第三十話 被害者
パァンッと乾いた音がユーキの頬で鳴り響く。
自分が叩かれたのだと理解すらできていない風情で、呆然と叩かれた頬を押さえながら彼が見る先では、ヴィレッタが目に一杯の涙を浮かべて眼を吊り上げていた。
「な、何を」
「ユーキ」
震える声を前にして、ユーキは何も言えずに押し黙ってしまう。
庇いに出ようとしたラクセスすら、キッとした鋭い眼差しに射竦められてしまった。
「どうして……あんなことを……」
怒声を張り上げるのではなく、俯きながら哀しさを表現するヴィレッタ。
古今東西、女の涙は男に対する最終兵器と相場が決まっている。がーっとがなり立てられてしまえば自分も勢いで反論できようが、泣かれてしまったユーキにできたことはうろたえるだけであった。
しかしこれは演技ではなかった。ヴィレッタは心の底から哀しんでいたのだ。
彼女は別に、ユーキのことを嫌っていたり、ましてや憎んでいたりはしなかったのだ。多少、独り善がりな部分が目に付いたりは以前からしていたし、そうした場面を目にすると、たまに全てを投げ出してしまいたくなる気にならないでもなかったが……。
少なくとも、ユーキは『正しいこと』を旨として生きている。それが紛れもない独善にしか過ぎなかったとしても、勇者としては大分マシな方なのだ。もっと傲慢な勇者など幾らでも居る。
どうしても惚れた男と比べてしまい、愛することはできなかったが……それでも、自分の身を任せてもいいくらいには思っていた。
この男のために自分の人生が犠牲にされている――そう思うと、憎く思う気持ちが全く無かったとは言わない。それでも、この男も穏やかに過ごせるはずだった人生を、この世界の人間の身勝手な都合によって犠牲にされてしまったのだ。ルスティニアに生きる者の義務として、自分くらいは慰めになってやらなければ……と。
――そして、あまりにも間違った方向に堕ちて行くようであれば、自分が正してやらなければ、と。
リドウと再会し、その決意を新たに胸に刻み込んだというのに、その矢先にこれである。
まさかここまでやらかしてしまうような男だなどとは……ヴィレッタはユーキの現状を完全に甘く見ていたと言わざるを得ない。
信じていたのだ。こうまで“弱い男”ではないと、ヴィレッタはユーキを信じたかったのだ。
自分の願望を勝手に押し付けているだけなのだろうとも思うヴィレッタだったが、それでも……自分の人生を捧げると決めた男に期待をするなと言うのも酷な話だろう。
(いいえ……諦めてはダメ。あの方なら、あの子だってきっと、一度己に定めた誓いは決して違えないっ)
今にも折れてしまいそうな己の心を奮い立たせ、涙を拭ってユーキを正面から見つめる。
その強烈な意思を伴った瞳に、ユーキは怯んだ様子を見せてしまう。
「あなたは何者?」
「え?」
突然の問い掛けは、ユーキの理解力を完全に逸脱していた。
「あなたは勇者でしょう?」
「あ、ああ……そうだね。僕は勇者だ……」
「勇者とはロンダイク聖教を信じる者たちにとっての希望よ。弱者にとっての救いなのよ。勇者たる者が弱者を踏み躙るなんてこと――」
ヴィレッタは一歩ユーキへと近づきながら、彼の顔を両手で押さえ、自分の顔をぐっと近づける。
「絶対にあってはならないのよッ!」
腹の底から発せられる啖呵は、相手に一切の反論を許さない。
「力無き者たちの先頭に立って、彼らに勇気を示すことによって、彼らに自ら戦う意思を促すのが真の勇者の役目なのよ。それは決して強要であってはならないのよ」
「で、でも彼女たちは」
「もし……」
掠れるような声で切々と説くヴィレッタに、ユーキは必死に言い募ろうとした。しかしそれも、彼女の搾り出すような声によって遮られてしまう。
「あなたが勇者としての使命を本心では望んでいないと言うのなら、素直にそうと言って」
「え……?」
「何を言い出すんだヴィレッタ!?」
ラクセスは気でも狂ったかとヴィレッタを見る。
「昔から勇者の従者たるを誇りにしてきたあなたには理解できないのかもしれないわね。けれど忘れてはならないのよ……あたしたちはユーキに勇者たれと押し付けてしまったのだという事実だけは」
「違う! ユーキは私たちを前に誓ってくれた、勇者としての使命を全うすると! あの時のユーキに、私は望んだ勇者の姿を見て、生涯を懸けて尽くそうと己に誓うことができたんだ!」
そうだろう、と祈るようにユーキを見る。
すると彼は、それまでに浮かべていた動揺を完全に捨て去り、毅然とした態度で肯いてみせる。
「ああ。僕はキミたちに誓った。忘れるわけがない」
ラクセスは、やっぱり自分の信じた勇者なのだと、感動と共に改めてユーキを頼もしく思う。
しかし未だ、ヴィレッタはその表情を綻ばせることはなかった。
「信じていいのね?」
「もちろん」
ヴィレッタを真っ直ぐに見つめる瞳には一見する限り迷いは見当たらない。彼女には、そこに嘘を見出すことはできなかった。
「……なら、あの娘たちには拘らないと約束して」
「え? ど、どうしてそうなるんだい……?」
そこでどうして狼狽してしまうのか……。
「彼女たちは勇者であることなんて望んでいないのよ。勇者に課せられる過酷な運命を強要しては絶対にダメ。あたしたちが口を噤んでさえいれば、彼女たちは自分の望んだように、穏やかに暮らしていくこともできるのよ」
「でも……彼女たちが協力してくれれば」
「その分、あたしたちが強くなればいいのよ。特に勇者であるあなたになら、何者すら寄せ付けない力を得ることだって、決して不可能ではないのだから」
その談になって、急にユーキは真摯な眼差しを浮かべてヴィレッタの両肩に手を置く。
「人一人でできることなんて限界があるんだ」
正論だ。それ故に、ヴィレッタには咄嗟に反論の言葉が思い浮かばない。
「僕は以前から疑問だった。各国が魔王討伐に派遣する勇者は常にたった一人で、他の勇者は自国の防衛のためと銘打って待機が定石とされている。そんなだから、強大な力を持つ魔王を討伐できない。もっと猜疑心を捨て去って、みんなで一致協力すべきなんだ。それができなくって、新たに共同戦力として呼び出そうと大規模召喚を実施して、結果は半分以上失敗して、彼女たちのような、こんな危険な世界に身一つで放り出されてしまう人間を生み出してしまった」
間違ってはいないだろう。ただし、勇者という存在が本当に必要とされているのかが、あの少女たちにしてみればまず以って疑問だろうが。
「団結こそが人に許される最大の力だと僕は思う。だけど現状でそれはとても難しい。でも……彼女たちは浮いた戦力だ。彼女たちであれば、どこからも文句は」
「やめて!」
顔を地面に落としながらのヴィレッタの絶叫に、ユーキは唖然としながら言葉を失ってしまう。
「お願いだからあの娘たちは諦めて……ッ」
それは確実にリドウの逆鱗に触れてしまうと、ヴィレッタは彼自身に訊ねるまでもなく、何となく了解していた。
しかし、それを口にしてしまうわけにはいかなかった。ユーキに対して、同じ人間なのに「どう足掻こうが勝てる相手ではない」などと、口が裂けても言えなかった。人間としてはほぼ最高位、世界ランキングにしてみれば千位以内には確実に入る勇者としての力は、彼にとっては自身のアイデンティティを確立させるための最大の拠り所なのだと、ヴィレッタは知っていたのだから。
しかし……
十年前――当時のリドウですら、ユーキ、ラクセス、そしてヴィレッタが揃って掛かろうと、良くて互角が精々だったろう。年齢が倍に成ったから実力も単純に二倍くらい……とすらヴィレッタには全く思えなかった。下手をすれば既に魔王一歩手前か、リドウの潜在能力次第では、最悪は歴代の魔王の半分くらいは超えてしまっていても不思議ではないとすら思っていた。
それだけではない。ヴィレッタにはリドウの現在の実力を大凡に察する、もっと明確な根拠があった。
あの現世最強の魔王たちがどれだけ大切にリドウを育てていたか、それも彼女は知っているのだ。あの魔王たちが外に出ることを“許した”のであれば……まず間違いなく魔王に匹敵する領域にまで上り詰めてしまっているはずだと。
そして彼女は現実に知っているのだ――国が勇者へ伝える魔王の脅威は最大限に過小評価した憶測でしかない、と。
魔神の功績によって人の世界が安定を見せてより五百年、実際に魔王の手で国家単位の被害が出てしまったことなど一度として無かった。それ故に、魔王が持つ真の力を知る者はあまりにも少ない。
敵を優れていると公正に評価するのは中々難しいものだ。特に自らが戦うわけではない者ほどその傾向は強く現れる。
宮廷で踏ん反り返っている連中は殆どがそうした人間なのだと、ヴィレッタは正しく知っているのだ。
しかしそれを口にしてしまうわけにはいかない。
だから彼女は……
「お願いよ。せめて彼女たちにだけは……過酷な運命を背負わせるようなことだけは……」
こうしてユーキの良心に訴えるしかできなかった。
「……分かったよ」
あまり本意ではなさそうなものではあったが、とにかく言質を取ったヴィレッタは、その言葉に強く縋る。
「本当ね……?」
「ああ」
「まったく……ヴィレッタは甘すぎる。力有る者にはそれ相応の責務があるだろうに」
「その甘さもヴィレッタの魅力だと僕は思うよ。ほら、ふんわり包み込んでくれるような包容力が有るっていうか」
「ほほう? つまり私はお堅いから魅力が無いと?」
「い、いや、別にそんなことは」
「どもるということは、少しはそう思っているのだな? ユーキ」
なぜか途端にラブコメの様相を呈してきた。
ヴィレッタはそれに合わせて空気を明るいものにしようと自分も乗っかるが、心の中で一抹の不安が渦巻いているのを否定はできなかった。
リントブルム討伐隊――この一行を仮に呼ぶとすればそんなところだろう。
彼らはそれぞれ、リドウ一味と勇者一味とに分かれて馬車に揺られていた。その御者は案内役の騎士が務めている。この騎士たちはボレイス騎士隊のヒラ役の若手ばかりで、あの時の隊長さんは居ない。彼には彼にしか勤まらない役目があり、そうそう街を離れるわけにはいかないのである。
あの勇者と四六時中顔を突き合わせることなく済むとあって、少女たちはひっそりと安堵の吐息を零したものだが、逆に勇者さんの方は不満そうな顔をしていた。それがより、少女たちに悪印象を与えてしまっているのだが……。
件のリントブルムが確認された巨峰ホールディックまでは、ボレイスからざっと五日という距離らしい。やけに近いが、だからこそボレイスの領主さんにとっては切迫していたのかもしれない。
ただでさえ防衛力が低下している現状で、リントブルム対策によって国庫が圧迫されているというのに、更にブランカ帝国の経済の大部分を担う貿易都市ボレイスまで壊滅しようものならば、ブランカ帝国は亡国への一途を辿るだろう。
下手にリントブルムを刺激しては自分たちの国にまで被害が及ぶかもしれない……そう考えるからこそ、周辺国は現状を静観してくれているが、隙を見せれば喜び勇んでちょっかい掛けてくるだろう。国家の運営とはかくも大変なものなのだ。
しかし、少女たちには全く関係の無い話である。
リントブルムという災害指定の伝説に挑む……普通に考えれば震え上がってしまう話だが、伝説級最上位という大災害指定をぶっちぎった魔王という超大災害指定の化け物に勝利してしまうリドウが居る以上、身の危険という意味ではあまり考える必要はない。
勇者たちの存在がどう影響するかという意味では、若干の不安を孕んではいたが、割と和気藹々な感じにリラックスして道中を過ごせていた。
この時には既に、リドウも平常運転に戻っていた。
もっとも、千鶴はそれでもリドウの心の内を案じていたし、恵子も何となく、弱い者イジメをしに行かなくてはならなくなってしまった彼の心境を危ぶんでいた。
その証拠かは分からないが、吹き抜けの馬車の後部に座る彼は、ヘビースモーカーぶりに常よりも磨きが掛かっているようであったし、時折ふっと遠い目をしながら酒ツボを傾けていたりする。
しかし、愛奈はまだ付き合いの短さ故か、全く気付いていない様子で、のほほんとしていた。
「馬車って楽チンですよねー。一台買いません? そのくらいのお金、普通に有りますよね」
「ああ、それダメなのよ」
と言ったのは恵子であった。
「普段から馬車頼りになっちゃったら、あたしとかすぐ体力落ちちゃうから。いざって時に逃げられるよーに、できるだけ体力つけとかなきゃいけない――って」
恵子とて以前に提案した話なのだが、そう言って却下されてしまったのだ。非常に納得のいく内容だったので、特に反論した覚えもなかった。
ね? と恵子がリドウに向かって首を傾げると、彼は静かに頷く。
「それに馬車だと、不意の襲撃に対処が遅れっちまうからな」
「何十メートルも先の盗賊さんにも気付けるのに、心配することですか? それ」
「こいつ、そーゆうトコ、スンゴイ神経質だからね」
「そもそも、自分の体が敵に対して少しでも不自由になる状態を根本的に嫌っているのよ、リドウは」
揃ってリドウを擁護する二人の言葉に、愛奈は何とも言えない顔付きになってしまう。
「何てゆーか……つくづく戦闘脳なんですね……」
その言葉に、恵子も千鶴もシャイリーも、それぞれの笑い方をするばかりで、否定しようとは一切しなかった……てかできなかった。
「生まれてこの方、ずっとそうやって生きてきたからな」
「どんだけデンジャラスに生きてきたんですか、一体全体」
具体的には、エーテライスの外れに身一つで放り出されたり、城に居る間も油断してると致死級の一撃が襲ってきたり……そんな感じのデンジャーゾーンにて育ってきたのだが。
「そう呆れてくれるなよ」
目を閉じながらふっと笑んだと思うと、釣りあがった唇を片方、更にくぃっと持ち上げる。
「慣れると案外クセになってくる――女の体と似たようなもんだ」
ぼっと頬を真っ赤に染め上げてしまう乙女が若干二名。
「セクハラ発言禁止!」
といきり立つ純情乙女や……
「期待を裏切らない鬼畜なお言葉ですね! 私、萌えちゃいます! でもリドウさんは私の中でオレ様受けですけどっ!」
何やら意味不明な感動のしかたをしている腐った乙女がおったり。
ではもう一名の乙女はといえば、こちらは平素の無表情のまま特に変化は無いあたり、やはりかなりのツワモノである。
「受け……って、もしかしてヤオイ用語?」
「え? 恵子さん知らないんですか?」
「いや、何でそんな心底不思議そーに訊き返されてんの……?」
こんな常識的なこと一々訊かないで下さいとばかりの愛奈に、恵子が顔を引き攣らせる。
「……身近な男でヤオイ妄想は止めなさい」
「ナニユエ!?」
何でそんなことゆーんですか!? と言わんばかりの、本気でショックを受けている愛奈であった。
「リドウさんとかシャイリーさんとか、こんなに妄想力をかき立てる男の人が居るのに……私にそんなことできません!」
まるで「無抵抗な民間人を殺すなんて残酷なことはできません!」とでも置き換えられそうな勢いに、さしもの千鶴も若干引きが入っている。
「ちなみにシャイリーさんは無邪気攻めで私の乙女パッションはガチです! パーフェクトです! 小悪魔受けはみ・と・め・ま・せんっ!」
ごーっと背後に何やら燃え盛っている。
ちなみに似非乙女な美少年は、いつも通りに「あはは」と楽しそうに笑っていた。普段は気弱な愛奈の豹変ぶりが意味不明すぎて笑えているらしいが、その真実を知ったらどんな顔をするだろうか……。
リドウもシャイリーも、何となく深く突っ込んではいけない世界なんだろうなと本能的に察しているらしく、生暖かい眼差しを浮かべながら、今この瞬間を心底楽しんでいる愛奈を眺めていた。
かように、馬車での旅路は至って平穏に過ぎ去って行くのだが……
食事のための休憩時間になると、途端にその空気が変調してしまう。
言うまでもないかもしれないが、原因は勇者さんであった。
ヴィレッタとの約束が効いているのか、リドウ一味へ積極的に絡むことこそ無かったが、一々ちらちらと視線を送ったり、リドウに対するそれが突き刺すような種類のものだったりして、決していい雰囲気とは言えない。
そうして馬車での旅路が送ること数日が過ぎ去ったある時、馬車の後部で剣を肩に寄り掛けて座りながら静かに煙管を吹かしているリドウに、シャイリーがこっそりと近付いて行く。
広いとは言えない馬車内のことだったので、少女たちは無論それに気付き、それぞれに首を傾げたりと疑問を浮かべていた。
……が、やがて彼の口から小さく零れ出た言葉に、少女たちは一斉に戦慄してしまう。
「ねえ。何であの勇者さん、生かしておくの?」
ぴーんっと少女たちの間の空気が張り詰める。
恵子や愛奈はあわや叫びそうになったが、御者の騎士に聞かれてはまずいと、かろうじて口を閉じることに成功する。
リドウは視線だけでちらりとシャイリーを見つめると、すぐにその視線をそらしながら、どこか遠くを見るような目で、その先へ向けて煙を吐き出す。
シャイリーの表情は限りなく消え去っており、それが故に彼の本気を窺わせる。
「あの男は殺しておくべきだ。他者を認識しない正義は害悪でしかない。殺してしまうと後々面倒だ、なんて理由で躊躇う人じゃないでしょ、リドウさんは」
「ああ……」
静かに応えながら灰を落とす。馬車の中に落とされたそれであったが、リドウの生み出した小さな、しかし超高温の炎によって一瞬で完全な塵と化し、風に乗って馬車の外へと流れて行った。
「俺もな……本音を言っちまえば、今の内に始末しておくべきだと思ってる」
「ならどうして邪魔したの?」
リドウは即座に答えようとはしなかった。
重い沈黙が馬車の中を支配し、少女たちは息を呑みながら二人の様子を見守っている。
「あの男も被害者だ」
「被害者?」
「本人からしてみりゃ、拉致られたのも同然だろうよ」
「だからと言って、この世界の人間に対して何をしても構わないなんて理屈は無いよ」
シャイリーの正論に、リドウは首を縦に振って肯定してみせた。
「しかしな……こいつら見てりゃ分かるだろうが……」
そう言って視線を向ける先は、千鶴を除いた少女二人であった。
「あちらは随分と平和な世界らしい。殺し殺されなんて遠い世界の話なんだ。それが突然、勇者として殺伐とした日常を押し付けられちまっちゃな……」
新たに火を点した煙管を深く吸い込み、煙を吐き出しながら喋る。
「この世界の人間でも、戦場で狂っちまう連中も少なかねぇって聞く。精神の均衡を保つために、どこかに逃げ道を求めちまったとしても、あんま責める気にならん」
そうは言っても、ユーキの所業を認めてやれるかと言えば、それは全く違う。
この男にしては本当に珍しいことに、今リドウは迷っているのだ――命を命と考えないようにすることで、命を奪う忌避感を忘れ去ろうとする弱い男を始末してしまうべきなのか――と。
「深く考えすぎだと思うわね、私は」
千鶴の発言に、リドウは眉をぴくりと跳ね上げる。
「確かに秩序のしっかりした平和な世界よ。けれどもそれ故に、変化に乏しい退屈な世界……代わり映えのしない日常に不満を抱いている人間には事欠かないわ」
千鶴は自分もその一種と言えないことは決してなかったと付け加える。その顔は自嘲するようなものではなく、どこまでも真剣な色を湛えていた。
「虚構の世界で己が主人公として活躍する姿を夢見る人間はとても多い。そんな人間にとって、ルスティニアに勇者として招かれるのは千載一遇の好機でしかないわ。あるいは望んだ世界を得てしまったことで舞い上がってしまい、まともな思慮を失ってしまっているというケースならあるでしょう。でもいずれにしても、あの男は疑問の余地なく、このルスティニアが『己の世界』たることを自ら望んでいる」
「僕もそう思う」
深く頷き同意を示すシャイリー。
「あの男には何一つとして自分で責任を負う意思が無い。何の罪も無い命を手にかけてしまったとしても、巻き込みたくなかったのにとか殺したくなかったのにとか悲劇に酔うだけで、“その先”を考える力が全く無い」
胸の前でぐっと拳を握り締めながらリドウを見る。
「僕らのように強大な力を持つ者には、その力を強い意思で制御する義務がある。個人が国家に匹敵するほどの力を持つことを許されてしまうケースも厳然として存在するこのルスティニアにおいて、これは実力者に課せられる暗黙の掟だ。拉致被害者というのは確かに揺ぎ無い事実だけど、あの男にあんな力を持たせておくのは危険すぎる。今の内に殺してしまうべきだよ」
シャイリーは言外に、リドウが殺らないのならば自分が殺ると匂わせる。
リドウはただ黙って、そんなシャイリーの瞳を強く見つめ返している。しかしおもむろに、その瞳をゆっくりと閉じてしまった。
「分かってる。お前さんらの言うことの方が正しいんだろう」
「なら」
「ただし――救いようのねぇクズだと思ったらの話だ」
言いながら首を横に向ける。
「まだそこまで思い至っちゃねぇよ」
その方向に居たのは高坂愛奈という名の心優しき少女。意気消沈してしまい、顔色も微かに青ざめている彼女に向けて、リドウはできるだけ柔らかい声を心がけて告げた。
「え? あ……そ、その……」
心優しき少女は戸惑いを露にする。
彼女も理解している。リドウが殺害を決意する時は、自分如きでは反論のしようがない明確な理由が在り……そうとなった時の彼は一切躊躇することがない、と。
実際のところ、“あんなこと”を平然とやらかしてしまう時点で、彼女からしても許し難いと思っている。
それでも、だ……
ユーキは自分たちと同じ日本人なのだ。
ルスティニアに生きる人々と何ら変わらない一つの命であり、それ以上でも以下でもないと理性では理解していても……自分たちと同じ日本人が殺されてしまう場面が現実になったとしたら、自分は果たして耐えられるのだろうか……?
差別でしかないと、彼女はちゃんと理解している。しかし、だからと言ってそう簡単に割り切れるほど、彼女の心は未だ強くはなかった。
しかし、もう一人の心優しき少女の反応は……
「リドウ」
静かな、僅かの揺らぎも感じさせない声であった。
「あんたが本当にダメだと思ったら……」
目を微かに落とすが、それはほんの一瞬の出来事で、確固とした決意すら他者に印象付ける眼差しでリドウを見つめる。
「お願い」
「お嬢……」
いいのか? と目で語るリドウに、恵子はゆっくりと肯いた。
リドウは別に、ユーキの処遇に関して確認したわけではない。殺すと決めたなら恵子が何と言おうが問答無用で斬る。
リドウがあえて問うたのは……もしユーキを始末しなくてはならなくなった場合、その責任を自分も負うという意思を恵子が示したからであった。直接に手を汚さなくても、誰かにその責を問われることになったらば、自分がやったことではないと知らん振りを決め込んだりはしない、と。
「同じ日本人として、本当ならあたしがしなくちゃいけないんだと思う。でもあたしにはそんな力が無いし……もしかしたら、やっぱり直前になったら躊躇っちゃうかもしれない。でもあたしには……同じ日本人が許されないことを重ねている方がずっと辛いよ」
泣き笑いのような顔で言う。恵子とて平気で他人の殺害をリドウに頼んでいるのではないのだ。
「この前の事件じゃ、千鶴たちのおかげで死人は出なかった。もしかしたら、あいつはまだ、取り返しのつかないことなんてやってないかもしれない。でも、あいつがいつかやらかすのは……あたしにだって目に見えてるよ。もしあんたから見て、もう救いようの無いと思ったら、同じ日本人の義務として……でもあたしじゃ無理だから――お願い」
段々と掠れていく愛らしい声をリドウは真摯に受け止め、ただ静かに一つ頷く。
「そういうことなら、本来私が手を下すべきでしょう」
「そーゆう問題じゃないよ」
「理解していて言っているのよ」
涙を拭いながら笑って応える恵子に、千鶴も冗談よと笑った。
そして千鶴はそのまま、俯いたままで身動きしない愛奈の頭を自分の胸で優しく抱きしめる。
……愛奈には及ばずともデッカイ乳がふにゅんと潰れる様に、恵子がシリアスシーンを忘れて顔を引き攣らせていたが、全くの余談である。
「千鶴、さん……?」
涙で潤んだ瞳で、呆然と千鶴を見上げる。そこには慈愛の篭った優しい笑みを浮かべている千鶴の姿があった。
「仲間外れみたいに思い込んではいけないわ」
「あ……」
愛奈が落ち込んでしまった理由は、ユーキの行く末だけを慮ってのものばかりではなかったのだ。みんなが強い意志を胸に秘めて生きている中で、自分だけが弱いまま……そんな思いが彼女に自虐を促してしまい、傷付いてしまってもいたのだ。
こうした感傷になると、リドウにはとんと見当がつかない。未だ自分のことだけで一杯なのは変わらない恵子にも中々察せるものではない。千鶴、あっぱれ。
暖かい温もりに癒される思いを感じながら、愛奈は今だけ、千鶴に甘えさてもらおうと、自分から強く彼女へとしがみ付く。
「あなたはそのままでいいのよ。優しい愛奈ちゃんが、私は好きなの」
「まるで私は優しくないみたいな言い方ね」
「あなたもとても優しい子よ、恵子ちゃん」
ふんっと不貞腐れながらの恵子の言葉だったが、こうした場合に多いからかいの言葉が返ってくるのではなく、これまた優しい笑みで返されてしまい、恵子は思わず顔を赤くして逸らしてしまった。
(ちょ、ちょっとドキっとした。普段のおすまし顔の時も思わないでもないけど……やっぱこいつの美人度は人間離れしてるわね……)
明後日の方を向いて思うのはそんなことだったらしい。
「千鶴の言う通りだぜ、愛奈」
リドウがニヒルに笑みながら愛奈に顔を向ける。
「本音を言っちまえば、お前さんを足手纏いのお荷物と思わんでもねぇ。お前さんの目の前で盗賊どもを斬るたびにわーきゃー泣かれるのなんざ、はっきり言って面倒くせぇとしか思ってねぇ」
「へぅ……す、すいま」
「だがな――」
反射的に謝ろうとする前に、リドウの言葉がそれを遮った。
「気に入らねぇ人間を連れにして旅ができるほど、俺はお人好しじゃねぇよ。どうせ持ってる才能だ、いざって時のためにも力を着けてほしいとは思ってるが、それを殺しのために使ってほしいとなんざ、微塵も思っちゃいねぇんだぜ」
そこんとこ勘違いすんなよ――そう言いながら、美味しそうに煙管を吸う。
「僕はね、愛奈ちゃん」
更にシャイリーが、愛奈の側まで軽やかに身を移す。
「愛奈ちゃんが生まれ育った世界とは全く違うこの世界で、愛奈ちゃん自身がどう変わっていくのか、とても楽しみにしてるんだ」
「は、はぁ……」
殆ど目の前で意味不明なことを言われて、愛奈は目をぱちくりさせながら首を傾げる。
「だから、僕の期待を裏切らないでね?」
「私にどんな期待をされてるんですか、一体全体」
げんなりと肩を落とす愛奈であったが、ようやく元気が出てきたみたいで、苦笑じみたものではあったが、笑顔になりながら千鶴から身を離した。
そんな愛奈に、千鶴は真剣な面差しになって向かい合う。
「あの男をこのまま黙って放置しておくわけにはいかないわ」
「……はい」
今でも辛くないと言ったら嘘だろう。それでも愛奈は、千鶴の言葉に対して真摯に頷く。
「危険性なんてレベルではないわ。あの男は既に私たちを前にして示してしまった――人としての正しさなんてどこにもない、ただ己の都合のために巻き込まれて散って逝く命を、何の躊躇いもなく尊い犠牲にできてしまう人間である、と。どこかで誰かがあの男を止めねばならない。私たちは同郷の人間として、その責務を他人に押し付けてはならないのよ――たとえ殺すことになろうとも」
「分かってます。それでも……」
折角出てきた元気を失ってしまいながら顔を落とす。
「それでも……私はまだ、そこまで強く成れそうにはありません……」
「それでいいのよ。そのために私が……私たちが居るのですから」
もう一度愛奈を胸に抱き締めながら、千鶴はどこか遠い所を見るように、しかし強い決意をその瞳に浮かばせている。
「…………」
その様子を、リドウが横目に視線だけで注意深く観察していることに、今の千鶴は気付けなかった。
その夜。
皆が寝静まった馬車の中から一人、千鶴がむくりと音を立てずに起き上がり、ひっそりと馬車を抜け出す。
しばらく歩いた先で、彼女は闇夜に溶け込むように佇む紅のコートを視界に留める。
相変わらず、暇さえあれば煙管を吹かす有様の男であった。
リドウの側まで歩み寄った千鶴は、黙ったままじっと見つめてくる男に自ら声をかける。
「すまないわね。こんな時間に呼び出したりして」
「別に構わんよ。それで、話ってのは?」
千鶴は色っぽい仕草で己の頬に手を添えて、しなりと首を微かに傾げる。
「あなたに抱いてほしくって」
「とっとと休め」
「冗談よ」
間髪入れずに去ろうと自分の側を横切って行くリドウのコートを、千鶴はその場に立ったままでひしっと掴んで止める。
「ったく、起きながら寝言を言うやつなんぞ、初めて見たぜ」
「あら。私があなたを誘惑する時は常に本気と言ったわよ? 乗ってきてくれるなら私に否やは無かったわ」
「……そうかい」
リドウは少し疲れた様子で嘆息する。
息を吸う代わりに煙管を吸いながら、
「それで?」
と、もう一度話を聞こうと告げると、千鶴はその瞳に冷たい光を灯す。
「あの男の始末は私がつけるわ――同じ日本人の義務として」
感情の消え失せた声であった。最近は大分、普段の態度も柔らかくなってきていたように思えたが、少し前までの千鶴に戻ってしまったようである。
「ダメだ。始末するにしても俺が手を下す」
リドウは考えるそぶりすら見せず、瞬時に却下する。
「なぜ? 私では勝てないとでも? 慢心したとは思ってほしくないけれど、多分、私ならあの男に十分勝てるわ」
「否定はしねぇよ」
ユーキが何年前にルスティニアに召喚されたかこの二人は知らないが、やはり闘気の総量では、千鶴と同等の才能を持つと目される勇者たるユーキの方が、鍛えた年月が長い分勝っている。
反面、技量は完全に千鶴の圧勝。単純な剣技では、ユーキはラクセスにすら圧倒的に劣る。
純粋な実力面だけを評価した場合、千鶴とユーキはほぼ互角。戦闘経験の豊富さでユーキが勝るだろう……とリドウは最初思っていた。
が、シャイリー曰く、ユーキがこれまでに経験してきた戦闘は一方的な蹂躙劇でしかなかったっぽいような感触だという話で、となると『殺し合い』ならば七対三で千鶴が勝つかと、リドウも今では思っている。
千鶴も同様に判断しているのだろうと、確かにリドウは思っている。
が……
「万が一……と言うほどでもないかしらね。私が負ける可能性は十分に考えられるのは否定しないわ。私の身の安全を案じているの?」
「違う。お前さんが同郷の人間の義務として言い出したんだろうってのは言われるまでもねぇ。それなら俺にお前さんを止める権利は無ぇだろうよ。あるいは俺に負い目を感じさせまいと考えたのかもしれんが……」
「なら、どうして?」
リドウは煙管を吸って一拍起きながら目を瞑る。
「お前さんはまだ危うい。自覚してんだろ?」
「――ッ!?」
見抜かれていた――という内心が一気に溢れ出す。
何てことはないリドウの言葉であったが、それが彼女にもたらした圧力はただ事ではなく、彼女自身知らぬ内に、片足が微かに後ろへ引かれてしまっている。
「元々思い切りが良過ぎる気質だったんだろうな。それに、多少実力の有る相手じゃ、まだ不殺で完封できるだけの絶対的な実力じゃねぇってのもあるだろう。だがな、それにしても殺しを決意する境界線がお前さんは低過ぎる」
夜空に向かって深く煙を吐き出す。
「てめぇは幸せになる権利は無ぇ……とまで思い詰めっちまわねぇトコは流石と言ってやろう。てめぇの手は既に汚れちまったと思って、汚れ役を全て引き受けようって気持ちも分からんでもねぇ」
地面に灰を落としながら、未だ火種の燈ったそれをぐりっと踏みつける。
「だがな、やっぱ平和な世界で育った反動なんだろうが、殺人って『特別な行為』が与えるストレスが半端じゃねぇんだろう。不測の事態ならともかく、もういっぺんてめぇ自身の意思で手を汚したが最後、一気に境界線が下がってくぜ、お前さんの中でな」
紅のコートをふわりと風に靡かせながら踵を返す。
「殺っちまったっても盗賊だけだ。どうせ生かしておいた所で末路が変わったわけじゃねぇ。あんま思い詰める」
「違うのよっ!」
去り際に慰めの言葉をかけようとしたリドウであったが、千鶴の悲痛な否定の叫びに足を止め、険しい顔で振り返る。
そこには両手を力の限りに握り締め、しかしその顔には常以上に一欠けらすら感情の窺えない虚ろな、それ故に高名な芸術家が命を賭して作り上げたかの如き美術品の麗しさを映し出す。
「あの連中は死ぬべきだった。私の手で殺してしまうべきだった。そこに後悔なんて何も覚えていないわ。罪悪感なんて一片も無い。私が犯してしまった罪は……汚れてしまったと感じているのは……」
月明かりに照らされる幻想的なまでに美麗な顔から、ぽろりと涙が零れ出る。その唇はわなわなと震えるのは、本心では口に出したくないからだろう。
それでも千鶴は、今にも崩れ落ちそうになりながらも、か細い声で言葉を紡ぐ。
「あの男たちを……心行くまで嬲ってしまったこと……」
始めて知った事実に愕然と目を見開くリドウだったが、その時、涙が零れ出る千鶴の瞳に何の感情も浮かんでいないことに気付き、「まずい」と心の中で強く言葉にしてしまう。
「愉しかったわ」
「おい、止めとけ」
「最初は私を色欲に滾った目で見ていた呪わしいゲス共が、もう殺してくれと縋りつくように見てくるのを、私は歓喜に身を震わせながら見下ろしていた」
「止めろと言ったぞ」
「悲鳴が私の耳に届くたびに、私は少しずつ溜飲が下がる思いだったわ。私を呪う罵声が聖歌隊のコーラスにすら聞こえていたわ」
「止めろ!」
虚ろに歪んだ笑いを浮かべながら淡々と話す千鶴に、リドウは彼女の両肩を掴んで大声を張り上げる。
びくっと震える千鶴の瞳に微かな色が戻るが、それは悲哀を色濃く映し出している。
その瞳が見つめる先では、心から想う男が真剣な顔で彼女を見つめている。
「俺がノイケンにやったことを忘れたか?」
「あなたはあの男に選択肢を与えたわ!」
「ならチュゼルの時のクズ共にやったことはどうだ? あの時の俺は、連中に選択肢なんぞ与えた覚えは無ぇぞ」
「それでも、あなたは少しも楽しんでなんていかなった! 私は違うのよっ。あの時の私は魂の底から愉悦に浸っていたわ!」
自責に駆られた涙ながらの絶叫。それは己を傷付けるだけでなく、聞く者の胸にすら痛みを伴わせるような気がした。
「仲間の所業を知りながら放置している以上、ゲス共の連帯責任は必至。自分は“まだ”民間人の殺しに手を染めていないから、などという言い訳を聞く心算なんて私には無い。私にはあのゲス共が犯した罪業をゲス共の身に刻み込んでやって許される権利があったとは今でも思っているわ。その行為自体に罪悪感を抱いてなんていないのよ。でも、愉悦を以って他者を嬲り、生を奪うのだけは許されないっ。同じ事実に違いなくとも、真実の私はとっくに堕ちてしまっているのよ! あなたに出逢わなければきっと、私はもっと暗い奈落の底まで堕ちていたわ! ならばせめて、外道の始末は同じ外道の私のこの手でっ。今の私にはそれだけの力が有るのだから……ッ」
嗚咽に崩れ落ちようとする千鶴を、リドウは強く抱き留める。もう何も言うなと示すように、彼女の顔を己の胸に強く押し付けながら。
「そんなことで今更お前さんを嫌いになったりしねぇよ」
千鶴を抱き締めたまま、彼女の後頭部に添えた手をぽんぽんと動かしながら、安心しろと無言の内に語る。
「お前さんの言う通り、あの時のお前さんにはそうして許されるだけの権利があったと俺は思うぜ。だが、淡々と報いをクズ共に刻み込んでやれるほど、まだお前さんは強くなかった。だからてめぇは愉しいと思い込むことで、無意識に心の均衡を図ったんだ」
落ち着いた声音と愛しい男の温もりが、段々と自分を落ち着かせていってくれるのを自覚する千鶴。
それからどれくらいが経っただろう。そう長くはなかったろうが、短くもない時間が過ぎ去る。
千鶴は静けさの中に、日本に居た頃は聞いた覚えのない虫の鳴き声を感じ取る。美しい音色だった。一流の演奏家が爪弾くピアノの伴奏にも劣らないと、空っぽな頭でぼーっと思う。
やがて千鶴はリドウの胸に己の手を寄せて、彼の心臓に耳を当てるように顔を横向けながら、しかしその声は自分を蔑むような響きで、ぽつりぽつりと語る。
「私は……卑怯な女だわ」
「あん?」
「私の犯してしまった所業を否定する気は無かったわ。逃げるつもりも無かった。でも、あなたに知られてしまったら嫌われてしまうのではないかと思うと怖かった。それなのに、心の片隅ではあなたならそう言ってくれると期待していた。こうして慰めてくれると期待していた」
「いいんじゃねぇか? 女の特権だろ。腹黒いお前さんらしい手管だと思うがね」
「好いた男に腹黒い女と完全に思われているのね、私って……」
自分で言ったセリフの何かが彼女の琴線に触れてしまったらしく、くすくすと笑いながらリドウの体からゆっくりと離れる。
が、リドウの首に両腕をかけながら少しだけ背伸びをして、彼の唇に己の唇が触れる直前まで顔を近付けて艶っぽく笑う。
「どうせなら、余計なことなんて何も考えられないくらい、私を滅茶苦茶にしてくれたら良かったのに」
「調子が戻ってきたみてぇだな」
動揺の欠片も見せずにふっと笑うリドウに、千鶴は顔の位置を離しながら肩を竦めてみせる。
「すっきりしたのは確かね。これで私があなたに後ろめたく感じることが全て飛んで行ってくれたもの」
「しかし、そう簡単に割り切れるもんじゃねぇだろ。お前さんはまだ、人の命を刈らねぇ方がいい」
そのセリフに、なぜか千鶴はむすぅっと微かに唇を尖らせる。
「……こういう時、あなたと私の間に横たわる格の違いを本当に思い知らされるわ」
「ま、俺の方が年上だからな」
「たった三年で縮まるほど些細な差にはとても思えないのですけれど」
「どうだかねぇ」
リドウはかっかっかと笑いながら煙管を銜えて踵を返す。
その背をほんの少しの間、千鶴は愛おしい眼差しで微笑しながら眺めている。
「私、あなたを好きになって良かったと、今改めて思うわ」
「俺も損得抜きで守ってやりてぇと思うくらいには、お前さんを気に入ってるぜ」
背中越しに返ってきた応えに、千鶴は刹那唖然とし、その意味が頭の中に浸透してくると、ぼっと顔が熱を持ってしまうのを自覚する。
「……どうせなら」
――素直に好きって言いなさいよね――
ぼそっと呟いた一言は、まだリドウの鋭敏な聴覚感知範囲だったらしい。
「何か言ったか?」
「このツンデレ」
ぷいっと顔を背けながら。
「はん? 何だそりゃ」
「教えてあげない。どうせまだ、さして特別な意味ではないのでしょ」
何だか乙女的な不貞腐れ方をしている千鶴を目にし、リドウはふっと微笑を零すだけで、それ以上に何か口にしようとはしなかった。
もう休めとだけ言い置きながら去って行くリドウであったが、千鶴はそのままその場を動かずに、何とはなしにぼーっと月を眺めながら立っていた。
やがて完全に消え去る直前のリドウの背をちらっと確認すると、不意にぽつりと言葉を零す。
「あなたは……」
その顔には微かな戸惑いを浮かべながら。
「本心では殺人を何とも思っていないと言うのかしら……?」
囁くような小さな声が、風に吹かれて夜闇に吸い込まれて行った。




