氷壁の向こう
指が革紐を掴んだ。掴んだはずだった。
ラスラフは視線を落とし、右手の親指と人差し指の間を確かめた。紐は指の腹に触れている。だが「触れている」ことを、目で見て初めて知る。圧力の輪郭はぼんやりとある。しかし質感がない。麻の紐なのか、草の茎なのか、指先だけでは判別がつかない。かつて鍛冶場で鉄の温度を指先ひとつで読んだ手が、今は革紐すら結べないのだ。
歯で紐の端を咥え、左手で荷物を押さえ、顎を引いて結ぶ。三日前に覚えた手順だった。最初は何度も失敗し、ズラータに気づかれまいと焦った。今はそれなりに速い。慣れるものだ、と思った。異常に慣れるということの不穏さには、まだ目を向けないでいた。
荒野の旅路は六日目を迎えていた。凍りついた大地が灰色の空の下に広がり、足元の雪は踏むたびにぎし、と乾いた音を立てる。風は絶えず吹いていたが、今日は比較的穏やかだった。外套の裾を揺らす程度で、肌を切るような鋭さはない。空気には鉄錆に似た冷たい匂いが混じり、遠くの地平で雪煙が白い帯となって流れている。
前を歩くズラータが、不意に足を止めた。しゃがみ、ラスラフの荷から水袋を取り上げて口の縛りを確かめる。頼んでいない。だがラスラフは何も言わなかった。水袋の革紐を結び直すのは、感覚のない指では難しい作業だった。ズラータはそれを知っている。言葉にしたことはない。ただ、ラスラフが苦手とする作業を、いつの間にか自分の手順に組み込んでいる。
薪を割るときは、握った音で力加減を判断する。右手が鉈の柄に触れた感触はわからないが、木に刃が食い込む音の深さで、振りが足りているかどうかは読める。野営の準備で火口を扱うときは、火花が散る方向を視覚で追い、革手袋越しに道具を操る。ひとつひとつの動作を、失った感覚の代わりに別の感覚で補う。一日の中で、その置き換えを何十回と繰り返していた。
ズラータが水袋を荷に戻し、何事もなかったように歩き出した。ラスラフもそれに続いた。礼は言わない。言えば、彼女はきっと「何のことだ」と返す。その短いやり取りすら、二人の間では省略されていた。
ラスラフは歩きながら、自分の右手を見た。樹枝状の蒼白い紋様が手の甲から指の根元にかけて走っている。嵐の痣。忌み子の証。力の通り道。この紋様が広がるたびに、その下の感覚が消えていく。
代償は恐ろしい。だが恐ろしいと感じる回数が、日を追うごとに減っている。それが本当に恐ろしいことだと、頭ではわかっていた。痣が腕を這い上がり、肩に達し、それでも「こういうものだ」と受け入れてしまう日が来るのではないか。異常を異常と感じなくなる日が。
風が鳴った。ズラータの三つ編みが揺れ、淡い金色の髪が灰色の空を背に光った。彼女は振り返らなかった。ただ前を見て歩いている。その背中は小さかったが、歩幅は正確で、足運びに迷いがない。ラスラフもまた、考えを振り払うように視線を前に戻した。地平の彼方に、山脈の影がうっすらと浮かんでいる。まだ遠い。
夜が落ちた。
焚き火の炎が小さく揺れ、二人の影を岩壁に映している。荒野に転がる大岩の陰に風除けを作り、乾いた枝を集めて火を起こした。枝が爆ぜ、火の粉が闇に散る。灰色の煙が低い空に吸い込まれていく。炎の温もりが顔を炙り、背中からは容赦なく冷気が忍び込む。永冬の焚き火はいつもそうだった。片面だけが温かく、もう片面は凍えている。
ラスラフは焚き火の傍に座り、右腕を膝の上に投げ出していた。
痣が、脈動した。
痛みではなかった。熱だ。腕全体が内側から灼けるような感覚が、脈拍と同じ律動で波打っている。これまでの疼きとは明らかに違う。疼きは痣の表面に留まっていたが、今の熱は腕の芯を貫いている。骨まで灼けているかのようだった。
ラスラフは反射的に右手を左手で押さえた。押さえても熱は引かない。焚き火の光に照らされた痣の紋様が、蒼白い枝分かれとなって浮かび上がる。
目を凝らした。紋様の先端が、わずかに伸びている気がした。手の甲を走る樹枝状の線が、昨日まではなかった方向へ枝を伸ばしているような──生き物が新しい根を張るような──
「見せろ」
ズラータの声だった。焚き火の向こう側から、すでに立ち上がっている。ラスラフが何か言う前に、彼女は膝をつき、ラスラフの右腕を取った。
紡錘を袖口から引き出し、痣の上に当てる。木製の紡錘が蒼白い紋様に触れると、ズラータの目が半ば閉じられた。巫女の感知。大地の力を微かに流し、痣の状態を読んでいる。ズラータの指がラスラフの手首に触れていた。手首より上はまだ感じる。巫女の指先の冷たさが、かすかに伝わった。
沈黙が長かった。焚き火が爆ぜ、火の粉が二人の間を横切った。
「力が成長している」
ズラータの声に抑揚はなかった。だが紡錘を握る指が白い。
「痣は力の通り道だ。おまえの力が増せば、通り道も太くなる。太くなった部分の感覚は──」
言葉が途切れた。
言わなくてもわかる。ラスラフは自分の右手を見下ろした。焚き火の揺らめく光の中で、樹枝状の紋様がたしかに枝を伸ばしている。紋様の先端が指の第二関節に届きかけ、手の甲の中央からは手首の方へ向かう新しい枝が生まれている。白狼が教えた「力とは失うものだ」という言葉が、今になって骨身に染みた。
ズラータが眠りについた後──あるいは、眠ったふりをしている後──ラスラフは一人で焚き火を見つめていた。
夜空を仰ぐ。灰色の雲が薄く広がり、星が見えそうで見えない。永冬の空はいつもこうだ。星が見えた記憶は、ラスラフにはない。厚い雲に覆われた夜は闇が深く、薄い雲の夜は灰色の光が滲む。どちらにしても、空はいつも閉じている。
焚き火が爆ぜる音だけが夜を埋めている。静寂というには温かく、しかし人の声がないという意味では、やはり静寂だった。
力が成長すれば代償も進行する。しかし力がなければ冬の世界を旅し続けられない。眷属は来る。吹雪は来る。凍った川を渡るにも風の力が要る。力を使わなければ死ぬ。使えば失う。二つの道が、どちらも崖の縁だった。
「使い方を学べば、代償を最小限にできるかもしれない」
ズラータの声だった。毛布の中から、目を開けている。焚き火の残り火に照らされた緑色の瞳が、ラスラフを見ていた。
「起きていたのか」
ズラータは答えなかった。体を起こし、膝を抱える。
「あの白狼が教えた、力を流す技法がある。正しく流せば少ない出力で大きな効果を得られる。代償も最小限に抑えられるかもしれない」
「かもしれない、か」
「確証はない」
ズラータの言葉は、いつも通り簡潔だった。だがその簡潔さの中に、論理と、それに重ねた希望が同居していた。「かもしれない」は否定ではない。可能性を残す言葉だ。
ラスラフは頷いた。修練を続ける理由が、一つ増えた。
焚き火が爆ぜた。最後の大きな枝が崩れ、炎が低くなる。闇が二人の輪郭を呑み込みかけ、残り火の赤だけが雪面に揺れた。
翌朝、ラスラフは気づいた。
右手の人差し指の第二関節。昨日までは、かすかに圧力を感じていた場所だった。今朝、そこに触れても何も返ってこない。力を使ってはいない。昨夜、痣が脈動しただけだ。
使わなくても、進行するのか。
気のせいかもしれなかった。疲れで感覚が鈍っているだけかもしれなかった。だがもし、そうでなかったとしたら。
新たな恐怖が、静かに首をもたげた。ラスラフはその思考を飲み下し、荷物を肩に担いだ。ズラータが既に歩き出している。その背を追って、荒野の白い道に踏み出した。




