第41話 黒い脈動
翌朝、俺たちは日の出を待って集落を出た。
洞穴へ向かうのは五人全員だ。昨日までに見つけた三人の負傷者は集落に残し、住人たちへ世話を頼んでいる。残る二人の行方はまだ分からないが、森で起きている魔力の異常を放置したまま捜索範囲を広げる方が危険だという判断は変わらなかった。
ただし、今日の目的は洞穴のすべてを調べることではない。
周期的な魔力の異常がどこから発生しているのか。それが人間へどの程度の影響を与え、残る二人の捜索を続けるうえでどれほど危険なのか。最低限そこまで確認し、手に負えないと判断した時点で戻る。
出発前にも、ガルドはその条件を全員へ確認した。
「昨日より強い頭痛や吐き気が出たら、その時点で戻る。奥に何があっても追わない。いいな?」
セイル、リシェル、オルドが順に頷き、俺も「分かった」と答えた。
細かな条件まで理解できるようになった今なら、聞き間違える心配はかなり少ない。それでもガルドが念を押した理由は分かっている。
おそらく、この中で最も奥へ行きたがると思われているのは俺だ。
否定はできない。
背負い袋の中には黒い金属片が入っている。昨日、《解析》が初めて示した情報によれば、あれは何かの「断片」であり、洞穴の深部には同じ系統の反応を示すものが存在する。
気にならないはずがなかった。
だからこそ、自分が知りたいという理由と、無事に帰るための判断を混同しないようにする必要がある。
◇
洞穴へ着くまで、森に大きな変化は見られなかった。
ただ、昨日よりさらに静かになっている。
完全に生き物が消えたわけではないものの、鳥の声は少なく、獣の新しい足跡もほとんど見つからない。何度も発生した魔力の波によって、洞穴周辺から生き物がさらに離れた可能性は高そうだった。
入口へ近づくと、胸の《魔核》に微かな反応が戻ってきた。
まだ弱い。痛みもなく、昨日感じた程度の違和感に近い。
黒い金属片は取り出さず、そのまま洞穴へ入る。
先頭はガルド、その後ろをセイルが進み、中央にオルドとリシェル、俺が最後尾を歩いた。オルドが灯りへ魔力を流すと、淡い白色の光が通路の先を照らす。
昨日も見た平らな壁と、土の下から覗く石の床。
改めて観察すると、自然洞窟をそのまま利用した場所には思えなかった。
昨日二人の生存者を見つけた空間までは、特に異常もなく進むことができた。
変化が現れたのは、その先だった。
通路の左右が明らかに整っている。
壁の幅はほぼ一定で、天井も同じ高さを保ったまま奥へ続いていた。自然にできた洞穴の形に合わせて削ったというより、最初から一定の空間を作る目的で加工されたように見える。
「ここから先は完全に作った場所だな」
セイルが壁を見ながら言った。
ガルドも周囲を確認する。
「ただの洞穴じゃないのは間違いなさそうだ」
俺は壁へ近づいた。
石の表面には、薄い線が何本も刻まれている。装飾にしては規則的で、直線同士が一定の間隔で交差し、その一部が小さな円へ繋がっていた。
入口に刻まれていた途切れた環とは形が違う。
それでも、単なる傷には見えない。
俺は壁面へ《解析》を使った。
【解析結果】
対象:壁面構造
材質:岩石系
人工加工痕:確認
線刻構造:人工
配置規則:あり
微弱魔力残留:確認
現在機能:判定不能
詳細情報:不足
やはり、意味のない模様ではない。
それ以上のことはまだ分からなかったため、俺はガルドたちへ線の部分にも微量の魔力が残っていることだけを伝えた。
◇
進むにつれて、《魔核》の反応が少しずつ強くなっていった。
昨日のような大きな魔力波はまだ発生していない。それでも、反応の強弱だけなら進むべき方向は分かる。
洞穴の深部。
そして、もう一つ気になることがあった。
周囲が不自然なほど静かだ。
俺たちの足音や服が擦れる音、オルドの灯りが僅かに鳴らす音までは普通に聞こえている。それなのに、それ以外の音がほとんど存在しないため、空間そのものが音を吸い込んでいるような錯覚を覚える。
「昨日の商人が言ってたのは、こういう感じだったのかもな」
セイルの声まで普段より小さく聞こえた。
オルドが灯りを前へ向けたまま答える。
「魔力が音そのものを消してるとは限らない。感覚へ影響して、周囲の音を拾いにくくしてる可能性もある」
「そういう魔術があるのか?」
「似た作用ならある。ただ、こんな広い範囲へ長時間ばら撒くような使い方は普通しない」
俺は会話を聞きながら周囲へ意識を広げた。
【広域解析】
対象:周辺環境
通常魔力分布:不均一
深部方向への偏差:増大
微弱周期変動:確認
感覚器官への直接影響:判定不能
生体反応:極少
既知魔術との照合:一致なし
分からないことの方が多い。
それでも、昨日より小さな魔力変動がすでに始まっていることは確認できた。
俺たちは確実に発生源へ近づいている。
◇
しばらく進むと、通路が左右へ分かれた。
どちらにも人工的な加工が続いており、見た目だけでは差がない。
俺はここで初めて背負い袋から黒い金属片を取り出した。
手のひらへ乗せると、表面に刻まれた環が僅かに暗くなる。
右へ向ける。
反応は弱い。
左へ向けると、明らかに黒さが増した。
何度か確認してからガルドへ伝える。
「たぶん左だ。奥にある何かへ反応してる」
ガルドは両方の通路を見比べた。
地面に人間の足跡はない。
今日の目的は行方不明者を直接追うことではなく、魔力異常の危険度を確認することだ。なら、発生源へ近い可能性がある方を調べる理由はある。
「左へ行く。ただし、戻る道は確実に残すぞ」
リシェルが持ってきた布を細く裂き、分岐の目立つ場所へ結んだ。
地図もなく、構造も分からない地下施設だ。
目印を残さず進む理由はなかった。
◇
左側の通路へ入ってから、身体に触れる感覚が変わった。
温度が変わったわけでも、匂いが強くなったわけでもない。皮膚の表面を薄い膜が撫で続けているような、不快な感覚だった。
オルドも気づいたらしく、何度か腕を擦っている。
「気分は?」
リシェルが尋ねる。
「まだ問題ない。ただ、魔力が濃いっていうより、流れ方そのものがおかしい」
ガルドとセイルには、今のところ症状らしいものは出ていない。
俺にも頭痛や吐き気はなかった。
代わりに、《魔核》が一定の間隔で反応を繰り返している。
その周期を意識しているうちに、昨日発生していた魔力波と似ていることに気づいた。
まだ弱い。
それでも同じ変動だ。
「そろそろ来るかもしれない」
俺が言うと、全員がその場で足を止めた。
「分かるのか?」
ガルドに尋ねられる。
「はっきりじゃない。でも、昨日と同じ周期に近づいてる」
そう答えている途中で、《魔核》の反応が一段強くなった。
「来る」
全員が身構える。
数秒後、通路の奥から見えない何かが押し寄せてきた。
空気が僅かに揺れ、その直後に魔力の波が身体を通り抜ける。
昨日より強い。
オルドが歯を食いしばり、リシェルも胸元を押さえた。ガルドとセイルは顔をしかめた程度だ。
俺には痛みがない。
むしろ魔力波が通過した瞬間、《魔核》がそれを受け止めるように強く反応した。
吸収しているのか。
それとも、単に同じ性質へ共鳴しているだけなのか。
今の段階では分からない。
ただ、俺と四人とでは明らかに反応が違っていた。
◇
魔力波が通り過ぎたあと、ガルドは全員の状態を一人ずつ確認した。
リシェルもオルドも歩ける。吐き気は僅かで、昨日洞穴内にいたときほど症状は強くないという。
「まだ進める」
オルドが言い、リシェルも頷いた。
ガルドは少し考えたあと、先へ進む判断をした。ただし、次の波で症状が強くなるようなら、その時点で戻る。
条件は変わらない。
再び進み始めて間もなく、通路の先から低い音が聞こえてきた。
足音ではない。
石同士が擦れる音でもない。
喉の奥で鳴らすような、微かな唸り。
ガルドが片手を上げる。
全員が止まった。
オルドの灯りが前方へ向けられる。
最初は何もいないように見えた。
だが、光が届く境目。
通路の中央に、周囲とは明らかに違う黒があった。
人より一回り大きい。
二本の脚で立っているようにも見え、腕らしきものもある。しかし輪郭は常に微かに揺らぎ、煙が人型を取っているようで形が定まらない。
光を当てているのに内部は見えず、その部分だけが周囲の明るさを拒絶しているような完全な黒だった。
「……あれか」
セイルが剣を抜いた。
昨日の生存者たちが見たものと似ている。
ただし、彼らを森の外から追ってきた個体がそのまま洞穴へ入ったとは限らない。彼ら自身が「入口へ入ると追ってこなくなった」と証言している以上、今目の前にいるものは、この深部側にもともと存在していた別の個体か、同じ仕組みから生まれた別の何かと考える方が自然だった。
ガルドも武器を構え、オルドとリシェルが少し後方へ下がる。
俺も槍を構えながら《解析》を使った。
【解析結果】
対象:不明
生体構造:確認不能
固体構造:確認不能
魔力反応:あり
魔力密度:変動
外部魔力源との同期:推定
行動原理:不明
危険度:判定不能
詳細情報:不足
生き物とすら判定できない。
その表示を確認している間に、黒い影の位置が変わった。
動いた瞬間を見たわけではない。
通路の中央にいたはずのものが、一瞬後には数歩分こちらへ近づいている。
探索者の男が話していた通りだった。
「下がれ!」
ガルドの声と同時に、影の腕らしき部分が伸びる。
セイルが横から剣を振り込んだ。
刃が黒い輪郭へ触れた瞬間、金属を叩いたものとは違う鈍い音が響き、剣が大きく弾き返される。
「っ!」
セイルがすぐに距離を取る。
影は追撃せず、再びその場に立ったまま輪郭を揺らしていた。
◇
「普通に斬っても駄目か」
ガルドが影から視線を外さず言う。
オルドが片手を前へ出し、短い起動句とともに魔術を使った。
彼の前で空気が歪み、圧縮された風が黒い影へぶつかる。
輪郭が大きく乱れた。
一瞬だけ、効いたように見える。
だが数秒もしないうちに黒い形は再び人型へ戻った。
「魔力には反応する。ただ、これじゃ崩しきれない」
オルドが言う。
その直後、影の姿が再び消えた。
次に見えたときには、ガルドの横へ移動している。
ガルドは反応して武器を横へ振ったが、やはり弾かれた。それとほぼ同時に影の腕が肩へ触れ、ガルドの身体が横へ大きく飛ばされる。
「ガルド!」
リシェルが声を上げる。
俺とセイルが影との間へ入った。
ガルドは壁へ肩を打ったものの、すぐに起き上がる。
「大丈夫だ!」
声はしっかりしている。
致命傷ではない。
だが、まともに何度も受けられる攻撃でもなかった。
◇
俺は影を見ながら考えた。
攻撃が通らない。
だが、本当に常に通らないのか。
《解析》では「魔力密度:変動」と表示されていた。
変動しているなら、影は常に同じ状態ではない。
何がその変化を起こしているのか。
洞穴を満たす周期的な魔力波。
黒い金属片の共鳴。
この影の魔力密度。
すべてが同じ仕組みから影響を受けている可能性はある。
俺は影だけを見るのを止め、《魔核》へ意識を向けた。
さっきの波からどれくらい時間が経ったのか。
正確には測っていない。
それでも《魔核》へ伝わる予兆が、少しずつ強くなっている。
「もう一回来る」
俺が言う。
セイルが影から目を離さず聞き返した。
「何が?」
「魔力の波。たぶん近い」
ガルドはすぐに意図を理解した。
「全員、無理に攻撃するな。次の波まで様子を見る」
影との距離がまた縮まる。
やはり歩く動きは見えない。
いつの間にか位置だけが変わっている。
《魔核》の反応がさらに強くなる。
その直後、魔力波が通路を駆け抜けた。
◇
波が黒い影を通過した瞬間。
形が変わった。
煙のように揺らいでいた輪郭が一瞬だけ内側へ縮み、その中央に黒い塊のようなものが露出する。
俺は反射的に《解析》を使った。
【変動解析】
対象:不明魔力構造体
周期変動:確認
外部魔力波通過時:
魔力分布再構成
高密度部:一時露出
固体干渉可能性:上昇
観測回数:不足
推定精度:低
ほんの一瞬で元の形へ戻った。
だが、確かに見えた。
「波が来た瞬間だけ状態が変わる!」
ガルドが俺を見る。
「何が違う?」
「中に核みたいなものが出る。その瞬間なら攻撃が通るかもしれない」
確証はない。
観測できたのは一回だけで、《解析》自身も推定精度が低いと表示している。
それでも、今ある手掛かりの中では一番可能性が高い。
◇
次の魔力波まで、普通に攻撃しても弾かれるだけだ。
なら、無理に倒そうとせず距離を取りながら待つ。
ガルドもすぐ同じ判断をした。
「次の波まで下がる。レイジ、分かるなら合図しろ」
一気に責任が増した。
それでも断る理由はない。
俺たちは少しずつ後退した。
影は一定の動きで追ってくるわけではなく、突然距離を縮めてくる。完全に安全な間合いを保つのは難しく、ガルドとセイルが攻撃を受け流しながら時間を稼いだ。
俺も一度、槍の柄で腕らしき部分の軌道を逸らす。
触れた瞬間には硬い感触があるのに、次の瞬間には手応えが消える。
本当に状態が一定ではない。
俺は無理に攻撃へ参加せず、《魔核》の反応へ集中した。
徐々に強くなる。
今度は先ほどより分かりやすい。
同じ周期だ。
「近い!」
全員が構え直す。
影がセイルへ距離を詰める。
セイルは斬りかからず、ぎりぎりまで引きつけて横へ避けた。
《魔核》が強く脈打つ。
「来る!」
魔力波が通路を抜ける。
同時に、影の輪郭が再び内側へ収縮した。
「今!」
ガルドとセイルが左右から踏み込む。
二人の武器は、今度は弾かれなかった。
黒い外側の輪郭を抜け、その中央へ届く。
鈍い音が二つ重なった。
何かを砕いたような音だった。
◇
影が大きく歪み、人の形を保てなくなる。
黒い煙のようなものが通路へ広がり、その中央に拳ほどの黒い塊が一瞬露出した。
まだ残っている。
俺は槍を構えた。
距離は届く。
踏み込み、大顎の刃を黒い塊へ突き込む。
今度は確かな手応えがあった。
硬い。
だが、壊せない硬さではない。
そのまま力を押し込むと、黒い塊の表面へ亀裂が走った。
直後。
影全体が弾けるように崩れた。
◇
黒い霧が通路へ広がったため、俺たちは反射的に距離を取った。
霧は数秒ほど漂ったあと、周囲の空気へ溶け込むように薄れていく。
最後に床へ小さな黒い破片が落ちた。
俺が持っている金属片とは質感が違う。
金属より石に近い。
オルドが近づこうとしたが、ガルドが止めた。
「触るな」
俺も同意だった。
直接手には取らず、《解析》だけを使う。
【解析結果】
対象:崩壊魔力構造残滓
物質構造:不安定
魔力残留:急速減衰
外部魔力源との接続:消失
推定:自律生体ではない
詳細構造:情報不足
自律した生物ではない。
それなら、普通の魔物とは考えにくい。
「生き物じゃなかった可能性が高い」
俺が伝えると、オルドが床の破片を見る。
「魔力で形を作ってたってことか?」
「そこまでは分からない。ただ、奥にある何かと繋がってた可能性は高い」
ガルドは通路の先へ視線を向けた。
「なら、原因はまだ先だな」
その通りだった。
◇
影が消えても、《魔核》の反応は続いていた。
むしろ遮るものが一つなくなったせいなのか、奥から伝わる感覚は前より明確になっている。
俺たちは再び進んだ。
通路の壁には、それまで以上に多くの線が刻まれていた。円と直線が重なり、一部は文字らしき形へ変わっている。
現地で使われている文字とは違う。
昨日、洞穴の入口で見つけた古い刻印と似た系統に見える。
今の俺には読めない。
それでも無秩序な線ではなく、何らかの規則に沿って配置されていることだけは分かる。
今は立ち止まらない。
通路の先から、僅かな光が見え始めていた。
◇
その先は、もはや洞穴と呼ぶより部屋と表現した方が近かった。
かなり広い空間で、天井も高い。左右の壁は完全に平らに加工され、床には巨大な円形の線が幾重にも刻まれていた。
その中央に石の台がある。
そして台の上には、黒い環が置かれていた。
俺は思わず足を止めた。
環は完全な円ではない。
何か所も不自然に欠けている。
大きさは、人間が両腕で抱えるより少し大きい程度。
材質は。
手元にある黒い金属片と、よく似ていた。
俺が背負い袋から欠片を取り出した瞬間、これまでとは比べものにならないほど強く反応した。
黒い環の表面を細い線が走っている。
暗くなり。
僅かに戻り。
また暗くなる。
脈打つように繰り返されるその周期は、森へ放たれていた魔力波と同じだった。
◇
誰もすぐには近づかなかった。
ガルドが周囲を確認する。
「これが原因か?」
オルドも慎重に環を観察した。
「可能性は高い。少なくとも魔力は、ここから出てる」
俺も《解析》を使う。
【解析結果】
対象:環状未知構造体
主成分:解析不能
人工構造:確認
魔力蓄積:進行
周期放出:確認
外部魔力供給源:不明
構造欠損:複数
黒色金属片との構造類似:高
現在状態:不安定
詳細機能:情報不足
やはり、黒い金属片と同じ系統に属する構造物と考えていい。
セイルも環を眺める。
「かなり欠けてるな」
俺も欠損部分を見る。
何か所も不自然に途切れている。
そのうちの一つは、手元にある黒い金属片と大きさや曲線が少し似ていた。
完全に同じ形かどうかは、近づかないと判断できない。
ガルドが俺を見る。
「近づくなら一人で行くな」
俺は頷いた。
全員で少しずつ距離を詰める。
五歩。
四歩。
三歩。
そこで黒い金属片が急に熱を持った。
同時に、黒い環から魔力が一気に膨れ上がる。
「止まれ!」
オルドが叫んだ。
全員が足を止める。
環の中央にある空間へ、黒いものが集まり始めた。
◇
一瞬、また黒い影が生まれるのかと思った。
だが、今度は人の形にはならない。
環の内側から何本もの黒い線が伸び、床に刻まれた円や模様へ流れ込んでいく。
《魔核》が激しく脈打った。
そして、俺が持つ黒い金属片へ勝手に魔力が流れ始める。
昨日と同じ現象。
ただし今回は、明らかに強い。
「レイジ!」
リシェルの声が飛ぶ。
俺は金属片を手放そうとした。
しかし指が動かない。
強く握っているわけではないのに、金属片が手のひらへ吸いついている。
「くそ……!」
《魔核》から腕へ流れる魔力を意識する。
昨日は気づくのが遅れた。
今回は最初から流れを感じ取れている。
完全に止めることはできない。
それでも、流量を絞ることはできた。
◇
黒い環へ魔力が蓄積していく。
次の波が出ようとしている。
しかも、これまでで最も強い。
このまま放出された場合に何が起きるのかは分からない。少なくとも、森の獣がさらに逃げる程度で済むという保証はなかった。
俺は《解析》の対象を一つへ絞らなかった。
環。
黒い金属片。
床に刻まれた線。
魔力の流れ。
すべてを一つの現象として見る。
【構造解析】
対象:環状未知構造体
魔力蓄積:上昇
放出閾値:接近
構造欠損による制御不全:推定
黒色金属片:同系統構造断片
断片接近時:
魔力経路変化を確認
《魔核》由来魔力:
未知構造体への適合反応あり
推定:
現在の周期放出は正常動作ではない可能性
正常な動作ではない。
つまり、この環は壊れている可能性が高い。
構造の一部を失った状態で魔力を蓄積し、本来の経路へ流せなくなった結果、一定量へ達するたびに周囲へ放出している。
だから周期が生まれていた。
◇
頭の中で、これまで見てきた現象が少しずつ繋がった。
言語を解析できるようになったときと似ている。
一つの情報だけでは答えは出ない。
繰り返し観察し、共通するものを比べ、そこから規則を推定する。
森へ放たれた魔力波。
環の明滅。
床を走る黒い線。
《魔核》へ伝わる反応。
今なら、魔力がどこへ流れようとしているのかをある程度追える。
「オルド!」
「何だ!」
「環の中で魔力が溜まって、それが外へ流れてる。途中の流れを変えられるか?」
オルドが環を見る。
「どこを変える?」
俺も流れを追う。
黒い線が一度集まり、その直後に乱れる場所がある。
環の右下。
欠けた部分。
そこだけ経路が切れている。
俺はそこを指した。
「あそこ!」
オルドが目を凝らす。
「……俺には分からん!」
当然だった。
俺に見えている《解析》の情報は、他の誰にも見えない。
◇
なら、自分でやるしかない。
最初に思いついたのは魔力をぶつけて破壊する方法だった。
だが、すぐに捨てる。
何をしているのか分からない構造物へ強い魔力を叩き込み、さらに制御不能にする可能性の方が高い。
必要なのは破壊ではない。
流れを変えることだ。
俺の手には、環と同じ系統に属する断片がある。
近づけただけで魔力経路が変化した。
それなら利用できるかもしれない。
俺はガルドを見る。
「欠片を環へ近づける。たぶん、魔力の流れが変わる」
ガルドの顔が険しくなる。
「安全なのか?」
「分からない。でも、このままでも次の波が出る」
正直に答える。
魔力は今も蓄積を続けている。
考えている時間にも限りがあった。
ガルドは数秒だけ迷い、それから言った。
「無理だと思ったらすぐ離れろ」
許可を出したというより、最終判断を俺へ任せたのだろう。
俺は頷いた。
◇
一歩進む。
《魔核》の反応が強くなる。
さらに一歩。
黒い金属片の刻印が深い黒へ沈んでいく。
環の欠けた部分へ目を向ける。
曲線は似ている。
完全には一致しない。
ただ、元々同じ構造に属していた可能性は十分にある。
俺は金属片を欠損部分へ近づけた。
触れる直前。
黒い線の流れが変わる。
これまで環の外側へ向かっていた魔力の一部が、手元の金属片へ流れ込んだ。
そのまま《魔核》へ逆流する。
胸の奥に鋭い痛みが走った。
「っ……!」
初めてだった。
《魔核》そのものから、はっきりと痛みを感じたのは。
◇
反射的に離れようとする。
だが、ここで金属片を離せば魔力の流れは元へ戻る。
俺は歯を食いしばり、《解析》へ意識を集中させた。
環。
断片。
《魔核》。
三つの間を魔力が循環し始めている。
このまま俺へ流し続ける必要はない。
目的は魔力を受け止めることではなく、外へ放出される経路を閉じることだ。
金属片の角度を僅かに変える。
すると、断片へ入っていた黒い線の一部が別の線へ繋がった。
床へ流れ。
環の外周を回り。
再び環へ戻っていく。
外へ溢れない。
閉じた流れになっている。
「これか……!」
俺はその位置を維持した。
◇
環の中で膨れ上がっていた魔力が、ゆっくりと低下し始めた。
表面の明滅も弱くなり、《魔核》へ逆流していた魔力も少しずつ減っていく。
床を走っていた黒い線が一本ずつ消えていった。
オルドが息を呑む。
「収まってる……」
誰も動かなかった。
黒い環はまだ僅かに反応しているが、先ほどまでのように魔力を蓄積している様子はない。
俺はもう一度《解析》を使う。
【構造解析】
魔力蓄積:低下
周期放出:停止
黒色金属片:
一時的制御経路を形成
未知構造体:
休止状態へ移行
恒久停止:保証不能
再起動条件:不明
止まった。
ただし、修復できたわけではない。
一時的に異常な流れを止めただけだ。
◇
俺は慎重に金属片を環から離した。
欠損部分へ固定されたわけではないため、手を離せばそのまま落ちる。
表面はまだ熱を持っていたが、先ほどほどではない。
環の明滅は戻らず、部屋全体を圧迫していたような感覚も少しずつ薄れていく。
「終わったのか?」
セイルが尋ねる。
俺は首を横へ振った。
「分からない。今は止まってる。でも、また動くかもしれない」
ガルドも環を見たまま答える。
「なら、協会へ報告だ。俺たちだけでこれ以上触るべきじゃない」
その判断に俺も同意だった。
目的は、この施設のすべてを解明することではない。
魔力異常の危険を確認すること。
そして、少なくとも今はそれを止められた。
これ以上は探索者の仕事の範囲を超えている。
◇
そのとき、部屋の奥から小さな石の擦れる音がした。
全員が振り向く。
最初は何も変わっていないように見えた。
だが、よく見ると壁の一部が僅かにずれている。
環の動作が止まったことで何かの固定が外れたのかもしれない。
ガルドが灯りを向ける。
そこに現れたのは、新しい通路ではなかった。
壁の一部へ、黒い板状のものが埋め込まれている。
表面には何本もの線と、文字らしきものが刻まれていた。
そして中央には、一つの図がある。
人の姿。
頭部から伸びる角。
一本だけ。
俺は息を止めた。
◇
近づきたいという衝動が一気に湧いた。
文字を見たい。
《解析》したい。
触れたら何が起きるのか確かめたい。
だが、その考えと同時にガルドの言葉を思い出す。
今日の目的は、この場所のすべてを調べることではない。
俺たちはすでに、森の異変を引き起こしていた可能性の高い魔力波の発生源を見つけ、その危険性を確認した。さらに一時的とはいえ、周期的な放出まで止めている。
もう十分だ。
俺は黒い板を見たまま、その場から動かなかった。
「戻ろう」
自分から言う。
ガルドがこちらを見る。
一瞬だけ驚いたような表情をしたが、すぐ頷いた。
「そうだな」
俺は最後にもう一度だけ、黒い板の図へ目を向けた。
古い資料に描かれていた一本角の姿とは違う。
ここには伝聞を記した紙ではなく、実際の古い構造物の一部として一本角の図が残されている。
それが何を意味するのかは分からない。
種族を表しているのか。
誰か特定の人物なのか。
あるいは、まったく別の意味なのか。
今はまだ判断できない。
だが、昔話だけではなく、ここに実物として存在している。
それだけでも十分だった。
◇
洞穴を出たとき、森には少しずつ音が戻り始めていた。
すぐに元通りになったわけではない。
それでも遠くから一羽の鳥の声が聞こえ、しばらくすると別の方向からも鳴き声が返った。虫の音も少しずつ増え、風に揺れる木々の音と重なっていく。
森から失われていた生き物の気配が、ゆっくり戻っている。
オルドが洞穴を振り返った。
「本当に止まったみたいだな」
「今は、な」
俺が答える。
《解析》は恒久的な停止を保証していない。
それでも、少なくとも森の生き物を追い出していた魔力波は止まっている。
なら、残る二人の捜索も昨日までより安全に進められるはずだ。
◇
俺は歩きながら、背負い袋に戻した黒い金属片へ意識を向けた。
もう熱はない。
共鳴もかなり弱まっている。
ただ、《解析》には新しい情報が残った。
環状構造。
制御経路。
断片。
《魔核》との適合反応。
そして、一本角。
分かったことより、増えた疑問の方が多い。
それでも以前とは決定的に違うものがある。
この世界には、俺の身体や《魔核》、そして黒い環へ繋がる何かが本当に存在している。
それは昔話でも、偶然似ているだけかもしれない模様でもない。
俺の目の前で動き、俺の《魔核》へ反応し、森全体へ影響するほどの現象を起こしていた。
まだ正体は分からない。
だからこそ、調べる価値がある。
まずは残る二人を探す。
そのあと、この洞穴で見たものをリュネールへ持ち帰り、記録と照らし合わせる。
焦る必要はない。
一つずつ情報を増やせばいい。
森で目覚めたときから抱えてきた問いへ、ようやく手を伸ばせる距離まで近づいていた。




