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第五十二話 愛奈とシャイリー 7

 クリスは元暗殺者という肩書きに相応しいと述べるべき冷静、冷酷、冷淡とあらゆる意味で冷ややかな態度で敵の騎士を翻弄し続ける。

 一撃でもまともに受ければ即座に終了という苛烈な攻撃が繰り返される中を、しかしクリスの瞳は何の脅威も感じていないかの如くいささかも揺らがない。


 騎士は、身体能力では圧倒しているはずなのに、致命傷を与えるどころか未だ掠りさえしていない現実に苛立ちを募らせていく。


「なぜだっ。なぜ当たらないっ!」

「分からねぇのか?」


 騎士の焦燥と苛立ちに塗れた言葉を、クリスはせせら笑う。


「分からねぇんだろうな」

「何がおかしいっ!」

「てめぇの滑稽さが」

「――ッ、死ねーっ!」


 クリスは口角を吊り上げたまま、騎士の剣戟を常に紙一重でかわし続ける。その事実が、まるで自分の攻撃を完全に見切られているように感じられ、騎士の苛立ちを更に煽っていく。

 が、現実には正反対なのだ。真実は『紙一重にならざるを得ない』のだ。気功士という、鍛え抜かれた常人に対する数倍の身体能力をデフォルトで持つ相手なのだという事実を忘れてはならない。

 しかし騎士がその真実に気付くことはない。クリスの余裕の態度がそれを許さないからだ。余裕の態度がそのまま余裕で避けられ続けているかの如く、騎士に対して錯覚を生んでいた。


 死ねっ、死ねっ、と呪いの言葉を吐き散らしながらクリスへ向けて剣を振り続ける騎士であったが、そのことごとくが空振りに終わる。あるいは呪いの言葉ではなく、祈りに近いのかもしれない――もうお願いだから死んでくれ、という。

 気功士である自分と常人が戦えば、常人は死んでいなければならないはずだ。なのになぜ目の前の相手は未だに元気で動いているのだ? そんなのは不条理だろう――と。


 騎士の鬼のような形相を見て、クリスは決着の時が近いのを悟る。


(そろそろ頃合、か……)


 掠っただけで致命傷になりかねない剣嵐の中で、冷静に脳内で『その時』をイメージしながら呟く。

 失敗は許されない。これにしくじれば自分に勝機は無くなるだろう。戦いが始まってから先、全ての行動は『この時』のための布石であったのだから。それを無駄にしないためにも……確実に、決める。


「死ねぇ――ッ!」


 騎士は渾身の力で剣を振り下ろす。渾身というよりもヤケクソと言った方が正しかったかもしれない。


 大振りで分かり易い攻撃だった。


 そして、クリスが待ち構えていた攻撃でもあった。


 彼は右手に持つダガーを敵の剣に合わせる。


 その光景に騎士はデジャヴを感じる。


 あっと気付いた時には既に遅く、攻撃へ完全に力が乗り切っていた。


 クリスのダガーが、くんっと傾く。


 それに合わせて騎士の長剣はずるっとダガーを滑り落ちて行く。


 ――同時に、彼の身体その物も前へ傾いてしまう。


 その色男面にクリスのダガーが迫る。


 掠り傷とは言え、二度もノーマル風情から傷を負ってなるものかと、騎士は闘気を顔面へ集中する。


 その最中、クリスの唇がぶつぶつと何かを呟いていることに騎士は気づいたが、別に気にする程のことでもないと捨て置いた。


(これを耐えて呆気にとられるこのノーマルをすかさず切る!)


 騎士は騎士なりに考えていた。


 が――


 クリスのダガーは騎士の顔に触れることなくすかっと通り過ぎてしまう。


 え? と騎士が疑問に思った時には、クリスの左手を自身の背に回しながら、勢いのままにぐるんっと体を回転させる。

 彼の左手にはいつのまにか二本目のダガーが出現しており、逆手に持たれたそれが回転の勢いを維持したままで、真っ直ぐに刃を立てて騎士の体を襲う。


 闘気の大半を顔面に集めていた騎士の体――心臓の位置をダガーは貫いた。


「ぐあっ」


 ――しかし、浅かった。正確に肋骨を避けて突き刺さった刃であったが、騎士の心臓を穿つには威力がまだ足りなかった。


 痛みと、結局二度もノーマル風情に傷を許してしまった屈辱感に呻く騎士であったが、その顔には優越感すら浮かんでいた。これを狙っていたのか、しかし防いでやったぞ、ノーマル風情め、と。


 が、その優越感が驚嘆に変わるのに時間は掛からなかった。


 騎士に背中を向けたまま、クリスは静かな声で呟いた――


「フラッシュ――」


 同時にクリスの全身から魔力が膨れ上がる。詠唱が完了したのはその直後であった。


「――ボルト」


 キャスティング雷系下位魔法『フラッシュ・ボルト』。精々が常人をちょっと痺れさせる程度にしか使えず、間違っても気功士相手に通用する魔法ではない。


 が、クリスの手から発生した電撃はダガーを伝い、騎士の体内へ直接流れ込む。


 結果は――


「がぁああああああああああああああっ」


 騎士は絶叫をほとばしらせながら、小刻みに全身を震わせる。


「『蛇』は暗殺者の頂点。間接殺害だけを旨とする他の連中との決定的な違いは、時には標的の前に直接姿を現して正面から殺し合えて初めて『蛇』を名乗ることが許される。てめぇで三人目だ――俺が“殺した”能力者はな」


 心臓の位置で発生した電撃は、騎士の鼓動を一撃で仕留めてみせた。


 白目を剥いて全身の力を失った騎士から、クリスはダガーを引き抜く。その顔に特別な感慨は何も浮かんでいない。元暗殺者という名に恥じない冷酷さと言うべきなのだろうか。


 地面へうつ伏せに倒れたっきり動かない騎士を数秒ほど観察したクリスは、不意にダガーを騎士の体へ投げつけた。闘気による守りを失った肉体はいとも容易く刃を受け入れてしまい、刃が突き刺さった衝撃で軽く肉体が踊るが、それ以上の反応は何も見せなかった。

 更に自ら死体の側にしゃがむと、騎士の首筋に己の手を這わせる。どうやら脈を取ったらしく、きっちり止まっていることを確認すると、軽く息を吐きながら立ち上がった。


「やれやれ。どうも暗殺者時代の癖が抜けませんね」


 自分の慎重さがおかしいのか、薄く苦笑いしている。口調は平常時の丁寧な調子に戻っているが……果たしてこの男にとってはどちらが本質なのか。


「さて……」


 未だ激戦を繰り広げているもう一方を眺めながら、手で顎を擦る。


「どうしたものでしょうか」


 助力に行くべきかと自問自答する。


 が、彼はすぐに却下した。あのレベルの戦闘に加わるには、どうしても最低限度の戦闘能力が必要とされる。自分が加わっても足手纏い以外の何者でもないだろうと。


「羨ましい才能ですね、まったく」


 クリスとて、闘う者として、自分に才能が有ればと思ったことは何度となくあるのだろう。その口調は淡々としながらも、微かにしみじみとしたものも感じさせる。


「あのレベルの戦闘を目にできる機会はそうそうありませんし、ゆっくり見物させてもらうとしますか」


 そう呟きながら、クリスは移動を始める。戦闘には参加しないと決めたはずだが、アグリアに隙があるようならば自分も手を出すつもりなのだ。そのために、今一度森の中へ戻るつもりだった。


 あちらは互いの技量が伯仲しているのを両者共に理解しているせいか、彼ら自身の戦闘に集中するあまり、まだこちらの決着に気づいていない。自分が気配を殺して行けば回り込むのもそう難しくないだろう。

 あるいは、気付かれたなら気付かれたで構わない。一度森に入ってしまえば、アグリアに対する牽制にもなるだろう。拮抗した実力者同士の戦闘でそのプレッシャーは、シャイリーたちの大きな助けになるはずだった。


「それに、フランクを助けないといけませんしね」


 と、アグリアから数メートル離れた位置で未だに気を失って地面に倒れているフランクを胡乱げに眺める。アグリアのアイス・フィールドの煽りを食って体の半分くらいが凍ってしまっているが、おそらくまだ生きてはいるだろう。


「非常に不本意ですが、吐くことを吐かせる前に死なれては困りますし」


 別に仲間意識や善意からではなかったようだが。










 シャイリーと愛奈はアグリアに対して攻めあぐねていた。


 次々と強力な魔法を撃ち出してくるアグリアに、シャイリーは近づくことさえできない。

 かと言って、愛奈ではアグリアのアイス・フィールドに直接下りるのは自殺行為。愛奈の制空圏にアグリアを納めるにはどうしてもアイス・フィールドに入らなければならず、空を飛ぶしかない。そうなると、今の愛奈に援護で撃てる魔法はキャスティングに限られ、スペルキャストで多少威力を増幅していようが、それではアグリアの障壁を揺るがすことさえできなかった。


 また、アグリアにとってもこの状況は不本意だった。空を飛ぶ愛奈よりも地上のシャイリーの方が脅威度は圧倒的で、常に気の抜けない魔法行使を強いられてしまい、愛奈に対してまともな牽制すらできない。

 愛奈が大した脅威ではないのは事実だが、かと言って捨て置けるほどの雑魚ではないのは、悔しいがアグリアにとって、また確かな事実であった。たまにキャスティングの魔法で愛奈に牽制球を放っていても、流石に今の彼女がまともに食らってくれるものではなく、器用に風を操作して避けてしまう。

 常に多方面へ意識を割かなくてはならない状況というのは存外に神経を磨り減らす。シャイリーだけでも油断できない相手なのだ。できることなら複数戦のセオリーに従って弱い方を先に仕留めてしまいたい所存なのだが、彼はそれを許してくれるほど手を緩めてはくれない。


 一方で比較的安全にお空を飛んでいる愛奈も、まともに役に立てていない現状に臍を噛みながら、何とか打開策はないものかと思考を巡らせていた。


(敵に対して言うのもなんですけど……勇者は魔道士の方が優秀って本当なんですね。手も足も出ないってレベルじゃないですけど、あのシャイリーさんが圧倒できない時点でかなり凄いと思うんですけど……。しかもその上で、私もこれ以上近づけない程度にはきっちり牽制されちゃいますし)


 シャイリーとの攻防の最中に、アグリアから自分に向けて新たに放たれた魔法を避けながら、くっと唇を噛み締めて唸る。


(せめて地上に降りて攻撃にだけ集中できれば、今の私が撃てる最大の魔法で……)


 本当にアイス・フィールドが曲者だった。おそらく水系がアグリアの親和属性なのだろうが、一々無から魔法を構築するのではなく、元から魔法を生み出しやすい空間を作り上げておくおかげで、大した手間もかけずに氷柱による攻撃が可能となる。

 しかも同時に、相手に対して自由な身動きを許さない空間をも成立させてしまう。

 一石二鳥とは言うが、これ程にその言葉が似合う魔法は無かった。


 そのせいで、氷柱の影響圏内に立つことが愛奈の運動神経では不可能になってしまう。いや、多少運動神経に優れている程度ではどの道大した意味もないだろうが。

 いずれにしても、魔法の射程も無限大とはいかず、今の愛奈の腕前では、アイス・フィールドの外からアグリアまで魔法を届かせるのは実質不可能と言って構わない。


(私がダブルキャストをまともに使えれば、条件はクリアされるのに……)


 アグリアの障壁を壊す所まではいけるのだ。彼女もそれを警戒しているだろうが、愛奈にもそこまではイメージできる。

 がしかし、そこから先の決め手が致命的に欠けるのだ。アグリアとて何かしら考えてはいるだろうし、迂闊に近づけば手痛い反撃を食らいかねない。

 障壁さえ貫いてしまえばシャイリーの攻撃なら掠るだけでもアグリアにとっては致命的だろうが、彼が障壁の破壊に全力を駆使すると、技後の一瞬の硬直だけで彼女にとっては反撃するのに十分な隙になってしまう。


 もう一手が足りない。もし愛奈がダブルキャストを完全に扱えれば、その一手が満たされるのに……。


(これが英雄譚の一節なら、ここで私が新たな力に目覚めて大逆転ってシーンなんでしょうけど……『訓練で百パーセント成功できなかった技には絶対に土壇場で頼るな』って、リドウさんからは散々言われてますし……まあ、さっきはスペルキャストとダブルキャストを成功させましたけど、あれは何となく出来そうな感触が元々あっただけで、キャスティング以上の魔法を飛びながら成立させるのは、今の私じゃ絶対に無理っぽいんですよね……)


 そういう意味で、この世界は“理不尽”だなと、益体もなく考えてしまう。突如異世界に放り出された日本人。才能に恵まれ、英雄たる素質を持っている。この条件で英雄的活躍ができないのだから、本当にファンタジーとしては何かが間違っているだろうと、愛奈は思わざるを得ない。神様に文句を言いたいくらいだ。


「あと一手……私にできるのはちょっとのダブルキャストとスペルキャストだけ……」


 焦燥感から思わず口に出したその瞬間だった。あっと息を呑む。


(そうだっ、これなら……!)


 思いついてしまった――逆転の一手を。


 思い立ったが吉日とばかりに、愛奈はシャイリーへ声を掛ける。


「シャイリーさん! 一度作戦会議です!」

「りょーかい」


 愛奈の声に応えてアイス・フィールドから撤退する。


 アグリアは途端、にぃっと唇を歪める。


 アイス・フィールドから後退する最中、シャイリーはごごごごごと地面が揺れたような気がした。


 一体何だと疑問に思うのも束の間、今では無数に地面から聳え立つ氷柱の群れが一斉に宙へ浮き上がり始めた。


「なっ……」


 愛奈の驚愕の声が聞こえてくる。


 まずい、とシャイリーが思った瞬間には、彼の身体は反射的に動いており、地面に降り立とうとしていた愛奈を抱えて飛びすさっていた。


ずががががんっ


 氷柱の群れが地面に突き刺さったのはその直後であった。


 間一髪逃れることができたが、安心している暇など無い。次々に襲い来る氷柱の群。その攻撃範囲はアイス・フィールドを越えてなお届くらしく、シャイリーが居る場所が草原故に、彼が回避に手間取ることはないが、アグリアの巧妙な攻撃の組み立てが、彼をどんどんアグリア自身から遠ざけてしまう。


「……それで、何か思いついたんでしょ?」

「れ、冷静ですね」

「そういう訓練をしてるから」

「流石はバトルジャンキー……」

「そんなことより、作戦」

「あ、はい。でもこの状況じゃ……」


 愛奈はぐぅっと唸ってしまう。喋る声もかなり苦しそうだった。


 無理もない。今の彼女は、制限の無いシャイリーに抱えられているおかげで、とんでもない速度の中に居る。そうしなければアグリアの魔法の餌食になってしまうのだが、肉体的には常人と全く変わらない愛奈にとって、数倍の加重は酷い苦しみを伴ってしまう。

 が、流石にシャイリーも配慮していられる余裕は無い。平静を装っていても、実際には焦燥感にも苛まれているのだから。


「近づかなくちゃ始まらないって心配なら要らないよ。どの道、気功士の僕は近づかなくちゃ始まらないんだ。何とかする」

「あの、私を抱えたままでも行けますか?」

「…………」


 何となく愛奈の狙いが理解できたシャイリーは数瞬沈黙した。


 そして考えが固まると、静かに頷く。


「何とかする。けど、愛奈ちゃんにアグリアの障壁を突破できるの? 残念だけど、僕にも愛奈ちゃんを抱えたままでそれは無理だよ」

「分かってます。逆は無理ですもんね」

「うん。アグリアの側で愛奈ちゃんを下ろして、僕が障壁を突破して愛奈ちゃんが止めの一撃っていうのは無理。それを許してくれる程アグリアは甘くないね」

「ですので、私がアグリアの障壁を突破します」

「でも、愛奈ちゃんの最大威力の雷撃でも、たぶんそれは難しいよ」

「それも分かってます。この世界の魔法は『攻撃性を増す属性ほど扱いが難しくなる』んですから。雷系は主元素系の中では最も攻撃性に優れるけど、その分単純な威力は他の属性に劣ります」


 しかし、愛奈にはアグリアの障壁を突破できる自信があるらしい。彼女の瞳に映る揺ぎ無い意思を目にし、シャイリーはそれを理解し、楽しくなってきた。

 男子三日会わざれば刮目せよと言うが、それは女の子にも当てはまるんだな――などと、ふと思ってしまう。


「私の魔力キャパシティがどれだけか正確には分かりませんけど、私が一つの魔法に使用可能な『魔法出力』を仮に百とした場合、現在ダブルキャストで行使可能なのは百五十くらいだと思います。消費する分は三百くらいになっちゃいますけど、そのくらい、百回使ってもキャパシティが枯渇することはないでしょう」

「なるほど」

「キャスティングも合わせれば百八十くらいの威力はいけると思います」

「それで行こう」


 シャイリーは躊躇なく賛成の意を示す。


 ようやく氷柱も品切れになったようで、乱立していた氷柱がアイス・フィールドから綺麗に無くなり、視界がすっきりとして、アグリアまで真っ直ぐに見通せる。


 が、アグリアは新たな氷柱を生み出し、それを宙に浮かせたまま、シャイリーたちを襲わせようとはせず、待機させている。二人が何を企んだかは知らないが、近づけさせるつもりはないということだろう。アイス・フィールドに入った途端に、上と下から同時に氷柱が襲ってくるのは目に見えていた。


 愛奈は自分たちが串刺しにされている光景を幻視して顔を真っ青にし、シャイリーも心なしか緊張感に表情を硬くしている。


 あの氷柱の群を、アイス・フィールドという身動きが極端に制限される中、自分を抱えたままで本当に行けるのかと、愛奈は心配そうにシャイリーを見る。


「……愛奈ちゃん、僕に抱きついてくれる?」

「へ?」

「おんぶでもいいけど……」

「あ、ああ! 分かりましたっ」


 シャイリーの思惑を察した愛奈は、ちょっと恥ずかしかったようで、顔を赤らめながら、おずおずと彼の首に手を回して、ぎゅっと抱きついた。


 途端、彼はふらっとよろけてしまう。


「ど、どうかしましたかっ? もしかして傷が痛む」

「何でもない」


 感情を伺わせない顔と声だったが、それが尚更、我慢しているのではないかという感想を愛奈に抱かせる。


「何でもないから」

「は、はぁ……」


 再度の問い掛けの前に、シャイリーは硬い声でもう一度言った。とても質問できる雰囲気ではなくって、愛奈は自分を無理やり納得させることにしたが、疑問は尽きていない様子であった。


 まあ実際、何でもなくは全然なかった。


(これは……破壊力が凄まじいよ……)


 何がと言えば、アグリア曰くところの『デカチチ』である。密着状態で自分の胸に押し付けられているデカチチが、シャイリーの精神を酷く蝕む。しかも今の彼は上半身が裸なせいで、余計にしっかりと柔っこさが感じられるのだから。


 愛奈の方も多少は恥ずかしいらしいが、それよりも、シャイリーがそんな風に邪な考えを持つわけがない、という信頼の方が勝っているようで、あまり気にしているようには見えない。


(……今度、千鶴ちゃんから、そこら辺をもっと意識するように言ってもらお)


 とにかく、今は思考を切り替えようと、シャイリーは大きく深呼吸する。


 ふぅーと息を吐き出した彼の目には既に動揺は僅かすら浮かんでおらず、きりっとアグリアを真っ直ぐに見つめている。


「振り回すよ。しっかり掴まってててね。酔うかもしれないから、できれば目も閉じてしまった方がいい。僕を信じて魔法だけに集中して」

「はい」


 言われるままに目を閉じたのは、ぎゅっと抱きつかれているせいでシャイリーからは見えなかったが、気配で何となく感じ取った。そして、必ずその信頼には応えなくてはならないと、彼は戦意が更に高揚してくるのを感じる。


「――往くよ」


 宣言と共に、愛奈の肉体を凄まじい荷重が襲う。


 シャイリーは平原から全力で加速する。強く意思を持っていなければ、少しでも気を抜いてしまえば、愛奈は一瞬で意識を失ってしまいそうだった。

 昨日までの彼女には到底耐えられなかっただろう。ましてや、魔法の行使など絶対にできなかったに違いない。

 だが、今の彼女は違った。

 次々と襲い来る氷柱の群を肌身で感じながらも、決して集中を途切れさせはしない。


 シャイリーは愛奈の頑張りを感覚で感じ取りながら、自分も更に意識を集中させていく。


(ちっ、速いわね。フィールドの外に逃がしたのはミスだったわ)


 アグリアは自分の感覚では捉えきれないシャイリーの速度に舌打ちする。


 それに、愛奈の魔力がどんどん高まっているのを感じる。


(そういうこと、ね。させると思ってるの? 最終的に私を近接で攻めなくてはならない以上、対策は難しくないわよ)


 しかし、こちらの手が読まれてしまうのはシャイリーも最初から覚悟していた。


「愛奈ちゃん!」


 シャイリーの掛け声に従って、愛奈は目を開き、半身で前を向く。その右手には虚空陣を引き連れて。


「サンダーストーム・フルバースト!」


 荒れ狂う稲妻が愛奈の手から放たれる。


 今の愛奈が可能とする本当に全力の魔法。ダブルキャストで捻り出した魔力に、キャスティング雷系最上位の『サンダーストーム』を上乗せしたそれは、アグリアの障壁を一撃で消し去った。


 それが終われば邪魔になるだけの愛奈を、シャイリーは反転して空中に放り投げながら、更に反転して勢いのままにアグリアへ迫る。


「終わりだ!」


 攻撃を仕掛けようとするシャイリーであったが、アグリアは思惑通りとばかりに笑う。


 ぶわっと強風がシャイリーの身体を撫でるが、しっかり体勢が整っている状態なら吹き飛ばされることはない。


 が、その強風はシャイリーを吹き飛ばすための物ではなく、アグリアが宙に浮かび上がるための風であったのだ。


 愛奈とは比べ物にならない勢いで空中へ身を逃れたアグリアは、


「終わりよ。アイシクル・ケイジっ!」


 ばっと手を躍らせる。その命に従い、アイス・フィールドに存在した全ての氷柱がシャイリーをロックオンする。


「全方位からのアイス・ピラーによる攻撃。あんたに避けられるかしら?」


 シャイリーは何も答えず、静かに上空のアグリアを見つめている。


 絶体絶命にまで追い込めば、もしかしたら命乞いの一つくらいしてくるかなと期待していたアグリアは、溜飲を下げる機会を失ってつまらなそうに舌打ちしてから、


「行きなさい!」


 手が振り下ろされると同時に、四方八方からシャイリーの身を氷柱が襲う。


「シャイリーさんっ!!」


 愛奈の悲痛な叫びが上がる。


 しかしシャイリーは、自分の身体が氷柱によって貫かれる直前に、空へ跳び上がって回避する。


 ほっと息を吐く愛奈であったが、アグリアの表情を視界に留めて、顔を真っ青にする。


「そうくると思ったわよ!」


 笑っていた。


「それしかないものね! けど――」


 アグリアが掲げた右手には、新たな氷柱が……それも、今までの物よりも数倍の大きさの巨大な氷柱が生まれていた。


「空に跳んでしまった時点で、気功士に勝ち目は無いのよ!」

「サンダーストーム!」


 撃たせはしないと、愛奈はキャスティングをアグリアへ撃ち込むが、アグリアもまた、愛奈のそれを予期して、左手では虚空陣を構築していた。


「ブレイズストーム!」


 そして、アグリアの『ブレイズストーム』は愛奈の『サンダーストーム』を駆逐し、僅かながら愛奈へダメージをもたらす。


「きゃあぁ――ッ!」

「魔法の選択がなっちゃいないわね」


 集中を切らして地面へ落下していく愛奈へ、アグリアが楽しげに言った。


 が、彼女が意気揚々としていられたのはそこまでであった。


 さて、とっととシャイリーを始末してしまおうと視線を戻した時の出来事であった。


 シャイリーは微かに身を屈める。


 刹那――


ドンッ


 大気が悲鳴を上げた。


「なっ!?」


 アグリアが驚愕に目を見開いたその時には、既にシャイリーの手が彼女の身体に触れていた。空を飛び、氷の魔法を駆使し、愛奈迎撃用のキャスティングまで扱っていた彼女には、己の身を守るべき障壁を張ることもできなかった。


「気功士は水を渡り、空を“跳んで”、初めて一人前を名乗れる。ハイエンド級の気功士を相手に空を飛ぶのは、魔道士にとっても賢い選択とはあまり言えない。知らなかったの?」

「かはっ……」


 己の胸を貫く衝撃に吐血するアグリアに、シャイリーは冷徹に告げる。


 全身から力が抜け、魔法の維持ができなくなったアグリアと共に、地面に落下しながら、シャイリーは薄く笑う。


「気功士と戦い慣れていると言っても、格下相手に嬲ることしかしてこなかったと見えるね」

「悪……かったわ……ね……」


 その言葉を最期に、アグリアの肉体は地面へ強烈に叩き付けられ、肺の中身を全て吐き出しながら、意識を失った。


 その横で華麗に着地したシャイリーは、傍に駆け寄ってきた愛奈へ、複雑な顔で微かに笑む。


「大丈夫だった?」

「はい。地面に落ちる寸前に風で防御しましたから。それより……」


 ぴくりとも動かないアグリアを心配そうに見る。


「死んじゃったんですか……?」


 ついさっきまでこちらを殺そうとしていた相手の生死を心配できる優しさが、今のシャイリーにはとても心地好かった。


「ごめん。このレベルの能力者を殺さずに無力化することは、僕にはできない。一時的に気絶させるのは簡単だけど、気功士も魔道士も、能力を封じる通常手段が無いから、能力者の無効化って言うのは、対象の能力を完封できる圧倒的な実力以外には無い」

「そう……ですか……」


 傍観者でいられた今までとは違い、本当の意味で殺人の共犯者になっちゃったんだなと改めて実感し、微かに涙を滲ませる愛奈に、シャイリーは彼女を抱き締めながら、ごめんねと何度も囁き続ける。


 だが愛奈は、いつまでもメソメソしていることはなく、毅然とした顔で首を横に振った。


「シャイリーさんのせいじゃありません」

「違う。僕が」

「違います。それでも敢えて言うなら……私たちが弱かったのがいけないんです」

「……うん。その通りだ」


 本心では、今回の一件の全ての責任は自分にあると、愛奈は思っている。でもきっと、それはシャイリーにとってもそうなのだろうと、彼女は思ってもいた。

 でも、もし……アグリアを圧倒できる程に自分が――自分たちが強ければ、殺さずに無力化することだってできたはずなのだ。


 殺さないために強くなる。リドウが主張し、シャイリーも目指す境地。無力なままで被害者面だけしていて、相手の暴力をなじるだけで終わるのではなく、抗いながらも、自分は決して同じ暴力だけで終わらせたりしないという矜持。

 今、高坂愛奈は、それがどれだけ尊い誓いなのか、やっと本当の意味で理解できた気がする。


 『殺せない』のは弱さだ。躊躇なく殺しに来る相手、それも己を上回る相手であるならば、殺せなければ殺されてしまう。そこで殺せないからと自分が、あまつさえ大切な人を殺されてしまうのは紛れもない弱さだろう。

 だが『殺せる』のが強さの境地ではない。そんなのは『闇に染まる自分から逃げない俺カッケー』という、思考を放棄した末の、結局は逃げでしかないのだ。


 ――殺す必要すら存在しない強さこそが究極。


 戦いから逃げるのではなく、もう二度と殺さずに済むよう、今よりも更なる高みを――。


「私も逃げません。私も強くなります。だからシャイリーさん……」

「え?」

「もう二度と、あんな風に殺したりしないで下さい」


 愛奈の決然とした眼差しを受け、シャイリーは愕然と目を見開く。


「あんな風に笑いながら人を殺すなんて、全然シャイリーさんらしくありません。あんなシャイリーさんは……嫌なんです」


 それから数瞬の間、見つめあった二人であったが、やがてシャイリーは困ったような、自嘲気味の笑みを浮かべる。


「まさか、いつか自分で言ったことを言われることになるとはね」

「はい。苛烈になりすぎですよ」


 しかし、連中を生かしておくわけにはいかなかった。その理由も説明したが、それでも愛奈は納得しなかった。


「どんな卑劣な手を使っても殺されたりはしない甘ちゃんだからやっちまえー……って舐められるわけにはいかないのは分かります。でも、やり方はあるはずです。あんな残酷にする必要はありません。そんな万一を考えなくてもいいくらい、一緒に強くなりましょう」

「うん」

「だから、二度としないで下さいね」

「ごめん。気をつけるよ」

「気をつけるんじゃダメです。約束して下さい」


 めっと子供を叱るように言ってくる愛奈に、シャイリーは苦笑が禁じ得ない。


「何だか初めて愛奈ちゃんが年上に見えるよ」

「何ですかそれ!? シャイリーさんって一個下なだけじゃなくって、童顔だから、普通に見た目でも私の方がお姉さんですよ!?」


 ぷんすかと怒る愛奈に、シャイリーはくすくすと小さく声に出して笑ってしまう。


「もうっ」


 と頬を膨らませる愛奈であったが、釣られていつの間にか自分も笑っていた。


「ご歓談中のところを申し訳ありませんが」

「ふぇっ!?」


 愛奈がびっくり仰天して声の主の方を振り向く。


「あ、えっと、クリスさんですよね……?」


 インテリヤクザ風味漂う鋭い容貌に、愛奈はちょっと引き気味だった。


「はい。正式なご挨拶はまだでしたね」


 クリスはよろしくと頭を軽く下げると、シャイリーの方を向く。


「フランクの処遇に関してですが」


 未だに気を失ったままのフランクをどさりと放り投げる。


「そっちに任せるよ」

「よろしいので?」

「うん。ただ、ここで一つ確認しておきたいことがあるから、それだけは吐いてもらうよ」

「あ、あの……」


 愛奈が控え目な口調で二人の間に割って入る。


「その人も……殺さなくちゃいけないんですか……?」

「お優しいお嬢さん。あなたの心根は賞賛に値します。これは嫌味ではなく」


 その言い方から、フランクの処刑が覆ることは無いと知った愛奈は表情を沈ませる。いつまでも人の死を望んだりしないその姿勢は、シャイリーだけではなく、クリスにとっても眩く映っていた。


「ですが、この国は明文化された法ではなく、我々の世界で暗黙に記される掟によって動いております。それがこの国の法なのです。その法に照らし合わせた場合、フランクは断じて犯してはならない領分に踏み込んでしまいました。これを放置しては国の秩序維持に支障を来たします。罪には罰を以って報いねばなりません」

「愛奈ちゃん。マフィアのやることだから悪事、なんて論理は存在しないんだよ。聖職者の行いは何であっても神聖なの? 王の行いは何であっても正当なの? そんなことはないでしょ? 正しいことは正しい、悪いことは悪い、それが真理だ」


 二人から言い含められた愛奈は、しばらくの間は迷いを見せていた。しかし、一度強く目を瞑ると、その目を開いた時には、その瞳に迷いはもう見当たらなかった。


「そうですね」

「ご理解頂けて幸いです。が、これから少々、あなたには酷な場面をお見せすることになるかもしれません。できれば森の木に隠れて、耳を塞いでいて頂ければと思うのですが」

「いえ、私も一緒に居ます」


 愛奈の答えを受けたクリスは、「よろしいのですか?」という目でシャイリーを見ると、彼は一瞬躊躇ってから、しかし最後は頷いた。


「では――」


 フランクの側にしゃがみ込んだクリスは、ぱんっと音を立ててフランクの頬を叩く。


「たぁっ」


 痛みに悲鳴を上げながら目を覚ましたフランクは、自分を取り囲む三人を見て顔を焦燥に染め、慌ててアグリアたちの姿を探し、その死体を見つけ、今度は顔を引き攣らせる。


 ただでさえ醜悪な顔をより醜く引き攣らせながら、哀れを誘う目でクリスを見上げる。


「な、なあ、クリスよ……俺たちゃ兄弟分だよな? な?」


 クリスは縋り付こうとしてくるフランクがまるで汚物であるかのように避けながら、シャイリーへ場所を譲る。


「なっ、てめぇ男だったのか!?」


 シャイリーの姿を見咎めて驚愕するフランクであったが、シャイリーは質問に答えることはなく、冷徹な眼差しで見下ろす。


「お前の処遇はクリスさんに任せている。だけど、これから僕がする質問にお前が答えなかった場合、お前はここで僕から無用に苦痛を味わう。今更口にするまでもないだろうけど、これはハッタリじゃない。人体の論理を極める流化闘法には効率良く相手に苦痛だけを与える手法も存在する。心して答えろ」


 ごくりと喉を鳴らすフランクは、気絶する前に見た、シャイリーが騎士たちへ行った所業を思い出し、反射的に首を何度も縦に振った。


「僕が聞きたいのは一つだけ。勇者は確かに強大な力を持つけど、本物のハイエンドには及ばない。これは一種の常識だ。お前のように安全な場所から弱者を嬲ることしか考えてないクズが、アグリア風情の助力を得た程度で月紅に喧嘩を売ろうと考えるとは思えない。他に『何』が動いているんだ?」

「ラヴァリエーレだ!」


 間髪入れずに返ってきた答えに、シャイリーは訝しげな顔で首を傾げてしまう。


 が、その横で動揺する気配に、シャイリーはちらっと目をやると、常に冷然としたクリスが、冷や汗まじりにごくりと喉を鳴らしていた。


「知ってるの?」

「ナイツ・オブ・ザ・ラウンドです。その第一席」


 シャイリーも息を呑んだ。その名称は彼にも聞き覚えがあったらしい。


「円卓の騎士、ですか?」

「端的に言えば、ロンダイク聖教圏最強の勇者です。アグリアも勇者としては上位に分類されるでしょうが、間違っても一緒にはできません。実力的には完全にハイエンド、おそらくは魔王級の戦闘能力の持ち主です」


 クリスの言葉に、愛奈も息を呑んで絶句してしまう。


「リドウさんでも流石に危ないかもしれないね……」


 イーサンの街の方を向きながら、シャイリーは小さくそう零した。

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