氷原の掃討
三日目の朝も、ラスラフは一行の前方を独りで歩いていた。
二十歩の距離。昨日と同じ。背後にズラータとドモヴォイの気配を感じながら、振り返らずに歩く。灰色の空の下、氷原はどこまでも平坦で、踏みしめる雪の感触だけが単調に繰り返された。
右手の指先から、微かな放電が時折弾ける。制御しようとしている。ヴェレスに教わった方法で、力の流れを細く保とうとしている。だが完全には止まらない。感情が揺れるたびに、火花が散る。
背後で、足音が変わった。
ズラータの歩調が速まっている。規則的だった足音が、雪を蹴る音に変わった。近づいてくる。
ラスラフは歩調を上げた。距離を保とうとした。
だがズラータの足音はさらに速まった。走っているわけではない。だが迷いのない足取りで、確実に距離を詰めてきている。十五歩。十歩。
「来るな」
言いかけた。口を開いた。
だがその声が出る前に、ズラータの声が先に来た。
「離れないで」
震えていた。声が。だがその震えの下に、折れない芯があった。ラスラフは足を止めた。振り返った。
ズラータが立っていた。五歩の距離。外套の襟を合わせ、風に金色の三つ編みが揺れている。緑色の目が、真っ直ぐにラスラフを見ていた。
「私は放電を恐れていない」
声は震えていたが、目は揺れなかった。
「恐れているのは、あなたが自分から離れていくことだ」
ラスラフは言葉を失った。ズラータの目に浮かんでいるのは、怒りでも悲しみでもなかった。決意だった。恐怖を超えた場所にある、静かな決意。
ズラータが右手を持ち上げた。掌を見せた。
枝分かれした赤い雷痕が、焚き火の残り香を帯びた掌に走っている。三日経っても消えない、嵐の力の焼印。
「この痕は消えない。でも、あなたが触れた証でもある。私はこれを、呪いだとは思わない」
ラスラフの胸が軋んだ。
「でも、次はもっと──」
「次がどうなるかは、私が決める」
ズラータが遮った。声の震えが消えていた。
「あなたが決めることじゃない。私の身体に何が起きるかは、私が引き受ける。あなたが勝手に離れていい理由にはならない」
断定的だった。いつものズラータの口調。感情を排した、無駄のない言葉。だがその言葉の下に流れるものが、以前とは違った。使命でも義務でもない。もっと生々しい、剥き出しの何か。
ラスラフは何も言えなかった。答える言葉を持っていなかった。不器用な口が、震える言葉も、感謝も、謝罪も形にできなかった。
ただ、立ち尽くしていた。
二人は並んで歩いた。
手は繋がなかった。触れなかった。五歩の距離が三歩に縮まったが、それ以上は近づかなかった。ラスラフの指先から時折弾ける放電が、それ以上を許さない。
だが距離の意味が変わった。
昨日までの距離は、ラスラフが自分から作った壁だった。触れれば傷つけるという恐怖が築いた、逃避の距離。だが今の距離は──二人で選んだ距離だった。今は触れられない。だが隣にいる。放電が止まるまで、この距離で歩く。それは孤立ではなく、共存だった。
ラスラフは右手を握り、開いた。放電は止まらない。だがズラータが隣にいる。三歩の向こうに。触れない距離に。でも、確かに。
後ろからドモヴォイの声が聞こえた。
独り言のように、小さく。ラスラフの耳に辛うじて届く声で。
「……ああいうのを、絆っていうんじゃろうなあ」
ラスラフは振り返らなかった。だが口元が、ほんの僅かに緩んだ。すぐに引き締めたが、ズラータが横目で見ていたかもしれない。
氷原を、三つの影が並んで歩いていく。先頭の二つの影は、触れない距離を保ちながら、同じ方向を向いていた。




