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アロルド王太子殿下

 アロルド皇子とルナはゆっくりと歩みを進めた。

 先導はアロルド皇子の側近である【シキ】と名乗った男性がかって出た。

 目の前で深緑の軍服に、肩ごしまであるこげ茶の髪はひとつに括られ、一歩一歩進むごとにゆったりと揺れるのが見える。

 ルナとアロルド、二人の後ろにはヒルダとヨルダが控える形となり、ルナはその光景の俯瞰した図を想像してしまい、大仰な移動だと恐縮してしまう。午前中に礼儀作法の授業があったため、歩き方ひとつでも気を抜いてはならない心持ちもしているので、傍目にはそうとは気づかれない程度だが。


「先程は本当に驚きました。ルナ様の侍女たちが血相を変えてやってくるものですから、私も肝が冷えました」


「それについては、本当に反省しています。ごめんなさい」


 返す返すもその言葉しか出てこない。

 自然と俯き加減になってしまい、彼と目が合わせられない。


「あぁ、そうではないのです。困ったな…ルナ様にそう言ってもらうつもりではなかったのです。こちらこそ、配慮が足りず…断りもなく入室したこと、お許しいただけますか?」


 想定外のことを言われ、ルナは思わず顔を跳ね上げた。


「許しなんて…! あれは私の勝手が起こしたことです。アロルド皇子は何も悪くありません」


「そうですか。それは助かります。では、これで先程の件は終わりに致しましょう」


「う…はい、お気遣い、痛み入ります」


 アロルド皇子は本当にフォローがうまい。

 さりげなくルナの“はしたない”とされる行為に対して見て見ぬフリをしてくれると言う。

 こちらを傷つけないようにわざわざ言葉を選んでくれたことが感じられる。


「ありがとうございます…」


 最後に、消え入りそうな声でこぼした言葉はその近さもあってか、無事に彼に届いたらしい。

 僅かな笑声を返され、気になって彼を見やると穏やかに微笑んでいる姿が目に映る。

 シエルとは違う微笑み方だ―――。


「それにしても、よく私がアロルドだとわかりましたね。服装の違いはあれど、外見はアルフとも似ているのでよく間違われるのですが…」


 確かに、謁見の場でも思ったがアロルド皇子とシエルはよく似ている。兄弟だから当たり前だ。

 彼の言うとおり、背格好もさほど違いはなく、決定的に違うのは衣装の色と形の違いだけだ。

 アロルド皇子は緑、シエルは青を基調としたデザインを身につけているようだ。

 胸の紋章も金糸の龍は緑の宝玉を手に抱えているものになっている。

 しかし、先程のルナはじっくりと服装まで見る余裕はなかった。ただただ、彼の瞳を見ていただけだった。

 あれほどの沈黙の中で服装が見えていなかったと言うのもおかしな話だが、アロルド皇子はルナの瞳が微動だにせず、まっすぐと見据えていることを感じとったらしい。


「いえ、私も姿だけでは分からなかったと思います。一番最初に声を掛けられたので、わかっただけで―――」


「声だけで…?」


 ここで今のは失言だったと無意識にルナは思った。

 シエルからは自身の名前を呼びかけられる時に決してルナのことを“ルナ様”とは言わない。

 だから次に視界に映った姿がシエルと似ていようが、これは『彼じゃない』と直感させるものがあったのだ。よって、実際には声色の違いで判断したのではない。

 呼び方は距離のあり方でもある。

 アロルド皇子でもルナに対して敬称を使うのだから、シエルのその行為は傍から見ても異質のものだとわかってしまう。

 ルナは急いで言い訳を探した。


「そ、そうです…。アロルド皇子の方が少し声のトーンが高いんです。あと、瞳の色も、シ…アルフレッド皇子より深みがあると言いますか、微妙に違うんですよ」


 先程感じたことも並べ立てたらさすがのアロルド皇子も納得してくれたらしい。

 「そうなのですか…初めて聞きました」と思案顔になった。


「ルナ様は観察眼が鋭いようで。父上なんていまだに間違える時があるのですから」


 母上は決して間違えないのですが…と苦い声で続けられた言葉にルナも苦笑するしかない。

 国王陛下ともなれば日頃から忙しいのもあって彼らと接する機会も実は貴重だったのではないだろうか。

 エルヒ王妃に至っては今でも【乳母】をやっているのだから、二人の姿を幼い頃からつぶさに見ていた筈だ。だからこそ、彼らを間違うこともないのだろう。


「私も、さすがに後ろ姿だけだとわかりませんよ」


「そのようですね」


 朗らかに笑われ、ルナはうまくこの場を切り抜けられたという安堵を感じると同時に、アロルド皇子と意外と会話が弾むことに気付いた。少しずつ心がほぐれていく感覚に、不思議な心地を味わう。

 しかし、アロルド皇子のはにかんだ笑顔を見ながら、ルナはそれでも僅かな違和感を覚えたままだった。


「それにしても、ルナ様はダンスがお上手なのですね。舞踏会は初めてとのことでしたが、どこかでダンスのご経験が?」


 先程の件を思い出し、ルナは羞恥がぶり返した。

 しかし、彼は穏やかに微笑んでいるだけなので他意はないのだと感じ、ルナは素直に言葉を紡いだ。


「いいえ、村の祭は少しだけ参加したことはありますが、あんなに踊ったのは今回が初めてです」


「初めて…? それにしては軽やかなステップで、まるで天使が空を踊っているようでしたよ」


 それは完全に自分の世界に浸っていたことを証明するようで穴があれば即座に突っ込んでいきたい気持ちにさせられた。

 この世界の男性は皆、こんなに綺麗な例えをだすのだろうか。

 言葉のチョイスにも恥ずかしさがこみ上げてくる。


「あんなに広いところで、大きく身体を動かすのが久しぶりだったので…つい…」


「あれほどの技術でしたら、私も負けていられませんね」


「それはどういう―――?」


 唐突に勝ち負けの話になった、と思ったがそれはひとつの嫌な予兆としてルナの頭に警鐘が鳴り響いた。


「お聞きになられていませんか? ルナ様は【王妃の客人】。王妃からの歓迎を示すためにも、私たちがあなたのパートナーとして共に踊ることになっているのですよ」


 衝撃がルナを貫く。慌てて背後の双子の侍女たちに視線を移すと、にこやかに頷かれた。

 えぇえ…、と呻くことは許されず、ルナは必死に心の中に押し込めるしかなかった。


「あの、それはアロルド皇子とも踊る、ということであってますか?」


「はい、そのとおりです。まぁ、私よりもアルフの方がルナ様の傍にあってくださると思いますから、私の出番はあまり期待なさらないでください」


 皇子と踊ることは決定事項なんだな、とルナは諦めにも似た境地でひとり納得した。

 ヒルダとヨルダがあえてそのことを伏せていたのは今日が初めてのレッスンの日だったからか、それとも極度の緊張を避けるためか、どちらの配慮の可能性はある。そしてそれは懸命な判断だったとも思う。

 しかし、全く違う方面―――しかもそれを本人から知らされるのも大変な衝撃をもたらすことをルナは今知った。

 素足で息抜きしている場合ではなかったのかもしれない。


「あの歌も…不思議な旋律で聞いたことのない詩でした。あれは、ルナ様の故郷の歌ですか?」


 反省途中に問われた後、少しの間があった。

 故郷…とは、ちょっと違う。けれど、私の世界の歌であることには変わりない。


「そう、ですね…。思い入れはある曲です」


「―――ルナ様は私の知らない世界をご存知のようだ」


 それがどんな意味を含まれているのかルナには計りしれなくて、言葉に詰まった。


「アロルド皇子にも、知らない世界なんてあるのですね」


「ええ、私はこの国の貿易にも携わっていますが、この世界は広い。母上のコレクションルームを見られたらルナ様も同じ意見を持たれると思いますよ。私の世界はまだまだ狭い。だからこそ、その知識を得られるように様々な人々と出会い、話を聞いて回っています。これがまた楽しくて…。よかったら、ルナ様もまた私に新たな知識を増やしていただけませんでしょうか」


 穏やかに、しかし無邪気な少年のように彼は言った。

 純粋に、いろんな文化に興味を持っていることを伝えられ、その意欲が眩しくルナには見えた。


「あなたは、恐れないのですね。とても、羨ましい…」


「ルナ様…?」


「アロルド皇子も、いろんな疑問をその胸に抱いていらっしゃるのでしょう? 例えば―――私が“何者”なのか」


 息を飲む気配がすぐ隣でした。そして、目の前の【シキ】と言った青年からも肌を刺すような警戒心を向けられたのを感じる。

 対するルナは穏やかに、心のどこかでしこりのように残っていた正体をようやく突き詰めた気分を味わっていた。

 笑顔のその下に隠した僅かな彼の警戒心。言葉を重ねるほどに、彼には歩み寄れていない不思議な感覚はこれだったのか、とようやくルナは納得した。


「当たり、のようですね。私、言葉を飾るのは好きじゃないんです。これでようやくすっきりしました」


「これは、まいったな…。一体いつから?」


「謁見の時も、晩餐会の時も、アロルド皇子は今と同じ目をしていました。朗らかでいてにこやかでいらっしゃるのに、違和感だけが私の中ではありました。それが何なのか、考えればすぐに答えに行き着きました」


「本当に、鋭いお方だ」


「いいえ。皆、遠回りをしていただけです。エルヒ王妃様だけが、私の姿を夢の中でじかに視た。でも、他の人はそうじゃない。どこの出身かも、何もかもわからない得体の知れない者。ここでは、私は、本当はそういう扱いなのでしょう?」


「どうか、気を悪くしないでいただきたい」


「気を悪くだなんて…―――この場合は、アロルド皇子の方が正しい見解をしていらっしゃるのに、私が気を悪くするなんてこと、ありません」


 そうとも、本当はこんな扱いをされる謂れなどどこにもないのに、それに甘んじていた私が悪いのだ。

 目の前の彼は、何も悪くない。国を想い、両親を想い、ただ正しいことを見極めようとしていただけ。

 そこにあるのは、純粋に護りたい気持ちがあることを、さすがのルナもわかっていた。


「ちゃんと、自分の役目を全うしようとしているあなたは、本当に素晴らしい方。だから、そのままでもいいと、私は思います」


「―――…あなたは、」


「アロルド皇子が一番最初に疑問に思ったのは“言葉”でしょう? ここに来た時、アリー母さんは最初に言ってくれましたよ。誰もそのことに触れないから、逆に私が心配していたぐらいです」


 ルナはこの世界の言語を喋ってはいない。完全なる日本語なのだが、彼らには自然とこの世界の言語として理解できるようになっているらしい。それはルナの方も同じで、彼らの言語自体は聞こえず、喋った言葉がそのまま日本語として聞こえている。

 だから、口の動きと言葉が合っていないときの方が圧倒的に多い。ルナも、ルナに対する人々も常に吹き替え版の映像を見ているような気持ちにさせられるのだ。

 アリシアはその違和感をすぐに指摘したのだが、王宮に来てからはその質問は一切されたことがなく、今回、アロルド皇子が初めてだった。

 アロルド皇子があえて“歌”の話を出したのにも理由があった。

 これもアリシアから聞いた話だが、例外的に“歌”の時はそのまま日本語で聞こえているらしい。

 ルナがこの世界の歌を聞いてもこの国の言葉ではないのに対し、ルナから発せられる歌は日本語のまま。

 だからこそ、彼はわざわざ異国の話を持ち出し、こちらに警戒心を抱かせないよう自然と話を聞き出そうとしたのだろう。


「お察しの通り、私はこの国の者ではありません。でも、どうか誤解しないでほしいのですが、私はこの国に何か恨み言があるとか、危害を加えることは一切ありません。それはもう、自信をもって言えます」


「―――…」


「言葉を尽くしても、あなた方が今は信じきれないことも充分承知しています。それでいいです。そのままで、いいです。私の帰りたいところは、ここじゃないから」


「ルナ様」


 シキが、歩みを止めた。その向こうは気品ある赤茶色の扉。

 丁度、目的地に着いたようだ。

 エスコートしてもらった腕に、そっと手を離し、ルナは改めてアロルド皇子に向き直った。


「ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。大切なお時間を頂いてしまってごめんなさい。それと、話を聞いてくださって、ありがとうございました」


 自分の元いた場所から考えて、王妃の部屋に行き着くまで遠回りしたことにルナは気付いていた。

 ルナ自身を探るための作られた時間であったのだと、アロルド皇子の瞳を見てそう思う。


「お待ちしておりました、【夢の渡り人】ルナ様」


 扉が静かに開き、中から声を掛けられた。

 姿を現したのは王妃のお茶会でも見た侍女だった。


「すみません、約束の時間に遅れてしまいましたか?」


「いいえ。程よい時間でございます。さぁ、中へどうぞ」


「はい、ありがとうございます」


 改めてアロルド皇子に向き直り、一礼する。


「ここまで送ってくださり、ありがとうございました。ダンスの際は迷惑をかけないようにこれからもレッスンに励みます。アロルド皇子も、お体に気を付けてくださいね。失礼します」


 彼は何も言わず、胸に手を当ててゆったりと一礼を返してくれた。

 それが、何よりの答えだと思った。

 ヒルダとヨルダを連れて、ルナは王妃の部屋に足を踏みだした。

 ゆっくりと扉が元の位置に戻る。

 

 その場に留まっていたアロルドとシキはそこからしばらく動けずにいた。

 やがて、ゆっくりとアロルドがもと来た道を辿るように足を向け、それにシキが続いた。


「シキ、お前はどう思った?」


「殿下が悪者かと思いました」


「……お前は本当に容赦ないな」


「嘘はつけませんので」


「よく言う」


 ふはっ、と堪えきれず笑声をこぼしたアロルドは扉の奥に消えていった少女を思い出し、瞳を細めた。


「“竜”は、真実を見抜く。ここは“彼”の庭。【時の庭】にまで入れたのだから彼女を敵視することはまずない。彼女が思っているほどに、私は彼女のことを疑っていないのだけれどね」


「聡明な女性だとわかっただけでもよかったのでは?」


「そうだね。そう思うことにしよう」


 僅かなわだかまりが残る胸を抑えるようにアロルドはひとつ息をつく。


『私が帰りたいのは、ここじゃないから―――』


「彼女には、まだ秘密がありそうだ」


 無理に暴くつもりなどない。

 しかし、彼女の胸のうちを聞いた今ではその言葉の本当の意味を掴みたいような気もしていた。

 ふと、自身の弟であるアルフレッドの顔が思い浮かぶ。


「あぁ、こういう時の予感は当たるんだよなぁ」


 そうこぼして、アロルドはくしゃり、と髪を撫ぜた。

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