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雷神の忌み子 ~五感を代償に、少年は永遠の冬を終わらせる~  作者: 蒼月よる


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二つの顔

 凍宮の内部は、外から想像していたよりもさらに異質だった。


 廊下の壁に氷の彫刻が嵌め込まれている。鳥、花、木の葉。永冬の世界では実物を見ることのない存在たちが、透明な氷の中に封じ込められていた。蝋燭の灯りが氷を通過し、壁面全体が内部から発光しているような錯覚を生む。天井は高く、毛皮の敷物が石の床を覆い、香の煙が薄く漂っていた。蝋燭と香の匂いが混じり合い、ラスラフの知らない世界の空気を作っている。


 場違いだった。粗い毛織の外套に革のベルト。使い込んだ革靴。ラスラフの身なりは凍宮のどこにも馴染まない。廊下を歩くたびに、自分がここに属さない存在であることを足元から思い知らされた。


 ヴェレスは平然としていた。人型の姿で黒い長衣を纏い、凍宮の廊下を当然のように歩いている。壁の装飾にも、すれ違う従者の視線にも動じない。


「こういう場所は慣れている」


 ラスラフはその言葉に引っかかった。なぜ蛇神が人間の宮殿に慣れているのか。問い質そうとして、やめた。今はそれどころではない。


 謁見の間の扉が開いた。


 広い。村の広場よりも広い空間が、石の柱と氷の天井に囲まれて広がっている。壁面には毛皮と軍旗が交互に掛けられ、奥に一段高い壇がある。壇の上に、玉座。


 大公リュドミルはそこに座っていた。


 四十代の壮年。顎鬚を短く刈り込み、鋭い目が広間を見渡している。体格は武人のそれだが、纏う空気は政治家のものだった。力で支配する者ではなく、力を知った上で計算する者の目。毛皮の外套の下に見える鎧は飾りではなく実戦仕様で、その上から公国の紋章が刺繍された上衣を羽織っている。


 ラスラフが広間に入ると、リュドミルの視線が動いた。まず顔を見て、次に右手を見た。嵐の痣。蒼白い樹枝状の紋様が外套の袖口から覗いている。


 リュドミルの表情は変わらなかった。驚きも畏怖もない。値踏みの目だ。剣を買う商人が刃の反りを確かめるような、実用を見極める視線。


「南方で冬の女神(マルジャンナ)の勢力を退けた者か」


 声は広間に反響した。低く落ち着いた声だが、反響を計算して発声している。この広間で声が最も権威を持って響く角度を、リュドミルは知り尽くしていた。


「ラスラフだ」


 名乗った。それ以上の飾りは持っていない。


「ラスラフ。なるほど」


 リュドミルは玉座から立ち上がった。壇を降り、ラスラフの前まで歩いてくる。背丈はラスラフより半頭ほど高い。近くで見ると、顔の皺の一本一本に長年の判断の痕跡が刻まれている。


「我が公国は三百年、冬と戦ってきた。冬の眷属との戦闘で、毎年兵を失う。民も死ぬ。それでも持ちこたえてきたのは、この城壁と、軍の力があったからだ」


 リュドミルの目が再びラスラフの右手を見た。


「だが、限界は近い。冬はますます厳しくなっている。城壁を越える眷属が増えている。人間の力だけでは、もう長くは保たない」


 間を置いた。政治家の間だった。相手に考える余地を与え、その考えが自分の望む方向に流れるのを待つための沈黙。


「我が公国のために力を振るえ。見返りは保証する」


 ラスラフを見ているのではなかった。嵐の痣を、その奥にある力を見ている。ラスラフという名の少年ではなく、マルジャンナを退けたという実績を、戦力としての可能性を。


 ズラータが隣で黙っていた。唇を引き結び、リュドミルの言葉を聞いている。何か言いたそうな気配があったが、口には出さなかった。


 ラスラフは答えなかった。答えられなかった。戦力として求められている。それは理解した。だがその求め方に、言葉にならない違和感がある。村では忌み子として拒まれた。ここでは力の器として求められている。どちらにしても、ラスラフ自身を見ていない。


 謁見の間を辞した後、与えられた部屋でヴェレスと二人になった。


「あの男は使える」


 ヴェレスの声は実利的だった。琥珀の目が天井を見ている。


「公国の兵力がなければ、マルジャンナの本拠には到達できん。大公の要請を受けるのは合理的だ」


「合理的、か」


「おまえの目的はマルジャンナを倒し、冬を終わらせることだ。公国はそのための手段にすぎない。取り込まれるな。利用しろ」


 利用。その言葉をヴェレスが使うとき、妙な重みがあった。ヴェレス自身が何かを利用してきた者の言い方だ。だがラスラフはそれ以上考える余裕がなかった。


 廊下に出ると、待っていた者がいた。


 高位の神官だった。痩せた長身に白い法衣を纏い、首から神殿の紋章を下げている。細い目が笑みの形を作っているが、その奥は笑っていない。


「嵐神の落とし子殿」


 声は丁重だった。だが丁重さの裏に、鋼を隠した布のような冷たさがある。


「私はイェジー。公国神殿の長を務めております。差し支えなければ、我らが神殿にお越しいただけぬでしょうか」


 作り笑顔だった。唇は弧を描いているが、目が笑っていない。ラスラフは忌み子として育った十七年間で、人の表情を読む術を身につけていた。この男の微笑みの下に、警戒がある。忌み子に対する──正確には、制御不能の力に対する警戒。


「……考えておく」


 ラスラフは短く答えて、部屋に戻った。


 窓辺に立つ。凍宮の窓から、氷の都が見えた。灯りが点々と灯され、永冬の闇の中に人間の営みが浮かび上がっている。石と氷で築かれた街。三百年の冬に耐えてきた国。


 ここに──自分の居場所があるかもしれない。初めてそう思った。


 だが右半身の嵐の痣が、微かに疼いていた。


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