徴を持つ者
門番の緊張は長くは続かなかった。
奥から現れた老人の一言が、場の空気を変えた。「槍を下ろせ。吹雪の中で旅人を追い返す道理はない」。低いが通る声だった。門番たちが渋々と槍を引き、重い木戸が軋みながら開いた。
集落の内部は、外の荒涼とは別の世界だった。
雪壁と防風柵に囲まれた空間の中に、木造の家屋が身を寄せ合うように建っている。屋根は低く、雪の重みに耐えるために湾曲していた。家と家の間を縫う細い通路は石畳で、その上に薄く雪が積もっている。通路の両脇に、凍結を防ぐための焚き火が等間隔に置かれ、橙色の灯りが通路を温めていた。
驚いたのは、地面が凍りきっていないことだった。
石畳の下から微かな温もりが立ち昇っている。ズラータが地面に手を触れ、目を見開いた。
「地下に温泉があるのか。この土地の下に」
「凍らない地下泉だ」
案内してくれたのは、先ほど門番を制した老人だった。白髪を後ろで束ね、深い皺が刻まれた顔に鋭い目が光っている。杖を突いているが、背筋は真っ直ぐだった。
「泉の熱を石畳の下に通している。三百年前の先祖が考案した仕組みだ。この集落が今日まで生きているのは、この泉のおかげといっていい」
通路を歩くと、生活の気配が五感に押し寄せてきた。
どこかの家から、粥を煮る匂いがした。地衣類と干し肉を刻んで煮込んだものらしい。華やかな匂いではないが、温かいものが煮えている気配そのものが、ラスラフの胸を緩めた。別の家の窓からは、女の歌声が漏れている。子守歌だろうか。永冬の中でも子供は生まれ、母親は歌を歌う。
ドモヴォイが目を丸くしていた。
「こりゃ立派なもんじゃ。家の造りが堅実じゃのう。煤のつき方を見ろ、何十年もちゃんと使い込まれた炉がある。ああ、良い炉の匂いがするぞ」
家の精霊の目は、炉と煤と家の構造だけを見ていた。
老人が一行を自分の居室に案内した。石壁に囲まれた小さな部屋で、炉の中の炭火が赤く光っている。壁には古い獣皮の地図が掛けられ、棚には羊皮紙の束が積まれていた。
「わしはスヴャトスラフ。この集落ヴォログダの長老だ」
老人は杖を壁に立てかけ、ラスラフの前に腰を下ろした。鋭い目がラスラフの右腕に向けられた。紋章を見ているのだ。蒼白い樹枝状の紋様を、炉の灯りの中でじっと見つめている。
「ペルンの徴を持つ者が来るとは」
呟きだった。歓迎でも排斥でもない。長い時間をかけて何かを確かめるような、慎重な声だった。
「三百年ぶりの客人になるかもしれん。少なくとも──こんな紋を持つ者は、記録にはない」
ラスラフは何と答えるべきかわからなかった。自分が何者かを説明する言葉が見つからない。ペルンの血を引く者。嵐の力の継承者。そう言えば通じるだろうか。それとも、恐れさせるだけだろうか。
ヴェレスは白狼の姿のまま、部屋の隅の暗がりに伏せていた。人型は見せなかった。長老の鋭い目を避けるように。
「旅人よ。この集落に害をなすのでなければ、吹雪が過ぎるまで滞在を許す。それでよいか」
「ありがたい」
ラスラフは短く答えた。長老が小さく顎を引いた。それが許可の合図だった。
翌朝、吹雪はまだ続いていた。
ラスラフは集落の中を歩いた。通路の焚き火が朝の光と混じり合い、橙と灰白が交互に揺れている。人々が朝の仕事を始めていた。女たちが地衣類を干し棚から下ろし、男たちが防壁の修繕に向かう。子供が通路を走り抜け、笑い声が石畳に跳ねた。
子供の笑い声を聞いたのは、いつ以来だろう。
故郷の村では、子供はラスラフを見ると逃げるか石を投げるかだった。ここでは──まだ自分が何者かを知らない子供が、ラスラフの前を走り抜けていく。その無邪気さに、胸が軋んだ。
焚き火の傍で、老人が干し肉を噛みながら隣の男と世間話をしていた。修繕に向かう男が妻に「昼には戻る」と声をかけ、妻が「気をつけて」と返した。日常の言葉。日常の温もり。三百年の永冬の中で、人はこうして日常を紡いできた。
守りたいもの、と思った。
初めてその言葉が、具体的な形を持った。抽象的な「世界」ではなく、子供の笑い声や、焚き火の傍の世間話や、「気をつけて」という妻の声。そういう、小さくて温かいもの。それを守るために力があるのなら──
ラスラフは右手を見た。蒼白い紋章に覆われた、感覚のない手。この手で何を守れるのか。何を壊すのか。まだわからなかった。
夜、集落の外れから空を見上げた。
灰白色の空は変わらない。三百年間ずっとそこにある、色のない空。だが今の自分なら──この空を変えられるかもしれない。そんな希望が、初めて具体的な形を持ってラスラフの胸に灯った。小さな炉火のように。ヴォログダの地下泉のように。微かだが、確かに温かいものが。




