この世界の名前
もとはカグラであったであろう小さな生き物が戻ってきたのを見て、ルナは桜の木のもとへ歩みを進めた。自然と小さな生き物もついてきて、一緒に木の根元に腰かける。顔を上げるとエミリアたちの姿はもうどこにもなかった。
優しいような寂しいような一陣の風が過ぎていき、桜の花弁も流れていく。ようやく時を戻した葉桜を見上げながら、桜の木に身を寄せる。
身体が、重かった。まどろみに誘われてしまうような疲労感がルナを襲っていた。
「―――まだ、起きてるよ」
ぺろぺろ、と小さな生き物に手首を舐められ、その感触がルナを現実に引き戻す。案外舌はつるつるしてるんだな、と思いながら小さな生き物を撫でる。
「…話をしたいっていうのは、名前のことだよ」
小さな生き物は顔を上げて、耳をピン、と立てた。兎の耳よりも幅広い感じがフェネックみたいだ。
「私はこの世界に来て、本当の名前を心にしまったの。アリー母さんのつけてくれた『ルナ』っていう名前がこの世界での私。カグラに名乗った方もこの世界の方。もともとの私の名前は母が『夢で月を見たからだ』って、話したらその名前をもらったの」
この世界と私の世界は違う。その線引きを自分の中でするのに、大切な名前となった。
いつか、元の世界に還るのだと、自分に誓って―――。この世界の“私”は置いて行けるように。
「あなたがどうして残されたのか、私は知らない。けど一緒にいるなら、『カグラ』っていう名前はあなたにとって違うんじゃないかなって思う…それは、ただの勘だけど。でも、あなたはどう思う?」
問いかけてから、そういえば自分はこの小さな生き物とどうやって意思疎通をするのだろうか、と思い至った。先程までなんとなく意思が通っているような気がしていたが、よくよく考えると相手は喋れないのだ。一緒にいよう、と言ったときは行動で示してくれていたが、今の問いかけの仕方は相手にとって難しかっただろう。
小さな生き物の前に、人差し指を二つ並べて見せた。
「こっちが『カグラのままでいい』こっちが『他の名前がいい』―――どっち?」
小さな生き物が二つの指を見て、その小さな手を持ち上げた。なるべく相手の顔の近くにしたのもあって、片手で人差し指に触れる様子を見る。犬や猫のお手に近い何かを感じてしまった。小さな生き物が選んだのは『他の名前がいい』。
「そう…。じゃあ、『もともと違う名前がある』『新しい名前がほしい』―――どっち?」
同じように人差し指を出して問いかけると、少しの間があってから小さな生き物は選んだ。
「…もしかして、新しい名前を付けてほしい相手がいた?」
わりと早めに視線は『新しい名前がほしい』方の指を見つめていたから、心の中で決まっていたはずだ。最初のようにすぐに選ばなかったところから察するとそうとしか思えなかったが、小首を傾げられた。
この子、とぼけることができるんだな、とルナ自身も学んだ。この子は、利口な生き物だ。
「私もまだ考え中だからそう答えられたら悩むけど…まぁ、いっか」
勝手に名前を付けさせてもらおう。そう決めてから、どんな名前にしようかな、と考えを巡らせる。
ふさふさの尻尾が太もものあたりにあたっているのを感じる。しきりに当たっているからもしかして期待を持ってくれているのだろうか、と小さな生き物に視線を移すと大きな瞳はこちらを見ておらず、自分の尻尾の先―――私の太ももを見ていた。
当てに来ているのか…と尻尾の動きも見て判断した。
「………そうだな…。『もゆら』、にしよう」
青葉を見せた桜の木を見上げながら、呟く。
「『さくら』と『かぐら』の音の響きが似ているし、あなたの中で新しい時間が進んだ。本質はたぶん、桜のままだろうけど、この木はもう青葉を見せている。【若草萌ゆる】っていう言葉、聞いた事あるかな?私もうろ覚えなんだけどね」
桜が葉をつけ季節が移り変わっていく。この子の新しい時間が持てたことに感謝の気持ちをこめて。
「『もゆる』でもいいけど、“ゆらゆら揺れる”…それか、“揺らめく”っていう意味も動きがあってよさそうかなって思って『もゆら』。どう?」
私の太ももに尻尾を打ちつけるのをやめて、『もゆら』はこちらを見てきた。ピクピクと花びらのような耳が動いている。もう一度『もゆら』と呼びかけると、うんうん頷いて腹部に潜り込むように向かってきた。
「お気に召して頂けたようで何より…これからよろしく、もゆら」
三角座りをしていたが、あまりにももゆらがグルグルと腹部で回ろうとするので足を伸ばして木に寄りかかると、やっとお腹と手に挟まれて大人しくなった。未だ長い尻尾が凄い勢いで横振りをしているがそれは黙認する。
「もゆら、あなたは私の希望でもあるんだ。私の元の世界での縁だから。確かに、私の世界があったんだって、その証明でもあるから…」
もゆらを抱えながら、抗えない眠気に誘われるように身を横たえる。
「あの人たちとは、還るところは違うけれど、私たちも、元の世界へ―――…」
瞼の裏に、空に還った四つの魂が映る。泡沫と、空に消えたあの魂たちのように。私も、あんな表情になれるだろうか―――。
*********
次に目を開けるとそこは既に夢の中だった。
身に覚えのある焦燥感と恐怖。
「息つく暇がないな」
ついため息が零れる。
上空から見えるのは出口のないコンクリートの迷路。頼りない街灯が角道を知らせる。その中を、男性が全力で走っている。
―――追いつかれてはならない。逃げ切らなければ。あぁ、でも…――
何に追われ、何から逃げているのか。彼の後ろには何もいないのに、彼が過ぎていくと街灯が一つ、また一つと消えていく。
それが、もう戻ることができないことを意味しているようにも見えた。
―――キュイ
「ん?」
可愛らしい鳴き声と共に、桃色の花びらが姿を現す。それは形を成していき、四肢をもち、長い耳がぴょこん、と立っている。眠る前に見た小さな生き物がそこにいた。
「もゆら…来れたの」
黒曜の瞳が細められ、すぐさま私の肩に乗って眼下の迷路を見る。
カグラも夢に居たから、もゆらも夢に入り込めるのかもしれない、と適当にあたりをつけて一人と一匹で男性を見つめる。
焦燥感が募りに募っていく。走っている間の疲れはない。それよりも、胸の中を氷塊が滑り落ちるようなこの恐怖心が今回はまた一段と感じる。
―――”アレ”が、”アレ”が失われてしまう。
―――いやだ、いやだ。
―――”アレ”だけは、諦めたくない…!
だから―――…。
「―――!?」
漆黒の龍に出会い、”彼”は鋭利なナイフを振りかぶる。
―――お願い…。
龍が金の瞳を顕にしたその瞬間―――どこからかか細い祈りの声が聴こえた気がした。
*********




