蛇の庭
山の向こう側に下りていくと、空気が変わった。
永冬であることに変わりはない。雪は積もり、風は冷たく、空は灰色のままだった。だが足元の大地から、微かに何かが立ち昇っている。目に見えるものではない。匂いが違った。荒野の乾いた空気とは異なる、土と石の匂い。凍りついていてなお地の底に何かが眠っている気配がした。枯れかけた井戸の底にまだ僅かに水が残っているような、そういう気配だった。下り斜面を踏みしめるたびに、足の裏から微かな振動が伝わってくる。大地そのものが脈打っている。
ズラータが立ち止まり、膝をついた。
右手の掌を雪の下の土に押しあてる。目を閉じた。紡錘を握った左手が微かに光を帯び、その光が指先から手首へと広がった。大地の記憶を読んでいる。ラスラフはその横顔を見ていた。緑の瞳の奥で、木の葉が揺れるような模様が浮かんでは消える。巫女の力がこの土地の何かに反応していた。久しぶりに見る表情だった。巫女としてのズラータの顔。
「この地には……まだ何かがある」
ズラータが目を開けた。
「神々の時代の力の残り。完全には死んでいない」
ラスラフも感じていた。右腕の痣が微かに脈動している。温もりではない。共鳴に近い振動だった。荒野を歩いていたときにはなかった反応。痣の奥で何かが呼応している。この土地にある何かとペルンの力が、互いを認め合うように震えていた。感覚のない前腕にも、その振動だけは伝わってくる。痣の力だけは、感覚喪失の壁を越えるのだ。
三人は山を下り、遺構に向かって歩いた。下り斜面は登りほど急ではなかったが、凍った雪が滑りやすく、足元に気を配る必要があった。ラスラフは左手で岩を掴みながら慎重に下りた。右手は外套の内側に入れていた。使えない手を振り回すよりも、身体の中心に留めておく方が安定する。そういう工夫が、いつの間にか身についていた。
雪を踏む音が三つ。ドモヴォイの小さな足音と、ラスラフの重い足音と、ズラータの静かな足音。白狼の姿はいつの間にか見えなくなっていた。
山脈と遺構の間の低い丘で、ラスラフは足を止めた。
振り返った。
越えてきた山脈の稜線が、灰色の空を背にして白く連なっている。あの稜線を越えてきた。三人で登り、三人で下りた。あの山の向こうに、ラスラフの村がある。養父の鍛冶場がある。煤けた壁と低い天井の、世界で一番温かい場所がある。石を投げた子どもたちと、目を逸らした村人たちがいる。
あの山の向こうですべてが始まった。白狼に出会った。ズラータと旅立った。ドモヴォイが合流した。冬の眷属と戦い、力が目覚め、指先の感覚を失った。凍りついた集落で、冬に呑まれた人々の姿を見た。ペルンが封印されたのではなく殺されていたと知った。中位眷属と戦い、嵐を解き放ち、自分のものではない怒りを感じ、右腕の感覚がなくなった。
あの山の向こうにいた自分と、今ここにいる自分は違う。忌み子であることは変わらない。だが忌み子であることだけがすべてではなくなっていた。ペルンの落とし子。嵐の力を継ぐ者。代償を負い、それでも力を使い続けると決めた者。まだ迷っている。まだ受動的だ。だが隣にズラータがいて、背後にドモヴォイがいて、前方のどこかに白狼の足跡がある。一人ではない。それだけが、あの村にいた頃と決定的に違うことだった。
「振り返ってばかりおると首が痛くなるぞ」
ドモヴォイが言った。もじゃもじゃの髭の奥で、小さな目が笑っている。
ズラータの口元が微かに動いた。笑ったのかもしれない。ラスラフの目にはほとんど確認できなかった。だが空気が一瞬だけ柔らかくなった気がした。
一行は前を向いた。遺構に向かって歩き出した。雪を踏む三人の足音が、静かな大地に刻まれていく。
遺構が近づくにつれ、その規模がわかってきた。石の柱は人の背丈の三倍はあった。雪に半ば埋もれているが、露出した部分だけでも太く重厚で、風雪に削られてなお形を保っている。柱と柱の間に崩れた壁の跡が続き、かつて大きな建造物があったことを示していた。石畳の上の雪を足で払うと、磨かれた石の表面に紋様の痕跡があった。摩耗して読み取れないが、何かが刻まれていた名残だった。
ラスラフは感覚のない右手を見た。蒼白い痣が手の甲から前腕にかけて走っている。十七年ずっとそこにあった紋様。
左手を風にかざした。冷たかった。山を下りてなお吹きつける風が指先の皮膚を刺す。痛いほどの冷たさ。だがその痛みが、生きている証のように感じられた。冷たい。わかる。左手にはまだ感覚がある。温度がわかる。痛みがわかる。風を感じられる。それを今は素直に嬉しいと思った。小さなことだ。だが右腕が感じなくなった今、左手が感じるという当たり前のことが当たり前ではなくなっていた。残っているものがある。まだ失っていないものがある。その認識が、代償を嘆くだけの自分を僅かに押し返していた。
遺構の入口に立った。二本の石の門柱が、雪に半ば埋もれながら左右にそびえている。門柱の表面にも紋様の痕跡が残っていた。石畳よりは保存がよく、渦巻くような線が刻まれているのがかろうじて見える。
門柱の間を潜ろうとした。一歩を踏み出したとき──嵐の痣が脈動した。今までにない強さで。これまでの脈動とは次元が違った。
ラスラフは右腕を押さえた。痛みではない。感覚のない腕に痛みはない。だが痣が内側から押し広がるような圧迫感が、感覚の壁を越えて肩から胸にまで伝わってきた。共鳴だった。この聖域の何かが痣に呼びかけている。
不審に思った。それだけだった。痣を押さえ、首をかしげた程度だった。
だがズラータは見ていた。ラスラフが痣を押さえたとき、痣の紋様がある角度から光を受けて変わって見えたことを。歪な稲妻の枝分かれだと思っていた紋様が、一瞬、何かの紋章のように整って見えたことを。
背後で、ズラータが息を止めた気配があった。
ラスラフは前を向いていた。門柱の向こうに広がる聖域の奥を見つめていた。ここに何かがある。ペルンの力と呼応する何かが。白狼が知るべきことがあると言った何かが。
一行は聖域の門を潜った。
風が変わった。門柱の内側と外側で空気の質が違う。外の風は永冬の冷たい風だった。骨を削るような乾いた冷気。だが内側の風には、それとは異なる何かが混じっていた。古い力の残滓。枯れかけてなお消えきらない、神々の時代の名残。温かいわけではない。だが冷たさの質が違う。凍りつく冷たさではなく、眠りの中の静寂に似た冷たさだった。
ドモヴォイが小さく身震いした。髭が逆立ち、すぐに収まった。精霊の本能が、この場所の力に反応している。「古い。古いのう」と低く呟いた。声に畏怖が滲んでいた。
ラスラフは歩いた。隣にズラータがいた。背後にドモヴォイがいた。崩れた柱の間を抜け、雪に埋もれた石畳の上を踏みしめながら、聖域の奥へと進んでいく。
右手の痣が、穏やかに脈動していた。呼びかけに応えるように。
旅の第一歩がここで終わり、次の一歩がここから始まる。




