が出てこないでいる内に、千鶴が更に話を続ける。
「仮に神崎くんと再会できたとしましょう。もしかしたら途轍もない幸運に恵まれて大金を手にしているかもしれないわね。でも、もしそうだったとしても、リドウは決して銅貨一枚とて受け取らないでしょうね――自分の好きでやったことだ――とか言って。じゃあ他にどうしたら報いれると言うの? 地位? そうね、もしかしたら神崎くん自身が更なる幸運に恵まれて、他人に特別な地位を与えられるだけの立場を得ている可能性も、まあまずありえないでしょうけれど、宝くじは買わなくてはそもそも当たらないわけですし、そういうこともあるでしょう」
千鶴は挑発する言葉そのままの目つきで恵子を見やる。
「けれどね、麻木さん……そんなことで釣れるような男ではないのよ、あのリドウという男は。賭けても良いわ」
「……………………」
恵子は未だ返す言葉が見つからず、しかし千鶴の言葉を肯定するつもりはないと挑むような眼差しで見返している。
「ならどうすれば良いのかしら? 仮にも自分の大切な大切な恋人を無事に送り届けてくれたリドウに対して、神崎くんが報いれることは他に何があると言うのかしら?」
千鶴は頤に指を当てて微かに首を傾げる。その顔に浮かぶのは果てしない嘲りのみ。
「でも……そうね、例えばですし、“その”場面でどれだけ神崎くんが……まあこれはきっと殆どの人に当てはまってしまうでしょうし、役に立つという前提で話をしましょうか。リドウが危機的状況に陥っている時、命を賭して彼の盾になる、とかかしら? 恐らくそれくらいしか無いでしょうね、“男が”リドウに報いれることなんて」
千鶴は容赦なく言葉を叩き付ける。それはもはや暴力と言ってすら構わないものであった。
「そして……ね? 麻木さん。これも賭けても良い。むしろこちらの方が自信があるわ」
千鶴は話の内容に反する、何とも柔らかい笑みを浮かべる。
「神崎芳樹という男には、恩人のためとはいえ他人の、ましてや同性のために己の身を犠牲にできるような度胸も矜持もありはしないわよ」
「ふざけないで!」
恵子はとうとうベッドから立ち上がり、体の前で大きく右手を横に振って抗議の意思を強く示す。
しかし千鶴の方も座ったままでこそあったが、その瞳に強い感情を浮かべていた。
「至極マジメよ」
「何であんたにそんなこと言われなきゃならないの!? 芳樹のことなんて大して知りもしないくせにっ」
「あなたがそう思いたいのなら別にそれでも構わないわ。でもね、麻木さん。もういい加減理解できたでしょう? リドウという男に何かを報いるだなんてことが、いったいどれだけ難解な問題なのかを」
「――――――――ッ」
確かにそうだ。
そう一瞬思ってしまった恵子は、精神的に少し弱い立場に追い込まれてしまった自分を自覚する。
「それとも、本人が必要ないと言うなら、じゃあいいや、で済ますおつもり? だとしたら最低ね」
「そんなわけないでしょ!?」
「そう? せめて体を開くくらいはしているのかと思えば、呆れたわ、まさか指一本“入れられて”すらいないだなんて」
はっと吐き捨てるように恵子を嘲弄する千鶴。
その言葉の意味が頭の中に浸透した恵子は、思わず怒気以外で顔を真っ赤にする。
「なっ、あんた何言ってんの!?」
「まあ確かに、謝礼代わりに抱けと言って素直に抱くような男じゃないけれど、少しでも感謝の気持ちがあるのなら、好意を装うくらいできるでしょうに。現在でさえ、あなたの能力では危機的状況と言ってしまって過言ではないのですから、そんな状況下で不安を感じている女を抱いて紛らわせるくらいの甲斐性はあるでしょうし、それを恋人への裏切りだとか、そんな処女厨のお子様じみた論理で女の変節を詰るような男でもないはずよ――例えリドウと神崎くんの立場が逆だったとしてもね。まあ神崎くんがどう思うかは私の知ったことじゃないけれど、男としての器の問題だから、あなたの思う神崎芳樹ならきっと責めたりせずにあなたを優しく受け入れてくれる……と思うわよ?」
自分の発した言葉を全く信じていないとばかりに嘲笑を浮かべている千鶴を、恵子は視線だけで殺せそうなほど殺気立って睨み付けるが、終ぞ掴み掛かりはしなかった。以前でさえも無茶だったろうが、今の千鶴を自分如きがどうにかできる可能性など皆無だ、と判断するくらいはできるようだ。
言いたいことを言い終えて満足したのか、千鶴は、無言で睨み続けてくる恵子をよそに、空になったコップに再び酒を満たして、それを口元で傾けた。
「んぅ……そういえば、何でお酒を飲むのか、だったわね。答えは、飲まないと眠れないからよ」
「え……?」
いきなりの中々重そうな回答に、恵子は一瞬それまでの怒りを忘れてしまった。
「リドウの危惧している通り、こんな安宿の中では絶対安全だなんて決して言えないけれど、酔い潰れでもしないと、まともに眠ることすらできないのよ」
「……あんたが?」
「あなた、私のことを何だと思っているのよ。まあ、学校での私がスーパー女子高生と思われていることくらいは自覚しているわ。あなたにそう思われていても仕方がないけれど、私なんてただの小娘にしかすぎないのよ? できることと言えば、学業に必要な一切と、幼い頃から習っている華道と薙刀くらい……まあピアノと書道もかしら? 超人だなんて、そんな事実は決してない、どれもこれも常人の範疇、所詮はその程度でしかないわ」
今度は自嘲の笑みを浮かべる千鶴を見て、今日は彼女の色んな笑顔を見る日だなと、恵子は呆けた思考の片隅で思い浮かべていた。
「そんなことは日本に居た頃からとっくに自覚していたわ。自惚れていたつもりなんてない。けれど……」
その後に続く言葉を、千鶴はとうとう吐き出すことはなかった。
それを追求できるだけの度胸を、恵子は持ち合わせていなかった。
「麻木さん、私はさっきあなたを幸運だと言ったわね?」
「う、うん……」
「けれども、それは私自身にも言えることでしょうね。この世界に飛ばされたのは、状況からいって私たちだけのはずがないわ。不幸中の幸いにも、私は早々に闘気に目覚めたけれど、あなたを見る限りにおいて、異世界人補正が働いた、だなんてご都合主義ではなかったようだし、他の子たち……特に女の子たちは、今でも無事で、生きていて……くれているのかしらね……」
千鶴も、できれば生きていてほしいと、心の底から願っているのだろう。彼女はまるで祈るように、太股に両肘を乗せて、組んだ両手に額を当てている。
恵子はそんな彼女を見て、何と声をかけていいか分からず、おろおろしてしまうばかり。
「生きていたとしても、無事とはとても言えないかもしれないわ……」
「そ、そんなこと」
「希望的観測はおよしなさい。恐らく、無事と言える子は殆ど居ないでしょう。奴隷制度も生きている世界よ。もちろん、何の罪も無い一般人をさらって強制的に奴隷にしてしまうようなことは、表向きどんな国でも認められていないけれど、そんなことお構いなしのならず者や、それを裏で許容する統治者なんて、どこにでも存在するわ。それ以前に、お金に困った挙句、闇金のような業者に自分の身代を担保に借金する子も居るでしょうね。そうなる前に……最悪餓死なんてする前に、せめて自ら娼婦にでもなってくれていれば良いのだけれど……」
「そ、それは……」
そんなことを考えるだけでも許されないと言わんばかりの恵子に対して、千鶴はしかし、真剣極まりない眼差しで見つめ返す。
「女としての尊厳を売る行為だとは百も承知よ。けれどせめて、人としての最低限の尊厳だけは、それで守ることができるわ」
「…………」
「幸いと言うのもなんですけれど、現代日本では並み程度の容姿でも、こちらでは垂涎の美人なのよ。娼館なら殆どの子を喜んで受け入れてくれるはずよ。でもね、麻木さん」
頭が良いというのも考えものだ。
千鶴には幾らでも最悪と呼んで差し支えない事柄が思いついてしまう。ならば良いことといえば、彼女自身がそうであるように、魔法か闘気の才能に恵まれてくれていれば……という、運任せの希望的観測くらいしか思いつかないのだ。
そんな彼女の悲哀を見て取る恵子といえば、こちらも泣きそうになりながら、ただ千鶴の言葉を黙って聞き届けるしかできない。
「――私が最も危惧しているのは、そんなことではないのよ」
「そ、それって……」
これまでも十分以上に、恵子にとっては耳に辛い内容だったのに、それよりも悪いことがまだあると言うのだから、彼女は聞く前からして、思い切り体を硬直させてしまった。
「魔法、それに闘気。ダンジョンにモンスター。聞けばドラゴンもしっかり存在しているらしいわね。まるきりファンタジーだと思わないかしら?」
「う、うん……それは、まあ……」
千鶴の言葉に同意を示す恵子であったが、それの何が問題なのかわからない。
危険だということだろうか? しかしそんなことは今更だ。
千鶴は顔を下げたままで続ける。その様子から、やはり何か悪いことがあるのは確実なのだろうと、恵子は心の中で身構える。
「闘気に目覚めているなら、あまり心配はないのよ。闘気を使えるなら最低限、身の危険を感じたら、魔物相手でも逃走することは難しくない」
「……じゃあ、何が問題なの?」
「この世界の魔法は主に三種に型分けされる……というのはご存知?」
「……知らない。知らなかったわ」
「気にしなくていいわ。一つは魔法陣等を使用する儀式魔法で、これは現代でも不可能なことすら実現させることが可能となっている……けれども、これは基本的に一所に留まって、かつ大人数の魔力を一つに集約することで使うし、儀式構築に必要とされる膨大な知識と経験も要求されるから、来たばかりの日本人が使用することは実質不可能でしょうし、そもそもが戦闘で用いられるものではないわ」
千鶴は指を二つ立ててみせる。
「主に戦闘で用いられる魔法技術は次の二つ。一つは《ロスト・スペリング》という技術で、こちらで魔法を使うのは、才能以上にきっちりとした熟練が比重では重いとされているから、これも来たばかりの日本人がそうそう使えるものではないでしょう。でももう一つの《キャスティング》と呼ばれる技術……こちらならね、簡単な魔法は呪文を唱えるだけで、そうでない魔法も必要な簡易儀式を完全に再現させることができるなら、必要とされる魔力を保有してさえいれば、誰にでも容易に使えてしまうのよ」
「えっと……それなら、大丈夫なんじゃない?」
本気で何が問題なんだろうと軽く応じる恵子だったが、しかし千鶴は沈痛な面持ちで首を横に振った。
「いいえ、大問題よ。同業者間での争いが珍しくないのが冒険者という職種よ。魔物との戦闘が前提となる冒険者と、それに魔物その物。何の戦闘訓練も受けていないど素人が最低限それらと対等に渡り合うには、高難易度の簡易儀式を必要とする魔法が使えなければ、話にならないわ。呪文を唱えれば、それだけで人を焼き殺すことができる《ファイア・ボール》が使える程度では論外なのよ」
恵子は沈痛な面持ちで首を横に振る。
「……ごめん、何が問題なのか、まだ分かんない」
「威力の有無もそうですけれど、全力でこちらを害そうと襲ってくる相手が居る中、呪文を唱え、狙いをつけ、避けようとする相手に狙いを修正して、タイミング良く魔法を開放する。言葉にするだけなら簡単そうに聞こえるでしょう? でもね麻木さん、拳銃でさえ素人が確実に当てられる距離は数メートルでしかないのよ。それが更に、最低でも呪文詠唱というハンデを背負わなくてはならない上に、詠唱が完了してから開放可能状態で維持できる時間はほんの数秒ときているわ。速度も銃弾には遥かに劣るし、真っ直ぐにしか飛ばないから、遠距離からまともに当てられるのは、むしろ熟練者だけとも聞くわね」
恵子は少し考えて、その場面を想像し、ようやく僅かに頷いた。
「……難しい、わね。確かに」
「何も、ファイア・ボールだけで戦うことは絶対に不可能、と言っているわけではないわ。ファイア・ボールだけでも、的確に扱える技量があれば、十分に有効な手段となり得る。けれどもそれは、『ファイア・ボールを覚えた』と等価値では絶対的にないのよ。あなたも努々覚えておきなさい」
「う、うん……忘れないよ」
厳しい眼差しで忠告してくる千鶴を、恵子は真剣に肯く。
それを見て、こちらも一つ頷くと、千鶴は話を再開した。
「そこで、さっきから例に挙げているファイア・ボールですけれど、これは人を焼き殺すくらいは十分に可能な魔法よ。しかも必要な儀式は呪文を唱えるだけ。そして最も重要なことが……二人に一人程度の割合で使えてしまうものなのよ」
「あっ……」
「分かってくれたかしら? もちろんこれはルスティニア人における統計ですけれど、恐らく地球人にも適用されるわ。私に魔法使いとしてやっていける才能は無いって、たまたまアクレイアに寄った高位の魔法使いに聞いたら、あっさりそう宣言されたけれど、使えたもの、ファイア・ボール。気功士の私には正直無用の長物だから、確認してからは使ったことはないけれども」
と、件のファイア・ボールではなく、リドウが煙管に火をつける時に良く使っているサイズの炎を、千鶴は指先に起こしてみせる。
「簡単でしょう? このピンキー・フレイムよりちょっと長いだけなのよ、ファイア・ボールの呪文は。異世界に召喚されて、そこはまるきりファンタジーの世界だなんて、『自分が物語りの主人公になったんだ』と錯覚する子は絶対に出てくるわ、特に男の子ならね。そこに、他人を害することが十分に可能な魔法を手に入れて、調子に乗らないでいられるだけの自制心を高校生如きに求めるのは……正直、難しいでしょうね」
「……そうかもね」
ようやく完全に理解できた恵子は、自ら死地に向かっているなどとは想像もしないで目を輝かせながら勇んで冒険を開始し、絶望と苦悶に塗れた表情で死んで行く同級生たちを幻視してしまい、沈んだ様子で同意を示した。
「もし魔法を指導してくれる人に出会ってしまったとしたら、願わくばその人物が思慮深い方であってほしいわね。しっかりと釘を刺してくれれば、少しは茹った頭も冷えるでしょう。けれども正直、望み薄だとも思っているわ。だってルスティニア人なら、その程度のことは子供でも知っている常識中の常識なのよ? 一々注意してくれるとは、あまり思えないわね」
そこまで話すと、千鶴は一口酒を喉に流し込んでから、深く溜息する。
「まったく、流石に魔王というだけはあるわね。ルスティニアの人たちにとっては自衛手段が格段に増えて、喜びこそすれ、厭うことなんてないのでしょうけれど……本当に余計なことをしてくれたものだわ」
「何の話?」
「例のキャスティングですけれどね、その技術を開発したのは、何とこの世界では現存する七名の魔王の内――」
刹那、恵子の心臓はどきりと音を立てた。
「魔神と呼ばれる最強の魔王なんですって」
「そ、そーなんだ……」
「魔王には魔法が得意なタイプや肉弾戦が得意なタイプとか、色々居るらしいのだけれど、魔神は中でも圧倒的な魔力と、それを自在に行使可能な凄まじい技術を持っているという話よ。当然、使う魔法はロスト・スペリング……キャスティングなんて必要ないはずなのに、何で開発したと思う? その理由を知ったら笑うしかないわよ。麻木さん、想像はつくかしら?」
「えっと……その……皆が少しでも、その……笑って暮らせるように、とか……?」
しどろもどろに、千鶴の顔を窺うように答える恵子に、千鶴は驚いたとばかりに目を見開いた。
「……知っていたの?」
「う、うん……まあ……」
「魔法のことは何も知らなかったのに?」
「あ、えっと……ほら……確か、途中で寄った村で、一緒に遊んであげた子供から聞いたのよ」
「ふーん……?」
盛大に疑わしげに恵子を見つめる千鶴がいる。
「まあ、そういうことにしておきましょう」
「うっ、その……ごめん。隠し事があるのはばればれだと思うけど、リドウの許可なく勝手に話せる内容じゃないの」
「なら仕方ないわね」
恵子の予想とは違い千鶴があっさりと諦めてくれたので、恵子はほっと安堵の息を吐く。
「話を戻すけれど、この世界の魔王というのは、どうやら私たちが普通に想像するような魔王とは大分趣が違うらしいわね。彼ら個々の性質も、人間と同じように良い悪いとあって、邪悪とは程遠い……まあ過去には力に溺れて世界征服に乗り出した固体も居たらしいけれど」
「へえ、そんなの居たんだ」
「まるで、魔王に邪悪な固体なんて居ないと知っているかのように言うわね」
「えぇ!? そ、それは……」
「ウソの下手な娘ね、本当に」
「はぅ……」
くすりと笑う千鶴に、顔を赤くしてうつむく恵子。
「でね、キャスティングを開発した魔神と呼称される存在だけは様々な意味で別格に語られているわ。キャスティングが普及し始めた大凡五百年前から更に少し経ってから、どこかに姿を消してしまったって話だけれど、あまりにも飛び抜けた力の持ち主だったから滅ぼされてしまったとは考え辛いし、どこかで引き篭もってるんじゃないか、というのが一般的な見解ね。ご存知かしら? 《リリス教》って」
「は、はいぃ?」
あんまりにも意外がすぎる単語の出現に、素っ頓狂な声を上げてしまう恵子であった。
「この世界で普及してる宗教は大きく二つあるのよ。一つは地球で言う一神教とほぼ似たような教義を掲げているのだけれど……で、もう一つがリリス教。存在するかどうかすら定かではなく、何をしてくれたわけでもない神なんて、崇めても何も変わらないのだから、仮に神が実在したとしても、きっと神よりもより強大な力を持ち、今まさにこの世界で生きる人々のために尊い恩恵を授けてくれた魔神こそ崇めるべき存在である……という教えの宗教なのだけれど」
「……マジですかぁ」
恵子は勘弁してと頬を引き攣らせる。
「真実よ。しかも、国力が大きい国家は大抵がリリス教を国教に掲げているの。なぜだか分かるかしら? 魔神のことを知っているなら、良く考えれば想像がつくわよ」
「ううん、分かんない」
今夜はあまりにも考えることが多くて、もう思考すること自体に疲れを感じてしまったのか、恵子は間髪入れずに訊ねていた。
「……少しは考えてから発言してほしいところなのだけれど……もういいわ。正確には、リリス教を国教に指定している国は大きくなり易い、と言うべきね。何せ崇める対象である魔神様自らが、『他人様には優しく、皆で仲良くしましょうね』って種類の言葉を数多く、しかも明確に残しているものだから、木っ端聖職者はおろか教皇に至るまで、影でこそこそ金勘定に明け暮れるような輩は即刻破門で、誠実が旨とされる王侯貴族も、暴虐に走ったりする輩なんて滅多に出てこないのよ」
千鶴は嘲笑と苦笑の混じったような顔で肩を竦める。
「何せ連中、『魔神様はもう教えるべきことは教えてしまったから、ゆっくり休憩するために引き篭もってるだけで、五百年経っても出てこないのは、時間の尺度が人間とは違うからでしかなく、もし自分たちが魔神様の名を語って、魔神様の目に余るような行いをすれば、再び現れてお仕置きされてしまう』……って、本気で怯えてるから、それこそが、そんな連中が出てこない大きな要因だと私は考えているけれども。やっぱり実在したというのは大きいわね。今でも確認される魔王の力は突出しているのに、他の六体を合わせたより強いとされているから、具体的な力の桁も想像がついてしまうし」
「は、ははは……」
もう恵子には乾いた笑いを浮かべることくらいしかできなかった。
「教義の関係で『異端者』という言葉自体が存在しないから、誰でも入信できるし、逆に抜けるのも自由で、そもそも教徒だろうと異教徒だろうと扱いを変えたりなんてしないって……そんな宗教が存在し得るだなんて、私には冗談の方がはるかにマシに思えるわ。でも真実そんな宗教なのよ。だから、平民が安心して暮らせるの」
「治安が良いってゆーことね」
「治安、とは少し意味が違うのだけれど……」
まあ概ねはそうだと、千鶴は頷く。
「一方で一神教の《ロンダイク聖教》は、神の言うことは絶対普遍に正しいとされていて、なのにころころ言うことが変わる――当然、教えを説く側の方にとって都合の良いようにね。権力者、要するに国政を司る側にも裏取引で教義を弄くってくれたりするらしいから、王権神授説を掲げている国なんかには特に好まれているわ。どちらかと言えばロンダイク聖教を好む国の方が多くて、絶対数では劣るけれど国力では勝るリリス教国家と、規模や戦力がほぼ同等で均衡が保たれているわ」
恵子は「ほへぇ」と感心している。
「良くそんなに詳しく調べられたわね、この短期間に」
「現代で得られる知識を基に複数の人間の証言を当て嵌めれば、このくらいの解答を導き出すのはさして難しいことではないわ。地球ではちょうどこのくらいの文明の時代が宗教問題に関しては最も敏感だった頃だもの。知らずに下手なことをしていきなり異端者扱いは御免だから、真っ先に調べたわ」
「ちなみに、この国ってどっちなの?」
「リリス教よ」
「そっかぁ……」
理由まで千鶴には知り得なかったが、万感の想いを込めて呟く恵子を見ながら、千鶴は空のコップに酒を注ごうとして、ビンの中身が空っぽになっていたのに気づくと、ため息を一つ吐いてから、少しテンションが下がった様子で恵子を見つめる。
「その……ごめんなさいね」
「え?」
「さっきのこと。あなたが悪いわけじゃないのは理解しているのよ。お酒が入ってちょっとキレてしまったみたい。これでもあなたが無事だったことは喜んでいるのよ。ただ、ちょっと嫉妬してしまっただけ」
「あ、うん。もういいよ。あたしがリドウにおんぶに抱っこで、全然何も考えてなかったのは事実だし。一条さんも、色々考えすぎちゃって、頼れる人も居なかったのに、自分にできることを精一杯頑張ってたんだもんね。何もしてなかったあたしを見たら、文句の一つくらい言いたくなっちゃうよ」
「あなた、本当に好い子ちゃんね」
「それって、喧嘩売ってんの?」
「純粋な褒め言葉よ」
お互いに「ふふ」と朗らかに笑い合う。
「私のことは千鶴でいいわ。これから一緒に旅をすることになるんだし、他人行儀はやめましょう。私も恵子ちゃんって呼んでいいかしら?」
「うん。でも、『ちゃん』はいらないよ」
「ごめんなさい」
なぜか千鶴はここで沈痛な表情を浮かべる。
「私とあなたが同い年だなんて、赤の他人は誰も思わないでしょうし、私も思えないのよ」
「あたしは年齢相応よ! 一条さんが老けてるだけでしょ!?」
からかいの言葉にあっさりと乗る恵子を、千鶴は楽しそうに見つめていた。
「大人びてる、と言ってちょうだい。それと、一条さん、ではなくってよ?」
「あ……ち、千鶴……?」
「ええ。ぎすぎすしてもつまらないわ。これからは仲良くしましょうね、恵子ちゃん」
「うぅ……やっぱり『ちゃん』なのね」
独り嘆く恵子をフォローする言葉はなく、千鶴は、自分はもう酔っ払ってしまったから恵子も寝なさいと、やっぱり恵子には子供扱いに聞こえる口調で提案をする。
恵子自身も、エーテライスから先の疲労が溜まっていて、もういつでも眠れる状態だったので、変に反論する気力もなくなっていた。
そうして、二人ともにベッドに横になる。
と――
「ねえ、恵子ちゃん。まだ起きているかしら」
「なに?」
「リドウとは本当に何も無いのよね?」
「あ、当たり前でしょ! もうっ、眠気が覚めるから、変なこと言わないでよ」
「何でもないなら、そんなに慌てる必要もないと愚考するのだけれど」
「ちがっ……って、だからもう、そーゆうのはナシ! お休みなさいっ」
「……神崎くんのことは、まだちゃんと好きなのも、間違いないのね?」
「『まだ』とか言わないで……ってだからー」
「ならリドウは私が頂いても――構わないわね?」
「――――――――ッ!?」
「何か特別に協力してほしいわけじゃないの。ただ、邪魔はしないでちょうだい。上手くいっても、恵子ちゃんを仲間外れにしようとか、そんなことは考えてないから」
「う……う、ん…………わかった……」
「そう……ありがとう。お休みなさい」
「うん……お休みなさい……」
この夜、就寝の挨拶後、すぐに意識が落ちた千鶴とは違い、恵子がようやく眠りにつけたのは、それから更に凡そ一時間後であった。




