第二十四話 船上の休日
航海中、リドウには一人部屋が与えられている。連れは皆異性だし、シャイリーも船員たちは女だと思っているため、まあまあ順当な配置だろう。
リドウはそこで一人静かに、いつものように煙管片手に酒ツボを傾けている。
まだ昼も真っ只中だが、船旅が始まってから先、リドウはこうして独りになることが多かった。
少女たちは揃って、どうも少し様子がおかしいとリドウのことを見ていたが、訊いて答える男ではないだろうし、今は放置しておくしかないと考えているらしく、あまり深く干渉しようとはしていない。
おそらく、件のリントブルムをどうするか、という悩みだろうとも、彼女たちは思っているらしい。
リドウの主義主張からすればリントブルムは放って置きたいが、既に“知ってしまった”厄介事を見て見ぬ振りをするのも、彼の複雑怪奇な矜持がそう簡単に許してはくれず、プライドとプライドの狭間で悩んでいるのであろう……と。
そこに『他人の理屈』を突っ込んでも、それを参考に自分の意見を変えるような男ではないし、放っておくしかない。そう、少女たちはこっそり相談し合って決めていた。
だが、現実には全く違った。
悩んでいるのは確かなことであったが、その内容が全くの別物であった。
リドウにとって、リントブルムの件は既に“終わった話”であった。先日の言葉通りに、実際に被害が出ていれば手を出すのも吝かではないが……古代竜のような伝説級最上位ならばともかく、“あらゆる手段を用いて”もリントブルム如きをどうにかできない国家など、数百年前ならばいざしらず、この時代に存在するわけがない。
自分が手を出すまでもなく、いずれはどうにかされてしまうだろう。生存競争なら勝手にやってくれ……それが彼の考えだ。
ならばリドウの悩みとは何か……。
(絶望――か)
およそ一月前に出会った新米の魔王の言葉が、あの時からずっと彼を悩ませていた。
旅道中はなかなか独りになれる機会がなく、今まではあまり考えないようにしていたようだが、船という閉鎖空間で少女たちの身の安全をあまり考慮せずともいい環境に置かれて、その悩みが燃え上がってきてしまったようであった。
(リリィたちがお嬢にかこつけて俺を送り出した本当の訳はコレ、か……)
新米魔王【剣姫】ルミナリア・ファルミは言った――その若さにして、既に限界は近いはず――と。
リドウの実力は、人が持ち得ると考えられる理論上の限界値に近い。ルミナリアはそう考えたのだろう。
しかし……
(俺はまだ……てめぇ自身が限界だと思ったことはねぇんだよな……)
かつてリドウの兄貴分は、リドウの実力まで達し、なお成長の余地が見える――そう言った。
その通りであった。リドウにとっても、自分はまだ成長して往けるという“感触”がある。故に、『望み得ぬ成長に絶望する』ことはできない。
そう演じろと言われればできないことはないだろうが、心の底から絶望しろと言われて、本心ではそうではないのに自分の心すら偽るなど、そんな器用なこと、リドウには到底できなかった。どの道、演じて成れるような生半可な存在ではないが、魔王とは。
今なお見える成長の余地、そこには希望すら抱いていたのに……
リドウは必ずしも魔王に成りたいわけではない。勝ちたいのだ、育ての親たちに。
今のまま順調に成長していけばなるほど、不可能ではないだろう――兄と祖父に関しては。あくまでも『不可能ではない』というだけでしかないが。
だがしかし、母だけは完全に不可能だ。もはや論理的に不可能なのだ――人の身のままでは。高々百年に満たない研鑽では。どれだけの才能が有ろうとも。
いずれは己の限界に達することもある“かもしれない”。その現実に絶望を覚えることもある“かもしれない”。
かもしれない、かもしれない――所詮は希望的観測だ。絶望を覚えることが希望とは、なかなかに皮肉の利いた話だが。
もし一切の絶望を覚えることなく寿命に達してしまったら……それを考えると、それこそリドウにとっては絶望的な気分であった。それが魔王覚醒に繋がる絶望とはちょっと違うだろうし。
(狂気と苦悩と絶望の果てに、か。リリィらしい劇場型の戯言かと思ってたが……ガチだったとはな)
――究極の領域まで達してから知る己の実力に対する絶望――
その『究極の領域』とやらがどのレベルを指しているのかはリドウも知ることではないが、彼は自分のレベルは既にアルティメットだと認識している。言ってしまえば自惚れ以外の何物でもないが、ついこの間は新米とはいえ魔王の一柱に勝利しているのだし、そのくらいは許されてもいいだろう。
(真の敗北を知ってこい――ってとこか)
それで命を落としてしまう可能性は十分以上に考えられるが……それを憂慮して猫可愛がりするのが愛情であると、あの息子コンプレックス、略してサンコンもしくはムスコンな大魔王様ですら、そうと考える性格の持ち主ではなかった。いわゆる獅子は子を千尋の谷に、というやつだろう。
しかし、リドウが真に敗北できるほどの相手となると、どう考えても非常に、極めて限られてしまう。
(……どっかの国に喧嘩吹っかけてみるか?)
単独での闘争ではなく、数の暴力による戦争としてならば、滅多に出会える相手ではない魔王を探すよりも、敗北を覚えられる可能性も考え易い。
(だが……趣味じゃねぇな。それじゃ堅気に迷惑かけちまうし)
戦争には金がかかる。リドウという『国家単位の戦力』に相当する使い手との“戦争”となれば、普通に戦争するのと大して変わらない資金が必要とされるだろうし、被害だってそれ相応になってしまうだろう。
(勇者にゃ大して期待できねぇしな……それ以前に、下手に喧嘩吹っかけるわけにもいかねぇか。やっぱ魔王だな)
魔王にすら普通に勝利可能なリドウが、魔王に勝てない勇者たちを相手に敗北するのは“難しい”だろう。“負けてやる”ことは幾らでもできるだろうが、今彼が求めているのは真の敗北だ。
(【万象】か【絶閃】だな……。兄貴と爺さんの次に古く、兄貴と爺さんですら勝率は七割と言わしめるこの二柱なら……)
どちらか一方であれば“運良く”勝てる可能性はあるだろうが、どちらとも戦って勝ってしまうことは、リドウにとってもまず考えられなかった。
(しかし……それで絶望できるもんなのか? そもそも、コレ自体が“負けに行ってる”ようなもんじゃねぇのか?)
ちっと舌打ちし、深く煙管を吸う。
(こんちくしょうめ……まさかこんなフザケタ事情で躓くとはな)
より強く、大きく、高く、頂を目指していれば、いずれ覚醒できると思っていたのだ、リドウは。
それが……
と、そこまで考えた時であった。コンコンと部屋のドアをノックする音が聞こえてくる。
「入りな」
誰、と確認することもなく、リドウは訪問者に入室の許可を出す。
静かにドアを開けて入ってきたのは千鶴であった。
「私だと判っていたのかしら?」
なぜか悪戯っぽい笑みで訊ねる。
「気配でな」
「他の人間が言ったのなら、格好つけるのも程々にしなさいと忠告するところだわ」
「足音だけでも、その人間の体格くらいは知れるぜ。見知った相手が判断できねぇわけねぇだろ」
肩を竦めてみせるリドウに、千鶴も目を閉じて苦笑しながら、肩を竦めて応じる。
「それで、何の用だ? “いつものお遊び”なら、今は付き合ってやれる気分じゃねぇぞ」
「一つ、“警告”しておくわ」
千鶴は急にすぅっと目を細める。その瞳には激情とすら言うべき強い色を浮かべていた。
「私があなたを誘惑する時は常に真剣なのよ。それを戯れと一緒にするなら、たとえあなたといえども許せることではなくってよ」
「悪かった」
リドウは即座に、煙管を持たない方の手を挙げた。真剣には到底見えない態度であったが、これでもこの男は心の底から今のは自分が悪かったと思って謝罪の意を示しているらしい。
千鶴にリドウをどうこうできるはずがない、あらゆる意味で。そんな単純な事実、千鶴もリドウも理解している。
しかし、事はそういう問題ではなかった。だからこそ、リドウは余計なことを口にしたりせず、素直に謝ったのだ。千鶴にはそれが理解できたため、すぐに機嫌を取り戻すことができたようで、落ち着いた様子でリドウの対面の椅子に座る。
「話があるのよ」
「話、ねぇ」
「質問……いえ、確認と言った方が正しいかしら?」
千鶴は両手を組んで口元を隠しながら、真剣な眼差しで目の前の男を射抜く。
「――あなたの御母堂に関してよ」
「…………」
リドウは何も口にせず、煙管の煙を吐き出しながら、目を細めて千鶴を見つめる。
千鶴は気にすることはなく、話を続けることにしたようだ。
「ずばり、単刀直入に訊くわ。あなたの御母堂は――【魔神】なのではないかしら?」
「ほう?」
リドウは興味深そうに千鶴の推測に相槌を打った。
それに対して、千鶴も薄笑いしながら相槌を打つ。
「ふーん。否定はしないのね」
「事実だからな」
いともあっさりと認めるリドウであった。
千鶴は、いくらそう“考えるしかなかった”とはいえ、あまりにもぶっ飛んだ話の内容が精神的に受け入れ難かったらしく、笑んでいた顔を痛そうに歪めながら、掌で額を押さえて天井を仰ぎ見ている。
「別に隠すほどのことでもねぇ。赤の他人や口の軽い人間に言い触らしてえ話じゃねぇがな。しかし、どうして分かった?」
「あなたは以前、完璧に勝利してみせなければならない相手が居る――と言ったわ。まさか、新米の末席とはいえ、魔王にすら匹敵するとは私も思っていなかったけれど、ね」
千鶴は視線をリドウへと戻す。その顔には若干の呆れすら浮かんでいた。
「そのあなたが未だ勝利の覚束無い相手なんて、その時点で魔王にほぼ限定されてしまうわ。極めて高位の魔道士で優秀な魔道学者、という点から魔神ではないか、と更に限定してみたのですけれど……」
まさかドンピシャだったとは……と千鶴は呻く。半分くらいは、違っていてくれと願っていたらしい。別に魔神に対してマイナス方面の感情を抱いているわけではなかったが、流石にビッグネームにも程があるだろうと、彼女は思うところであったようだ。
「いずれ勝利してみせるというあなたの言い方が、憎しみや怨念から来る復讐心ではなく、尊敬か、それに近い信念すら感じられたから……もうこれは間違い無いかも、と思うしかなかったのよね……」
そこまで推測を展開した時に、再会した夜の恵子との会話を思い出し、“それならば”魔神の名が出た時の彼女の反応もむべなるかな――というのが、実は最大のヒントとして確信にまで至った原因だったりするのだが……。
千鶴はあの時の恵子とのやり取りをリドウに話す気は無かったので、そこまで説明する気も無かった。
「マジで恐ろしい女だな、お前さん」
「よしてちょうだい」
心底嫌そうに顔を顰める。
「褒めたつもりだったんだがな」
「恋しい男に怖い女だと思われるだなんて、最悪な気分だわ」
「単なる言葉のアヤだ。そういう素直なところは可愛いと思ってるぜ」
ふっと微笑するリドウ。
千鶴はぽっと頬に朱を灯してしまう。
「そういう言葉が平気で出てくる男の言うことなんて、信用ならないわ」
ぷいっとそっぽを向く千鶴の頬は僅かに膨らんでいるが、口元がにやけそうになっているのは誤魔化しきれていない。
クールビューティーが服を着て歩いている一条千鶴だが、リドウ相手ではやはり、いささか分が悪いらしかった。
しかし千鶴はやおら表情を神妙なものに変えてリドウを見つめる。
「もう一つ、確認しておきたいことがあるのよ」
「何だ?」
「あなたの目指す先――」
眉間に皺さえ寄せて、ぎゅっと射抜くような目になり、その声も若干重い雰囲気を感じさせる。
「それは魔王で間違いないわね……?」
「ああ」
躊躇なく肯くリドウに、千鶴は目を瞑って数瞬の間を置いた。
リドウは特に自ら口を開く意思は感じさせず、静かに煙管を吹かし続ける。
「……もう一つ確認したいことができたわ」
「遠慮せんでいいぜ」
千鶴はその言葉に、何らかの意を決した風な表情になる。あるいはそこまで彼女にとっては重要で、そこまでしなくてはならないほど問いづらい、もしくは知りづらい内容なのだろう。
「魔王に生殖能力はあるのかしら……?」
「無い」
即座に返ってきた答えに、千鶴はほんの一瞬、絶望したかのような顔になってしまう。
千鶴にとって魔王という存在は、彼女ですら未だに今一良く理解できてはいなかったが……一つだけ彼女にとって憂慮すべきことがあった――子孫を残す機能が有るのか無いのか、だ。もっと言ってしまえば、ヤルことがヤレるのかヤレないのか、である。
魔王とは不老不死だ。つまり一個体で完成された存在である魔王に、種族を維持するための機能、生殖能力は必要ない。もしかしたら失ってしまうのではないか……千鶴はそう予測し、見事それは核心を突いてしまった。
恋愛感情とは種族維持本能が具象化した欲求である以上、生殖能力の有無が関係するところは大きい。生殖能力の無い魔王には、覚醒してしまった時点で恋愛感情も無くなってしまうのではないかと千鶴は考えていた。
一刻も早くそれを確認したくて、千鶴は半ば焦った様子すら見せながら質問を畳み掛ける。
「魔王に恋愛感情はあるの?」
「所詮、人間の延長線上の存在だからな」
ある、とリドウが言外に答えると、千鶴は少しだけ安心した面持ちになる。
「生理的な欲求や反応は基本、人間のそれに順ずる。種族維持機能だけは失うが、異性と関係することは普通にできる。まあ魔王に覚醒するような人間は大なり小なり元々がどっかイカレてっからな。そういう意味じゃ、まともな人間とは言えねぇだろう。ただ……」
「ただ……?」
難しい顔つきで言葉を濁すリドウに、千鶴は不安を煽られながら、控え目な声で追及する。
「あまりにも永く生きてると、徐々に思考が人間離れしてくるらしい」
「人間離れ?」
「リリィ……魔神のことだがな、お前さんが知ってる限りのリリス教の教え、リリィが説いたっつうアレだが、人間が同じことをのたまったとしたら、お前さんはどう思う?」
「正気かどうか疑うわね――」
千鶴は突如、何かに気づいたようにはっとする。
「まさか……視点が神の位置に……?」
「リリィはあれを、心の底から大真面目に言ってんだよ」
リドウは静かに肯いた。
「元来の人間性に関係なく、いずれな、限りなく『ソコ』に近づいて往くらしい……。そうなった時でも、他者に対する好悪の感情まで失うわけじゃねぇが、まともな意味での恋愛感情を有するかは果てしなく疑問だ。二十年間リリィと一緒に暮らしてきて、俺も未だはっきりとはしねぇ……いや、どっちかってぇと、もう失っちまってんじゃねぇかと俺は思ってる」
千鶴は酷く難しい顔になってしまう。
が、すぐに自分の心配が杞憂であると気付いて、素の表情に戻った。
魔王に成り立てならば人間とそうは変わらず、子孫を残せない――いわば『種無し』になってしまう以外には人間と言ってしまって良く、人間らしさを失って行くにしてもそれは遠い未来の話だ。仮にリドウが近々魔王に覚醒してしまったとしても、千鶴に魔王だからといって忌避する感覚は皆無なため、彼女にとってはあまり関係が無い。
まあ、魔王化してしまったリドウと結ばれた場合、自分のお腹を痛めて子供を産めなくなってしまうというのは、千鶴もちょっと深く考えてみただけで存外ショックだったりしたりして……
「私たちの旅が一段落して、私があなたの子供を産むまで、魔王に成ったりしないでちょうだいね」
「ふざけろ」
苦言を呈するリドウであったが、その顔は笑っていた。千鶴の声や表情が冗談めいていたため、自分もそれに合わせてやっていた。
……しかし千鶴の本心は割と切迫していた。
一条千鶴という名の少女にとって、現在何よりも優先されるのは己の欲望ではなく、自分のために失われた無辜の命に対する贖罪と感謝のための旅の目的だ。もし今すぐそれと想い人に対する恋心を秤に掛けなければならなくなった場合、彼女は迷い無く前者を選ぶ。
そうなった時、両立させられるように最大限の努力はするだろうが、もし無情にも選択肢が限定されてしまった場合、確実に躊躇無く、独りでも目的を果たすことを選ぶだろう。
とはいえ、彼女が憂慮しているのはリドウとの決別では“ない”。そんな可能性が限りなくゼロに近いのは、リドウの性格から考えて疑いようが無いからだ。
ならば何をと思われるが……
リドウの魔王化――千鶴にとってそれは時間の問題にしか思えなかったのだ。
真剣勝負で魔王に勝ってしまうような人間ならば、その時点で魔王に覚醒する条件は整っていると見て構わないだろう。
実際には、リドウにとって、彼自身が思っていたよりも難儀しそうな話であるが、それを千鶴は知らない。
彼にとって、魔王に匹敵するだけの実力……は既に得てしまっているが、上を目指して往くのは息をするのと同列に当たり前だった。しかし、己の実力に対しての絶望など、どうやって抱けばいいのか皆目見当もつかないのだ。
傲慢にも聞こえるだろうが、彼は今まで、己に対して失望感を抱いたことすら一度も無かった。特に己の実力に関しては、そんな感情と最も縁遠いと言っても過言ではない。それが絶望しろと言われても……。
基本前向きな性格であるのが余計に災いしていた。真の敗北を体験したからと言って、それで絶望感を抱けるものなのか、彼にとってはむしろ全く自信が無かった。
しかしながら、特にルミナリアとのやり取りを盗み聞きしていたわけでもない千鶴にとってみれば、そんな事情を知っているわけもなく、またこれは予想できる類の話では流石にない。
千鶴の旅の目的には際限が無い。いずれは諦めるに至る時は来るだろう。しかしそれは、自分の欲望を優先させた上での妥協であってはならないのだ。
このままでは惚れた男の子供を産めないかもしれない……そう思うと、千鶴にとっては、本人も考えてみて想定外に大ショックだったらしいが、それだけ切実な問題であったらしい。
この問題をどう処理すべきか。こればかりはちょっと考えてすぐ思いつく類のものではなく、千鶴は外見は平然を装いながらも、彼女らしかぬ鬱々とした感情を抱えながら、静かに部屋を辞して行くのであった。
流石のリドウも、千鶴がひた隠しにしようとしているものを容易に見抜けるものではなかったらしく、彼女が居なくなると、特に気にすることなく再び自分の考えに没頭し始めた。
千鶴がリドウの部屋を訪ねている頃、恵子と愛奈はシャイリーと一緒に鋼板に居た。
愛奈も船旅に慣れてきたようで、気候の穏やかな日にまで船酔いで苦しむようなことは無くなっていた。
どうしても女の子にしか見えないシャイリーだと、恵子はもう彼を女の子なのだと開き直るようになっていたし、愛奈も男嫌いでこそないが、あまり得意とはしていない異性であっても、彼相手ならば平然と接することができるらしい。
そんな三人はここ数日、和気藹々と井戸端会議で一日の大半を過ごしていた。することの少ない船旅では、お話くらいしか暇潰しが無いのであろう。
「いやー、しかしリドウさんって凄いよねー。まさか霞落しを現実に食らうとは思わなかったよ」
シャイリーはこの上なく楽しそうな笑顔で、本日のリドウとの稽古を思い出す。
「霞落しって、あいつが手も触れてないのに、いきなりシャイリーちゃんがぶっ飛んだやつ?」
「うん」
「発勁ってやつじゃないんですか?」
「だから、『気』の力で相手を吹っ飛ばしたりするようなのはただの幻想かインチキだって」
闘気を全開にして風圧で吹き飛ばしたりはできなくないけど――と零すシャイリーに、恵子と愛奈は、やっぱりコイツも人間辞めてる口かと空笑いする。
「あれはちゃんとした技だよ。完全に神業の領域だけどね」
「どーゆーのなの?」
恵子の問いかけに、シャイリーはうーんと唸る。
「説明するのが難しいんだけど……僕らみたいなハイレベルになるとさ、相手の気配とかで、次に相手が何をしようとしてるのかが、何となく判断できるわけ。高度な技術戦になると、それを隠したり、逆に表に出したりして駆け引きをするんだけど、リドウさんはそこから更に一歩上に行って、『気当たり』だけで僕の反射神経を逆手にとって、結果的に上手く釣られちゃった僕が『勝手に投げられ』ちゃったんだよ」
シャイリーですら理屈を聞き知っているくらいで、現実に可能とする使い手が存在するとは夢にも思っていなかったと言う。
「リドウさんってさ、あんないい体格してるのに、僕よりもずっと柔拳寄りだよね。意外と平和主義者なリドウさんには合ってるけど」
「あいつを平和主義者ってゆー?」
「無闇に殺しちゃったりはしませんけどね……」
疑わしげに言う恵子に、愛奈も一応はフォローしながらも、しかし口調は恵子に同意するものであった。あのバトルジャンキーを平和主義者と言うには、二人にはとても無理なようだ。
シャイリーは常時の朗らかな「あはは」笑いをしている。
「普通さ、僕たちみたいな職種の男たちって、相手を殺せることに至上の価値を見出すもんだよ。他人の『人生を奪う』って凄い快感だからねー」
「人生を……」
「奪う……」
何やら物凄い深い言葉に思えた二人は、どこか呆然とそれを繰り返す。
「そ。殺せるってことはさ、そいつより自分の方が強いってことでしょ? 強さの証明に最短の方法なんだよ、殺しって。“弱いやつほど”殺せることが強さの証明だと思い込んでるもんだからさ」
「は?」
「え?」
強さの証明と言いながら、弱者ほどそう考えるものだと言うシャイリー。矛盾もいいとこのその言葉の意味が、二人にはさっぱり理解できないらしい。
「殺すのなんて簡単だよ。愛奈ちゃんなら魔法で一発だし、恵子ちゃんだってナイフの一本も持てば、完全に無防備な人間なら殺すのなんてわけないでしょ?」
「ま、まあ……そんなことしないし、したくもないけど……」
「そんな『楽な生き方』してたって、本当に強くなれるもんじゃないからね」
恵子はあっと思い出す。
「それ、あいつも言ってた」
「ふーん……」
シャイリーは意味深な笑みを浮かべる。
「やっぱ、リドウさんもそーなんだ。強いはずだよ」
「楽な生き方って……どーゆー意味なんですか?」
「うーん……」
シャイリーは首を捻って唸る。これも言葉にして説明するのは少し難しいらしい。
「……単純な話だとさ、盗賊とかの暴漢を殺しちゃうのと、無傷で捕らえるのと、どっちの方が難しいかは判るでしょ?」
「あー、なるほど」
「何となく分かりました」
「それだけが理由ってことでもないけど、まあ大体はそんなとこ」
シャイリーは手のひらを広げて、そこを静かに見つめる。
「殺しなんて弱さの証明だ。極まった武はたとえどんな相手でも殺すまでもなく制する。殺す必要も無い相手を殺して、自分は強いと悦に浸る……そんな甘え、僕には許されない」
開いていた手をぐっ拳に握って、強い感情を瞳に浮かばせる。
そんなシャイリーを見て、恵子はとある感想をますます強くしてしまい、隣の愛奈に小声で愚痴を零す。
「なんかこいつ、外見が可愛いだけで、言うこと為すこと、あいつに似てない?」
「千鶴さんもソレっぽいですし、先日の魔王さんといい、どーして“こんな人たち”ばっかり寄ってくるんでしょーか、私たち」
「類は友を呼ぶ、ってやつじゃない?」
二人は顔を見合わせると、同時に深い深いため息をするのであった。
自分の考えに、無意識の内に集中してしまっていたシャイリーは、そんな二人にようやく気付いて、不思議そうに小首を傾げる。こんな仕草がやはり女の子にしか見えない男の娘である。
「どーかしたの?」
「ううん」
「何でもありませんよ」
恵子と愛奈は笑顔でシャイリーの疑問を否定してみせる。
気にしているようには見えないシャイリーであったが、愛奈は話を逸らすためと、無理やり話題を探して……握り締められていたシャイリーの拳が開かれるところを見て、あっと思い出すことがあった。
「そーいえば、シャイリーさんもリドウさんも、滅多に手をぎゅっとして攻撃したりしませんよね?」
愛奈はボクシングのファイティングポーズのように両手を握って突き出し、しゅっしゅっと息を吐きながらパンチの仕草をしてみせる。
「やっぱ危ないから?」
恵子も思う時があったことらしく、自分の推測を織り交ぜて訊ねるが、それはシャイリーを苦笑させるだけであった。こいつらのような人種が、稽古中だからといって『危ないから』という理由で厭うわけがない。
「最初から全力で拳を握るのなんて、力の無駄。筋肉が硬直しちゃって、素早さが殺がれるだけだよ。重要なのは衝突の瞬間、そこでいかに多くの力を集約して爆発させることができるか」
無手に限らず、大抵の武術は同じである。剣術だって、インパクトの瞬間にぎゅっと柄を握り締めるのだ。例外的に、最初から拳を強く握ることで、破壊力だけを追求する技も存在しないことは無いが。
「それにね、拳って案外脆いもんだから。闘気で強化できるなら話は別だけど、“自分の力に耐えられる”ように鍛えた拳で、更に的確な技術によって繰り出さないと、簡単に骨とかいかれちゃうからね。それよりも、手首付近の硬い部分の方が力を出し易いんだ。闘気を持たない女の子には特にお勧め」
「じゃーさじゃーさ」
恵子が身を乗り出す。この機会に疑問点を払拭してしまおうという魂胆のようだ。
「どーして『地面を踏み締める』の? 普通さ、早く走ろうと思ったら、爪先で『地面を蹴る』んじゃないの?」
「ああ……爪先ってゆーか、親指の付け根ね」
シャイリーは恵子が何を知りたいか的確に察することができたようだ。やはり彼も、リドウと同様に理論で武術を“知って”いるのだろう。
「そーそー。でも、確かにコッチの方が“上手く”動けるのよね」
「道場とか、足場の整った場所でなら、ソッチの方が速く動けるのは確かだよ。けど、僕らは“どんな場所でも”最適な動きができないといけないからね。足場の悪い所で地面を蹴ったら、滑って転んじゃうんだよ。リドウさんはごちゃごちゃ理屈を並び立てるんじゃなくって、感覚だけを上手く言葉にしたね」
それができるだけ、正確にその理論を自分の頭の中で理解できている証拠だと、シャイリーは言う。
そういうシャイリーこそ、きっちり理解できているからこそ、リドウをそうと評することができるのだろう。
恵子と愛奈は感嘆の吐息を零すばかりである。
「リドウさんもシャイリーさんも、本当に『ぶじゅつー』って感じで……」
「感じで?」
何やら言葉を濁して首を傾げている愛奈に、シャイリーが不思議そうに問い掛ける。
「うーん……何てゆーか、私たちみたいな素人にしてみると、強くなるのにとっても不便な世界です。普通、ファンタジーな世界って、スキルで簡単に技が出てくるもんですし」
「なに? そのスキルって」
興味を惹かれたらしく、面白そうに問うシャイリーに、愛奈はうーんと首を捻る。
「シャイリーさんが連続技でするようなことが、技の名前を叫ぶと、正確に連続技をトレースして、繰り出してくれるシステムです。私たちの世界のゲームでの流行ですね」
シャイリーはそのスキルという現象を想像し、すると途端に顔を顰めてしまう。
「それ、キャスティングみたいに、設定された技が正確に出てくるわけ?」
「はい。やっぱり、努力もしないで身に着けたスキルで、自分と同じことをされるのって、いい気持ちしませんか?」
「そーじゃなくって……」
頬を指先でかきながら愛奈を見る。
「そんなの、自分から相手に隙を教えてあげてるよーなもんじゃん。無詠唱で打ち出せるんだとしても、決まった動きしかできないんじゃなー……初撃で決まらなかったら、まずお仕舞いじゃない?」
逆に弱くなっちゃうでしょ、とシャイリーは呆れ顔で言った。
「まあ初心者が使うなら、手っ取り早く効率的な動きが真似できていーかもだけど……ある程度以上の領域になったら、そんなの一切通用しなくなると思うよ」
「ま、あくまでもゲームの中の話だから」
「その『ゲーム』ってゆーのだけが、今一良く理解できないよ……」
ファンタジー世界の住人なシャイリーには、現代技術の粋であるテレビゲームの存在が、いくら説明されてもあまりピンとこないらしかった。
「でもさ、面白そうな世界だよね。僕も一度行ってみたいな」
シャイリーは目をキラキラさせて空を見上げる。
既に彼女たちがルスティニア人ではないことを、シャイリーは聞き知っている。この世界において異世界人というのは、勇者に限られてはいるが、そう珍しいものではないため、無理に隠す必要はないのである。
リドウ一行が勇者ではないのは、ちょっと世間を知っていれば容易く看破できるとはリドウ自身の言であり、シャイリーもそれに同意するところであった。
「あなたのような人間にとっては、至極退屈な世界だと思うわよ」
「やあ、千鶴ちゃん」
リドウとの話が終わり、一人で戻ってきた千鶴がシャイリーに声をかけると、彼は鋼板に座ったまま、笑顔で彼女を見上げる。
「もう用事は済んだの?」
「ええ」
千鶴はシャイリーの隣に腰を下ろして、壁にもたれながら空を見上げる。
「とてもいい所よ。進んだ技術によって便利な暮らしが誰にでもできる。外敵に怯えることなく、平和で、穏やかな日々を誰もが送ることができるわ」
「いい国だね」
笑顔マックスで千鶴の横顔に視線を置くシャイリー。
「そうね」
千鶴は苦笑気味に唇を歪めた。
「秩序のしっかりしたとてもいい国よ。けれども、それ故に“馴染めない”人間にはとても住みづらい国でもあるわ」
「その平和で穏やかな日々を求めてやまない人間が、この世界にどれだけ居ると思う?」
「それがどれだけ掛け替えの無いモノであるか――否定する心算は無いわ」
両者共に淡々とした声音であった。シャイリーには千鶴を責めるつもりはなかったし、千鶴にしても自分の言葉通り、平和で穏やかな日々を愛する人々に対して、『平和ボケ』と詰るつもりはなかった。
「でも、私には空気が合わなかったのでしょうね」
「確かに、僕にも合わないっぽいね」
二人が揃って見つめる空の先。そこで何を思うのか、恵子と愛奈には到底計り知れず……やっぱりこいつらは同種族かと、諦めの篭ったため息を吐くのであった。最近はこんなのばっかな気がする。
恵子はため息しながら、千鶴たちのように空を見上げる。澄み渡った綺麗な青空に、ぼーっと思考が吸い込まれていく気がする。
(芳樹……どーしてるかな……)
恵子は恋人の少年を想う。
(最近、あんまり思い出すこと、無くなってきた気がするよ……)
極々普通な女子高生であった麻木恵子にとってみれば、ルスティニアでの日常は激動の毎日だ。鮮烈かつ強烈な日々に思い出が圧迫されてしまうのも仕方がない。
(早く……あたしを見つけてよ、芳樹……)
そうでなくては、自分が自分でなくなってしまうような、言いようの無い不安感が恵子の心身を襲っていた。
ある意味、恋人を責めるような他力本願だが、彼女にとって恋人の少年は、それくらいはできる“はず”のスーパーマンなのだ。リドウや千鶴に勝るとも劣らないスペシャルな人間なのだ。
愛奈と再会し、冷静に現状を指摘されてしまったことで、恵子の中でも「仕方のないことなのかも……」という諦念が少しずつ生まれ始めていた。
しかし、自分の気持ちに対して、ではない。
(もし、芳樹に新しい恋人が出来てたとしても……)
ふぅ、と小さな吐息を晴天の空に向けて吹き掛ける。
(口汚く罵るようなことは……したくないな……)
愛奈はリドウを、放って置く女なんていないと評した。それは自分の恋人にだって言えてしまうことなのだ。千鶴とて、単純にスペック面だけを見ればハイレベルだと思わないでもない少年なのだから、恋人としての欲目も加えた恵子の評価ならば、そうなって当然だろう。
(……うん。早く見つけよ。それで……)
決着をつけなくては――
(って、決着ってなに? 何で決着?)
不意に自分が考えてしまった内容が、恵子は自分でも理解できずに首を傾げる。
「どーかしましたか?」
「え?」
突然不可思議な行動に出た恵子に愛奈が疑問の声を投げかけるが、問われた本人は意味不明とばかりに目を瞬かせるばかりであった。
「ううん。別に」
「そーですか? ならいいですけど」
恵子は声を掛けられてしまったことで思考が中断し、今しがた覚えた疑問についてそれ以上深く考えることができなくなってしまった。それが良かったのか悪かったのか、今の彼女には理解できることではない。
……船旅で、陸路を行くよりも遥かにトラブルに見舞われることの少ない、一見すると穏やかな日々だが、内実はかように、それぞれに色々と抱え込んだ日々であった。
ハイネリン王国の貿易都市シュライゼルからブランカ帝国までの船旅はおよそ三週間に及んだ。
航海中、特に魔物や海賊の襲撃も無く、至って平穏に時は過ぎ去った。
その間、リドウはとうとう、千鶴やシャイリーとの稽古に顔を出す以外に、殆ど表に出て来ることはなかった。
しかし、顔を出せば平素の泰然とした態度を崩さないため、恵子や愛奈は上手く事情を訊ねることができず、悶々とした感情を抱え込んでしまっていた。千鶴の場合は、そこら辺の割り切りがクールにできてしまうようである。
それに気付いている様子のリドウであったが、自分の問題であり、他人に話すようなことではないと考えているらしい。リドウらしいと言えばそうであろうが、他人カテゴリーされてしまったと少女たちが知れば、特に直情型の恵子などは怒ったかもしれない。
そんなこんなで色々と新たに問題が発生したりはしていたが、とりあえず一行は無事にブランカ帝国に到着した。
陸に降り立ったリドウは、少女たちの方を向いて今後の方針を確認する。
「さて。ひとまず二、三日休憩がてらに情報収集するとして、特に問題が無きゃ、次はサークライド皇国を目指す。シャイリーはどうする?」
「リドウさんたちさえ良ければ、当分は一緒に行くよ。僕は特に目的も無いぶらり旅だからね」
「お前さんの好きにしていいぜ」
少女たちの方からは、当面の目標にもシャイリーの同行にも特に否定的な言葉が出てくることはなかった。
当面の最終目的地であるのはフェルミア王国。そこは実のところ、ここより更に別の大陸であったりする。
が、海流の関係でシュライゼルからの直行便は存在しないため、一度このブランカ帝国まで出てから、更に幾つか国を隔てたサークライド皇国の貿易都市まで行き、そこから次の船に乗るしかない。
何のトラブルも無く順調に進めたとしても、フェルミア王国まではまだ半年以上の時間は見込まれるだろう。
それでも、確実に一歩ずつ足を進めるしかない。
「はぁ……やっと陸を行けるのに、暫くしたらまた船に乗らなきゃいけないんですね……」
「今度船酔い止めの薬がないか、探しておきましょうね」
「是非そーしましょう」
千鶴が苦笑混じりに言うと、愛奈は切実なまでに真剣な顔で肯いた。
「はは、大変ね。ま、とりあえず、日本人情報をあたろうよ」
「見つかるといいですね」
「そうね」
少女たちは穏やかな雰囲気で微笑み合う。
「僕も手伝うよ」
「助かるわ」
笑顔で助力を申し出るシャイリーに、千鶴も表情を緩めたままで応じた。『女の武器』を有効活用することを厭わない美少女風美少年なシャイリーの助けは、情報収集においてはかなりの力を発揮してくれることだろう。
可愛い見た目に反して戦闘能力も高そうだし、意外と頼もしい旅の連れになってくれるかもしれない。延々と一緒になるかは、まだ分からないが。
「とりあえず、今夜の宿を押さえるとするか。他の細々した話はそれからだな」
こうして、一同はユクリナス大陸を離れ、アイルゼン大陸はブランカ帝国の貿易都市ボレイスに到着した。




