旅路の先に
山脈は白かった。
白狼が「山脈を越えろ」と告げた翌朝、三人は山裾に立っていた。見上げるほどの急斜面が雪に覆われ、灰色の空との境が曖昧に溶け合っている。凍りついた岩肌が所々で雪の下から顔を覗かせ、踏めば砕ける脆い氷の層が斜面を覆っていた。風が稜線を越えて吹き下ろし、雪を巻き上げて視界を塞ぐ。永冬の山は生きている者を拒んでいた。吐く息が瞬時に白く凍り、睫毛に霜がこびりつく。鼻の奥まで凍てつく空気が刺さり、肺が軋んだ。ドモヴォイが山を見上げて「こんなものを越えろと言うか」と呟いたが、足は止めなかった。
ラスラフは右手を風に向けた。
痣が微かに熱を帯びた。力を抑え、最小限だけ解放する。掌から押し出された風が正面の雪を左右に押し退け、三人分の道が開いた。大規模な行使ではない。あの谷間の戦いの後、力の加減を意識するようになっていた。大きく使えば大きく失う。その法則を、感覚のない右腕が身体に刻み込んでいた。必要な分だけ。それ以上は使わない。
ズラータが地面に片手をつけた。凍った岩の表面に掌を押しあて、目を閉じる。紡錘を握った左手が微かに光を帯びた。数秒の沈黙の後、目を開いた。
「この先、十歩ほどで岩盤が薄い。重みをかければ崩れる。左に回れ」
ラスラフは彼女の指す方向を避け、硬い岩の露出した箇所を選んで足を置いた。右手で岩を掴もうとして、やめた。握力の加減がわからない。掴めたのか滑っているのか、指先が教えてくれない。左手を伸ばし、凍った岩の突起を握った。冷たい。皮膚が張りつくほどの冷気。右手なら感じなかっただろう。
「右じゃ。右に寄れ」
ドモヴォイが先を行っていた。もじゃもじゃの髭を風になびかせ、小さな体が雪の中を這うように進む。精霊の感知力で安全な足場を探り当て、後続に指示を出す。添え木の取れたばかりの左腕を庇いながらも、足取りは確かだった。「この岩は駄目じゃ。浮いておる」「あそこの窪みに足を入れろ」。家の守護精霊が持つ危険察知の本能が、戦場ではなく旅路の中で活きていた。
三人がそれぞれの力で山を登った。ラスラフが風で道を拓き、ズラータが地を読み、ドモヴォイが危険を嗅ぐ。誰か一人が欠けてもこの斜面は越えられなかっただろう。戦闘ではない連携だった。旅の中で積み重ねた信頼が、言葉にしなくても噛み合う動きを生んでいる。ズラータが「右の岩は崩れる」と言えばラスラフは左に足を運び、ドモヴォイが「上に張り出した氷に気をつけろ」と言えば二人は身を低くして通過する。声を掛け合うだけで足が揃う。それが戦闘ではなく日常の中で起きていることが、ラスラフには新鮮だった。
急斜面の中腹で足を止め、息を整えた。見上げれば稜線はまだ遠い。見下ろせば登ってきた斜面が白い壁のように落ちている。風鳴りが耳を叩く。遠くで氷河が割れる乾いた音が響き、こだまが谷に落ちていった。ドモヴォイが膝に手をつき、肩で息をしながら「わしは山の精霊じゃないぞ」と呟いている。だが足は止めなかった。文句を言いながら歩き続けるのは、この小さな精霊の流儀だった。
また登った。雪を踏み、岩を掴み、風に逆らって身体を押し上げる。右腕の感覚がないことが岩場では厄介だった。掴んだ岩が滑っても気づけない。力の入り具合がわからず、岩の出っ張りを握ったつもりで空を切ることがあった。足を置いた岩が崩れ、一度だけ身体が大きく傾いた。左手一本で岩の出っ張りにしがみつき、足場を探し直した。腕が軋む。指の関節が白くなるほど力を込めた。右手も岩に押しつけたが、掴めているのかどうかすらわからなかった。
ズラータが下から「大丈夫か」と声をかけた。
「大丈夫だ」
大丈夫ではなかったが、止まるわけにはいかなかった。白狼が示した先に、知るべきものがある。足を動かし続けた。一歩ずつ、雪を踏み固め、凍った岩を越えていく。ドモヴォイが「あと少しじゃ」と叫んだ。小さな体が稜線の近くまで登っていた。精霊の目に、頂が見えているらしい。
頂に立ったとき、風が凪いだ。それまで絶えず吹きつけていた風が唐突に止み、世界が静まり返った。
三人が肩で息をしながら、山の向こう側を見下ろした。ドモヴォイが雪の上にへたり込み、ズラータが膝に手をついて呼吸を整えている。ラスラフも息が荒かった。だが登り切った。ここまで登り切った達成感が、荒い呼吸の間に滲んでいた。
白い世界が広がっている。それは変わらない。雪が積もり、空は灰色で、永遠の冬が支配する大地だった。だが何かが違った。
建造物があった。
雪の中から石の柱が突き出していた。五本、六本、七本。等間隔に並び、傾きながらも立ち続けている。その間に崩れた壁の跡が地面から顔を覗かせ、石畳の一部が雪の隙間に黒い線を引いていた。遺構だった。かつて何かが建っていた場所の名残。
ラスラフは息を呑んだ。
荒野を歩き続けてきた旅路の中で、凍りついた集落の残骸を除けば、人の手が作った構造物を目にすることはほとんどなかった。永冬の世界は人の営みを消し去り、白い沈黙で覆い尽くしていた。だが目の前にあるものは集落の規模ではなかった。石の柱の高さ、壁の厚み、石畳の広がり。もっと大きな、もっと古い何かがここにあった。山の向こう側の空気が微かに違う。荒野の乾いた匂いではなく、土と石の匂いが混じっている。風の質すら変わっている気がした。
「古い。とても古い」
ズラータが目を細め、食い入るように遺構を見つめた。巫女の知識が何かを掴みかけているのかもしれない。だがここからでは遠すぎて、それ以上のことはわからないようだった。掌を地面につけようとして、頂上の岩が凍りすぎていることに気づき、手を引いた。
白狼が山嶺に立っていた。いつ現れたのか。稜線の上に白銀の毛並みが雪に溶け込むように佇み、琥珀色の目が遺構を見下ろしている。深い色が宿っていた。初めて見る場所の顔ではなかった。知っている者の目だった。
「あそこに行け。ペルンの力について、おまえが知るべきことがある」
「おまえは知っているのか、あそこのことを」
白狼は答えなかった。琥珀色の目が一瞬だけラスラフを見たが、そこに読み取れるものはなかった。ただ山を下り始めた。白銀の毛並みが雪の斜面に足跡を刻み、遺構に向かって真っ直ぐに降りていく。迷いのない足取りだった。あの足取りは、この場所を知っている者のものだ。ラスラフにはそれだけがわかった。
ドモヴォイが遺構を見つめて呟いた。もじゃもじゃの眉が寄せられ、小さな目が細まっている。普段の軽口が消え、精霊としての畏怖が声に滲んでいた。
「あれは……古い聖域じゃ。神々の時代の名残じゃ」
精霊が畏れるほどの、古い場所。神々の時代。ペルンが生きていた時代の遺構なのか。あの死んだ神と、何か関わりがあるのか。
ラスラフは遺構を見下ろし、右腕の痣に左手で触れた。脈動はまだなかった。だが何かが待っている。その予感だけが、冷たい山嶺の風の中で確かだった。三人は山を下り始めた。




