霧の令嬢
あらすじ
物語は、驚異的な意志を持つ土壌学のマスターであるセツゲフール・テヒモシンが、900平方キロメートルもの広大な荒廃した土地を購入したことから始まる。彼は、10万キロ離れた水源から水を引くという狂気じみた計画を掲げ、死の地を輝かしい楽園へと変えるために孤独な労働に没頭していた。
そんな折、聖地モゴドトの女神チジユウシンが現れる。孤独な彼に「友人」を贈るため、彼女は神の血を使い、彼の思い出の詰まった宝箱の中身を「生きた宝物」へと変え、世界中へと散らばせてしまった。テヒモシンは、彼らの内に秘められた神の力が暴走する前に、運命の赤い糸に導かれ、かつての宝物たちを救い出す旅に出ることになる。
最初に出会ったのは、霧を操る力を持ち、人々の無知ゆえの恐怖から虐げられていた少女だった。群衆の激しい石の雨から彼女を背中で守り抜いたテヒモシンは、彼女を己の地へと連れ帰り、ネベルセル(霧の令嬢)と名付ける。彼の保護と教えの中で、臆病だった少女は成長し、裁縫と自らの力を操ることに喜びを見出していく。
しかし、攻撃を受けている「霧の国」を救うために二人が戻った時、悲劇は再び繰り返される。命懸けで救助したにもかかわらず、彼らが受け取ったのは、心を閉ざした人々からの軽蔑と憎悪だった。絶望に打ちひしがれるネベルセルを抱きしめ, テヒモシンは「救済」の深い意味を説く。──誰かを守ることに、理由や見返りなど必要ないのだと。
心の嵐を乗り越え、静かなる主人と霧の令嬢の絆はより一層深まり、次なる「宝物」を探す旅へと続いていく。
第一章 孤独な大地の所有者
二〇一八年十二月一日、土曜日。
田舎の風景は、荒涼とした絵画のようだった。埃と恐ろしいほどの静けさに染まった死んだ大地。その真ん中に、古びてボロボロの看板が、挑戦するように立っていた。
『売地 面積900km²』
惹かれるまま、テヒモシンはその土地に足を踏み入れた。時が刻んだ深い皺が刻まれた老人が、古い平屋から出てきて彼を迎えた。老人は疲れたような疑わしげな目で彼を見た。
「本当にこの土地を買うつもりかね?」
老人はかすれた声で聞いた。「それとも、またいつものように、聞いて帰ってしまうのか?」
テヒモシンは老人の目をまっすぐに見つめ、はっきり答えた。
「条件が合えば、必ず買います」
「百万ドルだけだ」
老人が宣言した。
「わかりました。買います」
テヒモシンは少しの躊躇もなく答えた。そして、乾いた地平線を見つめながら、もう一つ尋ねた。
「でも、おじいさん。この辺りにはおじいさんしかいないんですね?」
老人は深いため息をつき、遠い空を見上げた。
「ここは夢の墓場だよ。大きな街から遠すぎて仕事もないし、土地は気難しくて何も育たない。最寄りの水源? なんと十万キロも離れている。人々はここに住んではいない。ただ、生きているだけさ」
「待ってくれ」
老人は呟き、目にわずかな希望の光が灯った。
「書類を準備するよ」
老人は震える手で古い携帯電話を取り出し、孫に電話をかけた。
「もしもし? 孫か? おじいちゃん、土地を売れたぞ! お前と一緒に街で暮らそう。一時間後に迎えに来てくれるか? ああ、待ってるよ」
テヒモシンは老人を観察し、少し驚いて言った。
「おじいさん、本気ですか? この900km²全部が、本当に僕のものになるんですか?」
老人が眉を寄せた。
「気が変わったのか?」
「いいえ」
テヒモシンは穏やかに答えた。「ただ……こんなに広い領土が、ずいぶん安いなと思って」
「理由はさっき説明した通りだ」
老人は少し苛立ったように、しかし悪意なく言った。「ここは全くの無用の土地だからな」
「はい、わかっています」
待っている間、老人は自慢げに孫の写真を取り出してテヒモシンに見せた。一時間後、一台の車が砂埃を巻き上げてやってきた。孫が降りてきて、テヒモシンと握手を交わし、心からの感謝を伝えた。
「この土地を買ってくれて本当にありがとう」
若い男は言った。「君のおかげで、家族がようやく一緒に暮らせるよ。じいちゃんはここを売らないと絶対に動かない頑固者でね。一人でここに置いておくのが心配で仕方なかったんだ。本当にありがとう」
「そんなに感謝されなくてもいいですよ」
テヒモシンは答えた。車が去っていくのを見送りながら、彼は砂埃と完全な静寂の中に一人取り残された。
テヒモシンは古い家の中に入った。それは過去の残骸で、腐った臭いと孤独の匂いが充満していた。これではいけない。彼はすぐに決めた——新しい家を建て、この「無用の土地」を輝く楽園に変えてみせると。
以前の人生で、テヒモシンは土壌の達人だった。彼は命を育む者——貴重な木材の森、野菜、果樹、花、そして穀物を育てる専門家だった。
彼は自分の900km²の帝国を見渡し、頭の中で計画を練った。
・香木の森 300km²
・野菜と根菜畑 150km²
・果樹園 150km²
・花畑 100km²
・穀物畑 150km²
・居住区 50km²
最大の課題は、まだ残っていた。水だ。
並外れた意志の力で、テヒモシンは十万キロも離れた水源から水を引く運河を掘るという、常軌を逸した作業を始めた。それは狂気の偉業であり、時間と力以外何も持たない男のプロジェクトだった。
一ヶ月もの間、彼は完全な孤立の中で暮らし、唯一の友は風と大地、そして根気強い労働のリズムだけだった。荒廃した大地の真ん中で、「選ばれし者」は最初のスコップを振り下ろした。
第二章 運命の赤い糸
二〇一九年一月一日、火曜日。
神聖なるモゴドトの天界から、三神の最高指導者——チジュウシン——が人間界を見下ろしていた。彼女の古い瞳は、広大な農園の真ん中で孤独に佇む一人の影に留まった。
「テヒモシン……」
彼女はそっと呟いた。その声は秋の葉ずれのようにささやかだった。
不公平だ。かつて人類を救った英雄が、今やこんな孤独な人生を送り、泥と孤立の中に自分を埋もれさせているとは。神々にとって、これは到底受け入れがたい光景だった。
「救世主たる者が、沈黙だけを受け取るのはおかしいわ」
チジュウシンは決めた。「あの子に贈り物をあげましょう。魂への報酬として——仲間を」
しかし、神の贈り物は決して試練なしには訪れない。
チジュウシンは流れ星のように、テヒモシンの新築の家に向かって降り立った。彼女は金銀や武器ではなく、寝室に隠された古びた傷んだ木箱を探した——テヒモシンが最も大切な「宝物」、深い記憶と結びついた品々をしまっておく場所だ。
いたずらっぽい笑みを浮かべて、女神は古の儀式を行った。彼女は指を軽く切り、一滴の神血を箱に落とした。
——ドン!
部屋が鮮やかな光のプリズムで爆発した。箱の中の品々が色とりどりの光の奔流となり、窓から飛び出し、世界中の道々に散らばっていった。
その時、テヒモシンは外の庭で土をいじっていた。彼は顔を上げ、目を大きく見開いた。自分の家から神秘的な光の筋が噴き出している。
「例の箱……!」
彼は道具を放り出し、全速力で走った。胸の中で心臓が激しく鼓動する中、寝室に飛び込むと——宝物の箱が大きく開け放たれ、中は完全に空だった。
「誰の仕業かわかるでしょ?」
いたずらっぽい声が部屋中に響いた。
テヒモシンは振り返らなくても誰かわかった。
「甘いものが大好きで、頭脳明晰、美しくて、赤い足の狐に化ける神様、ですね」
彼は名前を直接呼ぶ代わりに、そう表現した。
「名前で呼べばいいのに」
チジュウシンは唇を尖らせ、赤く輝く霧となって姿を現した。
「どうしてここにいらっしゃるんですか、大人? 今頃は千年眠りについてるはずじゃ……それより、僕の宝物はどこへ?」
「あなたがあまりに孤独そうだったから、大切なものを『仲間』に変えてあげたのよ」
女神は楽しげにくるりと回った。「あなたの仲間は、今やあなたが一番大切にしていた記憶から生まれたわ」
テヒモシンは頭痛がするのを感じた。
「じゃあその『仲間』たちは今どこに?」
「世界中に、ね。まだ『目覚めていない』子も何人かいるかもよ」
彼女は気軽く手を振った。
突然、鮮やかな赤い糸が空中に現れた。一端はテヒモシンの額に、もう一端は地平線の果てまで伸び、消えていた。
「ほら、これよ!」
チジュウシンは興奮して指差した。「最初の仲間が現れた証拠。 この赤い糸をたどれば、どこにいるかわかるわ」
彼女の表情が急に真剣になった。声も低くなる。
「でも、急いで。 その子は私の神血を引いているの。その膨大な力を抑えきれなければ、周囲のすべてを破壊してしまうわ」
「つまり、神の力を僕に抑えろと?」
テヒモシンはため息をついた。
「あなたにしかできないことよ。あなたの力で、私の力を抑えてあげて」
彼女は微笑み、体が透ける光に変わり始めた。「楽しんでおいで、テヒモシン。私は本当にもう千年眠るから。絶対に起こさないでね!」
最後にウィンクをして、モゴドトの神は消えた。
テヒモシンは空っぽの部屋に立ち尽くし、自分の魂を引きずる赤い糸を見つめた。
「……マジかよ。休む暇もなくなったな」
新しい旅が始まった。金銀財宝を探す旅ではなく、失われた「宝物」を取り戻す巡礼の旅——今や心を持ち、声を持ち、独自の人生を歩むようになった宝物たちを。
箱の中のどの品が最初の仲間になったのか?
喜びと笑い、そして少しの混乱に満ちた旅が、これから待っている。
「生きる宝物」を探す旅が、正式に始まった。
第三章 雨の中の姫と運命の赤い糸
見知らぬ街の片隅で、空が突然真っ暗になった。土砂降りの雨が降り注ぐが、不思議なことにその雨は一人の少女だけを追いかけていた。彼女がどこへ行っても、嵐が付いて回る。周囲の人々は怯え、彼女を避け、指をさして囁き始めた。
「化け物だ! 不吉をもたらす化け物!」
白い雨のカーテンと罵声の中で、一本の傘が静かに彼女の頭上を覆った。テヒモシンが現れ、手を少女の肩に置いた。温かい力が流れ込み、神聖な雨が徐々に止んでいく。
しかし、雨が止んだ瞬間、人々の心の嵐が爆発した。群衆が道に溢れ、小さな少女に向かって叫び始めた。
「お前のせいで作物が枯れたんだ!」
「お前のせいで漁船が出港できない!」
「お前みたいな奴のせいで交通が乱れ、工事が止まるんだ!」
空は晴れていたが、少女の頰を伝うのは雨ではなく、涙だった。彼女はこの力を持って生まれたことを選んだわけではない。それでも世界は知ろうとしない。ただ、怒りをぶつける標的が必要なだけだ。
群衆は狂乱し始めた。手近にあるものを何でも掴む——皿、腐った卵、ゴミ、そして石やナイフ、斧まで。次々と少女に向かって投げつけた。
「化け物め!」
「消えろ、汚らわしい!」
「死ね、災厄!」
テヒモシンは何も言わず、少女を抱き寄せ、自分の背中で彼女を守った。割れた陶器の破片や、建物の上から投げられたハンマーが背中を襲い、シャツが引き裂かれ、血が大きく広がっていく。少女は震えながら、嗚咽の合間に繰り返した。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……」
テヒモシンは身を屈め、優しく囁いた。
「君は本当に綺麗だよ。こんなに激しい雨でも、君の美しさを消すことはできないね」
憎しみの嵐の中で突然かけられた褒め言葉に、少女は呆然とした。涙に濡れた瞳に、わずかな照れが浮かぶ。
「……ありがとう……ありがとうございます」
しかし、群衆は止まらなかった。誰かが彼女を守っているのを見て、ますます激しく投げつけてくる。地面のガラス片が少女の足を切り、血がにじんだ。人間を攻撃する力を使いたくなかったテヒモシンは、少女を抱き上げ、狂った群衆の中を黙々と歩き抜けた。人々の視界から外れた瞬間、「光速」の力を使い、二人は森の中の家へと戻った。
家に着くと、テヒモシンは少女をソファに座らせた。自分の傷を見てまた泣き始めた彼女に、彼は微笑んで言った。
「泣かないで。僕は太陽の者だよ。太陽が昇っている限り、死ぬことはない」
血に染まったシャツを脱ぐと、傷口が驚くべき速さで塞がり、治っていくのが少女の目の前で起きた。テヒモシンは穏やかに説明した。
「人間とはそういうものさ。彼らは自分たちが引き起こした天災の責任を、誰かに押しつけたいだけなんだ。森を切り、環境を汚し、自然が怒れば、それを君のせいにする。君は今日生まれたばかりだ。君に罪はないよ」
その言葉を聞いた瞬間、少女の中に溜まっていた全ての悲しみが溢れ出した。彼女はテヒモシンに抱きつき、声を上げて泣いた。シャツをびしょ濡れにし、疲れ果ててその場で気を失った。
その夜、テヒモシンは一睡もせず、少女の破れた服を洗い、用意してあった布地から新しい服を丁寧に縫った。彼は心の中で呟いた。
(チジュウシン様もなかなかセンスがいいな。彼女の服はとても特別だ。漫画に出てくる適当な神様とは違う)
翌朝、少女はテヒモシンの大きなシャツを着て目を覚ました。テヒモシンは欠伸をしながら、手作りのワンピースを差し出した。
「うちに女の子の服はないし、昨夜は店も閉まっていたから自分で縫ったんだ。着てみて」
少女がその場で着替えようとしたので、テヒモシンは慌てて止めた。
「部屋に入って着替えて!」
少女は無邪気に聞いた。
「昨夜は……お兄さんが着替えてくれたんじゃないの?」
新しいワンピースを着て出てきた彼女を見て、テヒモシンは優しく微笑んだ。
「これで君にも名前ができたね。君を霧の国で拾ったから、これからはネーベルゼル —— 『霧の小淑女』という意味だ」
新しい生活が始まった。テヒモシンが庭で働くとき、ネーベルゼルはいつも静かに後をついてきた。彼女が寂しそうに座っているのを見て、彼は趣味を尋ねた。ネーベルゼルは主人の服の小さなほつれを見て、小さな声で言った。
「ご主人様……私、裁縫を学びたいです。ご主人様の服のお世話をしたい」
「ご主人様」という呼び方に少し驚いたが、テヒモシンは微笑んで了承した。彼はファッション雑誌を買ってきて、最初の針の運び方を教えてあげた。最初のスケッチはまだ下手で、彼女は恥ずかしそうに隠してしまうが、テヒモシンは励ました。
「頑張って練習しなさい。真面目に続ければ、必ず上手くなるよ。気に入ったものができたら、見せてくれると嬉しいな」
静かな軒先で、テヒモシンの「宝物」を探す旅は、温かい始まりを迎えた。
第四章 運命の色を帯びた名前
新しい家の軒先で、穏やかな時間が流れた。ネーベルゼルはもう昔の臆病な少女ではなかった。彼女のデザイン画は次第に洗練され、テヒモシンからもお褒めの言葉をもらえるようになった。
ある午後、針を動かしながら、ネーベルゼルはふと主人の顔を見上げ、ずっと気になっていたことを尋ねた。
「ご主人様……初めて会った時、私に『フォギータ』という名前を付けようとしてくれましたよね。英語の『霧』とスペイン語の『お嬢様』を組み合わせた名前です。でも後で『ネーベルゼル』に変えてくれたのは、どうしてですか?」
テヒモシンは手を止め、遠い目をして微笑んだ。
「Fogitaという名前は、外にすでにたくさん使われているからね、ネーベルゼル。僕は模倣が嫌いだ。平凡なものも嫌いだ」
彼は静かに説明を続けた。
「ドイツ語で霧は『Nebel』。フランス語でお嬢様は『Mademoiselle』。二つを組み合わせると、Nebelselleになる。世界でただ一つ、君だけの名前だよ」
「では、ご主人様のお名前は?」
少女が首を傾げて聞いた。
「僕の苗字はSetsugefuhl。ドイツ語のMitgefühl(慈悲の心)から来ている。Tehimosinは感情を象徴する。これからは君も僕の姓を名乗るといい。覚えておいて、君のフルネームはSetsugefuhl Nebelselleだ」
ネーベルゼルはその名前をそっと繰り返した。胸に不思議な温かさが広がる。彼女はただ名前を手に入れただけでなく、家族を手に入れたような気がした。
自分を守れるようにするため、テヒモシンは彼女に元素操作の技術を基礎から教えた。ふわふわと浮かぶ雲を操ること、幻の霧で身を隠すこと、高圧の泡を撃つ攻撃や、雨を呼び出して敵を抑える技まで。
二〇一九年三月一日、金曜日。
テヒモシンの個性が色濃く反映された新しい家が完成し、ネーベルゼル専用の可愛らしい部屋ができた。彼はかつての老人のボロボロの家を、旅の始まりの記念としてそのまま残しておいた。
二〇一九年四月一日、月曜日。
庭から戻ったテヒモシンは、家中に色とりどりの新しい服が掛かっているのを見て目を丸くした。
「これ全部……僕のために縫ってくれたのか?」
ネーベルゼルは照れながら小さく頷き、期待の眼差しを向けた。テヒモシンは笑いながら大量の服を見て言った。
「こんなにたくさん作ったら、毎日違う服を着なきゃいけなくなりそうだな。いくつか残して着るよ。残りは……売ってみないか?」
「売る」という言葉を聞いた瞬間、ネーベルゼルは唇を尖らせ、人間に対する明確な嫌悪を浮かべた。
テヒモシンは優しく近づき、彼女の頭に手を置いた。
「人間が嫌いなのはわかる。でも、この服を売ることで、君は僕を助け、この土地を豊かにする資金を作れるんだ」
ネーベルゼルはうつむき、肩を小さく震わせて葛藤した。そしてやがて顔を上げ、主人の目を見つめ、はっきりと言った。
「……わかりました。ご主人様のためなら」
「いい子だ」
テヒモシンは満足そうに微笑んだ。「でも、僕の服ばかり作っていないで、自分の可愛いワンピースもたくさん縫いなさいよ」
「はい、ご主人様」
九百平方キロメートルの静かな大地で、笑い声と理解が、かつての孤独を少しずつ埋め始めていた。
第五章 黒い霧の中の救済
三ヶ月という穏やかな日々が、まるで美しい夢のように過ぎ去った。しかし、運命は彼らに永遠の平穏を与えようとはしなかった。
二〇一九年四月十五日、月曜日。
悪い報せが届いた——ネーベルゼルの故郷である「霧の国」が、激しい攻撃を受けているという。テヒモシンは一瞬の躊躇もなく、ネーベルゼルと共に雲に乗り、風を切ってその悲しみの地へと急いだ。
眼下に広がる光景は惨憺たるものだった。人口の40%が既に倒れ、血と煙が街全体を覆い尽くしている。それでも、救いの手を差し伸べるために空から現れたネーベルゼルを待っていたのは、感謝の言葉ではなく、憎悪に満ちた叫び声だった。
「化け物だ! あの化け物がまた戻ってきたぞ!」
昔の恐怖の記憶が、人々の胸に再び燃え上がった。彼らは誰が攻撃しているのかを知ろうともせず、ただネーベルゼルの出現こそが災厄の始まりだと決めつけた。群衆は一斉に、汚物や腐ったものを彼女に向かって投げつけた。
テヒモシンは即座にネーベルゼルの前に立ちはだかり、珍しく目に怒りの色を浮かべた。
(あれほど時間が経ったというのに、どうして人間の心はここまで頑なで残酷でいられるのだろう?)
怒りを抑え、彼は力強く宣言した。
「我々は皆さんを助けに来たんだ!」
群衆は一瞬静まり返ったが、感謝する代わりに、軽蔑の眼差しを残して背を向け、去っていった。テヒモシンは黙って食料、医薬品、そして生活必需品を置き、ネーベルゼルを連れてその場を離れた。
空の上に戻ると、ネーベルゼルの体はひどい悪臭を放っていた。それでもテヒモシンは離れず、自分の上着を脱いで彼女の顔に優しく巻きつけた。
家に帰ると、テヒモシンは彼女の肩を軽く押した。
「先にシャワーを浴びておいで。あとのことは後で考えよう」
ネーベルゼルは虚ろな目で虚空を見つめ、乾いた声で言った。
「彼らはまだ忘れていない……彼らが消し去りたいのは、ずっと私だったんです」
「……もう泣かないのか?」
テヒモシンが心配そうに聞いた。
「もう、泣くための涙すら残っていません」
彼女はそう答え、孤独な背中を残してバスルームのドアの向こうに消えた。
しかし、熱いシャワーの水が降り注ぎ始めた瞬間、ドアの向こうからくぐもった嗚咽が漏れ聞こえてきた。テヒモシンはドアに背を預け、深いため息をついた。
「涙はないと言ったじゃないか。僕の前では泣きたくないだけなんだろ」
彼はそっとドアを開け、中に入った。ネーベルゼルはバスタブの中で肩を震わせて座り込んでいた。テヒモシンはその隣に腰を下ろし、優しい声で言った。
「馬鹿だな。感情を無理に抑え込む必要なんてないよ。それじゃ余計に苦しくなるだけだ。泣きたいなら、泣いていい」
ネーベルゼルは主人の胸に飛び込み、まるでこれまでの全ての屈辱を吐き出すように、激しく泣きじゃくった。泣きながら、彼女は苦しげに尋ねた。
「どうして……私たちは人間を守らなければならないんですか? 彼らは決して感謝しないし、報いることもしないのに……」
テヒモシンは彼女の頭を優しく撫で、窓の外——900km²の大地に沈む夕陽を見つめながら答えた。
「守ることに……理由なんて必要ないこともあるよ」
ネーベルゼルは涙に濡れた目で彼を見上げ、長い沈黙の後、小さく頷いた。
「……はい、わかりました」
第六章 灰燼の向こう側の真実
ネーベルゼルの心が少し落ち着いてから十日後、二人は再び「霧の国」へ向かうことにした。
二〇一九年四月二十五日、木曜日。
ネーベルゼルが操る雲が、暗い夜空を引き裂いた。彼女は無言で雲を操縦し、テヒモシンを乗せて街全体を上空から観察した。下界では、都市の灯りが巨大な墓地の中で、か細く揺らめく残り火のように見えた。
午後七時ちょうど。
賑わっていたはずのスーパーマーケットの上空を横切った時、テヒモシンの勘が強く警鐘を鳴らした。二つの見知らぬ人影が、瓦礫と混沌の中で立っていた。
「ネーベルゼル、あそこに降りて!」
自らを「キング」と名乗る男の手のひらから、異様な光線が放たれた。触れた者は瞬時に砂の山へと変わり果てる。隣に立つ「クイーン」もまた残酷だった。彼女は生きている人間を濁った水溜まりに変え、冷たい地面に広げていく。
砂と水——それが数百人の人間の残した全てだった。
「やめろ!」
テヒモシンの鋭い声が、死の空間に響き渡った。
キングとクイーンが即座に振り返る。二条の破壊光線が、恐るべき速度でこちらに向かって放たれた。
「ネーベルゼル、『体を霧に変える』を使え!」
彼女は頷き、身体がぼやけると同時に霧となって空気に溶けた。テヒモシンは「光速」の力を0.001%だけ使い、残像を残しながら軽やかに動き、攻撃をすべて空振りさせた。
キングとクイーンの目が一変した。最初にあった傲慢さは、底知れぬ恐怖に取って代わられた。
(この二人は……化け物なのか?)
テヒモシンは一歩踏み出し、落ち着いた声で言った。
「暴力は決して解決策ではない。話し合って、出口を探すこともできるはずだ」
その瞬間、クイーンの身体が突然輝き始め、無数の光の結晶となって空へ舞い上がり、虚空に消えていった。
「私は……先に天国で家族と再会するわ……」
彼女の声は風と共に、か細く消えていった。
「妻よぉぉっ!!」
キングが夜を引き裂くような絶叫を上げた。テヒモシンとネーベルゼルは呆然と立ち尽くし、あまりの突然さに言葉を失った。
激しく取り乱した後、キングは重い鎧をゆっくりと脱ぎ捨て、本当の姿を晒した。皮膚は透き通り、骨と内臓がはっきりと見えていた。
彼はこちらを見上げ、テヒモシンとネーベルゼルの表情が驚くほど平静であることに、逆に驚愕を浮かべた。恐怖も、嫌悪も、一切なかった。
「……お前たち、俺を恐れないのか?」
キングは震える唇で、かろうじて言葉を絞り出した。
テヒモシンは彼の目を見つめ、優しく微笑んだ。
「恐れる? どうして恐れる必要がある? 僕たち全員、仲間じゃないか」
ネーベルゼルが隣で、苦くも真実味のある言葉を付け加えた。
「人間が本当に恐ろしいのは心です。見た目が恐ろしいくらい、どうということはありません」
キングは言葉を失った。これまで誰一人として、彼を「人間」として見てくれなかったのかもしれない。彼は膝をつき、肩を激しく震わせ、最後に残った重荷——黒い霧の裏側に隠された、苦い真実を、ようやく吐き出し始めた。
第七章 未来の過ち
「実は……私は二十二世紀から来た科学者だ。正確には二一一九年だ」
自らをキングと名乗る男の告白は、周囲の空気を凍りつかせた。ネーベルゼルが小さく息を飲み、目を大きく見開いた。
「二十二世紀……つまり、今から百年後の時代ということですか?」
私は腕を組んだまま、未来から来たこの不速の客の窶れた瞳を深く見つめ、静かに尋ねた。
「百年後の人間は、どんな姿をしているんですか?」
キングは口の端を歪めて、皮肉に満ちた笑みを浮かべた。
「百年後の人間も、今の人間と大して変わらないよ」
「未来の人間には特別な能力はないんですか? 例えば、人を砂に変えたり水に変えたりするような」
「これのことか?」
キングは機械仕掛けの手を掲げた。「これは超能力などではない。私は科学者だと言ったはずだ。お前たちが見たのは、私が発明した『土葬技術』と『水葬技術』だ。未来では、墓地を埋める土地すら不足している。死体は原子レベルまで分解して処理する。それが……私たちの『生の残滓』を片付ける方法だ」
キングの瞳が突然冷たく鋭くなった。彼は私を射抜くように見つめ、逆に問い返した。
「逆に聞くが……お前が持っているあの理不尽な力は、一体どこから来たんだ?」
「それは話すと長くなる」
私は落ち着いて答えた。「簡単に言えば、モゴドトの神様からの贈り物だ」
「神? モゴドト?」
キングは喉の奥で笑い声を上げた。笑い声は掠れていた。「馬鹿馬鹿しい! この世に神など存在するものか」
「恐らく、モゴドトの神々はあなたの時代が始まるずっと前に、千年眠りについてしまったからでしょう。だから百年後の未来では、彼らの痕跡は歴史の埃に埋もれて消えてしまった」
私は彼の笑いを遮り、声を低くした。
「もういい。続きを聞かせてくれ。フルヴィスティマン・キング」
──────────────────────────────────
記憶ファイル:プロジェクト・フルヴィスティマン
時間:二一一九年六月三日、月曜日。
キングは自分の人生最大の偉業であり、最大の悲劇でもある計画について語り始めた。二十二世紀の闇の中で、「人類の最適進化形態」を求めるプロジェクト・フルヴィスティマンは誕生した。
「研究の過程で、私は衝撃的な事実を発見した。二二一九年の人間は、『ガラスカエル』の形態へと進化しているということを」
鎧の継ぎ目が錆びついた音を立てながら、キングは「未来の人類」を説明した。それは皮膚と筋肉組織が完全に透明な種族だった。すべての病を早期発見するための奇妙な進化——脳、内臓、骨格のすべてが丸見えになることで、医師は癌や臓器不全の芽を即座に発見・治療できる。寿命は大幅に延びたが、その代償として、人間は水晶のように脆くなった。
「私は……焦りすぎた」
キングは目を強く閉じた。「私は自分の家族に実験を施した。妻も、父も、母も、そして自分自身も。皆、二二一九年の『未来の人類』に変えてしまった」
しかし、フルヴィスティマンの肉体は現在の環境に弱すぎたため、キングは最新兵器を搭載した特殊装甲を開発し、家族を守った。彼が自信満々に政府に成果を発表したとき、返ってきたのは冷たい一言だった。
「認められない。君の実験は公表するタイミングを誤っている」
国が内乱に揺れる中、政府は国民が百年前の自分の子孫の異形の姿を見てパニックになることを恐れた。彼らは最も残酷な方法を選んだ——研究所ごと焼き払い、フルヴィスティマンの痕跡をすべて消し去ること。
炎はまだ家族が中にいる状態で研究所を包み込んだ。しかし、死の直前、極めて稀な空間異常が発生した。爆発の膨大なエネルギーが現実をねじ曲げ、キング一家をタイムスリップさせ、二〇一九年——彼らが生まれる百年前の時代へと放り出した。
キングは傍らに残る砂の山と濁った水溜まりを見つめ、声を詰まらせた。
「未来の炎から逃げてきたはずが……過去で迷子になってしまった」
第八章 恐怖から生まれた罪
残酷な時間の流れは、キング一家を悲劇の始点へと突き落とした——二〇一九年二月一日。
転移した直後、妻が突然陣痛を起こした。皮肉なことに、彼らは産婦人科病院のすぐ前に現れた。激痛の中で妻は一組の双子を産んだ。男の子と女の子。しかし、生まれた瞬間の産声は喜びではなく、極度の恐怖を引き起こした。助産師は震える手で器具を落とし、透明な皮膚と筋肉組織を持つ二人の赤ん坊——骨、脳、臓器がすべて透けて見える異形の生命体を見て絶句した。
キングは慌てて二人の子供を抱き上げ、消毒液の匂いが充満する廊下を駆け、両親に預けようとした。しかし、噂は瞬く間に広がった。人々は好奇と嫌悪の眼差しで彼らを囲み、怪物を見るような視線を向けた。逃げ場を失ったキングは装甲を起動し、フルヴィスティマンの強大な姿となって病院から血路を開いた。妻と両親もまた、人間としての姿を捨て、二十三世紀の未来形態へと変身して脱出せざるを得なかった。
皮肉なことに、未来人の驚異的な回復力こそが、彼らを「怪物」として断罪する証拠となった。医師と看護師は悪魔に触れたと思い込み、即座に当局へ通報。緊急記者会見が開かれ、人類全体に根拠のない恐怖が植え付けられた——「宇宙人が地球に侵略を開始した」。
二十一世紀のとある「自称科学者」が、さらに火に油を注いだ。
「ついにこの日が来た! 宇宙人の正体が現れたぞ!」
一夜にして、フルヴィスティマン一家は「地球外生命体」として指名手配された。政府は「発見次第、即時射殺または捕獲せよ」という命令を出した。二〇一九年の人間は、本能的な恐怖に駆られ、彼らを化け物として徹底的に狩り始めた。
一家は下水道や橋の下で寝起きし、残飯を漁るような逃亡生活を強いられた。しかし、本当の悲劇は双子の生物時計にあった。一日が一年分の寿命に相当する。わずか十八日で、二人の子供は十八歳の青年と少女の姿になっていた。キングは痛切に悟った——これは強制進化の副作用だった。
二人の子供、フルヴィスティマン・プリンスとフルヴィスティマン・プリンセスに残された時間は、わずか二ヶ月。一家は最後の日々を、世界一周の旅に費やし、束の間の自由を味わうことにした。
しかし、運命は彼らに安らぎすら与えなかった。
賑やかな街中で、母親とはぐれた幼い子供が泣いていた。未来の祖母——フルヴィスティマン皇太后は、優しい心でその子の手を引いて母親を探した。しかし、恐怖に染まった人々の目には、それは誘拐と映った。子供を母親の元へ戻した瞬間、警察の銃声が響いた。母親が必死に叫び、懇願しても、警官は冷酷に引き金を引いた。皇太后は最初に倒れた。
未来の祖父——フルヴィスティマン大帝はすべてを見ていた。妻は最後に「子供が迷子になっていたから、遅くなるわ。先に食事をして待たないで」と言って出かけた。愛する妻を守るため、祖父は遠くから密かに見守っていた。そして、妻が殺される瞬間を、ただ見つめることしかできなかった。激しい悲しみと怒りに駆られ、彼は正義を求めて戦いに身を投じたが、力尽きて倒れた。
祖父母の死は、家族の最後の希望を焼き払った。残されたのは四人。しかし、二人の子供の命の時計は既に最後の音を刻み始めていた。短い旅の最中、進化の力は彼らの脆い命を根こそぎ奪い去った。フルヴィスティマン・プリンスとプリンセスは、両親の腕の中で同時に息を引き取った。
善意は血で返され、両親と二人の子供を失った絶望は、キングと妻を完全に打ちのめした。彼らは知っていた——フルヴィスティマンの姿で戦うたび、自分の寿命が削られることを。しかし、もう誰も彼らに「善人であること」を許さなかった。
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二〇一九年の現実へと戻る。冷たい霧の中で、キングは私を見つめ、憎しみのない、奇妙に穏やかな声で尋ねた。
「君の名前は?」
私はその瞳を真っ直ぐに見つめ、敬意を込めて答えた。
「私はセツゲフール・テヒモシンだ」
キングの瞳がわずかに揺れた。彼は驚愕の声を上げた。
「……やはり君か。偉人の中の偉人、人類史上最も偉大な人物と称される……」
そう言い終えると、キングは満足げに小さく微笑み、静かに別れの挨拶をした。彼の肉体は最後の輝く結晶となり、すでに消えた妻の後を追い、空高く舞い上がった。光の粒は地面に落ちることなく、天の彼方へと溶けていった。
テヒモシンとネーベルゼルは、その光の軌跡を静かに見送った。やがて光は集まり、夜空に六つの輝く星となった。
ネーベルゼルがそっと私の肩に寄りかかり、囁いた。
「ご主人様……あの六つの星が、彼らの家族だと思いませんか? おばあさん、おじいさん、二人の子供、そして奥さん、そして最後に彼……」
私は夜空を見上げ、苦難の旅路を終えた一家への別れの挨拶のように輝く星々を見つめ、静かに答えた。
「……ああ、きっとそうだ」




