第二十六話 夜の一幕
宿に到着し、それぞれの部屋に別れたその後、リドウは飲み直そうと一人で宿を出た。何かあった時のために、一応はその旨を女性陣に伝えている。その時の彼女たちの反応はまあ、いつも通りのものであったが。具体的な部分は想像にお任せで。
そうして歓楽街の方へしばらく歩いて向かう途中で、こちらへ歩いてくる女性の影が彼の視界を掠めた。
その女性はリドウの姿を目に止めると、驚いた風に目をぱりくりさせてから、すぐに笑顔になって手をひらひらと振る。
「はーい♪」
「ヴィレッタ……だったか?」
「そ。ヴィレッタお姉さんでーす」
おどけた調子で応じるヴィレッタ。
「訪ねる手間が省けて助かっちゃったわ」
「うちに? それとも俺にか?」
「主にあなた……ってとこね」
「ふん?」
ヴィレッタは「うーん」と頤に指を当てながら小首を傾げる。ちょっとした仕草が一々色気を発散する女性であった。
「謝罪と賠償。それから……」
んー、と言葉を濁すヴィレッタに、リドウは訝しげな顔をする。
「はん?」
「ううん、気にしないで。とりあえず、お姉さんに付き合ってくれないかしら? あたしの連れは二人とも弱くってねー。二人とも、だらしない姿を人目に晒すわけにもいかないから、人前では飲めないのよ。するとお姉さんは一人寂しく、酔っ払ったチンピラ冒険者相手に大立ち回りしなくちゃならなかったり?」
「そらぁご愁傷様だな」
さもあるまいとリドウは苦笑する。千鶴と比べるには流石に分が悪いが、ヴィレッタも相当な美女だ。しかも全身から醸し出される婀娜っぽい雰囲気は、男の欲望をそそりまくってしまうのも仕方がないだろう。
「奢るわよ」
「賠償、ってやつかい? そりゃいいが、俺は飲むぞ?」
「……ちょっとは手加減してね?」
自分の言葉を少し後悔している様子のヴィレッタに、リドウは意地の悪い笑みになる。
「ちょっと、で構わねぇのかい?」
「たっくさん手加減して下さい!」
お願いしますと切実な様子で頭を下げる。
リドウは心底楽しそうにくっくっくと、ヴィレッタからしたら底意地の悪すぎる笑い声を零している。
「安心しな。さっきのことなら、あんたに免じて忘れると言ったろう? 謝罪も賠償も要らんよ」
「へ? いいの?」
「身に覚えのねぇ賠償をされても、気持ち悪いだけだぜ」
「そう……ありがと」
ヴィレッタは今のリドウの言い分がお気に召したらしく、笑顔で感謝の言葉を紡いだ。
「ま、とはいえ、あんたに絡んでボロクズにされるチンピラが哀れだ。飲みに行くってのがあんたの本音なら、付き合うのは歓迎するぜ。美人と一緒に飲める方が、俺も楽しい」
「是非お願いするわ」
リドウの自然体での誘いの言葉に、ヴィレッタはその笑顔を柔らかくする。
いずれにしても、もう一度きちんとした形で謝罪したいヴィレッタは、自分のその思惑をおそらくは見切って、その上で付き合ってやるという恩に着せるような言い方ではなく、自ら欲したという形の言葉で、女の側に負担にさせないようにするリドウに、彼の人間性の一端を垣間見たような気がし、それが自分の思い込みでなければ、とても好ましいものであると、そう思ったらしい。
「んじゃ、行くとするか」
「ええ」
リドウが紅のコートを夜の暗闇に靡かせる。
ヴィレッタは半歩遅れてから、軽快な足取りでリドウに付いて行った。
その数刻前。勇者一行がリドウ一味と決別した後、彼らが滞在する宿に戻った時の出来事であった。
あの後、勇者ユーキはここに至るまで、ずっと欝が入った様子でぶつぶつと何やら呟くばかりで、黒髪女騎士ラクセスもズーンと沈んだ様子で何も言葉を発しようとしない。魔法使いのヴィレッタはどこか難しい顔をしており、そんな二人をフォローしようとする気はないらしい。
しかし、寝泊りしている部屋に着くと、ヴィレッタは厳しい眼差しで連れの二人を射抜いた。俯いて何やら儚んでいるユーキは気づいていなかったが。
「ラクセス」
「な……何だ……?」
静かながら重い響きを称えるヴィレッタの声音に、ラクセスは引きが入った様子で応じる。
「前から何度か忠告してきたけれど、ちょうどいい機会だから、徹底的に言わせてもらうわ。あなた、自分を何様だと思っているの?」
「あの者たちに対する態度を言っているのならば筋違いだぞ。私は国から騎士の位を授けられた歴とした貴族だ!」
「確かにあたしたちは“勇者のお付となるべく育てられ”、それ相応の地位を与えられているけれど、そんな物、他所の国に出てしまえば何の関係も無いのよ。誇るべきものは唯一つ――己の実力。そうでしょう?」
「だからこそ、私たちは侮られるわけにはいかないだろうが!」
憤然とヴィレッタに食って掛かるラクセスであったが、ヴィレッタの方は鼻で笑って相手にしない。
「良いじゃないの、侮ってくれるなら。精々侮らせておきなさい。実際に命の遣り取りになったら、勝手に油断してくれるわ」
「それでは私たちの誇りは」
「誇る前にするべきことがあるでしょう!」
ヴィレッタが声を張り上げると、ラクセスはぐっと言葉を詰まらせる。
「偉ぶるのが誇りを保つことになるなんて愚かな考え、さっさと捨てることね。貴族に列席されたからといって、自分まで偉ぶるしか能の無い馬鹿貴族と同列になってどうするのよ」
「私をあんな愚か者たちと一緒にするな!」
「今のあなたは同じ所まで落ちているようにしか、あたしには見えないのよ! さっきの自分の態度を省みてみなさい!」
「…………」
ラクセスはぐぅの音も出ないで黙りこくってしまった。
それを見て、一つため息したヴィレッタは、今度はユーキの方へと顔を向ける。その眼差しは未だ厳しい色を湛えていた。
「ユーキ……あなた、他人の女にまで手を出そうだなんて、どういうつもり? “あたしたち”だけじゃ満足できないとでも?」
「ち、違う! そんなつもりじゃない!」
落ち込んでいた顔を慌てて上げて、必死に言い訳する。
この時のヴィレッタは狡猾だった。あたかもプライドが傷つきましたという風情に、目元に涙さえ浮かべられては、男がそうそう強気に出られるものではない。
「あの娘、チヅルと言ったかしら? 見たこと無いくらい、物凄く綺麗だったものね。あたしも容姿だけで比べられたくはないと思うくらいですもの」
「キミは綺麗だよ!」
「でも……あなたの瞳はそうは言っていなかったわ」
慌てて言い募るユーキから、ヴィレッタは悲しげに顔を背ける。それに更に慌てる羽目になってしまった彼は、あからさまにおどおどしながら言葉を重ねる。
「あ、あれは本当に、あんな腰抜けと一緒に居ても、あの子たちがいいように利用されるだけじゃないかって考えて……それで……」
言い訳の言葉が尽きてしまったのか、尻すぼみになるユーキ。
ヴィレッタはここで、優しげな表情を浮かべてみせた。
「ユーキは優しいのね。でも、あの子たちは自分で納得して、あの男と一緒に居るのよ。それに、私たちの旅は決して安全なものではないわ。無関係な子を浅慮に巻き込むのはかえってお互いを不幸にするだけよ」
「そ……うだね。うん、その通りだ」
ウマイ。
ユーキのプライドを傷付けずに、自ら納得させるこの手腕……男を手玉に取るこの手管は、彼女の外見から想像される、色気だけが取り柄の頭の軽い女からは百八十度反している。
「しかし――あのチヅルという女、態度は到底許せんが、かなりやりそうだったぞ。足手纏いにはなら」
「ラクセス――?」
ユーキには見えないよう、ラクセスにだけ向けられた視線。それによりラクセスは顔を引き攣らせ一筋の汗を垂らしながら、口を噤んで黙り込んだ。
「ラクセスには反省が足りないようね」
ヴィレッタは踵を返して入り口のドアへと向かう。
「このままじゃ、またラクセスを口汚く罵っちゃいそうだから、少し外に出て頭を冷やしてくるわ」
ドアノブに手をかけながら振り返る。
「あたしは間違ったことを言ったとは思っていないわよ、ラクセス。あたしが戻るまでの間に、あなたも少し反省してなさい」
ヴィレッタは返事を待たずに外へ出る。
部屋の外に出たヴィレッタは、強烈な舌打ちを一つしてから、本人も無意識の内なのだろうが、一歩一歩大きな足音を立てて、宿の外へと歩む。
(ちっ……勇者のお守りなんて、これだからやってられないわ)
そこでなぜか、ヴィレッタは独りでに苦笑を浮かべる。
(もっとも、“以前のあたし”なら……一緒になって彼らに喧嘩売ってたでしょうけどね)
すると今度は、酷く気に入らなそうな顔つきになる。
(あたしとしたことが迂闊……ユクリナス大陸で名を上げ始めた二十歳くらいの黒髪黒目の刀使いという時点で、思いついても良さそうだったものなのに……)
何やら後悔を覚えながら、しかし今度はふっと柔らかい微笑を浮かべる。
(あの時のボーヤが――)
そこまで考えた所で、ヴィレッタは夜の街を静かに歩くリドウと再会した。
そして今は、落ち着いた雰囲気の酒場で、テーブルを挟んで向かい合っていた。
リドウがエールを一息に煽ってから煙管を銜えている姿を、ヴィレッタはニコニコとした笑顔を浮かべながら眺めている。
「……俺の顔に何かついてるか?」
「いいえ」
訝しげに問うリドウに、ヴィレッタは楽しげな笑みを浮かべるまま。
「ふふ。佳い男に育ったな……と思って」
「何だと……?」
瞬間、リドウはすっと目を細め、注意深くヴィレッタの顔を伺う。
いい男だ、と言われるのはリドウにとって慣れっこだった。が――『育った』などと言われる覚え、彼には全くなかった。
ヴィレッタは見た目二十代後半で、久々に会った親戚のお姉さんにそうと言われるとすればまだ分かるが……忘れてはならない。リドウには親戚など存在しないし、彼が外界に出てから、まだ一年と経っていないのだ。
(人違い……ってわけでもなさそうだな。まさか、迷い人……? 本当に迷い人だったとしても、なぜ記憶が残ってる?)
リドウは自然と目つきを鋭くしてしまう。
ヴィレッタは楽しげな笑いを浮かべるままに、酒を一口煽ってから、懐かしそうな声音で喋り出す。
「ザイケン様はお元気かしら? あの時は私の我がままで、シュライゼルまでお付き合い頂いて、ご迷惑をお掛けしてしまったわね」
「まさか……本当に迷い人なのか……?」
慎重に問い掛けてくるリドウに、ヴィレッタは傷付いた様子で唇を尖らせる。
「本当に覚えてないの?」
「…………」
リドウは天井を見上げながら自分の記憶を総ざらいする。すると一人だけ、ヴィレッタっぽい特徴の女が浮かび上がってきた。年頃も合致するし、おそらく間違いないだろう……と彼は判断するのだが。
「……あの時の緑髪か? いや、しかし……」
「印象が違い過ぎるって?」
「ああ……」
リドウは思い出した。このヴィレッタという魔法使いこそが、人間が持つ価値観の違いについて母に問い質す切っ掛けになった女である、と。
彼の記憶の中のヴィレッタはもっとお堅い印象で、人間絶対主義のガチガチな正義信望者だった。今のヴィレッタがきっちり服装を正し、中身だけラクセスにしたような感じと言えば大体ご理解頂けるだろう。
ヴィレッタはふわりと目を閉じて、懐かしそうに当事を語る。
「あなたとは一目会っただけだったけれど……あの時のあたしは、送って下さるというザイケン様のご都合が悪くって、しばらくあのお城に滞在させて頂いたわ。それから、シュライゼルまでザイケン様に付き添って頂いて、価値観の破壊と再生が色々とあったのよ」
嘲るように笑う。以前の自分自身を嘲笑しているのだろう。
しかしそれはほんの少しの間でしかなく、再び柔らかい笑顔に戻る。
「あなたのことは忘れようにも忘れられなかったわ。もう十年になるかしらね。当事まだ十歳になったばかりのあなたが、あの方々に果敢に挑む姿をバルコニーから覗かせてもらうのが、滞在中のあたしの密かな楽しみだったのよ。当事はあたしもまだ十八歳だったけれど……自分の信じる現実がぶち壊された最初の出来事だったわね、あれは」
十歳にして、既にヴィレッタが知っていた、彼女の所属国の勇者たちに勝るとも劣らない戦いをするリドウ。
それだけでなく、そんなリドウを厳しくも優しく指導する魔王たちを目にし、それまで自分が教え込まれてきた価値観が一気に崩壊した、と彼女は言う。
「しかし……なぜそれを……」
「え? ああ……」
濁された言葉の内容を察せたヴィレッタは、どこか照れ臭そうに答える。
「その……ザイケン様にお願いして、記憶を消さないでもらったのよ。どうしても忘れたくなくって……」
リドウは横を向きながら深く煙を吐き出し、更にちっと大きく舌打ちをする。
「あんの放蕩兄貴、情に絆されてルールを破るたぁ……らしいっちゃこれ以上ねぇくれぇらしいがな」
「ザイケン様を責めないであげて。私がいけないの」
少し身を乗り出し、心配そうにリドウへ言い募るが、彼の方は軽く肩を竦めており、その顔には特別な感情が浮かんでいないのを見て取り、ヴィレッタはほっと胸を撫で下ろす。
「別に、兄貴を責めやしねぇよ。俺らが迷い人の記憶を消してるのは、迷い人の口からエーテライスの存在が世に出る危険性を考慮しての話だ。あんたの口からエーテライスの情報が漏れてりゃ、とっくに騒ぎになってるだろ。なってねぇってことは、兄貴の眼は正しかったってことだ。なら別にどうでもいい。しかし……」
リドウはじーっとヴィレッタの顔を見つめる。
「そんなにマジマジ見つめられたら、お姉さん照れちゃうわ」
己の頬に手を添えて、くすりと笑う。
リドウ相手にこの態度、このヴィレッタという女魔法使い、ツワモノと言って構うまい。
とはいえ、リドウには今大いなる疑問があり、ヴィレッタの態度に構っている余裕はなかったようだが。
「“そう”とよくよく考えてみりゃ、兄貴の好みそうな感じに仕上がってやがるが……あんた、兄貴に惚れてんのか?」
その問い掛けに、ヴィレッタは悲しげに眼を伏せる。
「あなた、あの娘たちを誰も抱いてないでしょ?」
質問というよりも確認といった感じの口調であった。だからなのか、ヴィレッタは答えを待つことなく続きを口にする。
「きっと、同じ理由で断られたわ――人の世界を捨てるにはまだ若すぎる、って」
ゆっくりと酒を口にする。その間、リドウは何も言葉を口にせず、黙ってヴィレッタを待つ。
「それに、あたしには義務があったわ。幼い頃、容姿と魔道士としての才能を見込まれて、勇者のお付として、あたしの意志に関係なく将来を金で売られたこの身だけれど……それでも、まずしい人々から搾り取られた税で、何不自由なく育てて貰った。その恩を、あたしは国民へ返さなければならない……」
ヴィレッタは黙って聞いているリドウの瞳を真正面から見つめ返す。
「そう、ザイケン様に説得されたわ。自分の敵になる相手なのに、本当に律儀よね――あなたたちは」
ニコッと笑顔を作る。
「あの時のあたしは……酷いって……こんなに好きにさせておいて酷いって、あの方を罵ってしまったわ。あの方はあたしに色目を遣ってきたりなんて一切しなかったのに、あたしが勝手に愛してしまっただけなのに……」
本当に身勝手よね、と自嘲する。
「ザイケン様に会ったら、伝えておいてくれないかしら?」
「……まあ、構わねぇよ」
リドウはどこか不機嫌そうに応える。
ヴィレッタはその態度を疑問に思い、一瞬眉根を寄せたが、この機会を逃しては自分の望みが永遠に叶わなくなると考えたらしく、今は気にしないで願いを口にする。
「あの時、泣き喚くあたしにしてくれたキス、あたしは一生忘れない。ヴィレッタはあの思い出だけを胸に今を生きています――って」
「賜った」
リドウは極短く了解の意を告げながら、深く深く煙管の煙を吐き出す。
「……何か、思うところでもあるのかしら?」
「哀れだな」
訝しげに問うヴィレッタに、リドウは簡潔すぎる答えを返す。するとヴィレッタは、目を険しくしてリドウを睨み付けた。
「……同情ならよして。あたしは、あの方を習って生きている今の自分に……」
きゅっと唇を噛み締める。
「納得しているの」
「違う」
じろっと睨み返す。
「あんたじゃねぇ。あの勇者さんが哀れだっつってんだよ」
「え? あ……」
一瞬疑問の色を浮かべたヴィレッタだったが、次の瞬間には愕然とする。
リドウはヴィレッタを哀れだと思わないわけではなかった。彼の正直な気持ちを言えば、彼女も大いに哀れだ。しかしながら、それはどんな理由があったにしろ彼女自身が選んだ道であり、本人が納得しているならばそれで構わないのだろうと彼は考える。
リドウはむしろ、心の中で他に愛する男が居る女を何も知らずに抱き続けているのだろうユーキの方が、殊更に哀れに思ってしまった。それがヴィレッタに対する不満の原因だった。
「政略結婚とも違ぇだろ。政略結婚なら、男の方も女の方も、相手の心の内に誰か居るかもしれねぇと承知しながらの、互いに割り切った上での契約だ。だがあの男に、そんな分別も覚悟も有るようには生憎と欠片も思えんぞ」
「仕方ないじゃないっ」
ヴィレッタはやましさからか、リドウから顔を背けて、それでいて吐き出すようにして言葉を紡ぐ。
「あたしは元々、勇者に対する捧げ物として用意されたようなものなのよ。国からあたしに与えられた使命は、勇者に尽くし、勇者をコントロールすることだけ。それがあたしの義務だっていうなら……責務を果たすことになるというなら、幾らだって都合のいい女を演じてみせる。あなたたちのような規格外や国という規模からしてみれば大した力も無いあたしには、そのくらいしかあの方に捧げた誓いを守る手段は無いのよ……ッ」
苦しげに吐露するヴィレッタの姿がそれこそ哀れみを誘う。
それきり、ヴィレッタはうな垂れながら身動き一つしなくなり、リドウは静かに煙管を吹かし続ける。
そのまま一分ほどが過ぎ去った頃、最初に口を開いたのはリドウの方だった。
「……悪かった」
この一分ほどの空白で、リドウの中でどういう思考が働いたのかは彼だけが知ることであったが、静かながら真剣な響きで告げられたそれに、ヴィレッタはのろのろと頭を上げる。
「あんたの生き方を否定する心算だったわけじゃねぇんだ」
「あの……」
横合いから気まずそうに声を掛けてきたのは、新しい酒が入ったコップを持って来たウェイトレスであった。中々お目に掛かれないレベルの美男美女のお客二人の間に漂う、何やらただ事ではない雰囲気に萎縮してしまっている彼女に、リドウは笑みを浮かべながら礼を言って酒を受け取ると、彼女は顔を真っ赤にして去って行った。
リドウは新しく来た酒を半分ほど煽ると、火の消えていた煙管の灰を落とし、葉を詰めて火を点してから、ヴィレッタに向けて口を開いた。
「本当にすまねぇ。やっぱダメだな、俺は……」
「え……?」
リドウらしかぬ自嘲の篭った声音に、ヴィレッタは口を半開きにしてぽかんと見つめてしまう。
「最後の一線で、どうしても弱ぇやつの気持ちが理解できねぇんだろうな」
己の額に指先で押さえながら、ため息しつつ首を小さく横の振る。
ヴィレッタは慌てて何かを言おうとし、しかし掛ける言葉が思い浮かばずに口を開いたままで固まってしまい……
少しすると、おもむろに微笑を浮かべてリドウの顔を眺める。
「似てきたわね」
トロンと潤んだその瞳は何を語るのか……。
しかしリドウは、目を閉じて煙を吐き出しながら、無表情で言う。
「やめときな。虚しくなるだけだぜ」
ヴィレッタははっとして、信じられないものを見るような目でリドウを見つめる。
リドウは物音一つさせずに椅子から立ち上がった。
「兄貴への伝言の件、確かに引き受けた。賠償じゃなく報酬ってことで、ここはゴチになっておくぜ。もう会うこともあるまいが、達者でな」
「待って!」
一方的に言い置いて立ち去ろうとするリドウ。その背中に慌てて追い縋るヴィレッタ。
元々落ち着いた雰囲気の酒場で喧騒とは無縁だったにしろ、客同士の話し声は常に鳴り響いていたのが、傍目に痴情の縺れが作り出す修羅場にしか見えない情景にシーンと静まり返っている。
「リントブルムの件、手を貸してくれないかしら? ユーキたちは自分たちなら十分倒せると思っているけれど……あたしは知ってる。アソコで見た伝説級の魔物たちがどれだけ桁違いの存在か。所詮は仮想現実にすぎない遺跡の魔物とは決定的に違う、殺意を剥き出しにして襲ってくる彼らがどれだけ恐ろしい存在なのか……」
「悪ぃが――」
――弱いモン虐めは趣味じゃねぇ――
リドウのセリフにヴィレッタの声が重なり合い、彼は意表を突かれた様子で瞬きして彼女を眺める。
ヴィレッタの方は悪戯に成功した時の無邪気な子供のような笑いを浮かべていた。
「本当に……似てきたわね」
ヴィレッタは笑みを浮かべながらも、瞼を少しだけ落として哀しみを表現する。
リドウは自分のセリフを先回りされたことに一瞬苦笑を零していたが、やがて厳しい目つきで彼女を見据える。
「だが――俺は兄貴じゃねぇ」
「あなたを侮辱するつもりは無かったのよ。それだけは信じて」
ヴィレッタは、自分に再び背を向けてしまうリドウに向かって、一生懸命に言葉を投げ掛ける。
リドウは振り返ろうとはせずに、小さな声で応じる。
「分かってる。だが、あんたが後で自己嫌悪すると理解していながら、知らねぇ振りして欲望に任せて抱いちまうのは俺の流儀じゃねぇ。あんたに魅力を感じねぇわけじゃねぇがな。そこは信じとけ」
「ええ」
「これ以上一緒に居て、お互い変な気分になっても後味がよろしくねぇ。ここらで別れておくのが吉だろう」
「そうね……ごめんなさい」
リドウの言葉はヴィレッタの表情を更に複雑なものへと彩らせていく。
「それから、ありがとう」
が、それでも彼女は、最後は満面の笑顔になって、彼の背中へ精一杯の言葉を紡ぐ。
「本当に佳い男になったわ、あなた」
背後の彼女がどんな顔をしているのかリドウは確認しようとはしなかったが、前を向く彼も暖かい笑みを浮かべながら、軽く肩を竦めて店を出て行……こうとしたところで、彼は何かを思い出したかのように足を止め、ふいっと振り向く。
「一つ言い忘れてた」
「なーに?」
「あの男……」
具体的な名は出さないリドウであったが、それがユーキを指していると即座に了解したヴィレッタが一気に真面目な顔つきになる。
「もちっときっちり教育しとけ。あんな場所でいきなり剣を抜こうとするなんざ、到底正気とは思えんぞ」
「肝に銘じておくわ」
ヴィレッタの冗談の欠片も見当たらない声音に、リドウは無言の内に一つ頷くと、ふっと微笑を零しながら「じゃあな」と短く別れの言葉を告げて、今度こそ店を去って行った。
それを見届けたヴィレッタは、笑顔のままに椅子へ座り直すと、店員を呼んで追加の酒を注文する。
愛憎劇よろしくなシーンを散々見せ付けられていた店員はどこか余所余所しかったが、仕事と割り切って注文を受ける。
ヴィレッタはどうやら、まだしばらくは、自分の仲間の所へ戻るのではなく、リドウとの再会の余韻に浸っていたいらしかった。
……しかし、事態は彼女の穏やかな気分を跡形も無くぶち壊す。彼女にもリドウにも与り知らぬ所で、事態は新たな局面へと勝手に推移していた。
勇者一行が泊まっている宿の部屋では、ヴィレッタが出て行ってから、二人ともに空元気を振り撒くように明るい声音で話し込んでいた。
その最中、勇者ユーキが突然、何やら難しい顔で言い出した。
「チヅル……それにケーコって呼ばれてたよな、あの子たち」
「どうしたんだ? ユーキ」
不思議そうな顔のラクセスを、ユーキは真剣な面差しで見つめ返す。
「僕と同じ日本人に居る名前なんだ」
ラクセスは目を丸くしたと思うと、眉間に皺を寄せて目を細める。
「まさか、あの連中も勇者なのか……?」
言いながら、いやいやと首を横に振る。
「正義を愛する心の欠片も持たないあんな連中が勇者であるわけが……」
何かに気付いたように、はっと目を見張ってユーキを見つめる。
「まさか、例の計画の……?」
「うん」
ユーキは僅かの冗談も見当たらない顔で肯く。
既に彼の中でその推測は真実へと昇華されていた。それ故の迷い無い肯定であった。
自信に満ち溢れたその態度は、ラクセスが持つ疑いの心を一気に消し去り、ただただ感嘆の念だけが彼女の内を満たしていく。
「あのリドウとかいう男がそうだかは分からないけど、あいつはもう“手遅れ”だと思う。でも、他の子たちは……」
ぐっと拳を握り締め、強い意志を瞳に込める。
「きっと、あいつに利用されてるだけだと思うんだ。でも今ならまだ、きっと正しい道に戻ることもできると思う。いや――」
一つ首を横に振る。その顔は確信という名の絶対の自信に満ちている“ようであり”……
「そう信じたいんだ」
ラクセスは己の勇者が“正しい心”に従っているその姿に感動さえした面持ちであった。
美しい話だ。
……これが本当に少女たちがリドウに利用されているだけであったり、リドウがユーキの“信じる通り”の悪漢であったれば――の話であるが。
人、それを余計なお世話と言う。
――その後の展開は早かった。
あんな目立つ集団の情報を集めるなど、これほど容易い仕事もそうはない。宿泊先はあっさりと見つかる。
ユーキたちが少女たちの部屋を店員に訊ねると、この大陸でも珍しい容姿をした彼を見て、例の少女たちの知人なのだろうと勝手に判断したらしく、部屋もこれがあっさりと割れる。
中からは少女たちの姦しい声が聞こえてくる。ユーキは和やかな笑顔を浮かべながら部屋のドアをノックした。
「リドウかしら?」
少し間をおいてからドアが開くと、そこから顔を出したのは千鶴であった。
明るい笑顔で千鶴を見るユーキであったが、その姿を見咎めた千鶴は一瞬にして表情を消し去り、無言の内にドアを閉めようとする。
が、それはユーキが手を差し込んで阻んだ。
「待ってくれ。話を」
「こっちには話なんて無いわ」
力を込めて閉めようとするが、そうすればユーキも相応の力で開けようとするだけであった。
仕舞いには闘気まで互いの体から僅かながら漏れ出す。
千鶴はぎりっと歯を噛み締める。力を入れるためではない。これ以上自分と勇者が力を発揮してドアを引き合えばドアの方が壊れてしまうため、勇者を部屋に入れるしか選択肢が無いと判断し、悔しさから歯噛みしてしまったらしい。
彼女は無言で部屋の中の方を振り返る。
ユーキはそれを許可と受け取ったらしく、意気揚々とラクセスを伴って中へと入る。
が、その時には既に、敵対的な目でいる恵子と心細そうな顔の愛奈を、部屋の奥で背後に庇うようにして偃月刀を片手に立っている千鶴が居た。
シャイリーは当然だが部屋が違うのでこの場には居なかった。千鶴は、こうなるならシャイリーも、寝る前にお話でもと適当な理由で誘っておくべきだったかと、内心で少し後悔する。
「話ならそこでも十分できるでしょう? それ以上奥に入って来たら敵対行動と看做すわ」
その敵愾心しか窺えない声音にラクセスが憤怒を堪えた表情になる。
ユーキも若干の怯みを見せたが、ラクセスを手で制しながら、善良な笑顔を浮かべてみせる。
「単刀直入に訊くよ。キミたちは日本人じゃないのかな?」
「それがどうかしたかしら?」
「否定はしない……ってことは、やっぱり日本人なんだね?」
「だから、それがどうしたのかしらと言っているのよ」
千鶴が言葉を発するたびに、どんどん険悪さを増していくラクセスとは対照的に、ユーキは笑みを深めて行く。
「キミたちは勇者なんじゃないか?」
「そんなものに成った覚えは無いわね」
「この世界に召喚されたのは、多分八ヶ月ほど前なんじゃないかな?」
「そうね」
「なら、やっぱり勇者に間違いない」
いやに断定的な口調で言い切るユーキであった。
千鶴は眼を鋭くしてユーキを見つめている。
「三年ほど前、ロンダイク聖教の教皇庁から、各国に内密の打診があった」
「そんな話を一般人の私たちにして、あなたは許されるのかしら?」
「僕にはそれだけの権限が与えられている。それに、キミたちのような人間を探して保護するのも、八ヶ月前の召喚事故から先、僕に与えられている任務の一つなんだ」
千鶴はふんと鼻で笑う。
「保護? 良く言って確保、でしょう? 本人の意思を無視した拉致でないことを祈りたいわね」
「大丈夫。これを聞いたら、きっとキミたちも理解してくれるよ」
これもまた、いやに自信に満ち溢れた態度であった。
それがただの過信なのか、それとも正しく確信であるのか……それはまだ、少女たちには判断できなかったが。




