第八話 ノイケン盗賊団
ノイケン盗賊団討伐作戦に関して、さほど複雑な行動は予定されていない。
まずリドウとハインツがノイケン盗賊団と思しき構成員を張り込みし、彼らが移動したら、そこから十分ほど離れた場所で待機している女性陣にリドウたちのどちらかが知らせに行き、もう一人は目印を付けながら盗賊団を尾行し続ける――といった感じである。
そうして張り込むこと数日。
「くっ……」
千鶴が苦しげに呻く声がする。
「非道い……ッ」
掠れた涙声で言葉を紡ぐのは恵子である。
「ハインツ」
リドウは感情を一切窺わせない声で、今回限定の相棒の名を呼ぶ。
「何でしょう、リドウさん」
応えるハインツの声は憤怒を押し殺した極低音のものであった。
「こいつらに限らず、ノイケンの連中にとっちゃ茶飯事なんだな?」
「はい」
リドウは肯定の言葉が返ってくると、何を思ったのか瞑目した。
「連中の顔を忘れるな」
「無論」
彼らの監視する先では、今まさに盗賊たちによる略奪が行われていた。
盗賊たちの獲物は行商人一行。
不意打ちにより二人の護衛冒険者が初撃で死亡し、統制を欠いた護衛冒険者たちは何とか非戦闘員を逃がそうとするも叶わず、積荷を諦めて命乞いをする商人たちを、盗賊たちは笑いながら殺していく。
最もタチが悪いタイプの盗賊たち、それがノイケン盗賊団の構成員であった。
公道ではあるものの、林道という視界の利かない場所では、やはり盗賊等の活動は草原よりも活発であった。
リドウたちは盗賊たちに見つからないよう離れた所から、その地獄絵図を隠れて窺っていた。
「リドウ……助けては、あげらんないのね……?」
恵子が縋るような眼差しで、傍らに立つ男を見上げる。
「今日が集会日当日なら連中を締め上げりゃ済む話だが、それが判らねぇ以上、ここで連中を止めても蜥蜴の尻尾切りになるだけだ。肝心の大本を捉えきれなくなる。辛いだろうが、我慢しろ」
恵子とてあらかじめ説明されていたことだ。それでも再度確認したのは、あんな光景を許していいはずがないからに違いない。
恵子には冷静に盗賊たちによる略奪行為を眺めているなど到底できず、何かに縋りつきたくて仕方なく、その相手として千鶴を選んだようで、自分より少し背が高い彼女の肩に自分の目の部分を擦り付けながら抱きつくと、声を押し殺して泣き始めた。
千鶴はそんな恵子を優しく受け入れて、慈しむように彼女の背中を撫でながら、しかしその顔は厳しい眼差しを浮かべ、その視線をリドウに送る。
「まさか、あんな連中でさえも、殺しは御法度と仰るつもりじゃないでしょうね」
「それこそまさかだな。俺もここまでタチが悪ぃ連中だとは思ってなかったぜ」
リドウは銜えていた煙管から灰を地面に落とし、それをぐりっと足で踏み付けて消す。
その内心で「お嬢を連れてくるべきじゃなかったな、流石にこいつぁ刺激が強すぎる」と迂闊な自分の行動を反省しつつ……
「――皆殺しだ」
そのあまりにも、一欠けらさえ感情が窺えない静かな声に、その場に居た恵子、千鶴、そしてハインツまでもが、一様にごくりと何かを呑み込んだ。
「好ましいとは口にしねぇし、思ってもいねぇが、護衛の冒険者は仕方ねぇ。いざって時は真っ先に死ぬのがあいつらの仕事だ。冒険者である以上、死は常にてめぇの身に付き纏う、覚悟はしてただろうし、してなかったならそりゃ自業自得だ。だが商人は違ぇ。命乞いをする非戦闘員を殺るなんざ、魔物畜生にすら劣る外道の所業」
リドウは再び煙管に火を点し、深く一吸いして、更に深く大きく煙を吐き出す。
その行為はまるで、己の中に溜まった憤怒の感情を吐き出すためのものにすら見える。
「一人たりとも逃がしゃしねぇ。ギルゲの時とは訳が違ぇんだ。連中はよりによってこの俺の目の前で、決してやっちゃならねぇことをやらかしてくれた。確実に俺の手できっちり始末してやる。誰一人として生かしちゃおかねぇ……」
リドウはぐぐっと半握りにした己の左手を自身の胸の辺りに持ってくると、その手を一気に握り締める。
「――断じて、だ」
その決意の激しさを知った恵子は、しかし止めようとは決してしなかった。
麻木恵子という少女をあえて分類するとすれば、彼女は性善説主義者だ。
日本人はどちらかというと、国自体がそもそも性善説的思考で国家を運営しているため、民間人もその傾向に染まり易い。
ちなみに、それとは真逆の性悪説というものもあるが、これは別に「人間とは元来が悪いのだから、皆仲良く悪いことをしましょうね」などという論説では絶対にない。
人間とは元来が楽な方、悪い方へと流されてしまう精神性をした生き物であるから、きっちりと善悪の判断ができる分別を幼い頃から身につける必要が不可欠だ――という、法や教育がいかに大切なものであるかを説いたものである。
それはともかくとして、だ。
恵子にとって、人間とはあそこまで悪くなれる生き物だなんて……いや、知識としては確かに知ってこそいたが、今までは到底実感が湧かなかった。
日本に生きていた頃だって、ニュースでは無差別通り魔の報道や女児誘拐殺人といった凶悪犯罪に、外国では無差別テロなども起こっていたし、それらは確かに知っていた。
だが、恵子の日常においては遠い話でしかないのも、また真実であったのだ。「へー」「怖いな」「酷いな」……そんな感想を他人事に抱くだけであったのだ。
日本人に限らないだろうが、所詮はそんなものだろう。特に彼女はまだ高校生、つまりは子供の範疇でしかないのだから、それで当然だ。
むしろ、現代の日本に生きて、その被害に知人が遭ったというなら話は別だが、それ以上の強い感情を呼び起こすような感想を抱いてしまえるようでは、逆にその人物の精神性を疑えてしまう――と言っても過言ではない。
そんな恵子であるが、千鶴ほど明確なものでなくても、あくまでも知識として、このような人間だって存在するのは知っていた。
だがやはり、知っていただけなのだ。知っていただけに過ぎないのだ。
彼らだってもしかしたら、自分が狩られる立場になったら、その時は自分の行いを反省することができるかもしれない。
そこできっぱりと悪事を止め、極普通の生活を送ることができる者たちだって、もしかしたらいるかもしれない。
だが……そんなことが許されるのか?
生きるため。そのためにどうしても盗賊行為という悪事に身を染めなければならない、そんな人たちだっているだろう。
だが、目の前の者どもは違う。きっぱりと違う。完全に違う。
笑いながら、心底楽しげに、一切の躊躇なく他者の人生を弄ぶ盗賊たち。
そんな悪党どもを、反省したからといって嘆く被害者たちの気持ちを無視し、許していいものであるのか?
恵子は死刑に否定的な人間だった。人間誰だって、自らの行いを省みて真面目な人間に戻るか、それとも改めて成るか、そうすることのできる存在なのだ、と。
確かに一理はあるだろう。もし彼女が一抹の救いを求めて魔神に訊ねたら、確かにそうだという答えが返ってくるのは間違いない。
しかし……
話題性が高い罪状において、ニュース等で放送され、遺族たちが「死刑になってほしかった。どうして***は死んでしまったのに、殺したあいつが生きていることが許されるのでしょうか」と、望んだ判決ではなかったことを、記者会見で心から嘆き哀しむ人たちを見て、しかし恵子はそんな時、「確かに可哀そうだけど、他人の死を望むなんて間違ってるわよね」と思ったことすらあった。
でも……
やはりいるのだ――この世には、その生を許しておいては決して、断じて、絶対にならない正真正銘の極悪人が。
そう――
こんな、目の前のような光景を嬉々として作り出せる人間を許しておいていいはずがない。
――生かしておいていいはずがない。
「止めないよ。止めたりしちゃ……きっといけないんだよ」
――盗賊なんて……。
恵子は流れる涙を拭おうともせず、誰に訊かれるでもなかったのに、しかし何らかの決意さえ強く窺える眼差しでリドウを見つめて言った。
だがしかし……
「いんや」
リドウは首を横にふった。
「え?」
「お嬢よぅ、あれが『盗賊って存在』だとは思っちゃいけねぇよ」
「それは……?」
「俺とは全く基準は違っても、一定の線引きをして生きてる連中だって盗賊の中にはいる。盗賊行為とあっちゃ確かに犯罪性はあるだろうが、それでも情状酌量の余地が認められる程度の罪状しか重ねてねぇ連中だっている。お上に言わせりゃどちらにしろ迷惑千万なことに違いねぇからな、大抵は大した裁定もなく即刻処刑が相場だが、俺からしてみりゃそこまでせんでも、と思う連中はいるんだ」
死刑が確定しているのにリドウにとっては死刑にするほどではない――という連中は、非戦闘員には絶対に手を出さないタイプにほぼ限られる。
彼にとって戦士が戦の中で命を落とすのは当然のことだ。悪党の手に掛かったと思えば無条件で許すことは到底できないが、問答無用で殺害してしまうのも躊躇われるらしい。
「盗賊と見たら全てが極悪人たぁ思うな。その感情はいずれ、人間という存在全体への憎悪にすら繋がりかねん。人間は個性を持つ生きもんだ。誰しもが違う考えを持ち、誰一人として全く同じ思考をするもんでもなけりゃ、できたりするもんでもねぇ」
そう言って、どことない方向を見ながら煙管を吹かす。
「常にてめぇ自身の目で見極めろ。常にてめぇ自身の頭で考えろ。他人の言葉に踊らされるな。たった一つを見て全てと決め付けるな。常にてめぇ自身の感覚を信じ、それに恥じる行いだけはすんな。それだけが唯一つてめぇ自身に俺が定めた掟」
リドウはこの時初めて恵子の瞳に自分の目を合わせた。
「――仁を以って義を貫くって生き様だ」
その一切が揺るがない確かな力を秘めた瞳に、恵子は泣くのを忘れて魅入ってしまった。
千鶴は頬を染める自分を隠すこともできずぽーっとしているし、ハインツはしっかりと頷いて同意を示している。
やがて恵子は力強く「うん」と肯くことができ、
「良し、上等だ」
ふっと暖かく笑ってみせるリドウに思わず見惚れてしまい……
そんな彼女の横顔を千鶴はやはり、冷たい眼差しで見据えるのであった。
集会日はそれから更に二日後のことであった。
山中の一角、大きな広場の体をなしているそこで、盗賊たちは意気揚々とあちこちで祝杯を挙げている。
リドウたちはその光景を遠くから、闘気によって強化した視力で覗き見ている。
盗賊たちの一番奥。崖の手前の岩だなに腰掛ている一際上質な装備で身を固めた男が一人と、その周囲には一目で魔法使いと断じれるローブ姿の者たちが五名。
更に二百名前後と、正確な数を把握はできない大勢の配下たちが、いざという時の壁とばかりに頭領の周りを幾重にも囲む形で座り込んでいる。
「思ったより中々やりそうだな」
「そうですね。やはり僕一人で取り巻きまで相手にしていたら逃げられてしまったでしょう。リドウさんなら軽く蹴散らせそうですが」
「そうでもねぇさ。周りの雑魚どもを一人も逃がさねぇように追い込んでいけるだけの余裕はなかったろうよ。その間に逃げられるのが落ちだな」
「やっぱり私も手を貸しましょうか?」
千鶴には敵の力量を把握するだけの眼力はまだないので、大人しく男性陣の話を聞いていたのだが、どちらかと言えば是非自分にもやらせろといった雰囲気で、その会話に割り込んだ。
「いや、お嬢が見つかって人質にでも取られるのが一等まずい。お前さんらはここで隠れてろ」
千鶴は仕方がないと無言で肩を竦めた。
「こういう時、魔道士級の魔法使いがいてくれると助かるのですがね」
なぜ『魔道士』でなくてはいけないのかといえば、キャスティングの最上位広範囲魔法でも十メートル四方を焼き払うので限界だからだ。
それ以上に威力と範囲が共に上回る《簡易儀式》を人間が未だ開発に成功していないのがその理由だ。
【魔神】ならそれ以上のキャスティングを既に持っているか、それとも開発することすら容易かもしれないが、彼女はそこまでご丁寧に人類の面倒を見る気はないので、やはり人間の手によって新たに造り出すしかない。
また、マンガなんかであるように、闘気とは飛ばしたりして攻撃できるものではなく、あくまでも自己の強化しか行えないので、対単体から少数では無双の戦力を発揮できるのだが、こうした広域殲滅戦になると、やはり魔法使いの方が有利に働く。
ユリアス王国の伝説の女騎士がたった一人で敵軍を全滅させたというのも、彼女を止めることができなかった敵軍が甚大な被害を出した末に降服したというのが真相なのだ。一人残らず惨殺したわけでは決してない。
「いるぜ」
「え?」
リドウの言葉に疑問の声を上げながら視線を彼に移したハインツは、驚愕のあまりその目を大きく見開いた。
能力者も無能力者も、熟練者になると他者の闘気や魔力を大凡で測ることができるようになる。
今までハインツはリドウが優れた気功士ではあっても、魔法使いと呼べるレベルの魔力の持ち主だとは考えていなかった。
その理由は単純に、リドウがそう装っていたから故。
「まさか――ダブル・セイバー!?」
「昔は《殲滅師》と呼ばれたそうだぜ。キャスターの分類が出来てからは気功士+キャスターって連中がそこそこ現れて、その呼称が生まれたらしい」
ハインツはごくりと喉を鳴らす。
「殲滅師ともなると流石に目立ち過ぎるんでな。どっちを隠すか考えりゃ、魔力を引っ込めるだけで済む方が楽なんでね、普段は魔法戦闘も控えてる」
「しかも魔道士級……いえ、僕は魔法使いの力量を正確に読めるほどではありませんが、それでもあなたが魔道士としても相当なハイクラスだということくらいは判断できます。むしろ、気功士としても魔道士としてもハイエンド級とお見受けしますが、どうして今まであなたのような方が無名でいられたのか不思議でなりませんね」
「色々あってな、俺にも」
「いえ、詮無いことを口にしました。お気になさらないで下さい」
「おうよ」
「でも、やはりあなたお一人でも、悪漢どもを一人残らず殲滅できたのでは?」
「そりゃ言いっこなしってもんだぜ、ハインツ」
「ですね。これもまた詮無きことでした」
互いにきっちりと“弁えて”いるからこそ、この二人はこうしてあっさりと意気を合わせた仲を築けているのだ。
「対象の限定、追尾を付加した拡散魔法で雑魚を一気に落とす」
「トリプルキャストというやつですね。ダブルでさえ中々お目にかかれないものですが」
「ああ。幾つかある俺のとっておきだ。無差別なら消費魔力を格段に減らせんだが、地形を変えるようなマネはしたかねぇしな。一つの属性を重ねるごとに消費魔力の桁がほぼ一つ上がっちまうから二百となると一発で大半の魔力を持ってかれちまうし、親玉も取り巻きの魔法使いも、恐らく何かしら対処できちまうだろうが……その後はどうとでもなるだろ」
「僕とあなた、どちらかが魔法使いたちの対処をして、もう一人が頭領の気功士と一騎打ちですね」
「どっちがいい?」
「頭領……と言いたいところですが、露払いもして頂くわけですし、ここはお譲り致しましょう」
「そうかい? 別に俺はどっちでも構わねぇぞ。はっきり言って、俺個人としちゃどっちも格下って意味で大して変わらねぇよ」
「いえ。本音を言えば、少しでもあなたが実力を出し切った戦いをこの目にしてみたい」
「なら、そうすっか」
女性陣をおいて、勝手にどんどん話を進める男たち。
大まかな作戦が決定すると、ようやく二人は女子二人の方を向いた。
「改めて言っとくが、大人しくしてんだぜ、特に千鶴はよ」
「つくずく信用がないわね、私も。別にこの盗賊団に対して個人的な禍根はないから安心してちょうだい」
「やっぱり……あの時の盗賊たちとは、何かあったの……?」
千鶴の発言を耳にして、恵子はどうしても気になってしまったらしい。
千鶴はその質問に対してしばらく逡巡し、やがて恵子からは顔を背けた。
「今度……話すわ」
そう言って顔を戻す。その顔は既に常時のあまり感情を映さないものであった。
「今はそんな場合ではないでしょう?」
「うん、そだね……」
恵子は微かな笑顔で千鶴に応えると、そのまま男たちの方へと首を動かす。
「頑張って。あいつらは……きっと許しちゃいけないんだと思うから」
「任せろ」
「剣と誇りに誓って、悪漢どもに必ず正義の鉄槌を」
毅然とした態度で恵子はリドウとハインツを順に見ると、彼らはそれぞれに肯定の意を示し――
――出陣の時は来た。
紅のコートを風に靡かせる男が煙管を銜えて現れた。
その事実を盗賊たちは初め認識できなかった。
ここら一帯でノイケン盗賊団といえば間違いなく最大の盗賊団で、数名の魔法使いに、更にその親分は気功士。
よほどの大軍を用いるか、さもなくば《宮廷戦略旅団》の上位メンバーでも出てこなければそうそう簡単に討伐できるわけがなく、場所柄それらに匹敵するだけの腕前の冒険者が来ることもない。
たった一人で現れた男に、彼らは「もう酔っ払ったか?」と誰しもが自分の目を擦った。
が――
次の瞬間、その男リドウは煙管を銜えて吹かしながら、その右手を頭上に高々と上げた。
その掌の先に大きな光の固まりが生まれるのを見て、誰かが言った。
「魔法使い!?」
「んな馬鹿な、あんなナリの魔法使いが」
それに対して、自身が魔法使い故に魔法に詳しい者たちは瞬時に悟った。
アミュレット等による魔力増幅すら必要がないほどの、圧倒的魔力を持った者だけに許される、気功士と同等に並び称される存在。
「魔道士!?」
「本物だと!?」
その瞬間であった。
リドウは掲げた手とは逆の手で煙管を持ち、灰を落としてそれを踏み付け――
彼はさも「GO」とばかりに手を振り下ろす。
刹那、大きな光塊から幾百にも分裂した小さな光の塊の群が盗賊たちの尽くに襲い掛かる。
慌てて逃げようとするも、逃げた先に追いついてくる。
反射的に武器を手に迎撃しようとした者もいたが、光塊はその武器ごと彼らの頭を貫いて行った。
僅か一瞬の出来事である。
そこには二百に及ぶ頭部を破壊された死体が転がり、生き残っているのは辛うじて数名。迎撃を可能とした魔法使いたちと、そして頭領の気功士のみ。
取り巻きの盗賊たちは無情にもその命を、いともあっさりと刈り取られてしまっていた。
「今のはもしかして《エンジェリック・フェザー》では?」
「ほう。物知りだな、ハインツ」
「まるで天使の羽が広がるが如きその光景が名の由来にして――遥か昔、かつて我らが麗しき魔神はその魔法を用いて、人々を強襲した万の龍を人との乱戦の中にありながら、他の一切を傷つけることなく、龍のみを殲滅したと聞き及んでおります。リリス教の伝承にも残っている超高等魔法ですよ、僕が知らないわけがありません。でも実際にこの目にできるとは思いませんでした。友人に自慢できそうですね」
リドウの背後から出てきたハインツが悪戯げに言うと、リドウが苦笑混じりに抗議する。
「あまり言い触らしてくれるな」
「冗談です。さて、残りの露払いはお任せ下さい」
「ああ」
多数の首無し死体が散乱している地獄絵図の中、二人はまるでそんなことは知らないとばかりに悠然とした足取りで、向こうで身構えたまま一歩も動かない残りの盗賊たちへと歩んで行く。
盗賊たちは動かないのではなく、動けないのだろう。
背後に崖を背負ってしまっているのが悪かった。逃げたところで、どこかで追いつかれてしまう。
特に気功士の頭領には、相手が優れた気功士であることが理解できてしまっていたので尚更だった。
「うっ、うわぁああああああ!!」
あまりにも重苦しい緊張感に耐えられなくなった一人の魔法使いが、叫び声を上げながら空中に魔法陣を構築していく。
「サンダー・ボルト!」
虚空陣から発せられた雷がリドウたちを襲う。
しかしリドウは対応しようとすらせず、煙管を手に持ち煙を吐き出す。
対応する必要がなかったのだ。なぜならば、それは彼の受け持ちではなかったのだから。
ハインツは瞬時に前に躍り出ると、闘気を纏った剣で小さな雷を切り裂いてしまった。
「き、気功士までいるのか!?」
「ち、ちくしょー!!」
「何でこんなやつらがっ!?」
魔法使いたちは悪態を吐きながらも、少しでも助かる可能性に賭けようと、必死で魔法を紡いでいく。
魔法の嵐の中、リドウはその対応は完全にハインツに任せ、頭領の数メートル手前まで来た時に煙管から灰を落として、その灰を踏み付ける。
装備はかなり上質な物を使っているが、姿格好は完全に盗賊の親分といったガタイのいい髭面の男は苦しげな呻き声を上げて、引け腰気味でリドウを睨み付ける。
「て、てめぇ……ダブル・セイバーかっ」
「殲滅師、と言っとくれ」
「何でてめぇみてーなのがこんなところに」
「てめぇが知ってどうなることでもねぇだろうが。抵抗くれぇは許してやる、さっさと来な」
「くっ、ち、ちくしょー!!」
ノイケンも目の前の男の実力が、自分を遥かに上回るのは理解できてしまっているのだろう。
殆どヤケクソな絶叫を上げながら、ノイケンはリドウに向かって突進する。
強化された大剣を振りかぶり――刹那の交叉。
リドウは接触する直前に軽く腰を落とし、右手で柄を握った刀を鞘から引き抜きながら、その勢いのままにノイケンの剣に叩きつけ――たったの一合でノイケンは己の剣を取り落としてしまった。
現代では居合い抜き、古流においては抜刀術とも呼ばれる技だなと、遠くで視力を強化して見ていた千鶴は考え、遠目であったにしても殆ど銀線の閃きくらいしか目にできなかったことに、改めて彼の腕前に感嘆すると共に戦慄を覚えていた。
リドウはそのまま間髪入れずに両手で柄を握り、ノイケンの首筋に横這いにした刀を宛がう。
「何か言い残すことは?」
「くっ、ちくちょぅめっ。お前ら天才はいつだってそうだ! 人のことを馬鹿にしやがって! 俺だってなっ、努力はしたんだよ! でもお前ら天才はいつだって他人の努力を嘲笑ってあっさりと俺を飛び越えて行きやがる! しまいにゃノーマルにまで負ける始末だっ。くそっ、気功士の俺様をノーマルが笑いやがるなんざ許せ」
「もう止めときな」
極寒すら思わせる冷気の篭った声。
それと共にぐっと押し付けられる刃を感じ、ノイケンは冷や汗を流しながら押し黙る。
「世の中にはさんざ苦労して、命を賭した修練を己に課してまで、それでも闘気に目覚めずに没した使い手も少なかねぇ。それを端から闘気って特別な才能に恵まれてながら、何ふざけたことをぬかしやがる。天才だ? てめぇの努力が足りなかっただけだろうが。才能に勝る努力――そうとまでは言わねぇ。だがてめぇの剣には血反吐を吐いてまで求めた先に見える煌きなんざ欠片も窺えんぞ。結局、特別な才に恵まれて有頂天になった挙句、それだけじゃ行き着けねぇ先を知っちまって、だが目指せるだけの根性がなかっただけだろうが――てめぇ自身にな」
ノイケンが反論できずにいるのは、何かを喋ればそれだけで動いた首筋が切れてしまうことを恐れたのか、それとも果たしてリドウの言葉が図星だからなのか。
その時、リドウはおもむろにノイケンの首筋に宛がっていた刀を引くと、ノイケンに対して背を向ける。
訝しげに、そして警戒心を露にしているノイケンを放って、リドウは自分が弾き飛ばしたノイケンの剣の許まで歩み寄ると、その剣を手にとって……
ノイケンの足元に突き刺さるように投げ放った。
「なっ、何のつもりだっ?」
「せめてもの情けだ。選びな」
「な、なに……?」
リドウは刀の峰を肩に担いで、底冷えのする声を発する。
「てめぇ自身の手で潔く決着をつけるか。それとも……」
ぎんっ、と目を少し開くことでより一層威圧感が増したのをノイケンは感じた。
「俺の手で苦しみながら、てめぇが不幸にした罪も無ぇ人間たちに懺悔しながら死ぬか」
「なっ」
「――好きにしろ」
迷い、逡巡する。
その僅かな時間で何を思い、そして何を考えたのか、知る者はノイケン本人だけであった。
だが、選んだのは……
「こんちくしょうがっ」
剣を手に取り、そのままの勢いでリドウに激走する。
リドウはそんな盗賊の親分に対して何を思うでもなく、表情には一切の感情を浮かべることもなく――
刹那、ごっ、とリドウの全身から闘気の本流が溢れ出し……
「素晴らしい」
感嘆の声を零したのは、既に魔法使いたちを片付けて、二人のやり取りを黙って眺めていたハインツであった。
ノイケンの剣は結果的にリドウに触れることすら叶わず――
右足と左足を太ももの部分で一刀に断ち斬り、殆ど直角に跳ね上がった刀がそのまま腕を肩口で斬り裂き、頭上に突き抜けたそこから、一気に打ち下ろしで左の肩をも斬り捨てた。
その一連に起こった出来事は受けた本人であるノイケンにすらまともに認識することができず、リドウが止めにノイケンの胸に対して突きを放ち、両手足を喪失し胸を刀で穿たれたノイケンが遠く崖まで飛翔した末に――
がんっ
刀が崖に突き刺さる激しい音と共に、崖に貼り付けにされた達磨状のノイケンが出来上がった。
「ぐ……うぅ……」
痛みと苦しみに呻くノイケンからリドウは視線を外し、煙管を銜えて火を点しながら夜空を仰ぎ見る。
「ふぅ……」
「ちぐじょぉぉ」
「泣くな、見っとも無ぇ。男が下がる」
苦しいのに言わずにいられないノイケンに対して、リドウはゆらりと視線を向けながら、しかし限りなく無表情で返す。
「死ぬまで後どんくれぇかね。部下どもがやらかした分までとは言わねぇが、せめて最低限、てめぇが今まで無為に奪ってきた無辜の命たちに侘びながら逝きやがれ。それまでは俺が付き合ってやるぜ」
そんなことができる男であれば、そもそもこんな羽目に陥ってはいなかっただろう。
リドウはそんなことなど百も承知で、呪いの言葉を吐き続けるノイケンに対してそれ以上は黙して何も語らず、それから数分してノイケンが息を引き取るまでの間その場を動かずに、ただじっと煙管を燻らせ続けるのであった。
ノイケン盗賊団の討伐から二日後の昼、一同の姿は既にアクレイアで見れた。それなりに距離があったために、戻ってくるだけで一日半かかってしまったのだ。一連の討伐行脚にかかった時間は占めて八日間である。
そんな中、ハインツは大した疲れも感じていないのか、彼自身の目的のためにさっそくここを発つらしい。
千鶴は平常運転であったが、恵子はハインツと既に打ち解けていたし、心底別れを惜しんでいる様子である。
ハインツは紳士的に礼を言いながら「自分にも目的がある」と恵子に断りを入れ、残念がる彼女に再度礼を述べている。
「しかし、良かったのか?」
「ええ。僕も旅費に困っているわけではありませんから。敬虔な信徒としての立場もありますしね。リドウさんが全額寄付されるというのに、僕がしないというのもプライドの問題が少々」
何がといえば、今回のノイケン盗賊団討伐によって得られた報酬を、リドウだけでなくハインツまでもが、リリス教会が経営している孤児院に全て寄付してしまったのだ。
リリス教会アクレイア支部としては間違いなく前代未聞の莫大な寄付金に、司祭やシスターたちは感動のあまり涙さえ流しながら、これも魔神の教えの賜物と祈りを捧げる姿に……リドウはやはり一瞬顔を引き攣らせてはいたが、まあ特段問題はない。
「いい意味でのプライドだな。外道を始末した代償で無辜の命がちっとでも多く救われるとなりゃ」
「ええ。ノイケンたちの手によって亡くなった方々の哀しみも少しは晴れる――そう信じたいものですね」
リドウはニヒルな感じに、ハインツはあくまでも爽やかに、互いに笑い合う男たち。
「では、僕はこれで――っとその前に」
何の未練も感じさせず、颯爽と踵を翻すハインツであったが、何かを思い出した風情で再度振り返る。
「ケーコさん、ちょっとよろしいですか?」
「え? うん。なーに?」
手招きで呼ばれた恵子は、小首を傾げてからハインツの許まで歩み寄ると、ちょっとお耳を拝借と口にした彼に従って、顔を横向きにする。
「早く素直にならないと、手遅れになりますよ?」
「は?」
「チヅルさんほどの方から積極的に迫られて、リドウさんもいつまで理性を保つことができるか」
「なっ」
恵子は顔を真っ赤に染め上げて、その顔をハインツの正面に移動させる。
「なななな何のことだかわかんないしっ。あ、あたしにはちゃんと恋人がいるんだからねっ」
「はあ……」
今初めて知った事実に、なるほど多分に複雑な関係なようだとハインツは納得顔で相槌を打つ。
「まあ、これ以上は余計なお節介というものでしょうし、僕から特に何か口にしたりはしませんが」
「最初から余計なお世話ですぅっ」
いーっと歯を剥いてみせる恵子はしかし可愛らしくしか見えず、得な少女だなとハインツは苦笑しつつ。
「では、我らが麗しき【魔神】に再会を祈りつつ、僕はこれにて」
一礼して、今度こそ颯爽と去って行くハインツの背に、リドウは「じゃあな」と素っ気無くすら思えるほどあっさりとした声を、恵子は「またね!」と元気良く、千鶴も平常運転ながら「また会いましょう」と再会に対しては意欲的な言葉を、それぞれに投げかける。
大通りの角を曲がることで三人の視界から消え去ったハインツは独り思う。
(リドウさんですか……正直に言って、信じ難い使い手ですね。才能ではチヅルさんも中々のものですが、その才能すら彼は恐らく凌駕するでしょう。もしかすれば新たな魔王候補……ですかね。まあ敬虔なリリス教徒の僕とすれば新たな魔王の登場は望むべきことですし、それが彼のような人間性の持ち主であるなら、歓迎こそすれ厭うべきではありませんからね。問題はありません。が……どうせなら我が国にスカウトしたかったなぁ)
彼らの旅の目的、その内容を訊ねることすらしなかったが、それでも今誘ってどうにかなるとは、ハインツは微塵も考えなかった。
(そうしたらきっと、毎日楽しい実戦訓練の相手になってもらえるのに)
こいつもこいつでバトルジャンキーであった。
(ここら辺が、継承争いであっさり敗北した僕の甘さですかね。まあ王位なんて全く欲しくありませんでしたから、むしろ助かりましたけど)
と、誰に対してでもなく肩を竦めるハインツの本名は【ハインリッヒ・エル・ディ=ヨーフェンハイム】といい、ここアクレイアが所属するユリアス王国から二つ国を隔てたリリス教国家の雄《ジャルマニカ帝国》の第三王位継承者でもあったのだが……。
(王子などという立場を出して交渉しても、どうせ大して相手にしてもらえないでしょうしね、リドウさんにも、チヅルさんにも。ケーコさんは……まあ彼女には悪いですけど、オマケですかね。ただ……)
ハインツには一つだけ気になることがあった。
(あの世間知らずさといい、勇者召喚の対称として最も例の多いチキューはニッポンからの転移者、彼らに多い黒髪黒目というのはどうも……気になるところですが、しかしチヅルさんはともかく、ケーコさんが勇者であるようにはとても見えませんし、はてさて……)
しかし、ハインツはそこまでで思考を止めた。
自分が深く考えてどうにかなるものでもなければ、仮にそれらが真実だったとしても、彼自身にとっては何も変わりがないことに気づいたからだ。
(願わくば、またお会いしたいものですね。それは間違いありません)
三人揃って黒髪黒目の男女の映像を思い浮かべながら、ふわりと微笑むその姿に、通りすがりの女性の尽くがぽーっと見惚れているというのに、彼はやはり気にせず街中を歩き去って行く。
その途中、ぼーん、ぼーん、と鐘が鳴る音がして、おや正午ですか、とハインツは特別に何を思うでもなく思っていたが、その鐘の音に合わせて多数の人々が一方へと歩み始めるのを目にし、気になって傍を通りかかった年若い女性を捕まえて、お得意の好青年笑顔を浮かべる。
訊ねられた少女と言っていい年齢の娘は熱に浮かされた表情で、あのそのとしどろもどろになりながらも、何とか回答を紡ぎ出した。
「……なるほど。お引止めしてしまって申し訳ありませんでした、お嬢さん」
たっぷりと名残惜しそうにしている少女から、こちらは何の拘りも見せずに離れたハインツは、千鶴と何やら因縁がありそうだったな、と思い出しながら、しかし自分がどうこうするようなものではなく、そもそも何か問題があればリドウがどうとでもするだろうと考え、自分は街人たちの流れに逆らって、外門へと足を進めるのであった。
ハインツと別れた一同であるが、その後どうしたかというと、未だ宿屋に戻ってきてはいなかった。
ハインツ同様に傍を通りかかった人を捕まえ、何があるんだと訊ねた末に返ってきた答えを耳にした千鶴が、常以上に完全に表情を消し去って、まるで吹雪を思わせる声色で言った。
「そう、今日だったのね。間に合って良かったわ」
そして今はアクレイアの中心に位置する広場に、三人は揃って居た。
ギルゲ盗賊団頭領以下、幹部の公開処刑が、今日この日、この場所で、正午の鐘を合図に執行されるのだ。
結局、あの捕縛劇の当日に千鶴が登場した直後に逃げを打った数名以外には皆死ぬか捕縛されるかしたために、救助に来てくれるような仲間が居たわけでもなく、ギルゲ以下幹部たちは誰も逃亡できなかったらしい。
ちなみに幹部たちの分の賞金は、先ほどノイケンの首を渡し、その賞金を受け取ると共に、リドウたちは受け取っている。
順々に一人ずつ刑を執行されていくその光景を、リドウは何を思うか本人しか知りえない冷静な表情で、恵子は耐えられずに眼を背け、そして千鶴はやはり感情を消し去った顔で、リドウ同様冷静に眺めていた。
その時、おもむろに口を開いたのは千鶴である。
「初めから……この世界に召喚されたのが私だけでないことを、私は知っていたのよ」
なぜだと思うかと二人に向かって訊ねる千鶴に、しかしリドウはぴくりと眉を上げ、また恵子は「え?」と疑問の声を上げるだけであった。
「もう一人ね、いたのよ。私と一緒に召喚された子が」
千鶴が召喚された場所は、アクレイアから半日ほど歩いた先の森の中であった。
そこでいきなり、彼女は盗賊と出くわしてしまったのだ。
それがギルゲ盗賊団の構成員であるという事実を彼女が知ったのは、彼女がその盗賊たちを皆殺しにした際に、敵たる盗賊の誰かが「ギルゲ盗賊団の俺たちにこんなことをして、無事で済むと思うんじゃねーぞ!」と勝手に白状してくれたために、あっさりと知れたことであった。
いきなり光と共に現れた千鶴に驚いたものの、その美貌に欲望を滾らせた盗賊たちは大喜びで彼女に襲い掛かった――未だ闘気に目覚めぬ一条千鶴に。
しかし、それだけではなかったのだ。
共に召喚された男子が一人いたのだ、その場には。
彼は盗賊たちの存在に恐慌してしまい、最初は逃げ出そうとした。
しかし、武道の心得があるとはいえ肝心の得物は無く、その上あまりにも多勢に無勢とあって、あっさり組み敷かれてしまった千鶴をその目にした瞬間、なんとその男子は絶叫を上げつつも、彼女を組み敷いていた盗賊の一人に殴りかかり――
逆上した盗賊たちによって、まるで邪魔なものを薙ぎ払うためといった風情で、その男子はあまりにもあっさりと、その命を儚くも散らしてしまった。
「その時だったわ、私が闘気に目覚めたのは。激しい怒りと共に目覚めるだなんて、まるでマンガね。でもどうしてもっと早くっ……」
目覚めてくれなかったのかと、彼女は声にせずに、まるで自分自身を恨むかのように、強く握り締めた拳の横っ腹で傍の壁殴りつける。
闘気を使用はしていないようで、その壁が減り込むようなことこそなかったが、そのせいで彼女の柔肌が傷ついてしまったらしく、手から微かな赤い血が滴り落ちる。
「でもね、本当に許せなかったのは、私自身」
千鶴は目元に涙を滲ませ、そして――
リドウの胸に縋り付いて、涙に掠れた声で独白する。
「知らなかったの。知らなかったのよっ。その子の名前すら、私は知らなかったっ。同じ学年の、顔くらいは見たことがある程度の、気にする必要すら無いと思っていた男の子が……勇気を振り絞って私を助けてくれたのっ……」
「そうか」
リドウはただそう零しただけで、「頑張ったな」とも「辛かったな」とも口にせずに、嗚咽を漏らし続ける千鶴の頭を片手で抱き締めながら、ただ淡々とその時間が過ぎ去るのを待ち続ける。
その光景を恵子は自覚の無い複雑な顔で、しかし自分が何かを口にすることは叶わず、ただ黙って見ているしかできなかった。
やがて千鶴は、リドウの胸に自らの顔を預けたままで、更に彼の背中に己の腕を回して抱きついた。
複雑な表情が更に深まる恵子だったが、やはり彼女に自覚はない――少なくとも彼女自身はそのつもりであった。
「だから、せめて……私の手で仇を取ってやると、誰でもない私自身に、私は誓ったわ」
「邪魔しちまったな」
「いいのよ、もう。代わりに……」
千鶴はリドウから自身の身を離し、涙に濡れたままの、しかし強い決意の篭った顔をする。
「私はきっと、彼に貰ったこの命で、一人でも多くの同じ境遇にいる子たちを助けてみせる」
男なら欲望をもって思わず見てしまうだろう彼女の豊満な胸の前で、彼女は拳を握り締めた。
「――絶対に、よ」
「たとえどんな命だろうと、無駄にしていいもんなんざ一つも無ぇ。俺も手伝ってやるさ、そいつの命が無駄にならねぇようにな」
千鶴はリドウの相変わらずのニヒルな笑顔を見て、自分も柔らかい笑顔を浮かべる。
だがそれは一瞬の出来事で、彼女はすぐにその笑顔を悪戯っぽいものに変えてしまった。
「報酬は私の体を好きにする権利――どう?」
「五年は早ぇな、そんな生意気口にするなんざ」
「せめて一年にしてちょうだい」
「なら三年にまけといてやるぜ」
「まったく、面倒な男ね、リドウは」
そんなことは思ってもいない満面の笑顔を浮かべる千鶴であった。
そんな二人のやり取りがなぜか全然意味不明ながらとっても面白くない恵子は、慌てて自分も口を開く。
「あ、あたしだって手伝うから!」
「神崎くんのことはいいのかしら?」
「芳樹を探すのだって変わんないじゃない」
「確かにそうよね。でもね、恵子ちゃん……」
千鶴は恵子の耳に己の口を寄せる。
「リドウは渡さないわよ」
はっきりとした宣言に、恵子は顔を真っ赤にして反論する。
「だ、だからぁ……あたしには芳樹がいるのっ」
「ふーん? ま、そういうことにしておきましょう」
「そーもなにも、ホントのことなんだからね!」
「はいはい」
「もーっ、全然信じてないでしょ千鶴っ」
「是非信じさせてほしいものだわ、とは思っているわよ」
「もうっ」
心から楽しそうに恵子をからかう千鶴と、彼女に一々突っかかる恵子。
そんな二人の魅力的な少女たちのじゃれ合いを眺めながら壁に背を預け、目を閉じてふっと唇を歪めたリドウは、今日も暢気に煙管を燻らせるのであった。