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1本の水から始まる商売

 目を開けたとき、佐倉悠真は空を見上げていた。


 青い。


 それが最初に抱いた感想だった。


 日本の空よりも青い、という意味ではない。雲ひとつない空の中央に、太陽が二つ浮かんでいる。


「……は?」


 悠真は呆然としたまま、地面に手をついた。


 乾いた草。見渡す限りの平原。遠くには、見たこともない形をした黒い山々が連なっている。


 そして、空には太陽が二つ。


 片方は見慣れた黄色い光を放ち、もう片方はわずかに赤みを帯びていた。


「いや、待て。落ち着け。まず状況を確認しよう」


 声に出して、自分に言い聞かせる。


 最後の記憶は、取引先との打ち合わせを終え、駅へ向かって歩いていたことだった。


 信号が変わる。


 クラクション。


 横から突っ込んできたトラック。


 誰かの悲鳴。


 そして、強い衝撃。


「……死んだ、のか?」


 体を確認する。


 痛みはない。出血もない。ワイシャツは汚れているが、破れてはいなかった。ポケットにはスマートフォンと、残量の少ないモバイルバッテリー。財布も腕時計もある。


 スマートフォンの電源を入れる。


 画面には、圏外の表示。


 時刻は午後三時十二分。日付は、事故に遭った日から変わっていない。


「圏外っていうか……基地局がないんだろうな」


 悠真は深く息を吐いた。


 夢ではない。夢なら、こんなにも乾いた風が肌を撫でることはない。


 これは現実だ。


 現実で、太陽が二つある。


「異世界転移……なんてな」


 冗談めかして呟いたものの、笑える気分ではなかった。


 周囲に人の姿はない。道路も建物も、電柱もない。持っているのはスマートフォンと、数時間分の体力だけ。


 喉が渇いていた。


 ひどく渇いている。


 転移してからどれほど時間が経ったのか分からない。太陽が二つも照っているせいか、体感温度は真夏の昼間を超えていた。


 悠真は立ち上がり、周囲を見回した。


「水……水が必要だ」


 その瞬間だった。


 頭の中に、聞き慣れない声が響いた。


《固有スキル《異界仕入れ》を獲得しました》


「……え?」


《初回特典として、仕入れポイントを十ポイント付与します》


 視界の端に、半透明の画面が浮かび上がった。


 そこには、見慣れた日本語が表示されている。


```text

《異界仕入れ》


所持ポイント:10pt


商品を検索してください。

```


 悠真はしばらく画面を見つめた。


「なんだ、これ……」


 幻覚かと思い、手を伸ばす。


 指先は画面をすり抜けた。しかし、意識を向けると画面は反応する。


 商品検索欄に、自然と文字が浮かんだ。


```text

水

```


 検索結果が表示される。


```text

天然水 500ml 1本

必要ポイント:1pt


購入しますか?

```


 表示された瞬間、悠真の口の中に唾液がほとんど残っていないことに気づいた。


「買う」


《購入を実行します》


 空中に、小さな段ボール箱が現れた。


 重力に従って落下した箱を、悠真は慌てて受け止める。中には見慣れたペットボトルが一本入っていた。


 透明な容器。青いラベル。日本語の商品名。


 異世界に来て初めて目にした、現代日本の商品だった。


「……本当に水だよな」


 キャップをひねる。


 軽い音がして、封が切れた。


 悠真は一口、口に含んだ。


 冷たくはない。常温だった。


 それでも、乾ききった喉を潤す水は、これまで飲んだどんな高級な飲み物よりも美味かった。


 半分ほど一気に飲み、残りを大切に抱えた。


「助かった……」


 だが、安心したのも束の間だった。


 草むらの向こうから、何かが動いた。


 風ではない。


 獣のような低い唸り声が聞こえる。


 悠真は反射的に後ずさった。


 草の間から姿を現したのは、犬に似た生き物だった。ただし、体長は一メートルを超えている。灰色の毛に覆われ、口元からは鋭い牙が覗いていた。


 悠真の背筋を、冷たい汗が流れる。


「……犬、じゃないな」


 獣が一歩、近づいた。


 悠真は周囲を見回した。武器になりそうなものはない。手にしているのは、飲みかけのペットボトルだけだ。


 勝てるはずがない。


 逃げるしかない。


 そう判断した瞬間、別の声が響いた。


「こっち!」


 甲高い声とともに、何かが飛んできた。


 獣の目の前で、小さな石が弾ける。石から赤い光が走り、獣が怯んだ。


「今のうちに走って!」


 声の主は、草原の向こうに立っていた。


 少女だった。


 年齢は十歳か、十一歳ほど。茶色の髪の間から、三角形の獣耳が伸びている。背中には小さな弓を背負い、腰には短いナイフを吊るしていた。


 獣人。


 悠真は一瞬、現実感を失った。


 少女が駆け寄ってきて、悠真の袖をつかむ。


「早く!」


「いや、でもあの生き物が……」


「大丈夫。あれは火花石を嫌がるから!」


 少女は悠真の手を引き、草原を走り出した。


 運動不足ではない。商社時代には毎日駅を駆け回っていたし、体力にもそれなりに自信があった。


 しかし、異世界の草原を、巨大な獣から逃げながら走るのは初めてだった。


 背後から唸り声が聞こえる。


 幸い、獣は追ってこなかった。


 しばらく走ったところで、少女が足を止めた。


「はあっ、はあっ……もう、来てないよね?」


 悠真も息を整えながら振り返る。


 獣の姿は、もう見えなかった。


「助かった……君がいなかったら危なかった」


「おじさん、旅の人?」


「おじさん?」


 思わず聞き返す。


 少女は不思議そうに首を傾げた。


「だって、私よりずっと年上でしょ?」


「まあ……そうだけど。俺はまだ二十八歳だ」


「にじゅう……?」


 少女の耳がぴくりと動く。


「変な言葉」


「こっちの人には分からないか。俺の名前は佐倉悠真。ユーマでいい」


「ユーマ?」


 少女は少し考えてから、笑った。


「私はミナ。ラッカ村のミナ」


「ラッカ村?」


「うん。お父さんたちがいる村。おじさん……じゃなくて、ユーマはどこから来たの?」


 悠真は答えに詰まった。


 日本から来た、と言っても信じてもらえるはずがない。


「遠いところだ」


「どれくらい遠いの?」


「……太陽を、何度も追い越すくらい」


 苦し紛れの答えだった。


 ミナは目を丸くしたが、深く追及はしなかった。


 その代わり、悠真の手にあるペットボトルへ視線を向ける。


 彼女の喉が、小さく鳴った。


「水、飲みたいのか?」


 ミナはすぐに首を横に振った。


「ううん。大丈夫」


 しかし、視線はペットボトルから離れない。


 唇は乾き、頬には疲労の色が浮かんでいる。先ほどの走りで喉が渇いているのは明らかだった。


「大丈夫には見えないけど」


「村まで戻れば水があるから」


「どれくらいかかる?」


「歩いて、一時間くらい」


 悠真はペットボトルを見た。


 残りは三百ミリリットルほど。自分が飲むには少ないが、二人で分けることはできる。


 しかし、問題はその後だ。


 村まで一時間。途中でまた獣に襲われるかもしれない。自分が倒れれば、ミナにも迷惑をかける。


 それでも、目の前の少女が水を欲しがっていることは分かっていた。


「これ、飲むか?」


「えっ?」


「水だ。半分残っている」


 ミナの耳が立ち上がった。


「いいの?」


「ああ」


 彼女は両手でペットボトルを受け取った。


 飲み方が分からないのか、まず匂いを嗅ぐ。それから、恐る恐る口をつけた。


 一口。


 二口。


 次の瞬間、ミナは夢中で水を飲み始めた。


「ゆっくりでいい。喉を詰まらせるなよ」


 言葉が届いているか分からないほど、ミナは水に集中していた。


 やがてペットボトルを空にすると、彼女は大きく息を吐いた。


「おいしい……」


 水に対して使う言葉ではないかもしれない。


 だが、その表情を見た悠真は、ほんの少しだけ胸を撫で下ろした。


「そうか」


「ユーマ、これ、どこで買ったの?」


「俺のいた場所だ」


「いくら?」


 ミナは腰に手をやった。


 小さな革袋を取り出し、中から銀色の硬貨を一枚取り出した。


「これで足りる?」


 悠真は硬貨を受け取った。


 表面には、翼を持つ獣のような紋章が刻まれている。


 価値は分からない。


 だが、ミナが大切そうに扱っていることだけは分かった。


「水一つで、銀貨一枚?」


「水は大事だから。それに、村で売るなら普通はそのくらいするよ」


 悠真は眉をひそめた。


 水が貴重なのは分かる。しかし、少女が迷いなく硬貨を差し出したことが気にかかった。


「本当に払えるのか?」


「うん。お手伝いをすると、一日で銀貨一枚もらえることがあるから」


 つまり、少女の一日分の労働に相当する。


 悠真は硬貨を返そうとした。


「これは受け取れない」


「でも、買ったんだよ」


「いや、俺は君を助けたかっただけで――」


 そのとき、悠真の視界に再び画面が浮かんだ。


```text

販売成立


商品:天然水 500ml

販売価格:銀貨1枚


仕入れポイントを1pt獲得しました。

相手の満足度:高

価値循環評価:良好

```


 悠真は言葉を失った。


 ポイントが増えた。


 画面の数字が、確かに十から十一へ変わっている。


 ミナが不安そうに顔を覗き込んだ。


「ユーマ?」


「あ、いや……」


 悠真は硬貨を握りしめた。


 この世界で生きるには、金が必要だ。


 だが、金を稼ぐには売るものが必要で、売るものを仕入れるにはポイントが必要になる。


 水一本。


 たった一本の水で、仕入れた商品が売れ、ポイントが増えた。


 それはつまり――。


「商売が、できる」


 悠真は小さく呟いた。


「え?」


「いや。なんでもない」


 ミナは首を傾げたが、すぐに村の方角を指差した。


「あっち。もう少し歩けば村が見えるよ」


 二人は再び歩き始めた。


 道中、悠真はミナから異世界の話を聞いた。


 この世界には人族だけでなく、獣人、エルフ、ドワーフなどの種族が暮らしていること。


 魔法や魔物が存在すること。


 ラッカ村は辺境にある小さな村で、主な産業は麦と薬草の栽培であること。


 水源が遠く、乾季には水が不足すること。


「水が足りないなら、どうして村に住み続けるんだ?」


「ここを捨てたら、行く場所がないから」


 ミナは淡々と答えた。


「それに、お父さんが村を守ってるから」


「門番なのか?」


「うん。強いんだよ。昔は魔物を三匹も倒したんだって」


 ミナは誇らしそうに胸を張った。


 しばらく歩くと、丘の向こうに木製の柵が見えてきた。


 柵に囲まれた集落。屋根の低い家々。その中央から細い煙が上がっている。


 ラッカ村だった。


 入り口には、槍を持った男が二人立っている。


 一人はミナと同じ茶色の獣耳を持つ、大柄な男だった。年齢は四十代ほど。腕が太く、日に焼けた顔には深い傷跡がある。


 ミナが駆け寄る。


「お父さん!」


「ミナ! どこへ行っていた!」


 男は険しい顔で叫んだが、娘に怪我がないことを確認すると、すぐに表情を緩めた。


 そして、悠真へ視線を向ける。


「その人間は誰だ?」


「ユーマ。草原で魔狼に襲われていたの。私が助けたんだよ」


「助けた?」


 男の視線が鋭くなる。


 ミナは慌てて説明した。


「違う違う! ユーマが襲われていて、私が火花石を投げて、それで逃げてきたの!」


「そういうことか」


 男は悠真を頭の先から足元まで観察した。


 敵意はない。しかし、警戒は明らかだった。


「俺はガルド。この村の門番をしている。旅人なら、身分証を見せろ」


「身分証……」


 悠真は言葉に詰まった。


 運転免許証なら財布の中にある。しかし、この世界で通用するはずがない。


 財布を取り出し、免許証を見せる。


 ガルドはカードを受け取り、表裏を確認した。


「読めんな」


「俺の国の身分証です」


「国?」


 ガルドの耳がわずかに伏せられた。


「どこの国だ」


 悠真は答えを選んだ。


 日本と言っても意味がない。かといって、適当な国名を作れば後で矛盾する。


「遠い国です。ここから、ずっと東にある国から来ました」


「東に何日だ?」


「……分かりません」


「分からない?」


 ガルドの手が槍に近づいた。


 悠真は両手をゆっくり上げた。


「嘘をついているわけではありません。本当に分からないんです」


 ガルドは黙ったまま、悠真を見つめる。


 ここで追い返されたら、また草原に戻ることになる。


 水も食料もない。


 魔狼と呼ばれた獣に襲われれば、今度は助けてくれる者がいるとは限らない。


 悠真は背負っていた鞄を下ろした。


「俺は、敵ではありません」


 鞄から、まだ取り出していない商品を一つ出す。


 先ほど購入したものとは別に、ポイントを使って購入したペットボトルの水だった。


 それをガルドへ差し出す。


「水です。よければ飲んでください」


 ガルドは水と悠真を交互に見た。


「……水?」


「はい。密閉されています。安全です」


「なぜ、俺に?」


「取引をしたいからです」


 ガルドの眉が動いた。


「取引?」


「村で商売をさせてほしい。俺は水や食料、生活用品を売れます。代わりに、村の中で商売をする許可をください」


 ミナが驚いた顔で悠真を見上げる。


 ガルドは、差し出されたペットボトルを受け取らなかった。


「ずいぶんと都合のいい話だな」


「そうですね」


 悠真は素直に頷いた。


「ですが、俺にも都合があります。村に入れてもらわなければ、俺は生きていけない。村の人たちにも、水や保存食が必要です。互いに必要なものがあるなら、取引は成立すると思いませんか?」


 ガルドは長い沈黙の後、ペットボトルを受け取った。


 透明な容器を光にかざし、慎重に眺める。


「これを、いくらで売る?」


「銀貨一枚です」


「……高いな」


 ミナが不安そうに父親を見た。


 悠真はすぐに言葉を返さなかった。


 村の水事情。人々の収入。銀貨一枚の価値。まだ何も分かっていない。


 分からないまま価格を決めるのは、商人として危険だった。


 だが、ここで安売りすれば、水不足に乗じた混乱を招くかもしれない。


「では、村の中で相場を確認させてください」


 ガルドが目を細める。


「商売の許可を出せというのか?」


「まずは一晩、話を聞かせてください。村の水の値段、食料の値段、皆さんの収入を知りたい。そのうえで、村人が無理なく買える価格を提案します」


 ガルドは水の入ったボトルを握りしめた。


「お前は何者だ?」


 悠真は少しだけ考えた。


 元商社マンだと説明しても伝わらない。


 勇者でもない。冒険者でもない。魔法使いでもない。


 今の自分を名乗るなら、これしかなかった。


「商人です」


 その言葉に、ガルドはしばらく悠真を見つめていた。


 やがて、村の門を振り返る。


「……村長に会わせる。だが、問題を起こせば追い出す」


「分かりました」


「それと、その妙な水。本当に安全なんだろうな?」


「俺が飲みました。ミナも」


 ガルドはミナに視線を向けた。


 ミナは元気よく頷く。


「おいしかったよ!」


 門番の男は、ようやくペットボトルのキャップを開けた。


 そして、一口飲む。


 大きな獣耳が、ぴくりと動いた。


「……冷えてはいないが、確かに水だな」


「気に入っていただけましたか?」


「味の話ではない。だが――」


 ガルドは悠真にボトルを返し、低い声で告げた。


「この村で本当に商売ができるなら、話を聞いてやる」


 悠真はペットボトルを受け取った。


 半透明の画面が、視界の隅に浮かび上がる。


```text

新たな取引候補を確認しました。


対象:ラッカ村

村の状態:水不足/生活物資不足

推奨行動:需要調査を開始してください


特別条件:

村の生活改善に貢献した場合、

追加の仕入れポイントを獲得できます。

```


 悠真は画面を見つめ、それから村の中へ目を向けた。


 粗末な家々。


 痩せた畑。


 水桶を抱えて歩く人々。


 ここには、売るべきものがある。


 そして、必要としている人たちがいる。


「やるしかないな」


 悠真は小さく息を吐いた。


 現代日本から持ち込める商品は限られている。


 仕入れポイントも、わずか十ポイントしかない。


 戦う力も、魔法もない。


 それでも、商社で培った知識と、一本の水がある。


 悠真はラッカ村の門をくぐった。


 二つの太陽が照らす異世界で、彼の商人としての人生が始まった。

名前:佐倉 悠真

年齢:28歳

種族:人族

職業:異界商人

レベル:1

体力:E

筋力:E

敏捷:D

魔力:F

知力:B

交渉力:A

商才:B

戦闘力:F

固有スキル:《異界仕入れ》

所持金:銀貨1枚

仕入れポイント:10ポイント

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