第四十七話 愛奈とシャイリー 2
そこは薄暗い部屋だった。そのせいで、あちこちに僅かな光を反射して輝く金ぴかな代物が嫌味ったらしく目立つ。
成金趣味なその部屋の中央で、豪奢な造りの真っ赤なソファにふんぞり返り、両腕に美女を侍らせる男が居る。厭らしいニヤケ面が酷く癇に障る男で、立っていればそれほど気にならないだろうが、座っているとでっぷりした腹がたわんでいる。
女ならば鳥肌ものの卑猥な目つきであったが、その男――フランク一家の親分であるフランクの見つめる先、まるで嘗め回すように見られている女自身は平然としたものだった。
この女性もまた、中々の美貌の主であった。
ただし、もしリドウにこの女性に関する感想を訊ねたとしても「素晴らしい美人だ」と返ってくるかはかなり怪しい。彼がそう思うのは『優れた美貌に深い教養が醸し出す色気が隠し切れない女性』であり、見た目だけで言ってしまって申し訳ないが、その点この女性に深い教養はあまり感じられない。
見た目に魔法使いといった印象を受ける格好の女で、彼女の周囲には騎士風の軽装をした男たちが三名、黙って従っている。この男たちがまた、モデルや俳優かと疑う美形の優男ばかりだった。
「ご協力感謝するわ」
礼を言っている割には、あまり誠意が感じられない声音だった。おそらくは彼女も、フランクのことを好きで付き合っているわけではないのだろう。
「約束は分かってんだろうな」
「分かってるわよ。あんたがこの国の頂点に立つのを手伝えってんでしょ? こっちとしても、ログサイスがうちの紐付きになってくれるのは儲け物だし、特に破る必要性も感じないしさー」
「てめぇ……俺を傀儡にするつもりなのか?」
「はあ?」
険しい顔でドスを利かせるフランクであったが、女は少しも動じたりせず、逆に自分まで顔を険しく歪めて聞き返している。
「あんたさー、何か勘違いしてんじゃないの?」
「あんだと!?」
「助かったのは助かったけどさ、この程度の貸しで国一つ丸ごと貰えると思ってんなら、あんた自分の立場を大物に見過ぎ」
「てめーっ」
「きゃっ」
激昂して立ち上がるフランクに、侍っていた女たちは驚いて悲鳴を上げる。
しかし、フランクが完全に立ち上がることはなかった。彼は己の喉元できらりと煌く白刃に背筋を寒くする。寒いと感じたのはそれだけが原因ではない。その白刃、よく観察してみれば氷で出来ている。
「あたしさー、水系って苦手なのよね。間違って滑っちゃっても仕方ないと思わない?」
その質問が向けられる先は、彼女に付き従っている男たちであった。
「はい」
「仕方ありませんよ、アグリア様」
「でしょー?」
にやっと笑う様は酷薄で、向けられたフランクは生きた心地がしないようだ。
「わ、分かった。贅沢を言うつもりはねぇ……。俺は、年寄りのくせにいつまでもハバ利かせてるガルフを始末できるなら文句は言わねぇ。手始めに今回の一件で、俺を見下すクリスの糞野郎を始末してくれりゃ、あんたらのことも信用する」
「最初っから素直にそう言っておけばいいのよ。ホント、プライドだけが高くて中身が伴わない馬鹿な男ってイヤーねー」
特別に何かの動作をすることもなく氷の刃を引っ込める。まさか「イヤーねー」と首を横に振っているのが特別な儀式動作というわけではあるまい。
嘲笑われているフランクは今にもぶち切れそうに真っ赤な顔だが、所詮は安全な所から弱者を嬲ることしか能の無い典型的暴力者でしかない彼には、彼我の圧倒的戦力差を実感してまで食って掛かれる度胸など無いようだ。
しかしそんな“単純な事実”、フランクは最初から理解しているはずだった。この女を相手に自分たち一家が総勢で襲い掛かったところで歯牙にも掛けてはもらえないのだと。だからこそ変に刺激したりしないよう、部下たちを伴ってはいないのだから。それでも激昂を露にしてしまったのは、彼がそれだけ直情的で思慮に浅い小物だというだけの話だった。
「じゃ、あたしは魔法使いのお嬢ちゃんの方を確保しに行くから、気功士の方くらいあんたの方でお願いするわよ。なんか知らないけどあんたご執心みたいだし。流石に勇者候補の魔法使いより強いってことはないでしょ」
「任せろよ」
下卑た、下品な、そして下劣なと、頭に『下』と付く修飾語がおよそ全て似合いそうな、最悪な笑いだった。リドウの前でこれを見せれば、それだけで死刑が確定しても可笑しくはないだろう。もはや憶測のレベルを通り越している。このフランクという男は疑いようがなく――断じて許し難い外道――だ。
「……ま、いいわ。精々上手くやりなさいよ」
嫌悪感で顔を歪めるアグリアであったが、シャイリーの行く末には全く関心が無いらしく、さっさと外へ出て行ってしまう。
従者の男の一人が部屋の扉を閉めると、アグリアは途端にかーっと大きく息を吐き出した。
「あーもうっ。何でこのあたしがあんな不男と同じ空気吸わなきゃならないわけ!? もー死にそう!」
「仕方ありませんよ。リリス教圏であの男に手を出すのは得策じゃありません。しかも今は、こちらには好都合なことにバラけてくれていますし、この好機を逃すわけにはいきませんから」
「言われなくたって分かってるわよ」
ぶぅっと可愛らしく頬を膨らませるが、麻木恵子がたまに見せる不貞腐れた顔よりも、何だか異様に演技じみている。
「ったく。何なのあの月紅ってやつ。勇者でもないくせに、あの若さでリントブルムなんてマジでヤバイ魔物を単独で仕留める戦闘能力だけでも厄介なのに、リリス教じゃ完全に英雄扱いじゃない。あの男が寄付した総額って知ってる? 軽く人生十回くらいやり直せるらしーわよ。お前は聖人君子かっての」
けっと吐き捨てる。
もしこれをリドウが聞いていたら、きっと鼻で笑ったことだろう――俺に不要なもんをくれてやって何が悪い、と。
「一説じゃ百回はやり直せると言われているらしいですがね。あまりにも莫大過ぎて正確な数字は既に把握できるレベルじゃないって話ですし」
「それは流石に大げさでしょ。それに細かい話はどーでもいいのよ。肝心なのは、あっち側にあたしたち側が手を出したって証拠を与えられる状況じゃ、間違っても手を出せないってことだけよ。それだけで大戦の弓弦を引きかねないわ。それは流石にあたしもごめんよ」
ホント、メンドくさいったらありゃしない、と嘯くアグリアであった。
「しかも今は間の悪いことにアイルゼン大陸には【聖帝】が居るしさー。上手く事が運んでも、こっちに脱出するまでにあの化け物女に補足されたらお終いって、流石にリスク高すぎよ。ったく、ユーキくんもとんだ大仕事を残してくれたもんだわ。おかげであんな不男にあたしが頭下げる羽目になっちゃったじゃん。失踪するならするで、行き先くらい教えてけっての」
あれを『頭を下げた』って言えるのかなー、とか男たちは胡乱に思ったりしていたが、口には出さなかった。
しかし、一人だけ迂闊なボーヤが居たらしい。
「それでは失踪とは言わないのでは?」
「うっさいわね。細かいこと一々気にする男なんてあたし嫌い」
軽い口調とは裏腹に冷え切った眼差しに、男の顔は一瞬にして血の気が引く。
「も、申し訳ございません! 出すぎた発言でした」
アグリアはふんっと鼻を鳴らしてから歩みを再開する。
「でもこの状況なら、あっちもあたしたちを黒と言い切れる証拠は与えなくて済む。だからこの機会に確実に仕留めるんでしょ? けど、こんな回りくどい手段を取らなきゃならないよーな相手と事を構えなきゃなんないなんて、ホントにとんだ大仕事よ」
「ラヴァリエーレ様は、アグリア様が正面から戦って勝てる相手ではないと仰ってますし……あの方の人物評は外れないですからね」
「もちろん、僕らはアグリア様なら勝てると信じていますが」
「しかし、アグリア様の美貌が万一にも汚されるようなことを考えれば、万全を期すに越したことはありません」
「あんたたちはいい子ねー」
アグリアは従者の言葉に一瞬気を良くして笑うが、すぐにちっと大きな舌打ちを鳴らし、顔を険悪に染め上げる。
「あんの野郎、なーにが『姑息な手段で敵を嬲るのは貴様の専売特許だろう?』よっ。いつかあのすかしたツラに一発ぶち込んでやるんだから……ッ。そもそもあんたが出れば話は早いでしょってのに、十年かぶりにお役目で外に出られるからって、仕事は全部あたしに押し付けて、本人は外遊気分って何よ? モノグサにも程があるでしょ。いくら強いからって、何であんなのがうちの第一席なわけ? まるでリリス教圏のハイエンドそのまんまじゃない。あたしの方がよっぽど相応しいでしょーに、本国の連中もぜんっぜん分かってないわ!」
従者の男たちは「まあまあ」と、気炎を吐くアグリアを落ち着かせる。
アグリアは、先日リドウが遭遇した勇者ユーキと所属国を同じくする勇者であった。
彼女たちの目的は、彼女たちが既に自ら語ってくれたが、行方を眩ませたユーキの捜索だった。莫大な資金を投入して召喚した勇者だ。新たに一名召喚する前に連れ戻したいと考えるのは極々自然な流れだろう。
いっそ死んでくれていれば諦めもつこうが、どうやら生きているらしいのはほぼ間違いなかった。おそらくはヴィレッタが上手く足跡を消し去ることに成功したのだろう。どうせなら死んだことにしてしまえれば尚良かったのだろうが、何かそれをできない理由があったのか、それとも単純にしくじっただけかは今のところ判らない。
最初はユーキたちが消息を絶ったブランカ帝国で密かに捜査が行われたが、結局かんばしい成果は挙げられず、一番知っていそうな可能性の高いのはリドウではないかという話になった。が、相手は“少なく見積もって”ハイエンド。
オルライン帝国の面目を保つために、リントブルム討伐にユーキが関わっていたことは何とか伏せることができた。ブランカ帝国としても特に渋る必要性を感じなかったために、月紅がほぼ単独で倒したと強調して報道しているわけだが、事実それが紛れも無い真実である。
典型的なロンダイク聖教国であるオルライン帝国の上層部は、ハイエンドなどという“邪悪”な存在相手にまともに交渉する気は無い。ブランカ帝国も彼らにとっては目の敵だが、まだ国相手と納得できようも、“自分たちの味方をしない在野の無法者”などに遠慮する必要は無い。
ただでさえ面目を潰されたに等しい相手。直接の利益に関わるユーキの消息の手掛かりの方が重要度は高いが、放置しておくのはプライドに障る。
しかもどうやら、一緒に居る少女たちは『例の勇者候補』っぽい。これは他のロンダイク聖教国に知られる前に手に入れたい。そうでなくとも尋常ではない美貌の持ち主たちばかりだ。自分たちの玩具にするも、次の勇者に与える飴玉にするも、“使い道”は幾らでもある。ついでに手に入れてしまえ!
既にリリス教に染まっているだろうとは予想されるが、要のリドウさえ始末してしまえばどうとでもなるだろう。
がしかし、この月紅のリドウという男、実力云々以前に手を出し辛い立場を既に手にしていた。
リドウ自身には全く自覚が無かったが、既に彼はリリス教圏にて近年最大の英雄と化していた。
元来、リリス教圏ではノブレス・オブリージュが行き届いているため、飢えて死ぬような孤児はよほどの大飢饉でもない限りは存在しないが、ユクリナス大陸とアイルゼン大陸では、リドウのおかげで向こう数年は資金不足が原因で命を落とす孤児は現れないだろうと言われている。
何と言ってもリントブルム討伐分が莫大過ぎた。超高額の報酬を『ハイクラス十数人』に保障する予定だったのを、リドウ一人で持って行ったのだ。一部を貿易都市ボレイスの崩壊した宿屋街の復興費用に当てられたが、それでも中堅貴族の一財産に相当する額がリドウの名で寄付された。
寄付された当の教会だけで全額を着服してしまうような聖職者などリリス教では即刻破門だ。リリス教会ボレイス支部はあまりに莫大な額を持て余し、一度アイルゼン大陸中央教会に全額を上納し、そこから資金不足を抱えている支部へ優先的に分配されている。それを受け取った支部の神父さんや尼さんたちは自然とリドウの名を知り、魔神への祈りと共に彼の名を捧げた。
……この事実をリドウ本人が知れば、脱力して地面に両手をつき「勘弁してくれ!」と心の底から吐き出してもおかしくはないが。
まあともかく、月紅の二つ名があっと言う間に広がった背景にはこういう理由もあったのだ。規模は今回よりも小さかったが、同様の事例は既に一年前のノイケン盗賊団討伐から始まっていたのだから。
――そしてリリス教の真に“凄まじい部分”は、大恩有れば僅か個人のために教会全体が本気で敵に回るのだ。過去にはそれが切っ掛けで始まった大戦も本当にある。
魔神の薫陶を真摯に体現しているのがリリス教なのだ。そしてリドウはその聖母に育てられた男。両者の精神を形作る根底が似通っているのはある意味当然なのかもしれない。
しかも現在は【聖帝】がアイルゼン大陸に来訪している。
聖帝とは個人の二つ名であるが、ただの異名ではない。歴代のリリス教会神殿騎士筆頭が受け継いできた伝統ある名であり、特に当代の聖帝を襲名している“女性”は歴代でも一、二を争う凄腕であり、正真正銘のハイエンドであると呼び声高い。
聖帝は総本山である教皇庁から基本的には動かないはずだが、今アイルゼン大陸に訪れているのは、何を隠そうリントブルムだ。自力じゃどうにもならなそうなブランカ帝国が依頼していたのだが、彼女がアイルゼン大陸に到着する直前にリドウが倒してしまい、せっかく来たので余りまくった時間を旅行気分で過ごしているらしい。とは言っても、比較的貧しい地域への慰問などが主らしいが。
半ば脅迫じみた方法でリドウに始末させる必要は無かった、なんてことはない。リントブルムの存在による経済的、そして民の精神的な打撃が深刻だったのだから。現実的にそれによって生み出される損失は、十日もあればリドウへ支払われた報酬に匹敵する試算であった。元々が港を擁する商業大国であり、商人の往来減少によるダメージが他国と比べて遥かに高く、巨峰ホールディックで活動する冒険者が生み出す周辺都市の利益も馬鹿にならなかった。
ちなみにこの当代聖帝、敢えてもう一度明記しておくが『女性』である。しかもすこぶるつきの美女と評判だ。何だかとってもフラグな予感がするが、深く気にしてはいけない。
――かように、まさか自分の預かり知らぬ所でそんなことになっているとは、本人には露とも知れておらずとも、リドウの持つ権威は既にハイエンドという事実を除いても、リリス教圏内では一国の王族クラスの重みを持つ。あまりにも重過ぎて、勧誘しようにも各国が牽制し合ってしまうというくらいに。本人にとっては、知れば「不幸中の幸い……なのか?」とでも首を捻りそうな話だが。
……暢気に旅をしていたベアトリクスやファーゼもそこまでは知らなかったようだ。一般庶民より、むしろリリス教の上層部でリドウの名は売れまくっているのである。
そんな相手を『卑劣な姦計』で殺害しようものならば、冗談抜きで確実にリリス教会が敵に回る。たとえ勇者が『尋常な一騎打ち』で倒したとしても、ロンダイク聖教の戦力ではきっと信用されないだろう。
だからと言って苦汁を呑んで耐えるなど我慢ならない。それが『己の権力を絶対と思い込んでいる人間』の“習性”というものだ。真実絶対ならば問答無用で処刑台へ送り込めるだろうに、そこら辺の矛盾は彼らの中では存在すらしないのだろう。
リドウ一味がログサイス共和国にやって来たのは、またとない千載一遇の好機であった。この機会を逃せば、最悪諦めるしかないだろう――鬱憤を晴らすだけでなく、勇者候補かもしれない絶世の美女たちまで。
「本国もホント、どんだけ面倒な仕事を押し付けてくれるわけよ? 女は全員生け捕りって、そりゃあたしには遠く及ばなくっても、仮にも勇者候補でしょ? しかも【銀鈴】のベアトリクスまでいつの間にか加わってるし」
「ベアトリクス王女も『女』の勘定内なのでしょうか?」
「冗談!」
止めてよね、と叱責されてしまった男が身をすくめる。
「あんな目立つ女を本国まで目撃されないように連れてけなんて、流石に無理だって本国の連中も分かってるわよ。予定通り月紅と一緒に、烈震に全部おっ被ってもらうわ」
「本当に都合の好い場所に来てくれたものですね。犯人が烈震ならあちら側もこちら側に妙な文句はつけられないでしょうし」
「ここって一応こっち側だけど、実態は曖昧だし、烈震は元々あっち側の人間で、今だって完全に切れてるわけじゃないからねー。ホントありがたい存在だわ。何だかこっちに都合が好すぎて、どっかに落とし穴でもあるんじゃないかと疑いたくなるくらいに好都合だわ。神様も粋な計らいしてくれるわよねー……」
「まったく」
「と最初は思ったんだけどさー」
男は仕える主の言葉に同意しようとしたが、本人はつまらなそうに部下の言葉を遮った。
「ベアトリクスなんて超絶面倒な女が加わってるし、あんまそー思えなくなってきたわ。それに相手は女ばっかだしさ。月紅はかなりハンサムらしーけど、どーも噂を聞く限りじゃあたしの好みじゃないっぽいし。これで虐め甲斐のある可愛い男の子でも居れば、ちょっとはやる気が出るんだけどなー」
その場面を想像し、サディズムをふんだんに盛り込んだ笑みでぺろりと唇を舐める。この女、どうやらそういう嗜好をしているらしい。
そう考えてみると、周囲の従者たちも、今は『男の子』という年齢ではないだろうが、以前は『可愛い男の子』であったと想像に難くない容姿の持ち主たちばかりだ。彼らも例によって『勇者への捧げ物』であるのだろう。
「ま、これだけの大仕事なんだから、報酬はたんまり約束されてるわけだし、こんなつまらないお仕事はさっさと終わらせて、貰った報酬で可愛い男の子の奴隷をたっくさん買って……にへへへへ」
だらしなく顔を緩める。周囲のお付たちはどうコメントしたらいいものか困り顔だった。
勇者アグリア、清々しいまでに己の欲望に忠実な女であるようだ。
所変わって、月の白兎亭に到着したシャイリーである。
道中、特に妙な輩に絡まれることもなく順調に辿り着いてしまった。しまった、などと残念っぽく言うべきではないだろうが、三日も閉じ篭っていたせいで鈍りぎみの体をほぐすためにも、弱くてもいいから誰か喧嘩でも吹っかけてきてくれないかなー、とか実は密かに期待していたので、本音はちょっとがっかりだった。この点がリドウよりも若干過激な思想をしている美少女風美少年である。
既にリドウはこの街から出ているが、月紅のお手付きの少女として唯一人顔が知れ渡ってしまっているシャイリーなのであった。真実はお手付きどころか少女ですらないのだが……まあ客観的にそう見られてしまうのは致し方なし。
シャイリーは月の白兎亭へ初めて来たが、外観からして落ち着いた雰囲気の酒場だった。周囲が派手派手しい色合いの酒場やら娼館やらで溢れているため、むしろ逆に目立っている。
まだ営業中ではないらしく、クローズの札が掛かっているが、呼ばれたのだから問題無いだろうと、気軽にドアを開けた。
「ごめんくださーい」
中に入ると、外観を裏切らないシックな造りの店内で、バーカウンターの向こう側で開店準備をしている人物が一人だけ。
胸元が大胆に開いた真紅のナイトドレスを纏った女性で、年齢は三十路前後だろう。中々の美人さんだ。
シャイリーに気付いた彼女は目を丸くする。
「あらあら。可愛らしいお嬢さんね。この街にはあまり似合わないけれど……」
艶っぽい仕草で首を傾げたが、「ああ」と何かに気づいたらしい。
「月紅のお連れさんね。クリスさんに何かご用かしら?」
「そのクリスさんに呼ばれたはずなんだけど、まだ来てないみたいだね」
という台詞に、再び首を傾げるミストレスであった。
「あの人からはそんな話は聞いてないわよ。あの人がそんな簡単な手落ちをするとは思えないけれど」
瞬間、シャイリーは目を見開く。そして険しい顔で大きな舌打ちを鳴らし、
「ごめん。また来る」
一方的にそう言い置いて、勢い良くドアを開けて外へ飛び出した。
「――!?」
が、飛び出した先ですぐに足を止めてしまう。
総勢で三十名にはなろうか。
道を埋め尽くすほどのゴロツキたちが既に場を占拠していた。巻き込まれるのを嫌った無関係の人々の姿もとっくに消えており、いっそ静かなくらいだ。
昼日向から娼婦やゴロツキたちが大勢練り歩いている町並みのせいで、気配の変化が特に感じられなかった。普段なら大喜びでぶちのめすところだが、今は文字通り一分一秒を争う。裏口から出させてもらうべきだったかと一瞬悔やむが、どうせそちらも塞がれているのだろうと考えを改め、同時に諦める。
「一度だけ言うよ。退いて。何を企んでるのか知らないけど、今はお前たちの相手をしてる場合じゃないんだ」
「気功士って話だが、これだけの人数に囲まれてんのに威勢のいい小娘だぜ」
得意げな顔で前に出てきた男を見てシャイリーは殺気立つ。
「フランク……やっぱりお前が関わってるのか」
この街で大きなことをしようとすれば、フランクに関わりなくとはいかないだろうと予想していたが、まさかいきなりご本人の登場とは意外だった。てっきり安全な所から嬲るくらいしか能の無い男だと思っていたのだが……それとも、侮られているだけなのか? こっちの方が可能性は高そうだ。取り巻きの部下たちも底が浅そうな馬鹿面ばっかりだし。
ちらっと周囲に視線を走らせ、
(上に跳ぼうにも位置が悪いね……)
高位気功士お得意の屋根走りで行こうと思ったが、一発で行くには囲まれ方が絶妙だった。まさかそれを狙うほどの頭があるとも思えないので、ただの偶然だろうが、運が悪いなと心中で強烈に舌打ちを鳴らす。悔しがる表情を見せれば相手を喜ばせるだけだと思い、努めて表には出さなかったが。
やっぱり何人かぶちのめして無理やり突破した方が早いかと決心を固めた頃。
「いいことを教えてやるよ――」
笑い方がつくづく下品で、美しいモノを愛するシャイリーには到底見ていられない。
「お前ら、もうお終いだぜ」
「は? 豚の戯言に付き合ってられる場合じゃないんだ」
かあっと激昂するフランクを無視して、シャイリーは宿屋の方へと駆け出した。
「てめぇらっ、捕まえろ!」
親分の命令に野太い声が唱和する。
「俺様を馬鹿にした罪は重いぜ。ぶっ壊れても容赦しねぇ! 死ぬまで犯してやる!」
上の空で聞きながら、人間どうしたらそこまで品性を失って醜くなれるのか疑問にすら感じるシャイリーであったが、今は汚物処理をしている場合でもない。
「ぎゃあっ!」
「な、何だこいつ!?」
シャイリーに群がった男たちが片っ端から血反吐を撒き散らして次々と地面に沈んでいく。目にも留まらぬ速さだった。
「なっ!?」
てっきり闘気が使えるだけの小娘くらいに思っていたフランクが目を見張る。
「あの糞女、話がちげーぞ!」
糞女――こんな時なので拾えるだけの情報は集めておこうと注意していたシャイリーの耳は聞き逃さなかったが、それが誰を指しているのかまでは分からなかった。
一分も掛からない内に囲いを抜け出したシャイリーであったが、それは『一分も掛かってしまった』に等しい気持ちであった。
道程を短縮するために、今度こそ屋根に跳び上がる。そうなるとフランク一家に為す術はなくなるが、唸るフランク本人はともかく、部下のチンピラたちは助かったと吐息をつくのを止められなかった。このままシャイリーを攻め続けた挙句に良くて再起不能にされるか、それとも親分の命令を破って逃げた後で、運悪く見つかって嬲り殺しにされるか、どちらがお得か本気で天秤が揺らぎ始めていたのだから。
シャイリーは建物を次々と移る。内心は必死の思いで急ぎひた走っている割には、表面上は裏腹に冷静な表情であったが、しかし口元だけはぎりっと歯軋りをする。
(フランク……愛奈ちゃんの身に何かあってみろ。どこに逃げ隠れしようが必ず見つけ出して、生まれてきたことを後悔させてやる。必ず――必ずだっ)
意識せずとも全身から闘気が溢れ出す。それに気付いて、蹴り足で建物に被害が出ないように意識するが、上手くいかない。今も一歩前の足場が小さく抉れてしまった。
その事実を認識して余計に苛立つ――何で自分がこんなに下手なのか。リドウならきっと足音すら立てずに走ってみせるだろう。それ以前に、“あの時”の一瞬の不信感をもっと深く考えたはずだ。いや、流石にこれはあの男を買い被り過ぎかと思うも、やっぱりあの男ならありえると思う気持ちの方が大きい。
(くそっ……)
何んでもいいから八つ当たりしたい気分だ。今の激情に忠実に従い溢れ出る己の闘気を残らずそこら辺の建物にでもぶつけてやりたい。今なら民家くらいは一撃で潰せる自信がある。本当に八つ当たりでしかないと理解していてもやりたくなる。が、流石に実行したりはしないだけの分別は辛うじてまだあった。
(頼むから無事で居てよ、愛奈ちゃん)
しかし、愛奈に殺しはできないだろう。殺す必要も無く勝てる程度の相手ならいいが、先ほどの自分と同規模の敵に囲まれては、今の彼女ではまだ難しいだろう。今の彼女が持つ限界の力を振り絞った大魔法でもって、先制の一撃で敵を全滅させてしまうならまだ可能であろうが、それは少なからぬ死人を出すことになる――確実に。彼女はそれをちゃんと理解している。そして高坂愛奈は、その冷徹な選択が刹那の時を争う実戦の場で躊躇無くできてしまう娘ではない。
(急がなきゃっ)
憤怒のあまりコントロールが“僅かに”甘くなってしまってはいるが、焦りで腕を鈍らすほど、シャイリーは柔な鍛え方はしていない。今を以って限界の速度で走っているのだ。気持ちがいくら逸ろうと、今の彼にはそれが限界だった。その事実が彼を殊更に苛立たせる。
やがて辿り着いた先で彼が目にした光景は――
――自分たちが宿泊していた部屋を中心にして半壊した宿屋であった。




